ガネーシャ神に 供物を捧げて何遍も誦す事で
出世間財(霊的な豊かさや 来世に持ち越すための福徳)が
授けられるとされます。
★「オン・パールヴァティナンダナーヤ・ナマー。」
以下 ネットに投稿されていたコトリバコに関する話のコピペです。
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驚きました、あの箱の事がこんなとこで語られてるなんて
コトリバコ、漢字にすると凶の字の上にフタ
図の点々がないやつです、日本にはない字です
その本来の目的は高貴な一族?の根を絶やすこと
歴史は古く、遡れば卑弥呼の時代
日本で最もよく使われたのは豊臣秀吉の朝鮮征伐の頃
最も最近に使われたのは十年ほど前、ただこれは私の想像範囲内でありますが。
使い方は、縁の下にハコをぽんとただ置くのではなく、
この場合、はこはそれほど重要ではないのです。
ハコの中身を、ある法則に従って並べていきます
そのとき重要なのは、ハコの中身を余らしてはいけないこと
ですからチッポウなどは力が強い分、仕掛ける方は大変です。
文字にするとこうなります
┏━┓
┃メ┃
┗━┛
先に私は豊臣の時代と言いましたが、
それ以前、弥生時代、東北征伐にも使われたそうですが、それは大陸から直接、いまの新潟あたりでしょうか、
にもたらされたもので九州経由のものとは少しちがうようです。
一説には九州経由のものを雌、東北経由のものを雄とするとか。
みなさんの話にでるハコが少しづつ違うのは、それに由来するのではないかと。
私が聞いた話で、面白いな、と思ったのは
江戸から明治へと変わるとき、官軍が江戸に進軍してきたとき、江戸城あけわたしの前夜
官軍が攻めてくるとゆうので、城内の者、とるものもとりあえずに逃げ出したそうで、
城内の有り様は惨たんたるものだったそうですが、西郷さんとの対面の前日、
城内を見回っていた勝海舟が大奥の間にポツリとその箱が置いてあったそうです。
勝海舟はそのハコがそれとは知りませんし、作りが珍しく、
また見るからに古ぼけて見窄らしかったからでしょう、これくらいなら、と持ち帰り子供の玩具に渡したそうです。
これなどはいかにも海舟らしく面白い話ですが真偽の程は確かではありません。たぶん作り話でしょう。
ただ、勝の娘が徳川慶喜の御子息に嫁いでいること、
また、海軍に出仕していた息子が若くして渡米先で亡くなっていることを考え合わせると、
なかなか妙に真実味があります。
ハコの開け方ですが、あれは確かに仕掛けが施してありますが、それ程難しいものではないそうです。
ただ材質が柔らかい特殊な木でつくってあるそうで、
木目を互い違いに、つまり木が伸びていく方向を互い違いにさせささくれ立った感じに組んでいくそうです。
また長い年月の内に湿気を含んで膨張してますから、開ける前には一工夫いるそうです。
そして何よりも、やはり一度あけたら中身を全て使いきること。
これが何よりも難しい。
以上が私が生前、貴族の方達の鋏持ちをしていた父から聞いた話であります。もちろん今の時代だからこそ話せるのですが。
それから勝海舟の話ですが、話としては面白いのですが、
私の知る限り海舟は女遊びはするものの公においては極めて清廉な人でありましたから
例え箸一本でも人様のものを持ち帰ることなどはなかったと思います。
ただ、朝廷と将軍、あるいは貴族と武士、さらには土着の民と新住の民、
それぞれがハコを持ち合わせていたとすれば、みなさんの話にでてくるそのハコは、
いかにも真実味がでてきます。
それとハコの中身ですが、それは後に私自身が調べましたもので、当時の父の話では
さすがにそのまま話すのは気が咎めたのでしょう、病
気で亡くなった子供の指、男の子なら中指、女の子なら薬指と聞きました。
それだけでも子供心には恐ろしいものです。
ましてや親が子供をなど。
ざんねんながら、私の知る限り書物、とか文字としての資料には出会ったことがありません。
ハコの文字も父が最初にあの文字を書いて見せ、「この字はなんと読むかわかるかい」、
そんな謎かけからはじまったものです。
私は読めませんでしたが、いっしょに聞いていた妹はハコと答えました
父はおしいね、言いました、これはコトリバコと読むんだよと。
当時カナリアを飼うのが流行っていましたので、
