かつてネット上のある宗教の場において、二種類の人間を
観察してきた。
特定の宗教に入信し、様々な苦悩や不幸を体験する人生の中で
正しい導きを切実に求める人と、十代の学生だったが、退屈なのか
信者に粗雑な言葉を用いてからかう様に接して来る者とであった。
そして信者自身も信奉する聖典をもって学生に反論する以外の
手段を持ち得なかったし、一つの掲示板は結局混沌としたものに
なって後に閉鎖された記憶がある。
宗教の中で答えを願うにも、幾多の苦悩を味わいその中での導きを
求める叫びと、両親より与えられる恵まれた環境の中での退屈の
解消になされる、からかい混じりの言葉とでは、その質感、香り、
温度が全て異なっている。
もしわたくしがその学生、神性を頭から否定してかかる者に直に接して
いたならば何を語ったか、無意味かもしれないが考えてみる。
「あなたの未来はわからない。無神論者が敬虔な信者になって臨終を
迎えることなど決して珍しい事ではない。ただあなたは今ここに関わる
必要を自問すべきだ。」
そう伝えたかもしれない。
観察してきた。
特定の宗教に入信し、様々な苦悩や不幸を体験する人生の中で
正しい導きを切実に求める人と、十代の学生だったが、退屈なのか
信者に粗雑な言葉を用いてからかう様に接して来る者とであった。
そして信者自身も信奉する聖典をもって学生に反論する以外の
手段を持ち得なかったし、一つの掲示板は結局混沌としたものに
なって後に閉鎖された記憶がある。
宗教の中で答えを願うにも、幾多の苦悩を味わいその中での導きを
求める叫びと、両親より与えられる恵まれた環境の中での退屈の
解消になされる、からかい混じりの言葉とでは、その質感、香り、
温度が全て異なっている。
もしわたくしがその学生、神性を頭から否定してかかる者に直に接して
いたならば何を語ったか、無意味かもしれないが考えてみる。
「あなたの未来はわからない。無神論者が敬虔な信者になって臨終を
迎えることなど決して珍しい事ではない。ただあなたは今ここに関わる
必要を自問すべきだ。」
そう伝えたかもしれない。