10月12日東京芸術劇場シアターウエストで、リリアン・ヘルマン作「子供の時間」を見た(翻訳:常田景子、演出:西川信廣)。
1934年に発表されブロードウェイで大ヒットした後、オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンの共演で映画化された有名な作品。
今回、初めて芝居を見て、映画と原作とがだいぶ違うことが分かった。
アメリカ、マサチューセッツ州郊外。大学時代からの友人であるカレンとマーサは古い農家を改造した女子校を経営している。学校の経営は数年がかりで
ようやく軌道に乗り始めていた。カレンはこの学校の大きな後ろ盾となっているティルフォード夫人の甥・カーディンとの結婚も決まっていて、すべてが
順調にいっているように見えた。しかし、ティルフォード夫人の姪で、この学校の生徒でもあるメアリーの、ある一言によって、大人たちの運命の歯車は
狂い始めていく・・・(チラシより)。
寄宿学校とティルフォード夫人の屋敷が交互に舞台となる。
登場する大人たちは、ほとんどみな知的で良識ある人々であり、子供たちは素直で明るい。
ただそこに、一人大変な問題児がいる。ティルフォード夫人の姪メアリーだ。彼女は口から出まかせの噓をつく。何の苦もなく噓をつく。気の弱い同級生の弱みを
知ると、すかさずつけ込み、相手を支配下に置く。しかもこれといった動機がない!だから悪魔のようで、ぞっとする。
周りの人たちをめちゃめちゃ引っかき回す彼女を見ていて、アーサー・ミラーの「るつぼ」に登場する美少女アビゲイルを思い出した。
メアリーは噓をついた罰として外出を禁止される。彼女は反発して家に帰ろうとするが、バス代などがかかる。そこで同級生を脅して金を奪い取る。
ティルフォード夫人は姪を愛してはいるが、やはり良識ある人で、姪が学校を無断で出て来たと知ると、すぐに学校に連絡しようとする。
メアリーは学校に戻りたくないので必死になって次々と言い訳を言うが、うまくいかない。彼女は相手の顔色を伺いつつ、ついに、二人の先生の「秘密」について、
その場で思いついたことをどんどん言う。最後は夫人の耳元でささやく。ショックを受けた夫人は、ついに「もう戻らなくていいわ」と言い、迷った末、保護者たちに
電話する。それが自分の義務だと彼女は信じた・・・。
保護者たちは一斉に子供を自宅に連れ戻す。二人は裁判を起こすが負け、無人となった寄宿学校に何日も引きこもる。
カーディンが来て「家を売ったよ。ウィーンに行こう、三人で」「いつまでもここにいちゃいけないよ」と明るく言うが、彼が二人の関係に内心疑いを抱いていることを
知ったカレンは、彼と別れることを決意。彼は何度も食い下がるが、カレンは彼を強引に去らせる。
それを知ったマーサはショックを受け、自分の中のカレンに対する気持ちに初めて気づく。彼女はカレンに告白し、「私は汚らわしい・・」と言い残して別室で自殺する。
ティルフォード夫人が会いに来る。メアリーの噓がやっと発覚し、二人に謝罪しに来たのだった。
彼女は何とかして自分のしたことの埋め合わせをしようとする。カレンはカーディンと別れたこと、そしてマーサが自殺したことを話す。
夫人はカーディンとカレンが関係を修復できると希望を持っている。カレンもそれを否定しない。
カレンは夫人に、メアリーを手放した方がいい、と言うが、夫人は、それはできない、と答える。
とすると、これからメアリーはどうなるのか。
彼女のしたことは、ただの子供のいたずらなどではなく、実際にお金を奪い取ったのだから恐喝という立派な犯罪だ。現代なら少年院行きだろう。
このままにしておいたら、もっと大変なことになるのでは。
カレンはマーサの告白を聞いた時、ただ戸惑うだけ。もう少し特別な反応を示すべきでは?他のみんなが怪物を見るようになったのに対して、あまりに自然な感じがする。
映画との一番大きな違いは、夫人が謝罪に来るタイミング。
映画では夫人が来た時、二人はまだ健在だが、原作(この芝居が原作通りだと信じて)では、夫人はマーサの死後にやって来る。
そして、マーサの死という衝撃的な悲劇(学園崩壊よりさらに大きな悲劇だ)の直後だというのに、夫人とカレンは早くも和解する。
それがあまりに早過ぎるように思われる。マーサの自殺という重い出来事を、普通もっと引きずるのではないだろうか。
この点、映画の脚本は原作の弱いところを補って、実にうまく再構成していると思う。
役者では、ティルフォード夫人役の佐々木愛が、味わいある重厚な演技。
いつも知的な役をやる新井純がマーサの叔母で軽薄な女優・リリー・モーター役というのには少々戸惑った。何しろこのモーターという女性、人から陰で「おバカ」と
呼ばれているという損な役柄。だが新井純は、自分本位で身勝手なために、この悲劇のきっかけを作ってしまった女性をきっちり演じて見事。
メアリー役の原田琴音も憎まれ役を好演。
この作品は、1810年にスコットランドで起こった実話が基になっている由。
当時、同性愛は罪深いこととされて忌み嫌われ、人々から悪魔の仕業のように恐れられていた。そのことが、セリフに込められたリアルな人間の姿からひしひしと伝わって
くる説得力のある芝居だった。「不自然」という語には、特殊な罪深いニュアンスがあるようだ。
発表された1934年の時点でも、二人の役を引き受ける俳優がなかなか見つからず、米国の多くの都市で、上演できなかったという。
映画化されたのは1961年だが、その時ですら困難を極めた由。
ただ、この戯曲は必ずしも同性愛に対する迫害を訴えるものではない。そんな単純な意図を持つ作品ではなく、もっと重層的な内容だ。
