http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307050831.html
参院選で改憲の是非が大きな争点になっている。立ち止まってよく考えたい。この国でいま、憲法は生かされているだろうか。
「ああ父さん、この街で生きてたんだ」
北九州市で暮らす西原吾郎さん(41)に、市の福祉事務所から封筒が届いたのは4年前のことだ。父宣幸(のぶゆき)さん(64)が生活保護を申請するにあたり、息子として扶養できるかを問う書類。もう17年近くも音信不通だった。
幼い頃に両親が離婚し、父の実家に引き取られた。祖母が死に、酒びたりの父との生活が嫌になった。二十歳で家を出て、ずっとひとりで生きてきた。
半導体工場の派遣工として、各地を転々とした揚げ句、派遣切りにあう。自分だってしんどかった。
「支援できません」と返事を出す。携帯に福祉事務所から留守電が入っていたが、折り返さなかった。
● ○ ○
宣幸さんは路上生活から脱しようと必死だった。
長距離トラックの運転手をしていた頃は、羽振りがよかった。体を壊しタクシー運転手になってからも、夜遊びや競輪の誘惑に負けた。息子が出て行った後、家賃が滞り、今度は自分が追い出された。
製鉄所に近い海沿いの空き地に小屋を建て、缶を集めて小金にした。深夜のラジオが唯一の話し相手。
「死んだら、泣いてくれる人間はおるんかな」
生活保護の受給を勧めてくれたのは、奥田知志牧師(49)が代表を務めるNPO法人・北九州ホームレス支援機構。アパートを紹介され、放置自転車の管理の仕事に就いた。秋には生活保護を卒業できそうだ。
親子の糸は2年前、つながった。正社員の職を得た息子が、父親を訪ねた。汚れた作業着姿が、昔の自分にそっくりだと、宣幸さんは思った。いま3カ月に一度、顔を合わせる。
奥田牧師は、これまで2千人以上のホームレスの再起を手伝ってきた。「ハウス(家)は取り戻せても、ホーム(家族)のもとに帰れるのはまれだ」。教会の祈祷(きとう)室の棚の上、行き先のない骨箱が、年々10体ほど増えてゆく。
「あの人とはもう関係ありませんから」。ようやく捜しあてた身内が、そう言って電話を切る。
○ ● ○
東京都立川市の都営アパート7階の一室で、昨年3月、95歳の母とひとりで介護をしていた63歳の娘が、ともに遺体で見つかった。
母は認知症で、娘が病死した後、衰弱死。生活保護や介護サービスは受けていなかった。当時の自治会長は「娘が一緒なので心配ないと思っていた」。
昨年1月には札幌市で。姉(42)に続いて、知的障害のある妹(40)が凍え死んだ。姉は生活保護の相談窓口を3度訪ねたが、申請には至らなかった。全国で似た例が相次ぐ。
憲法25条は、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営むことを保障するよう国に求める。本当にそうなっているだろうか。
「家族は、すでに支え合う力を失っている。なのに福祉を背負わせ、しがみついているのが現実。もう限界だ」。NPO法人・自立生活サポートセンター「もやい」の稲葉剛代表(44)は言う。
同じ立川市の都営大山団地。1600世帯のうち、高齢の単身世帯が4分の1を占めるが、2004年以降の孤立死はゼロだ。
自治会事務所に、24時間対応の窓口を設けた。向こう三軒両隣の住民同士で、ポストに郵便物がたまっていないか確かめる決まりもつくった。「遠くの親戚より近くの他人って昔から言うでしょ」と、自治会長の佐藤良子さん(71)。
○ ○ ●
日本国憲法は、明治憲法下の「家」制度を否定して生まれた。女も男もみな一人の個人として尊重され、多様な生き方を、幸福を、追い求める権利を持つ。そう定めて、日本は戦後を歩み始めた。
憲法が制定されたころは5人家族が平均的な姿。1世帯あたりの人数は10年に2・5人を下回り、家族は半分に縮んだ。今では男性の5人に1人が生涯結婚をしない。1人世帯が「夫婦と子どもからなる世帯」を上回り、最も多い家族の形になった。(矢島大輔)
■自民草案は互助を課す
少子高齢化が進み、家族の形が変わる中、健康で文化的な生活をどう支えるか。
自民は公約で「自助・自立」が第一と強調。昨年発表した改憲草案では、前文で「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とした。家族の絆が薄れているとして24条1項に家族の規定を新設、「家族の助け合い義務」を定めた。
安倍政権は生活保護の削減・抑制も打ち出した。先の国会で提出した生活保護法改正案は、家族の資産や収入を確認する手続き強化が特徴。自民、公明、民主、維新、みんな、生活が法案に賛成したが、共産、社民が「保護が必要な人が申請しにくくなる」と反対した。会期末の混乱で廃案になったが、政府は参院選後の国会に出し直す考えだ。
(朝日 7月6日)
参院選で改憲の是非が大きな争点になっている。立ち止まってよく考えたい。この国でいま、憲法は生かされているだろうか。
