門を入って正面に見えるのは、未完成と云われる三重塔である。大日如来を本尊として安置する本堂は左手、南面する。
元弘年間(1331-1333)長秀上人再興と云われるが、実質創建であろう。塩田北条氏が滅亡したのは元弘三年(1333)で、関与したとするのは難しいのではなかろうか。大壇越は福沢氏であった。二世祐俊上人が伽藍を整備したと伝える。三重塔があったのか否かは分からない。塩田城に入ったのは、村上氏の代官、福沢氏である。武田信玄により落城するのは天文二十二年(1553)である。三重塔の再建は永正十一年(1514)と伝えられている。
ここでは、伽藍の中心は塔である。大日如来と書かれた扁額を二層目に掲げ、1層目には金剛界の四仏の名号の扁額を掲げる。もっとも智積院末となった貞享年中(1684-1687)に扁額が掲げられた可能性があるが、完成した塔とし、根本大塔に倣ったのか。
三重塔
本堂
(注)2014年10月撮影
元弘年間(1331-1333)長秀上人再興と云われるが、実質創建であろう。塩田北条氏が滅亡したのは元弘三年(1333)で、関与したとするのは難しいのではなかろうか。大壇越は福沢氏であった。二世祐俊上人が伽藍を整備したと伝える。三重塔があったのか否かは分からない。塩田城に入ったのは、村上氏の代官、福沢氏である。武田信玄により落城するのは天文二十二年(1553)である。三重塔の再建は永正十一年(1514)と伝えられている。
ここでは、伽藍の中心は塔である。大日如来と書かれた扁額を二層目に掲げ、1層目には金剛界の四仏の名号の扁額を掲げる。もっとも智積院末となった貞享年中(1684-1687)に扁額が掲げられた可能性があるが、完成した塔とし、根本大塔に倣ったのか。




(注)2014年10月撮影