一葉一楽

寺社百景

高幡不動 ー 江戸時代の否定

2013-05-02 10:44:44 | 寺院

伽藍に二つの軸線があるのは決して珍しいことではない。高幡山金剛寺では、総門、山門を通り、大日堂に辿りつく壇林としての軸線であり、今一つは仁王門から不動堂に至る不動信仰としての軸線である。本尊は大日如来と不動明王であるが、地元の武士の崇敬を集め鎌倉以降は不動堂が中心となった。

    

                        仁王門

「新編武蔵風土記稿」に応永二十ニ年(1415年)の勧進帳の写しを載せる。「岩殿山御合戦、河越没落、小山御退治、若犬滅亡、奥州御発向毎度流汗、上将武略勇猛之護持、坂東護衛無雙之効験」とある。昭和三十三年(1958年)解体修理完了の現不動堂は、天文十九年(1550年)当時、武士の崇敬を集めていたころの、形に復原され、庶民信仰の対象であった頃、江戸時代に変更された部分は取り除かれた。「江戸名所図会」の挿絵、元文三年(1738年)から寛保二年(1742年)にかけて修復された姿とは大きく変わる。もっとも江戸の風情が無くなったのは明治二十九年(1896年)の修復時のことのようである。仁王門は「武蔵名勝図会」の画、重層の楼門へ改築である。(「重要文化財金剛寺不動堂仁王門修理工事報告書」1960年6月)

          

                   

                         不動堂

「武蔵名勝図会」に「山上より引きおろして再建せし時のままにて、柱はみな松の丸太造りなり。星霜久しきことゆえ、大半はその後造営を加えし時に槻の丸太造りに入れ替えたれど、いまに古代の松の丸柱に根継ぎして、往古のままを多く残せり」とはいうものの、天文・元文・明治・昭和と修理にも、材料だけでなく、その時代が色濃く反映されるようである。

                   

                        五部権現社

(注)2013年4月撮影

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