何時の頃か不明だが、山の上から現位置に移ったという。現薬師堂に解体の痕跡はなく、現位置で建立されたのであろう。永享年中(1429-1441)に、薬師堂を除いて焼失したようであるが、他にどの様な堂舎があったのか分からない(長野県小縣郡役所「小縣郡史」1923)。造営は塩田庄が最勝光院領の時と推定されるが(「吾妻鏡」)、武家政権が始動、地方が声を出し始めた頃といってもいいだろう。方三間の小振りな仏堂が各地に作られ、寺院が民衆の身近になった。
側柱12本のうち、大面取りの角柱のなかで、背面の1本は円柱である。昭和二十七年(1952)の解体修理の際、4本あった円柱のうち3本を角柱に取り替えた。四天柱の円柱4本も含め、円柱は当初材と推定されるそうだ(「重要文化財中禅寺薬師堂修理工事報告書」重要文化財中禅寺薬師堂修理委員会編 1953)。四天柱用だと考えると、いろいろな推測が可能となる。
仁王門
薬師堂
室町から江戸時代にかけて何回かの修理があったようだが、享保十九年(1734)は解体に近い、前山村あげての大修理であったようだ。薬師如来坐像の台座蓮弁は薬として切り取られたとのこと、まさに村のお堂、薬師堂である。
(注)2014年10月撮影
側柱12本のうち、大面取りの角柱のなかで、背面の1本は円柱である。昭和二十七年(1952)の解体修理の際、4本あった円柱のうち3本を角柱に取り替えた。四天柱の円柱4本も含め、円柱は当初材と推定されるそうだ(「重要文化財中禅寺薬師堂修理工事報告書」重要文化財中禅寺薬師堂修理委員会編 1953)。四天柱用だと考えると、いろいろな推測が可能となる。
仁王門
薬師堂
室町から江戸時代にかけて何回かの修理があったようだが、享保十九年(1734)は解体に近い、前山村あげての大修理であったようだ。薬師如来坐像の台座蓮弁は薬として切り取られたとのこと、まさに村のお堂、薬師堂である。
(注)2014年10月撮影