雨曇子日記

エイティライフの数々です

東京・亀戸二丁目財部歯科医

2018-10-03 17:03:24 | 東京散歩

総入れ歯が微妙に狂って、かみ合わせに不都合が生じたので東京・亀戸の財部歯科に駆けつけた。

 

       (蔵前橋通りの北から撮ったこの写真で見ると、鳥長の斜め前方)

 

財部(たからべ)は、鹿児島県の地名で 2005 年財部町は曽於市(そおし)となっていて、この地方では多い財部の姓も東京では珍しい。司馬遼太郎「坂の上の雲」にも登場する財部大将は有名だが、財部歯科の先祖は、大将の親戚とのこと。

 

 

現在の院長、財部洋先生の父上が上京され、東京・亀戸2丁目に歯科医院を開業されたのが昭和 22 年。現在の院長はこの年に生まれた。

20代の後半渡米し研鑽を積まれた現院長は、江東区歯科医師会の会長を 2 期務められ 10 人のスタッフとともに医療の成果を挙げておられる。

 

 

木彫は先生の特技で、院内には作品が多くみられる。

 

 

治療していただき、すかっりかみ合わせがよくなり、私は勇んで帰路に就いた。

 

               (北十間橋を渡る)

             (浅草通の先にスカイツリーを望む)

 

美術館で治療も受けられたという感じである。

 

 

 

 


吉村昭文学館

2018-09-13 20:14:17 | 東京散歩

 

京成線町屋駅前で友人と待ち合わせ、『ゆいの森あらかわ内吉村昭記念文学館』に行きました。

 

          (三鷹の自宅の書斎が作ってあります)

 

Tくんは、かって寝具店の経営者で吉村製綿工場と取引があり、若き吉村昭氏が長兄の経営する工場から製品を配達に来た思い出があるとのことで、興味深く展示を眺めていました。

 

       (「ゆいの森」は荒川区の誇る近代的な図書館です)

       (屋上のテラスからスカイツリーの展望を楽しみました)

       (これから、都電荒川線で”熊野前”に行きランチにする予定です)

          (熊野前の商店街では何かドラマのロケ中でした)

       (予定していた”ナチュラルカフェこひきや”は予約で満席)

  (通りがかりの人が教えてくれた蕎麦屋さんで美味しくて安いランチにありつけました)

 

友達は舎人ライナーで日暮里経由で、私は荒川線で帰りました。

 


旧古河庭園

2018-04-27 21:10:25 | 東京散歩

4 月 27 日(金) JR 駒込駅から本郷通りを歩いて、都立公園“旧古河庭園”に来ました。

 

 

「祝 100 年」というのは、この公園の目玉西洋館&洋式庭園の竣工が、大正 6 年( 1917 )だからでしょう。ジョサイア・コンドル設計・監理です。

古河財閥 3 代目当主古河虎之助男爵の邸宅でした。

 

 

 

バラは、連休の頃満開の気配。

西洋庭園の下方に日本庭園があります。こちらは、大正 8 年( 1919 )京都・平安神宮神苑、円山公園などを手掛けた小川治兵衛作庭です。

 

 

 

ウイキペディアなどで、この公園の歴史を知るにつけ、ますます愛着が生まれました。

 

 


2018 六義園から本郷駒込の吉祥寺

2018-04-04 21:20:32 | 東京散歩

4 月 3 日(月)に六義園に行きましたが、有名なシダレザクラはすっかり葉桜になっていました。 

 

                (しかたがないので、傘の上のコップ回しを見ました)

                       (園内に残ったサクラの花)

 

六義園は、「和歌の心息づく雅な大名庭園」ということで、落ち着いたたたずまいでした。

 

        わかのうらあし辺のたづのなくこゑに夜わたる月のかげぞひさしき(渡月橋)

 

元禄時代柳沢吉保によって造園されたこの六義園は、明治になって岩崎彌太郎の別邸になりますが、その頃のつつじの古木材で作られた“つつじ茶屋”に行き、そこで、草笛の会の佐野紀元さんの演奏を聴きました。この場に相応しい音色と私は感じました。

 

                    (キブシの花房の先につつじ茶屋)

 

食事に立ち寄った“おつな寿司”のあたりは昔は「駕籠町」で中山道板橋の宿から、身なりを整えて江戸に入る人達の駕籠かきが住んだそうです。

 

           (おつな寿司のシンプルなランチ 700 円)

                    (小学校の校名に残る「駕籠町」)

 

本郷通りにある“吉祥寺”に来ました。

家康入府の頃、和田倉門あたりにあったこの寺は、江戸城大拡張で、神田駿河台に移りその地に 17 年あって、明暦の大火で被災しこの駒込の地に再度移った。その際門前町に住んだ人達が移りすんだのが、今の中央線沿線の「吉祥寺」だそうで、寺は、実はここにあるのだ。

