7月20日都庁に行き、第一庁舎43階の南側展望室に昇りました。
中央にお土産店があり、かなり賑わっていました。
一台のピアノがあり、演奏したい人が列をなしていました。
私は展望を楽しみました。
この、どこまでも続く家並、平和なたたずまいが天災や、人災で、再び失われることのないようにと祈らずにはいられなかった。
7月20日都庁に行き、第一庁舎43階の南側展望室に昇りました。
中央にお土産店があり、かなり賑わっていました。
一台のピアノがあり、演奏したい人が列をなしていました。
私は展望を楽しみました。
この、どこまでも続く家並、平和なたたずまいが天災や、人災で、再び失われることのないようにと祈らずにはいられなかった。
1月31日の正午ごろ東京駅丸の内口に出た。
柏に住む私にとって2年ぶりぐらいの東京だ。
中央郵便局のキッテビルに入った。外見は普通のビルだが中はドーム状。
1階のサザコーヒー店に入った。この店の本店は茨城県勝田にある。初代の鈴木さんは映画館を経営していたと聞く。
多分今は息子さんの代だが水戸とか東京いろいろ支店を出しているらしい。おいしいコーヒーだった。
しばらく休んで、5階の回転寿司屋にいった。
私は初めてだが相当な人気店らしい。ずいぶん待って入店した。
私は、鉄火巻とあら汁が気にいった。
食事が終わったのでビルを出た。
丸の内のビル街を抜けて、徒歩で向かったのは、出光美術館。伊藤若冲の作品展をやっている。
美術館の窓から桜田門が望めた、
東京は柏から近く、わたしは明るいうちに自宅に帰り着いた。
コロナ下ではあっても、東京ぐらい度々出て行かないと、電車の乗り方すら覚束なくなると思った。
10 月 17 日(木)
昨日のことだが、東京メトロで銀座駅に降りた。
駅メロの「銀座カンカン娘」をちらっと小耳にはさみ。4丁目交差点に立った。
目的は COH の文字が見える三愛ビルの8Fにある、リコーイメージングスクエア銀座ギャラリー。なぜそんな舌を噛みそうなところへ行くかと言えば、ベートランド・フェブレと言う人の”My Spirits -Jazz & CUBA”という写真展があって、私が訳も分からずに新聞販売店からその入場券をゲットしたからに他ならない。
その写真展をざっと見て9階の商品展示回廊に行き、写真を撮った。
それから地上に降りて、晴海通りを歌舞伎座方面に歩き、東銀座駅から東京メトロ都営浅草線に乗り京成曳舟駅に行く。
そこのところを、2~3の写真で語りたい。
(ここは、既に京成曳舟駅を出て少し歩いたところ)
かねてネットで調べておいた「レストラン鳩屋」(墨田区東向島 3 ー 37 ー 7 )に行ったのだ。
(向島は何となく歩きやすい)
(当主の 曾祖父に当たる方が鳩山家の料理人だったとか)
(ランチメニュー・1180円だったかな?)
向島に来たのはここで昼食を取りたかったこともあるけれど、この街か昭和40年代に向島と変わる前の町名、”寺島”に興味があったからだ。
(この写真は”寺島第二小学校、滝田ゆう(漫画家)氏の母校)
(寺島町のことは東武博物館にも色々出ている)
(浅草駅からの東武線「東向島駅」にある東武鉄道中心の博物館)
私が今回興味を持ったのは、「寺島」の名のもとになった寺。それは、宮部ゆきえ(作家)の出身校、隅田川高校の前にある”蓮花寺”だ。
(幸田露伴作詞の校歌をもつ隅田川高校)
(寺の名が刻まれたこの巨石はすごい)
(この木でできた輪を廻してお地蔵さんを拝みなさいと書いてあった)
この寺についていろいろ俄か勉強をしたが、頭に入り切れない。いずれ理解できたことを書くつもりだ。
人のブログで、信州善光寺の輪廻塔を見た。この木の車は輪廻車(りんねぐるま)と言い、廻してお地蔵様を拝むと極楽往生できるそうだ。
9 月 26 日(木)友達と向島百花園に来ました。国指定名勝・史跡の都立公園です。
ここの名物はハギのトンネルです。
ハギを竹で編んだトンネルに沿わせて仕立てたものです。
つる物棚にはヒョウタン、ヘビウリ、ヘチマが下がっていました。
入り口付近の庭門に蜀山人の扁額が掛かっています。
「花屋敷」と読むのでしょうか。
文化・文政期(1804 ~ 1830 )に、骨董商を営む佐原鞠塢(きくう)が、交友のあった江戸の文人墨客の協力を得て、花の咲く草木鑑賞を中心に開園。
(詩仏は、江戸後期の漢詩人 書画もよくし、多くの文人墨客と交友)
蜀山人は、寛延 2 年( 1749 )70 俵 5 人扶持の徒士の家に生まれた。
本名 大田直次郎。 四方赤良(よものあから)、寝惚先生、大田南畝、蜀山人などの名を使い分け多方面に活躍した。
75 歳のとき登城中転び、尾骶骨を打ち寝込んだがそれがもとで死去。その際、次のような句を詠んだそうだ。
今までは人のことだと思うたに俺が死ぬとはこいつはたまらん
私たちも、「こいつはたまらん」と思って、まだまだ元気に生きなければならない!
