日本共産党都議会議員(町田市選出)池川友一「市民とつくる都政への架け橋」

日本共産党東京都議会議員の池川友一のオフィシャルブログです。地方政治の現場からいろいろと発信していきます。

被災地で学ぶホンモノの地方自治─わたしたちの震災復興①

2014-08-16 | 学んだこと、政策のこと

 7月26日~28日におこなわれた「第56回自治体学校in仙台──被災地で学ぶホンモノの地方自治─わたしたちの震災復興」に参加した。

 2日目の分科会、「特別分科会 わたしたちの震災復興」で学んだこと、これから生かしていくことについて記していく(文責はすべて池川にあります)。

1、特別分科会の概要

 特別分科会は、東日本大震災発災時から現在に至るまで、自治体職員がどのような活動とりくんだのかについて、消防、廃棄物、下水道、保健師それぞれの立場から報告があった。また、仙台市内で大規模な地滑りがおこなった地域の住民代表から、被災の現状についてレポートがあった。

 分科会全体を通して、東日本大震災という大規模災害に立ち向かう自治体職員の力強さ、プロフェッショナルとしての責任、災害時だけではなく日常から緊急時にも対応するための仕事にとりくんでいる姿が立体的に浮かび上がった。私自身、被災地には何度も足を運び、現地の方々からお話をうかがってきた。しかし、今回の特別分科会でうかがった話は、文字通り災害直後の応急対策をどのようにすすめたのか、その後の普及対策で留意したことは何かという行政の中枢の仕事の中身である。

 地域防災計画は、予防対策、応急対策、復旧対策、復興対策の4つのフェーズに分けられるとされている。応急対策、復旧対策を中心としたなかに、それ以前の予防対策の重要性が語られたことは特筆すべきだと考える。以下、報告者ごとにその内容を私なりに整理していく。

2、東日本大震災の救助・救援活動を指揮して(高橋文雄氏・前仙台市消防局長)

 高橋氏は、東日本大震災時に仙台市消防局長として、大規模災害から一人でも多くの生命を助け出す陣頭指揮をとった人である。東日本大震災の特徴として、人的被害よりも死者が多いこと、福島第一原発事故による放射能災害がこれまでの震災と比べ決定的に違う。仙台市内で建物の被害が多く出たのは、3月11日ではなく、4月7日の余震である。仙台市の震災被害は、東部沿岸の津波、丘陵地の宅地被害である。

 消防局として、発災直後の大きなミッションの一つは、東部沿岸地域にある荒浜小学校と中野小学校の屋上に避難した人たちを救出することであった。特に、中野小学校は周辺で火災が発生し、夜間の空中消火に5回にわたり出動して消火したことをはじめ、道路がガレキでふさがれている状況の中、救助や消火活動には消防ヘリコプターが不可欠であった。沿岸部の被災状況は、どこから救助、捜索活動をやっていいかがわからない状況で、困難を極めた。

Img_2820

 発災直後は、119番通報につながらない状況であり、つながった場合でも生死にかかわらないものは自力で病院に行くよう協力をお願いしたという。どの病院でも、震災対応で100%の受け入れ・対応をしてくれた。

Img_2813

 災害対応の時系列で考えると、震災が発生し、事態掌握期、総力活動期、安定期、収束期に分けられる。仙台市では、平均37年スパンで仙台沖地震が起こることが通説となっており、津波が起きるまでは想定内であった。大津波警報が出て対応が一変したというところである。仙台市消防局として、一番知りたかったのは、東京がどういう状況になっているかだった。東京が壊滅的な被害を受けていたら、首都優先になり、地方都市の仙台には何も物資も人もが来ないことが明白だったからである。東京が首都機能を維持しているとわかったときには、ほっとしたところがある。

 消防局としては、被災者の救助・救出、人命に危険を及ぼす消火活動、人命に危険が及んでいる傷病者の救急搬送、社会的・経済的に重要な施設の危険排除などの活動にとりくんだ。同時に、仙台市内の建設業界などと協定を結んでいたことが、山積みになったがれきの撤去(道路啓開)をおこなう際に重要であった。津波による浸水面積は52平方キロ。宮城東部道路が防潮堤の役割を発揮したのがせめてもの救いだった。仙台市には、波分け神社があるが、それはかつてそこまで津波が来たという言い伝えから名づけられている。地名には、その場所の災害履歴があることを肝に銘じておく必要がある。

 冬の寒い時期の捜索活動も困難をもたらした。おびただしいがれきの中、生存者の捜索を消防、自衛隊、警察などがエリアを決めておこなった。捜索活動などで大きな力を発揮したのが、緊急消防救助隊の活動である。都道府県ごとに被災地に派遣する消防で、仙台市内には、島根県、神奈川県、熊本県、三重県の消防援助隊が活動した。とくに、四日市のコンビナートがある三重県の消防は、石油やコンビナート火災などへの対応で力を発揮した。

 初期の捜索活動では、生存者とともに多くの遺体を取り上げなければならない。その精神的負担は、想像を絶する世界であり、多くの隊員が過酷な状況の中の救助活動で疲弊した。くり返し「職員一同で立ち向かおう」と呼びかけ、ヘルメットには、「がんばろう!仙台」のスローガンを貼った。これは、消防隊員に向けて出したものである。破傷風のワクチン、メンタルケアをはじめ、とにかく隊員のケアを丁寧におこなうことを心掛けた。なかでも、食事とお風呂は力の源泉となる。そのほかにも、職員の処遇、手当金についての検討などをおこなった。最も配慮したのは隊員の家族の安否。実際には、消防の現場から離れることができない、自分の家族の安否もわからないまま仕事に没頭していた隊員も少なくない。たとえば、「数日後、災害対応が続く私の携帯に着信した『全員無事』の一本のメール。それを人目を避け、物陰で見て安堵した瞬間は、生涯忘れられない」(仙台市消防局:活動記録誌)。

 隊員を家に帰すことができたのは、発災から5日目のことである。隊員の家の近所の人たちは、消防に勤めていると知っているので、昼間から家に戻すわけにはいかないと配慮し、日が沈んでから帰し、日が昇る前に戻ってこいと指示を出した。

 応急対策を進めていくうえで混乱した要因は、度重なる余震と津波警報、ライフラインの停止、食料・飲料水などの対策不十分、多数の帰宅困難者などである。そのことにより、多数の避難者と避難所運営に困難をきたした。また、捜索活動を打ち切るタイミングについても思案した。行方不明になっている家族や親せきのことを考えると、月命日など節目で捜索を打ち切るなどの対応が必要となる。

 高橋氏の話は、現場の臨場感、一つひとつの判断の重要性、消防の役割、職員が力を発揮するための配慮、発災以前の予防対策を住民の中に浸透させていくことの大切さなど、示唆に富む内容ばかりであった。高橋氏が報告の最後に紹介した言葉は次の内容である。

 「私たちは、東日本大震災で尊い犠牲をはらいながら、多くの貴重な教訓を得たが、これが今後の防災対策に生かされるよう、被災地を支援してくれた国内外の方々をはじめ、多くの方々に伝えていくことがこれからの務めである」。

(つづく)

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村←ブログを見ていただきありがとうございます。ぜひ、応援クリックをお願いします。

┏┓池川友一|日本共産党町田市議会議員
┗╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 【事務所】
 〒195-0061 町田市鶴川5‐10‐4
 電話・FAX/042(734)1116

 メール/up1@shore.ocn.ne.jp

 ※無料のなんでも相談、法律相談もおこなっています。なんでもお気軽にご連絡ください。