 

 

思わぬ花見に感激だった。

 

 

 


2018 江戸城の桜

2018-03-27 22:03:23 | 東京散歩

                      (東京駅八重洲口さくら通り)

                              (内堀通り)

 

3 月 17 日に開花宣言が出された 2018 年東京の桜。3 月 26 日にはもう満開だ。

 

江戸城大手門はお花見に訪れる人達でいっぱい。

 

                      ( 明暦 3 年製の鯱 )

 

昭和 58 年から 3 年かけて造成された二の丸雑木林が美しい。

 

 

白鳥濠(はくちょうぼり)は本丸と二の丸の間に残った唯一の濠(ほり)で、石垣は、穴太(あのう)積み。

 

 

大奥跡は広い芝生になっていて、花見客で溢れていた。

 

 

明暦 3 年( 1657 )の大火で天守閣が焼け落ち、その翌年加賀前田藩によって築き直された石垣だけが残っている。

 

ここから、北桔橋(きたはねばし)門を北の丸公園に出た。

 

 

さらに、北の丸公園の西端、堀の上から千鳥ヶ淵の桜を見学した。

これが、本日の花見のハイライト。

 

 

田安門を出て、東京メトロ九段下駅に向かった。

 

 

桜を追って 12674 歩も歩いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


南千住から北千住  承前

2018-02-07 17:32:43 | 東京散歩

 

千住大橋南詰(荒川区)に建つ様々な表示です。

ところで、芭蕉が奥の細道の旅に出るとき、船は南岸、北岸のどちらに着いたのでしょう。つまり、荒川区側か、足立区側か?

この論争は決着がついていないのだそうです。(芭蕉さん、奥の細道に書いて置いてくれればよかったのに)

 

                     (南岸に着いたとも言えるし・・・)

              (足立区は当然のごとく北側に決めつけていますが)

 

とにかく南から北に橋を渡りました。

 

 

橋戸町の稲荷神社に来ました。

 

                   (この扉の裏側に長八の作品が描かれている)

 

旧日光街道の「宿場通り」に出て、赤門寺の勝專寺に来ました。

 

 

“ほんちょう公園”にあった案内図をたよりに、みどころに行ってみました。

 

               (江戸時代後半の建築・横山家住宅)

                 (現在も開業のドイツ風建築・大橋眼科)

 

通りに面した菓子店“福寿堂”は、昭和の面影が感じられます。

 

                  (田舎汁粉 450 円は懐かしいおいしさでした)

          (私より 3 つ年下の 80 歳と伺い若々しさに驚きました。お元気で)

 

近くの“たから屋”さんも、甘党の私にとって魅力的でした。

 

                          (もしかして、千住小町さんでいらしゃいます?)

                            (はい、そうですよ)

                          (ご主人!団子を下さい)

                        (はい、焼き立てをどうぞ)

 

というわけで、お菓子屋さんにこだわってしまいましたが、楽しく散策を終えました。

 

                   (北千住駅西口デッキより見上げた駅ビル)

 

 

 


南千住から北千住へ

2018-02-06 22:03:00 | 東京散歩

 

荒川区 JR 南千住駅前に建つ芭蕉像から散策を始めました。

まず向かったのは、南千住 7 丁目「山王清兵衛の祠・日枝神社」です。

 

 

国道 4 号(日光街道)沿いの素盞雄(すさのお)神社に来ました。

境内に文政 3 年( 1820 )に千住宿の文人によって建てられた芭蕉句碑があります。

 

            ( 千寿といふ所より船をあがれば・・・・・行く春や鳥啼き魚の目は泪)

            (刻まれた文字や線画は平成になって復刻されました)

 

神社の北側にある、「あらかわふるさと文化館」入口には、平成 27 年に建てられた、俳人 金子兜太氏の句碑があります。

 

                   ( 荒川千住 芭蕉主従に 春の花  兜太 )

 

「ふるさと文化館」の近く、スーパー「ライフ」の敷地内に千住製絨所の煉瓦塀が残っていました。

明治 12 年( 1879 )芦原だった当地に、主に軍服のラシャ地を作る官営工場ができ、明治 21 年には陸軍省の管轄(かんかつ)となって工場は拡大されました。

戦後は民間企業大和毛織に売却され、幾変遷があって、昭和 37 ~ 47 年は大毎オリオンズ(現ロッテ)のホームグランド“東京スタジアム”になりました。

 

 

 

隅田川に架かる千住大橋に来ました。最初に架けられたのは文禄 3 年( 1594 )で、当初は今より 300 m ほど上流だったようです。

現在の橋は昭和 2 年( 1927 )で「プレースドリップ・タイドアーチ橋の最後の例 」と説明板にありました。

 

 

橋を渡れば足立区です。

 

 


北千住東口

2018-01-26 21:41:46 | 東京散歩

 

