宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「アニ・マーミン」

2004年12月11日 | Weblog
私は信ずる(アニ・マーミン)
私は信ずる
私は地上に恒久平和の時代が来ることを信ずる
この時代がやってくるのは遅れているけれど
来ることを私は固く信じている
(アウシュビッツ強制収容所 ユダヤ人囚人の歌)

札幌にて家屋の外壁などに「世界人類が平和であり
ますように」と書かれた祈願板が張り付けられている
のを見た。どのような祈りをしても構わないのだが、
「平和」をどの様に定義付けするかが問題になる。

辞書には「戦争等が無く穏やかに収まっている事」とある。
それは「平和」のある面を表している様に思うが、各個人でその
認識の詳細は異なっている事も感じる。わたくしが思う平和と、
イスラム原理主義者が主張する平和と、どこかの国の総書記が
信じる平和ではその条件付けが全く異なるに違いない。

義姉が運転中にこんな看板を目撃して憤っていた。「イラクに原爆を!」
自身が楽園への片道切符を与えられていると信じる聖書原理主義の
連中は時に有害な宣伝を行うが、これは核戦争という経過を経て後地上に
平和な「新エルサレム」が到来するという主張であるらしい。地上に平和と
救いが実現されるためには核戦争という過程を避けて通る事は出来ないと確信
しているようだ。もっとも自分や家族に限って言えば被爆など受け入れないに
違いない。

少なくとも狂信的、暴力的な煮えたぎったマインドが各自の信じる平和の
達成を試みようとしても、その方法は結局そのマインドに従うものとなる
様に思う。そうしたマインドの持ち主の集合所は決して楽園とはなり得まいと
考える。

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