9 月 4 日(水)久しぶりに銀座に出た。なぜか見知らぬ街のように眩しいが、見知った風景もあった。
(銀座 4 丁目服部時計店)
銀座 6 丁目、並木通り沿いの和菓子店に行った。
初めて入ったので「ばらで 6 つ下さい」などと頼んでしまったが、全て箱入りで、最小単位は 10 個入りだった。
栞によると、「明治 17 年上野池之端開業、昭和 24 年当地に移り只今四代目山口元彦にいたっております」とのこと。
また、「屋号は、たまたま初代が関東空也衆の一人であり、その仲間の援助で最中を主として生菓子を始めましたことから、空也念仏に因んで空也とさせていただきました」とあった。「前もってご用命いただければ幸いです」とも書いてあり、知らぬこととはいえ随分無遠慮な客だったと反省しきりです。
銀座の後、日本橋に行きました。
(新しいビルに囲まれた三越本店)
(日本橋のビル群)
(もっとも、コレド日本橋のビルの裏手にはこんな一画もある)
(道路原標の建つ日本橋)
(欄干の獅子が掲げているのは道路原標か?)
現在は高速道路が上に覆いかぶさって大いに窮屈な風景だが、近い将来、高速道路は地下に移され、水辺の風景が復活するという。
(朝日新聞の紙面)
東京の街並みの変化は結構だが、残してほしいものもたくさんある。
例えば、次のようなモニュメントや彫像。
(日本橋東詰の乙女広場の像)
(上野駅構内)
(上野駅構内)
など、など・・・・。
友達を待つJR 浜松町駅北口で、彫像を見つけた。
(交通安全の碑らしい)
(一色邦彦・碧の調べ・ 1983.3 )
一色邦彦氏は、1935 年生まれの彫刻家。(茨城県土浦出身で、現在牛久市にアトリエを持ち第一線で活躍中)
間もなく友達が到着したので、”世界貿易センタービル”に入った。
お目当ては 40F 展望台”シーサイド・トップ”
「地上 40 階、高さ 152m 港区の景色を眼下に望み、東京を一望できる屈指のビュースポット」とパンフレットにある。
(浜離宮の緑が垣間見える)
(旧芝離宮恩賜公園)
(東京湾・レインボーブリッジが見える)
友達二人は、この後一万歩以上歩かされることになるとは思ってもみなかっただろう。
次に私たちは増上寺を目指しました。
(展望室からの🗼&増上寺・この方面の展望は隣のビルに邪魔されている)
通りに出ると、ちょうどお昼時で大勢のサラリーマンがビルから出てきたところだった。
人込みを歩き、増上寺に着いた。
(戦災を免れた増上寺の三門)
( 1974 年再建された鉄筋コンクリート造りの大本堂)
本堂で少し休んだ後、🗼 前の信号から愛宕通りを虎ノ門方面に向かった。芝公園の緑を眺めながら歩いたのだが結構長かった。
おまけに、歩道橋でなければ横断できない交差点もあった。
(増上寺は指呼の間に見えるが歩いてみるとけっこうある)
慈恵医大病院や愛宕神社の前を通り、西新橋 2 丁目「うなぎ・天麩羅の店”光村”」を目指した。
(慈恵医大病院のビル)
(愛宕神社の出世の階段)
(”虎ノ門ヒルズ”かな?)
