宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

探求の旅

2004年12月14日 | Weblog
かつてネット上のある宗教の場において、二種類の人間を
観察してきた。
特定の宗教に入信し、様々な苦悩や不幸を体験する人生の中で
正しい導きを切実に求める人と、十代の学生だったが、退屈なのか
信者に粗雑な言葉を用いてからかう様に接して来る者とであった。
そして信者自身も信奉する聖典をもって学生に反論する以外の
手段を持ち得なかったし、一つの掲示板は結局混沌としたものに
なって後に閉鎖された記憶がある。

宗教の中で答えを願うにも、幾多の苦悩を味わいその中での導きを
求める叫びと、両親より与えられる恵まれた環境の中での退屈の
解消になされる、からかい混じりの言葉とでは、その質感、香り、
温度が全て異なっている。

もしわたくしがその学生、神性を頭から否定してかかる者に直に接して
いたならば何を語ったか、無意味かもしれないが考えてみる。

「あなたの未来はわからない。無神論者が敬虔な信者になって臨終を
迎えることなど決して珍しい事ではない。ただあなたは今ここに関わる
必要を自問すべきだ。」
そう伝えたかもしれない。
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