「大師通り」(深大寺道)は武蔵野台地を縦断し、湧水の点在する国分寺崖線に至る。中世深大寺城への上杉氏の軍道であったようだが、「大師通り」と元三大師詣の道となって生き残った。元三大師、良源慈恵大師は直接には深大寺と関係はない。正暦二年(991年)に深大寺にもたらされたとする元三大師自刻の像が信仰を集めた。正長年間(1428年)火事の際焼け残り、これが厄除の霊験ありとされたのであろうか。「武江年表」明和二年(1765年)の条に「七月朔日より回向院にて武州府中深大寺厄除元三大師開帳」と勧進の目玉となっている。慶応元年(1865年)焼失前の大師堂再建のための勧進であろう。天保三年(1832年)に造られた大師堂内陣の厨子には部材の寄進者の陰刻があり、信仰と経済が町人層に依っていたようである。文政三年(1820年)脱稿の「武蔵名勝図会」には「毎月三日、十八日は大師縁日にて、参詣群衆す。正月、五、九月の右両日は市町の如し」とある。
山門
時代は遡るが、茅葺の山門は元禄八年(1695年)の再建、その棟札には「地形大門普請寄進人足一千余人」とあり、多分近郷近在の村民総出による建立ではなかったのではなかろうか。深大寺に支配階級の名は出てこない。
釈迦如来倚像
白鳳仏 釈迦如来倚像は江戸時代の書誌には出てこない。明治42年(1909年)になって大師堂本尊の元三大師像壇下から発見されたという。もっとも天保十二年(1841年)の「分限帳」に本堂に釈迦牟尼仏の銅像があったとされる。これ以前は全く不明である。ただこのあたり古代狛江郷であったことは頭の中に入れておかなければならない。本堂は慶応元年(1865年)に焼失したのち、大正14年(1925年)まで再建されなかった。焼失後大師堂に、目の届かぬ所に置かれていた。深大寺は元三大師信仰が主であったということである。これは今も同じである。 (参照:「深大寺学術総合調査報告書」深大寺 1987年11月)
(注)2013年4月撮影