例年、少し開花の遅い“今井の桜”ですが、今年は他の地域と同じようにすでに満開です。
柏市・白井市の境界を流れる小川“金山落とし”が、白井市今井に入って手賀沼に流れ込むまでの 2 km の桜並木が“今井の桜”です。
文字の消えかかった看板が一つあるだけですが、知る人ぞ知るの桜の名所となっています。
水面をのぞきこむと、花筏でいっぱいです。
「堤防工事のため伐採される」との情報が流れたことがありますが、これだけの情景を壊さないでほしいものです。
例年、少し開花の遅い“今井の桜”ですが、今年は他の地域と同じようにすでに満開です。
柏市・白井市の境界を流れる小川“金山落とし”が、白井市今井に入って手賀沼に流れ込むまでの 2 km の桜並木が“今井の桜”です。
文字の消えかかった看板が一つあるだけですが、知る人ぞ知るの桜の名所となっています。
水面をのぞきこむと、花筏でいっぱいです。
「堤防工事のため伐採される」との情報が流れたことがありますが、これだけの情景を壊さないでほしいものです。
(東京駅八重洲口さくら通り)
(内堀通り)
3 月 17 日に開花宣言が出された 2018 年東京の桜。3 月 26 日にはもう満開だ。
江戸城大手門はお花見に訪れる人達でいっぱい。
( 明暦 3 年製の鯱 )
昭和 58 年から 3 年かけて造成された二の丸雑木林が美しい。
白鳥濠(はくちょうぼり)は本丸と二の丸の間に残った唯一の濠(ほり)で、石垣は、穴太(あのう)積み。
大奥跡は広い芝生になっていて、花見客で溢れていた。
明暦 3 年( 1657 )の大火で天守閣が焼け落ち、その翌年加賀前田藩によって築き直された石垣だけが残っている。
ここから、北桔橋(きたはねばし)門を北の丸公園に出た。
さらに、北の丸公園の西端、堀の上から千鳥ヶ淵の桜を見学した。
これが、本日の花見のハイライト。
田安門を出て、東京メトロ九段下駅に向かった。
桜を追って 12674 歩も歩いてしまった。
「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが。今年の春分の日は寒かったですね。
箱根などは大変な雪で宿泊客が帰るのに苦労したそうですから。
でも、それは一過性のものでこれからは急速に暖かくなるそうです。
22 日午後からは日が差してきたので外に出てみました。
(外に置きっぱなしのシンビジウムですが花が咲いていました)
(ヒマラヤユキノシタかな?)
(オトメツバキがたくさん花をつけていた)
(これは、隣家のボケ)
ツバキをさがしたら、近所の庭にいくらでもあった。
ハクモクレンは満開。日当たりのいいところでは、紫のモクレンも咲いていた。
(柏市大津ケ丘中央公園にて)
(柏市塚崎寿量院境内にて)
ユキヤナギ、レンギョウは大津ケ丘団地の傾斜面で見た。
チューリップは咲き始めたばかり。
桜の開花は秒読みの段階か?
例えばこの、柏市増尾城址公園の東側入口近くに置かれた庚申塔だ。
もともとここにあったのではないらしい。土地の人に聞いてみたが分からない。
文化元年甲子年に、増尾村の当時庚申講をやっていた人たちが建てたらしいことはどうやら分かる。
この場所から 1 km ほど離れた柏市大津ケ丘、前原公園の円墳の上に庚申塔が集められているが、ここに甲子年の庚申塔があある。
像が彫ってある方ではなく、「青面金剛」と文字が彫られている方だが、側面を見ると「甲子年」とある、「まてよ、甲子年は文化元年ではないのか?」と疑問がわいてくる。
調べてみると、「甲子年」は政治上の変革が起きやすいとの言い伝えで、日本ではずっと元号を変えてきた。この場合、享和 4 年ではなく文化 1 年なのだ。
それでは、この、日蓮宗の寺の門前の石塔はどうだ。
延享元甲子歳とあるではないか。
これは、文化元年( 1804 )の 60 年前、1744 年、延享元年の石塔だ。
日蓮宗独特のひげ字で「南無妙法蓮華経」と彫ってあるが、建てたのは庚申講の人たちだ。
JR 常磐線松戸駅東口を出ると、鳩に気づきました。
街はビルに囲まれていますが、聖徳大学がひときわ目立ちました。
デッキの突き当たりイトーヨーカドーのビル 5 階の出口から,大学構内に入りました。
そこには、松戸市の史跡もあります。
大学を出て、松戸中央公園に来ると、ここは、大正から昭和にかけての工兵学校跡でした。