「ああ父さん、この街で生きてたんだ」
北九州市で暮らす西原吾郎さん(41)に、市の福祉事務所から封筒が届いたのは4年前のことだ。父宣幸(のぶゆき)さん(64)が生活保護を申請するにあたり、息子として扶養できるかを問う書類。もう17年近くも音信不通だった。
幼い頃に両親が離婚し、父の実家に引き取られた。祖母が死に、酒びたりの父との生活が嫌になった。二十歳で家を出て、ずっとひとりで生きてきた。
半導体工場の派遣工として、各地を転々とした揚げ句、派遣切りにあう。自分だってしんどかった。
「支援できません」と返事を出す。携帯に福祉事務所から留守電が入っていたが、折り返さなかった。
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宣幸さんは路上生活から脱しようと必死だった。
長距離トラックの運転手をしていた頃は、羽振りがよかった。体を壊しタクシー運転手になってからも、夜遊びや競輪の誘惑に負けた。息子が出て行った後、家賃が滞り、今度は自分が追い出された。
製鉄所に近い海沿いの空き地に小屋を建て、缶を集めて小金にした。深夜のラジオが唯一の話し相手。
「死んだら、泣いてくれる人間はおるんかな」
生活保護の受給を勧めてくれたのは、奥田知志牧師(49)が代表を務めるNPO法人・北九州ホームレス支援機構。アパートを紹介され、放置自転車の管理の仕事に就いた。秋には生活保護を卒業できそうだ。
親子の糸は2年前、つながった。正社員の職を得た息子が、父親を訪ねた。汚れた作業着姿が、昔の自分にそっくりだと、宣幸さんは思った。いま3カ月に一度、顔を合わせる。
奥田牧師は、これまで2千人以上のホームレスの再起を手伝ってきた。「ハウス(家)は取り戻せても、ホーム(家族)のもとに帰れるのはまれだ」。教会の祈祷(きとう)室の棚の上、行き先のない骨箱が、年々10体ほど増えてゆく。
「あの人とはもう関係ありませんから」。ようやく捜しあてた身内が、そう言って電話を切る。
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東京都立川市の都営アパート7階の一室で、昨年3月、95歳の母とひとりで介護をしていた63歳の娘が、ともに遺体で見つかった。
母は認知症で、娘が病死した後、衰弱死。生活保護や介護サービスは受けていなかった。当時の自治会長は「娘が一緒なので心配ないと思っていた」。
昨年1月には札幌市で。姉(42)に続いて、知的障害のある妹(40)が凍え死んだ。姉は生活保護の相談窓口を3度訪ねたが、申請には至らなかった。全国で似た例が相次ぐ。
憲法25条は、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営むことを保障するよう国に求める。本当にそうなっているだろうか。
「家族は、すでに支え合う力を失っている。なのに福祉を背負わせ、しがみついているのが現実。もう限界だ」。NPO法人・自立生活サポートセンター「もやい」の稲葉剛代表(44)は言う。
同じ立川市の都営大山団地。1600世帯のうち、高齢の単身世帯が4分の1を占めるが、2004年以降の孤立死はゼロだ。
自治会事務所に、24時間対応の窓口を設けた。向こう三軒両隣の住民同士で、ポストに郵便物がたまっていないか確かめる決まりもつくった。「遠くの親戚より近くの他人って昔から言うでしょ」と、自治会長の佐藤良子さん(71)。
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日本国憲法は、明治憲法下の「家」制度を否定して生まれた。女も男もみな一人の個人として尊重され、多様な生き方を、幸福を、追い求める権利を持つ。そう定めて、日本は戦後を歩み始めた。
憲法が制定されたころは5人家族が平均的な姿。1世帯あたりの人数は10年に2・5人を下回り、家族は半分に縮んだ。今では男性の5人に1人が生涯結婚をしない。1人世帯が「夫婦と子どもからなる世帯」を上回り、最も多い家族の形になった。(矢島大輔)
■自民草案は互助を課す
少子高齢化が進み、家族の形が変わる中、健康で文化的な生活をどう支えるか。
自民は公約で「自助・自立」が第一と強調。昨年発表した改憲草案では、前文で「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とした。家族の絆が薄れているとして24条1項に家族の規定を新設、「家族の助け合い義務」を定めた。
安倍政権は生活保護の削減・抑制も打ち出した。先の国会で提出した生活保護法改正案は、家族の資産や収入を確認する手続き強化が特徴。自民、公明、民主、維新、みんな、生活が法案に賛成したが、共産、社民が「保護が必要な人が申請しにくくなる」と反対した。会期末の混乱で廃案になったが、政府は参院選後の国会に出し直す考えだ。
(朝日 7月6日)