存在は知っていましたが降りたことのない北千住東口です。

東武電鉄“マンスリーとうぶ”の「新・駅前そぞろ歩記」を頼りに歩いてみました。

 

 

東京電機大学がここに進出したのは、平成 24 年( 2012 )で、以前は“日本たばこ”の社宅だったそうです。

駅からの“学園通り”は活気があります。

 

 

この通りを抜けると、「新・駅前そぞろ歩記」の言葉を借りれば、“古きよき顔”“わくわく路地裏ラビリンス”が開けます。

 

 

記事に、「徳川家康がこの地を訪れた際、青々と茂る柳の様子から神聖な土地と感じ江戸城の鬼門除けとして創建させた」と紹介されている柳原稲荷神社です。

 

 

今日もまた筑波よく見え芦枯るる  

明治以降の句碑と思いますが、江戸時代と変わらぬ風景だったことが想像されます。

近くに稲荷ずし屋さんんがありました。

 

 

立川談志のひいきの店だったようで、私は、談春の“赤めだか”やTV ドラマを通しての談志しか知りませが、なんだかなつかしく思い、店主と話し込んでしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2017 師走の銀座

2017-12-20 20:59:54 | 東京散歩

2017. 12. 20 (水)常磐線柏駅から品川行に乗って新橋にきました。

 

 

いつも気になっていますが、新橋駅前第一ビルの玄関に鎮座する狸は本当に開運の効能があるのかな?

兎も角、新橋を渡れば銀座です。

 

               

               (あまり馴染みがなったので勉強しておきます)

 

“三原通り”を進むと正面に見えるゆがんだビルが目を惹きます。

 

 

化粧品製造販売のビアスグループの東京拠点ビルで、2008 年から建っているのです。

東京は人で溢れ返っているという印象がありましたが、今日はそれほどでもありません。

 

 

今日の散策の目当ては、歌舞伎座 5 階にある“ギャラリー”です。

 

                   (エレベーターで 5 階に上がりました)

                          (歌舞伎座の屋根です)

                        (屋上庭園です)

                          (屋上庭園のサザンカです)

            (屋上庭園から振り仰いだ歌舞伎座の頂上の部分です)

 

お目当てのギャラリーに入って展示を見たり体験したりしました。

 

 

歌舞伎座を出て有楽町に向かうと、昔からの風景がありました。

 

 

♪ ワーオ ワーオ おなかの底から ワーオ 若い風が街をわたっていく ♪

「若い季節」という TV ドラマや歌が突然思い出されました。

 


南千住街歩き

2017-11-09 19:52:00 | 東京散歩

 

11 月 4 日(土) 9 時を過ぎた常磐線南千住駅。上野行きの快速電車が出ていくところです。

 

           ( 素盞雄神社の裏手にある“荒川ふるさと文化館”玄関前 )

 

私は、「千住宿入門講座」(NPO千住文化普及会主催)に来たのです。

講義のあと、街歩きが、すぐ隣の素盞雄神社から始まりました。

 

   (祭神のすさのお大神、あすか大神が光を放ち降臨した際の奇岩「瑞光石」が祀られています)

 

この「瑞光石」(ずいこうせき)にちなんで、千住の小学校には「第二瑞光小」のように「瑞光」がついています。

 

                      (樹齢 600 年の子育て銀杏)

                 (母乳がよく出ますようにと納められた絵馬が並ぶ)

                      (ちょうど山車が出ていた)

 

少し戻って、南千住 6 丁目旧千住製絨所跡に来ました。

 

 

説明にありますが、軍服用のラシャ地を生産する国営の工場あとです。

次に彰義隊戦死者の墓がある圓通寺(えんつうじ)に来ました。

当時の住職仏磨和尚は、寛永寺御用商人三河屋幸三郎と相談の上、彰義隊兵士 266 名の遺体を上野山王台で火葬し、この寺に合葬しました。

 

                          (圓通寺のお釈迦さま)

              (弾痕の残る黒門は明治 40 年上野から移築した)

 

地元の人でなければ分かりにくい路地を通り、常磐線をくぐって浄閑寺へ出ました。

 

               (常磐線のガード下、煉瓦づくりのトンネルになっている)

             (浄閑寺の山門は木造では荒川区で一番古いそうだ)

                            (新吉原総霊塔)

                            (骨壺が見える)

 

散策の最後は、江戸の三大処刑場の一つ小塚原処刑場跡地に建つ延命寺と回向院。

 

              (延命寺の首切地蔵、ブロックを積み重ねてできている)

        (回向院には、鼠小僧など江戸・明治時代の悪役四人組の墓もある)

                 (医師会設置の「解体新書」扉絵のレリーフ)

 

回向院前の通りは「コツ通り」というが、それは、小塚原で処刑された人の骨が出てくるからだそうである。