一葉一楽

寺社百景

東大寺 その1 ー 大きさへの執着

2013-05-22 21:01:26 | 寺院

「徳川実紀」慶長十九年(1614年)八月八日の条に「南都上生院。大仏修治の事こふままにゆるされた。大工中井大和守正次に修治の事を命ぜらる」とあり、さらに九月十三日「上性院。清涼院。南都の大仏修理のため。諸国勧化のことゆるされ。その上にも費用不足せば。官財を加へたまふべしと仰出さる。奈良奉行中坊左近秀政へもその事仰下さる」とある。しかしその後の大坂冬の陣のためか、大仏修復、また大仏殿再建はなされていない。延宝九年(1681年)刊行の「和州旧跡幽考」でも、「中門は礎のみ。・・・・・。(山田道安修復による)仏は猶もとのごとく成就し給ひつれども大殿は造営あらずしていしずへのみのこれり永禄十年より凡百十三年」。現在の大仏の修理が完了するのは元禄四年(1691年)、翌五年に開眼供養が行われた。大仏殿再建が始まるのは元禄七年(1694年)である。実際には、二年後の元禄九年以降であろう。「徳川実紀」元禄九年四月十日の条に内田守政、妻木頼方(頼保)両名が奈良奉行に任命されたとあり、二人体制となって大仏殿再建を監督したようである。特に妻木頼保は東大寺側が従前の大きさを主張するのを、現在の七間幅に説得する役目があったようである。結局中門、東西楽門、廻廊が完成したのは、造営資金の枯渇もあり、元文三年(1738年)頃となったようである。(参考 山本栄吾「東大寺大仏殿院現構の造営時期」日本建築学会研究報告 1959,5)

                

                      

                        

現在の大仏殿にはモデルがあったのではなかろうか。重源再興の大仏殿ではなく、、方広寺大仏殿であったのではと思っている。東大寺側の固執した大きさとは、方広寺大仏殿の大きさではなかったのはないだろうか。唐破風の向拝のある現在の大仏殿、「方広寺大仏殿諸建物?三十三間堂建地割図」に載る大仏殿と酷似しているからである。また両者とも中井家の関与が窺えるからでもある。

          

                  

(注)2012年10月撮影

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