それでは予告していた戦前の韓国関連の歴史ですが、まず
日清戦争(ウィキペディア)です。
>『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。
まぁ別に日本が綺麗な動機で戦争をしたとは思わないんですが(詔勅は建前でしょう)、それ以前は朝鮮は清の属国だった訳で、独立していた朝鮮を日本が戦争して奪い取ったという訳ではないと強調しすぎて強調しすぎることはありません(何か韓国の言い分を聞いているとあたかも朝鮮の独立を日本が奪ったように聞こえますが、そんなことは有り得ない)。
唐・新羅戦争(ウィキペディア)で新羅は謝罪使を送っていますから唐の面子は保っていますが、実質唐の半島支配を退けていると思います。これは新羅が戦争の歴史(半島統一の過程)で武力を十分貯えていたことに起因すると思います(かつこの時代は中国に満州という朝鮮半島に接する巨大な後背地がない)。高麗は当時武臣政権だったようですが、元(満州(面積はより広いが渤海人、契丹人、女真人)を支配しており、首都は大都(後の北京))には適わず征服されました。倭寇で弱ったとも言われる高麗は
李氏朝鮮に変わり明に服属しますが、清に変わって清にも服属するにあたって議論はあったようです。
>秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた。
新羅の時代はともかく高麗なんかは元にやられていますから、李氏朝鮮が明を尊重しようと思ったのは無理はないかもしれませんが、満州をとっていない明には実際のところ朝鮮半島に対して大したことはできなかったのではないかと思います。そういう力関係もあって明は李氏朝鮮に兵を送ったのでしょう。そもそも秀吉は朝鮮半島をとりにいったのでは全くありません。当時の用語で唐入りと言います。明が危機感を抱いて兵を送ったのも無理は無いんですね(明が元や清みたいに満州を支配していたら、朝鮮を活かさず自分で朝鮮を狙いにいった確率が高いでしょう)。だから李氏朝鮮が過剰に恩を感じる必要はないのですが、清の厳しい支配もあって(何時でも攻め落とせる自信があってのことでしょう)、やられてしまった明を慕い、
小中華思想(ウィキペディア)(>新たな小中華観では、李朝のみが唯一の華となり、当時李朝と国交をもっていた日本と清を文化的に強く差別化してしまい、両者からの文化、技術の流入を拒絶し、文化的鎖国状態に嵌り込むことになる。)をこじらせることになります。外交文書を除く公文書から下賜された諡号を隠しているのですが、こういう清隠しの意識があるいは自分は独立していたという勘違いに繋がるのかもしれません。
>事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった。
>朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して三跪九叩頭の礼を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(以上2件ウィキペディア「李氏朝鮮」清との関係より)。
客観的に見て日本が清より酷かったかということでしょう。どうも日本人の目にはより悪い清から「解放した」ように見えなくもありません。近代化や教育に随分投資しましたしね。下層階級(白丁)も解放しました。三跪九叩頭を強制したりもしなかったでしょう?するのになれてどうとも思ってなかったのかもしれませんが。
長く武士支配の続いた日本と違って(?)、韓国の外交安全保障観はどうもあまり上手くないですね。明に過剰な恩義を感じることなく(明は自国の都合で助けただけです。恩知らずになれとも言いませんが)、勃興しつつある後金(後の清)の強さが分からなかったんでしょう。後世から見た机上の空論かもしれませんが、冷徹に国際環境を見ることができれば、清との関係がこじれることも無かったような気はします。同じ間違いは日本に対してもしています。弱った清に何時までもくっついて上手く立ち回れず、日本に併合されています。今でも世界最強のアメリカの後ろ盾がありながら、中国にもいい顔をして米中両国の不興を買っています。中国よりアメリカの方が強いのだから、中国の顔色を伺う意味が不明です。日米も中国と没交渉ではありませんから、歩調をあわせて中国とつきあえば無風だったと思います。バランサーというかただのアホでしょう。朝鮮半島でガリガリ争った新羅あたりはその辺のセンスがあったようにも思えますがね。文官を重視しすぎるとアホになってしまうところがあります。日本は他山の石で文武両道でいきたいですよね。
韓国併合(ウィキペディア)
>ロシアは、1898年3月15日、清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事顧問が撤退し、翌4月には露韓銀行も閉鎖された。同年8月、ロシア語通訳の金鴻陸は高宗暗殺未遂を起こしたとされ (毒茶事件)、10月に処刑された。