私は、こんなハコに入れたら息ができない、そう思ったものです。
実は私は、コトリバコのことなど忘れていたのです、
どころか、それまでお金にも親の愛にも何不自由なく育った私には、
そんな世界のあることなど考えたこともありませんでした。
戦争に行き、私と同じ年の、あるいは今でゆうならば中学生の、
その死をみたことで、私は、まるで、私が地獄を見てきたような、そんな気持ちになっていました。
俺は地獄を見たんだ、この世に怖いものないぞっ、そんなぐあいにね。
まるでヤクザモノです。
終戦を迎え、私は大陸から、新潟港から国に帰りました。
私は生きて帰れたことを喜びました、いっしょに帰った戦友も喜びました。
あまりの嬉しさに、私達はそのまま真っ直ぐ国に帰らずに、
秋田の温泉にでも、つかっていこうじゃぁないか、そうゆうことになりました。
当時、私には妻がおりました、結婚して2ヶ月目の出征でしたが
私の遠縁にあたる娘で14の頃から私の家に見習い奉公にきていましたので、
いわば幼なじみ、非常に気安く、何よりも、私自身がとても好ましく思っておりましたので、
私が妻のことに絡めて話したかったのは、
妻の出身が東北であったこと、お土産にコケシを買って帰ったこと
そしてコケシの別な意味を知り愕然としたことなのです。
ハコにまつわるはなしは、浦島太郎からはじまり外国ではパンドラの箱など非常に多いですよね。
さらにはトリとゆう言葉
神社のトリイをはじめ、特に神事に纏わることに関しては、枚挙にいとまがないとおもうんですね
ちなみに先にどなたかのご指摘の通り、当時の言葉の問題
私の知りうるかぎり、トリとゆう言葉はあっても、小鳥とゆう言葉は明治も後半になってのことです
トリは鳥
犬は犬、ワンちゃんとは呼ばないように
漱石の小説でも文鳥はトリとしてあるように。
つまり私が思うに、トリいこーる鳥
であることをまず最初に念頭から排除することだと思うのです。
なんは私、イイ年しておしつけがましいですね
もっといろんな考え方あっていいですよね。
私はね、ここでいつも不思議に思うんですよ
私は、呪い、って確かにあると思います。
ただ、所謂、ウシノコク参り、あの藁人形に釘をさすやつですね、
あんなものはコックリさんや鬼ゴッコと同じ
子供の児戯と同じ
本当の呪いとゆうのは
私が言うのも変ですが、私も凶の字にフタでは、
文字として余りに直接的な気がするんですよ。
文字とゆうのは、本来、その言葉が持つ生々しさとでもゆうんでしょうか、
そういったたものを柔らかくするものではないかとも思うんですよね
凶の字はまがまがしいとの意味もありますけど、点を二つ加えれば、図工の図ですし。
かと思えば図りの図る、謀事、計る、
どれをどんな時に使えば良いのか専門家でも迷うのではないですかね。
最初に寄稿されていた方が神職に就いておられることを考えますれば、
まったくの私見ですが、ハコはこの際あまり重要ではなく、器に過ぎないのではないでしょうか。
さらにいえば、私はけして父が嘘をついていたとは思いはしませんが
当時の世上を考えますれば、そんな恐ろしいことを、いったいに、誰が床屋風情にはなしましょうか。
ここで話は少し変わりまして
一番はじめの小箱の話、また私が先に話しました、縁の下にある法則を持ちまして置いていく話ですが
実は私が追ってきましたハコの話とは、少し趣が違うものでございます
最初に、私が申し述べました箱といいますのは、貴人の方の子孫を絶やす事だと書きましたが
いったい、そんな方々の住まうところに、そう易々と入りこめるものでしょうか
小藩の主、庄屋階級の者でしたら縁の下に猫が子を産むことができましたろうが
箱にはいろいろな役目がございますが、
飾り箱とゆうものは、多くその主の奥方、御婦人に贈られるものが多いわけです
(今でいいます御歳暮なども、食用油や洗剤など御婦人に喜ばれるものが圧倒的に多いわけですな、
単に値段が安価であるからというだけではございません)
ちっとは知れた所の御家になりますれば、そういった贅沢な箱は、ときなは贈られたものでしょう
それは文を入れる箱であったりとか、鏡や櫛をいれるように作られたものもあるましょう
いずれ共通するものは、すべてその方の部屋に、その方の起居とともにありましたものでしょう。