宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

法の下に

2005年01月06日 | Weblog


他州に居住する場合、新たに運転免許を取得せねばならない
場合もあり、現在は全廃されたが過去には白人と黒人との
婚姻が認可されない州も存在した。
死刑制度にしても州によってその有無があり、またニューヨーク州の
様に一度廃止されながらも再び復活した州もあり、やや複雑な印象
がある。その制度が存在しない州でも終身刑、懲役300年、入所後
100年間は仮釈放無しといった様な厳罰は存在しているが。

昨年の日本に大きな影響を与えた奈良県の事件に関してある掲示板を
見ていた。アムネスティ・インターナショナルが、日本の絞首刑制度を
残虐極まりないと非難していた記憶があるが、その場ではそれ以上の
過激な方法を幾人かで提案しあっていた。その加害者に対する強い憤り
が感じられた。

とはいえ、まず死刑制度が犯罪に対する抑止力となり得るか、その点が
気になる所ではある。

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誓いを守る

2005年01月05日 | Weblog
新しい年を迎え新年の抱負を個人的に述べるのは、
人種や民族が異なろうとも違いはない様だ。
精神的にも新しくなり、昨年に果たせなかった事や
やり残した事を終えようとする。誰でも同じ様に
考えるのかもしれない。

夫は長期のクリスマス休暇が終わり、昨日今年初めて
同僚達と顔をあわせた。一人の同僚はどうしても彼に
話しを聞いてもらいたかった。

「俺は今年から絶対マリファナを吸わない。ワインは好き
だからこれからも飲むけど…でも深酒なんかもうしない。
新しい年になった…俺はさ…清められたんだ!」

昨年のそうした習慣が勤務態度に影響した事に気付いてのもの
かもしれない。グッドラック!

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不滅の言葉

2005年01月04日 | Weblog
「私は思想か力によって成功した人々を英雄とは呼ばない。
心によって偉大であった人々だけを英雄と呼ぶ……
人格が偉大でない所に偉大な人間はいない……
成功は我々にとって重大な事ではない。肝心なのは、
偉大である事であり、偉大に見える事ではない。」
(ロマン・ロラン)

「成功」という言葉には肯定的な意味合いがある。
大統領の座にしろ、エベレスト登頂にしろ、目標体重
達成にしろ、何をもって「成功」と位置付けられるか、
その達成すべき対象だけが異なっている。

最近の出来事だった。車に乗る人間なら誰でも走行の仕方を
見て、運転者を察する事が出来る。左右に揺れて走行していれば、
「彼は酔っ払っているに違いない。」と考えられるし、ブレーキ
ばかり使用していれば「彼は初心者か視力が弱いのかもしれない。」
と推測する事も出来る。まして警官なら殊の外敏感だ。

一人の警官が町中を巡回中に、「妙な運転の車」を見かけた。不審に
思ってその後をつけていると一人の女性が降車し、橋から飛び降りた。
しかしその警官が慌てて女性の身体を上方から掴み上げ、間一髪で助かった
のだった。
その状況は一般の市民ではとても救助出来ない極めて困難なものであり、
警官もあと一秒でも遅ければ女性に助かる希望は全くなかった。

この出来事は町中に瞬く間に広まり、人々は彼を称賛し、地元のマスコミ
は彼を英雄と称した。しかし彼はただ自分の職務を果たしただけだと淡々と
語った。

この場合「人命救助においての成功」も見る事が出来るが、更に奥深い
偉大な何かが感じられた。

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「アイヌのシャーマン」

2005年01月03日 | Weblog






北海道の田舎には未だ
アイヌのシャーマンが隠れて残っています。

昨今 いかにも東アジア人という容貌の 自称アイヌが多いですが、

アイヌ人は ロシア人に近い外見を持っていて
人種的には アジア人というより白人に近いようです。

わたくしも昔 北海道の田舎で見た事がありますが、
肌は白く 髭はカールして茶色く ロシア人の体型に近い人でした。


以下 ネットに投稿されていた体験談のコピペです。

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私の地元北海道旭川市にある神居古潭はアイヌの神様が奉ってある場所で、
死体が上がって来ないと言われているので自殺の名所としても有名なところです。
その為かここを通る国道で工事をする時は
必ずアイヌのシャーマンを呼んで神様を鎮める儀式をしないと事故が起きるそうです。

あと片側交互通行を実施している時に
交通警備員の無線に通話している人間以外の謎の声
(聞き取れない位のか細い声)が入ったり、
突然交信出来なくなった時は直ちに作業中止しないと同じく事故が起きます。
また2つあるトンネルは事故多発で死者も多数出ています。
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全幅の信頼

2005年01月02日 | Weblog
イスラム教の神秘家(スーフィー)達は、その
歴史の中で多くの神秘と知恵に満ちた寓話を残した。
その中でも個人的に特に印象に残っている話がある。

ある師弟が砂漠を渡る途中、一晩を宿で過ごすことになった。弟子は
乗ってきたラクダを繋がずにただアラーに祈り彼にこのラクダ達を任せた。
翌朝ラクダが全ていなくなっている事に気づいた師は尋ねた。
弟子はアラーに信頼し、全てを任せたと答えた。その様にすべきだと
師は常に教えてきたからだ。そこで師はアラーに信頼を置くべきだが、
まず最初にあなたのラクダを繋がなければならない。アラーはあなたの手
以外には持っていないのだ、と教えた。



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「その熱をこうむらない物はなく…」

2005年01月01日 | Weblog
日本のカトリック教会には初日の出(御来光)を
迎える祈りがあるようだ。
その祈りの一節には「天の果てから姿を現し、
その果てまで巡り行き、夜の住まいへの道を辿る。」
とある。こちらを書かせて頂いている現在午前六時
二十五分、外は未だ闇の中である。

新しい一年の幕開け。本年もどうぞよろしくお願い致します。
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