(地図で確かめておいた筈だが、ビルの林に囲まれて分からなくなってしまった)
店に何度も電話して、やっとたどりついた。
そして、ゲットした”かき揚げ丼 1300 円”だ。
昼食後、愛宕 2 丁目の NHK放送博物館に行きました。
(愛宕トンネル際にある専用のエレベーター使いました)
(愛宕山からの展望)
(放送博物館前にて)
博物館では、愛宕山 8K シアターでフランスのテーマパーク「ル・ビュイ・デュ・フーレ」の映像を見ながら一休みしました。
お疲れさまでした。
3月26日 京橋2丁目のギャラリーくぼたで開催の”第33回象展”を見た。
これは、出展者 21 名中最高齢の柳和子( 89 )さんの作品。
ちょうど当番で受付をしておられたので、お話を伺うと千葉県白浜で「白浜海洋美術館」を経営しておられる方と分かった。
1962 年夫の柳八十一さんと白浜旅行中、海女さんの休む小屋で「万祝」を見つけ、 収集活動を経て 1965 年に私設の美術館として開設された。
夫の八十一さんは、81 までは生きよう!と改名までされたのに、80 に届かず亡くなられ、妻の和子さんが館長として頑張ってこられたが、最近、養子に迎えた陶芸家の方を館長とし、ご自分は名誉館長として第一線は退かれたとか。
出品の生物画(日本画)は質感たっぷりで力強く描きこまれている。パワーを与えられたように感じた。
展覧会場を出て、昭和通りを渡って八丁堀方面に出た、
(どんなふうに変なのか確かめなかった)
(前方の風景としての一枚・空中廊下に惹かれた)
(亀島川の先にリバーシティ 21 のビルを望む)
(鉄砲洲稲荷境内にある富士塚の溶岩)
(鉄砲洲稲荷神社に隣接する公園の桜)
(このどしりした建物は中央区役所)
(区役所の建物の裏側にある)
(桜は咲き始めたばかり)
(いつの間にか銀座に来てしまったらしい)
(銀座の柳)
観光客がほとんどいない一角を行き当たりばったりに歩き、迷子になりそうだったので地下鉄日比谷線八丁堀駅から帰路についた。
東京メトロ日比谷線「人形町駅」から歩き始め、水天宮を見て隅田川に向かった。
(安産の神様で有名な水天宮は 2 階にある)
(境内の犬の像は撫でられたところが光っている)
新大橋通りを隅田川に向かって歩く。
(人形町 2 丁目の遊歩道)
(清洲橋通りに最近できた高層ビル)
(歩道わきに中央区が建てた道標)
(川向うは江東区なのでそちらの案内はない)
(新大橋を渡る)
(流れる川は隅田川)
(現在の新大橋は 1977 に建てられた)
(北千住の大橋、両国橋に次ぐ隅田川 3 番目 1694 元禄 7 年が最初の建立だ)
この頃深川の芭蕉庵に住んだ松尾芭蕉の新大橋を詠んだ句がある。
ありがたやいただいて踏む橋の霜 芭蕉
(新大橋東詰にある江東区立芭蕉記念館の展示にある芭蕉と曽良)
新大橋は、江戸時代 20 回以上災害に合い、流失や焼失の憂き目にあい、幕府は地域持ちを言い渡したそうで、その維持管理には苦労があったらしい。
鉄橋になったのは、明治 45 年。
(今も残る花崗岩の橋柱)
(後に解体された寛永の巨艦安宅丸を係留した御船蔵があった)
この新大橋を少し下ったところに小名木川(江戸になって真っ先に開削された運河・当時の海岸沿いに浦安に通ずる塩の海路)の河口があり、そこにかかる萬年橋がある。
ここから小名木川を下っての船番所のあった番所橋まで行くのは次の課題として、今回の散策はここまでとした。
(神谷町駅前「珈琲大使館」の年賀)
8 周目の干支を迎える私にぴったりの石段 84 は、港区愛宕神社。
40 段ぐらいで息が切れ、登り切ったときはふらふらになった。
境内はこの有様なので、無事登りきれたお礼参りは後日ということにして、同じ敷地にある放送博物館に行った。
(昭和 40 年代のお茶の間、人気番組「ゼスチャー」を放送している)
博物館は、ゆったり見学できた。
この日のランチは、神谷町駅東口を出て愛宕通りに下ったところの立ち食いソバ「高本製麺所」。
(私がゲットした肉うどん中 500 円)
結構、うまかった。
このあたりはビルの街だ。
愛宕山のトンネルの絵がNHK博物館の展示の中にあった。
(西側から見たトンネル)
散策の終わりは神谷町駅東口のコーヒー店。
認知症予防に必要なのは、教育(今日行く)と教養(今日用)であるとの説に従い、2018. 12 . 19 上野公園に行った。
JR上野駅公園口を出て、西洋美術館の前庭にあるロダンの彫刻を見た。
(カレーの市民)
(考える人)
次は、野口英世像と、科学博物館の D 51。
この日は暖かだったし、銀杏も黄葉をたくさんつけていたから、とても 12 月とは思えなかった。
(博物館前の大噴水の周りにはチューリップが・・・)
旧東京音楽学校吹奏堂は寄贈された台東区がリニューアルを終え、入館料 300 円で公開している。早速のぞいてみた。
(ここで学んだ滝廉太郎の銅像)
パンフによれば、木曜、日曜には芸大音楽部の協力でコンサートが開催されるようだ。
東京芸術大学の前を通った。
それから、池之端に向かい、谷中七福神の一つ大黒天の護国寺に来た。
精養軒の前を通った時、時の鐘の音が響いてきた。
”花の雲鐘は上野か浅草か”と芭蕉が詠んだ句にある鐘かと思うと、あまり冴えない音だったが、ありがたく聞き入った。毎日正午には鳴らすらしい。
(精養軒のビル・寛永寺の鐘はビルの右手にある)
(上野東照宮の鳥居)
不忍の池に来た。池のほとりに”駅伝発祥の碑”があると聞いていたので、探したら難なく見つかった。来年の大河ドラマには必ず登場するはずだ。
この後、アメ横に出て、御徒町の「幸福のハンバーグ」という店でランチにして帰った。
(上野駅前に建つオブジェ)