さて清を退けた日本ですが、今度はロシアと相対する羽目になります。当時のロシアは(今でも?)不凍港を求めていたんですね。どうも
日露戦争(ウィキペディア)というのも本当にロシアは朝鮮半島を狙っていたのかという疑問はなくもないのですが、長期的に見れば、満州の次は中国や朝鮮・日本になったとも考えられ、対立は仕方なかったのかなと思います。日露戦争はいいとして、疑問なのは韓国を併合しなくてもロシアに勝てたのだから、韓国併合は必要なかったのではないかということですね。まぁ欧米にとってアジアは遠隔地ですから植民地にでもするしかありませんが、日本は併合の方がセオリーだった可能性はあります。併合=朝鮮の消滅は考え過ぎであるかもしれません。アイヌや満州のような人口希薄地は併合すれば隣接する多数派に消滅させられる恐れがありますが、朝鮮半島は人口も多いのでそう簡単に消滅はしないでしょう(朝鮮語の教育も行っていたし、ハングルも普及させた)。スコットランドとイングランドとの関係みたいのがベストだったかもしれませんが、それだと後で独立だ~とやられるので、それを警戒したんですかね。日本の良くなかったところもあるでしょう。勝った日本は極東においてそれなりにロシアと渡り合えるようになります(ノモンハンでやられましたから、油断できない相手ではあります)。韓国人には申し訳ありませんが、日本は中国やロシア・欧米列強とやりあっていたので、その流れを見ずに当時の日本の行動を云々することはできません。
ポーツマス条約(ウィキペディア)
>ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。
日露戦争時のアメリカの支援も自国のためにやっていたのでしょうが、日本はロシアとある程度協調してアメリカを追い出したり、結局満州国で独り占めの構図をつくりだします。まぁ別に兵を出してくれた訳じゃありませんし、過剰に恩を感じる必要はないと思いますが、金貸しの恨みは怖いんじゃないですか?日本人は自国の金貸しを扱う感覚(結構徳政令・棄捐令で踏み倒しています)で欧米の金貸しを見たのかもしれませんよね(返済したのは82年後ともいう)。
そう考えると(懐事情を考えると)、日清戦争あたりで止めておくのが正解だったかもしれません。満州は中国に攻めさせれば良かったし(勝てるとも思いませんが)、旅順港なんかは山東半島沖で迎え撃てばいい訳ですから。ただ、満州の生産力を考えると、長期的にロシアにやられる恐れはありますね。そう考えると日露戦争やむなしで、韓国併合やむなし、満州の権益確保焦り過ぎぐらいの結論になるのでしょうか?借金返済重圧にかられたのかもしれませんが、日露戦争に勝ったことでそうそう日本を滅ぼせる勢力は無くなった訳で、謀略による満州事変なんかで国際社会を敵に回す必要は無かったと思いますね。
韓国併合のウィキペディアの記述「日本内地への影響」を見るとこんなことも書かれています。
>日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている。
中長期的に見ればプラスかもしれませんが、どうなんでしょうね。ドイツ統一は結果的にプラスになったように思えますが、違う民族ですし、35年の統治で回収できたかは怪しい気はします。併合しておいて来るんじゃねえってやるぐらいだったら、「独立国」にしておき、移住を制限し関税をかけた方が素直です。連中が自分でインフラ投資をして発展させて防波堤になるかが分からないところですが。意外とモンゴルをけしかけた(?)高麗よろしく日本にロシアとやれやれ満州どうにかしろって言ってきたかもしれませんよね(
元寇(ウィキペディア))。まぁ対外戦争をあまりやらない日本にその辺の事情はピンとこなかったんでしょう。
併合の合法性に関してはウィキペディア韓国併合によれば以下の通り。
>英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている。
韓国併合再検討国際会議(ウィキペディア)でも韓国の主張は国際的に退けられています。
訪れた外国人の評価はウィキペディア韓国併合によれば以下の通り。
>1912-1913年の在日アメリカ大使 Larz Anderson の妻で作家の Isabel Anderson が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」
勿論、日本は日本のためにやったので、恩をきせるつもりもありませんが、収奪ガーって喚いたところで、聞く訳ないじゃないですか。韓国人はもうちょっと自国の歴史を冷静に見るべきですよね。歴史を政権に都合の良いよい美化することもある程度はあるのかもしれませんが、やりすぎですね。歴史は教訓にもなりますから、事実から目を背けると未来を誤るかもしれませんよ。
ムン大統領は反省部屋行きですね(^_^)アメリカでこんこんとやられても分かってない感じが凄いです。