台地の坂道を下って戸定が丘歴史公園に行きました。
明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の邸宅“戸定邸”があります。(この邸宅は、十五代将軍徳川慶喜の 16 歳下の弟徳川昭武が 1884 年に建てた)
(ご母堂の部屋でしたか、欄間の雀がかわいいと思いました)
(慶喜さんは電報を打って、結局この日は来なかったのだそうです。二バンとは始発の次の電車)
見学のあと、常磐線のガードをくぐって旧水戸街道に出て、松戸神社、坂川べりを歩きました。
(立派な龍の彫り物を見つけました)
(「元禄」の甲戌(きのえいぬ)は 1694 年元禄 7 年だ)
(江戸川からの坂川には河津桜が満開)
旧水戸街道に松戸シティガイドの拠点“ひみつ堂”がありました。
松戸シティガイド会長宮部孝子さん(写真向かって左)の名刺に「とっておきの松戸の見どころをご案内します」とありましたが、私は、とっておきのカレーライスの店を案内していただきました。
(おいしいコーヒーがついて 800 円 でした)
“ラー博”の後、横浜駅に戻り“みなとみらい線”の終点「元町・中華街駅」を降りてエレベーターでアメリカ公園口に出ました。
このあたりは、“山手”と言い慶応 3 年(1867)外国人の居留地となりました。今も当時の面影を残す洋館が点在し、外人墓地、フランス軍が駐留したフランス山などがあります。
(外人墓地・日本の近代化を担った外国人が眠る)
(大仏次郎記念館)
(大仏次郎は猫好きだったらしい)
(フランス軍が駐留したフランス山の遺跡)
この一画に“港の見える丘公園”があります。
“♪ あなたと二人で来た丘 港が見える丘 色あせた桜唯一つ 淋しく咲いていた・・・♪ ”
東辰三作詞作曲、歌平野愛子のこの曲は、昭和 22 年リリースされ、日本ビクターの戦後最初のヒット曲となりました。
この歌から公園の名がついたそうです。海は当時よりうんと遠ざかりベイブリッジの雄姿のみが際立っています。
山を下りて中華街に来ました。
(横浜ま祖廟・創立は平成になってからとか)
2018 年 住んでみたい街ランキング一位(kk リクルート住まいのカンパニー)の横浜、そのごく一部を歩いたに過ぎませんが魅力的な街であることに間違いありません。
もっと大きな施設かと思っていたが、行ってみると地味な作りの普通のビルだった。
小学生と同じシニア料金 100 円の当日券で入場。(大人は 310 円)
( 1F はプロローグゾーンでラーメンに関する展示とミュージアムショップがある )
( この方は昭和 33 年チキンラーメンを開発した日清食品の創業者安藤百福氏 )
B1F B2F はエイジング加工で昭和 33 年が再現されている。
全国の有名ラーメン店が 9 店(だったかな)入っていて、その一つ“熊本とんこつラーメン”の「こむらさき」はこのラーメン博物館開業の 1994 年から続いている唯一の店。
(ラーメン 700 円)
昭和 33 年の街は、結構にぎわっていた。
( このラーメン屋さんは営業中 )
このラーメン博物館は 7 階建のビルであるが、2F ~ 7F、屋上は駐車場となっているらしい。
新幹線が操業し“新横浜駅”ができたのが 1964 年、それから 30 年たって営業を始めたラーメン博物館だが、その当時は超閑散の街並みだったらしい。
今では横浜市営の地下鉄ブルーラインもでき、その新横浜駅 8 番出口から徒歩 1 分である。
常磐線松戸駅東口から徒歩 10 分の戸定が丘歴史公園の梅が見ごろだ。
(門への坂道にある白梅)
(紅梅の方は咲いていた)
入口の門は、偕楽園の中門に似ているそうだ。この、戸定邸が、最後の水戸藩主徳川昭武の私邸であることを思えばそれも当然という気がする。
門をくぐって、道なりにずっと奥まで進むと、梅が華やかに咲いていた。
戸定邸ができたのは明治 17 年で、現在当時の景観に戻す工事が行われています。
隣の楠が大きく伸びたために樹勢がそがれたヒヨクヒバの蘇生なども復興工事の一つです。
3 月 3 日(土)に行われた、学芸員でもある館長さんの説明会に参加し、工事はこの邸宅ができた当時に戻すことを目的として進められていることを知りました。
(四阿も復元され景観が戻りました)
邸内に入ると、ちょうど雛人形の展示中でした。
進化する戸定邸から目が離せません!