よく練られた戯曲と演出、そして俳優陣の熱演のおかげで、素晴らしいひと時を持つことができた。
1934年に発表されブロードウェイで大ヒットした後、オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンの共演で映画化された有名な作品。
今回、初めて芝居を見て、映画と原作とがだいぶ違うことが分かった。
アメリカ、マサチューセッツ州郊外。大学時代からの友人であるカレンとマーサは古い農家を改造した女子校を経営している。学校の経営は数年がかりで
ようやく軌道に乗り始めていた。カレンはこの学校の大きな後ろ盾となっているティルフォード夫人の甥・カーディンとの結婚も決まっていて、すべてが
順調にいっているように見えた。しかし、ティルフォード夫人の姪で、この学校の生徒でもあるメアリーの、ある一言によって、大人たちの運命の歯車は
狂い始めていく・・・(チラシより)。
寄宿学校とティルフォード夫人の屋敷が交互に舞台となる。
登場する大人たちは、ほとんどみな知的で良識ある人々であり、子供たちは素直で明るい。
ただそこに、一人大変な問題児がいる。ティルフォード夫人の姪メアリーだ。彼女は口から出まかせの噓をつく。何の苦もなく噓をつく。気の弱い同級生の弱みを
知ると、すかさずつけ込み、相手を支配下に置く。しかもこれといった動機がない!だから悪魔のようで、ぞっとする。
周りの人たちをめちゃめちゃ引っかき回す彼女を見ていて、アーサー・ミラーの「るつぼ」に登場する美少女アビゲイルを思い出した。
メアリーは噓をついた罰として外出を禁止される。彼女は反発して家に帰ろうとするが、バス代などがかかる。そこで同級生を脅して金を奪い取る。
ティルフォード夫人は姪を愛してはいるが、やはり良識ある人で、姪が学校を無断で出て来たと知ると、すぐに学校に連絡しようとする。
メアリーは学校に戻りたくないので必死になって次々と言い訳を言うが、うまくいかない。彼女は相手の顔色を伺いつつ、ついに、二人の先生の「秘密」について、
その場で思いついたことをどんどん言う。最後は夫人の耳元でささやく。ショックを受けた夫人は、ついに「もう戻らなくていいわ」と言い、迷った末、保護者たちに
電話する。それが自分の義務だと彼女は信じた・・・。
保護者たちは一斉に子供を自宅に連れ戻す。二人は裁判を起こすが負け、無人となった寄宿学校に何日も引きこもる。
カーディンが来て「家を売ったよ。ウィーンに行こう、三人で」「いつまでもここにいちゃいけないよ」と明るく言うが、彼が二人の関係に内心疑いを抱いていることを
知ったカレンは、彼と別れることを決意。彼は何度も食い下がるが、カレンは彼を強引に去らせる。
それを知ったマーサはショックを受け、自分の中のカレンに対する気持ちに初めて気づく。彼女はカレンに告白し、「私は汚らわしい・・」と言い残して別室で自殺する。
ティルフォード夫人が会いに来る。メアリーの噓がやっと発覚し、二人に謝罪しに来たのだった。
彼女は何とかして自分のしたことの埋め合わせをしようとする。カレンはカーディンと別れたこと、そしてマーサが自殺したことを話す。
夫人はカーディンとカレンが関係を修復できると希望を持っている。カレンもそれを否定しない。
カレンは夫人に、メアリーを手放した方がいい、と言うが、夫人は、それはできない、と答える。
とすると、これからメアリーはどうなるのか。
彼女のしたことは、ただの子供のいたずらなどではなく、実際にお金を奪い取ったのだから恐喝という立派な犯罪だ。現代なら少年院行きだろう。
このままにしておいたら、もっと大変なことになるのでは。
カレンはマーサの告白を聞いた時、ただ戸惑うだけ。もう少し特別な反応を示すべきでは?他のみんなが怪物を見るようになったのに対して、あまりに自然な感じがする。
映画との一番大きな違いは、夫人が謝罪に来るタイミング。
映画では夫人が来た時、二人はまだ健在だが、原作(この芝居が原作通りだと信じて)では、夫人はマーサの死後にやって来る。
そして、マーサの死という衝撃的な悲劇(学園崩壊よりさらに大きな悲劇だ)の直後だというのに、夫人とカレンは早くも和解する。
それがあまりに早過ぎるように思われる。マーサの自殺という重い出来事を、普通もっと引きずるのではないだろうか。
この点、映画の脚本は原作の弱いところを補って、実にうまく再構成していると思う。
役者では、ティルフォード夫人役の佐々木愛が、味わいある重厚な演技。
いつも知的な役をやる新井純がマーサの叔母で軽薄な女優・リリー・モーター役というのには少々戸惑った。何しろこのモーターという女性、人から陰で「おバカ」と
呼ばれているという損な役柄。だが新井純は、自分本位で身勝手なために、この悲劇のきっかけを作ってしまった女性をきっちり演じて見事。
メアリー役の原田琴音も憎まれ役を好演。
この作品は、1810年にスコットランドで起こった実話が基になっている由。
当時、同性愛は罪深いこととされて忌み嫌われ、人々から悪魔の仕業のように恐れられていた。そのことが、セリフに込められたリアルな人間の姿からひしひしと伝わって
くる説得力のある芝居だった。「不自然」という語には、特殊な罪深いニュアンスがあるようだ。
発表された1934年の時点でも、二人の役を引き受ける俳優がなかなか見つからず、米国の多くの都市で、上演できなかったという。
映画化されたのは1961年だが、その時ですら困難を極めた由。
ただ、この戯曲は必ずしも同性愛に対する迫害を訴えるものではない。そんな単純な意図を持つ作品ではなく、もっと重層的な内容だ。
よく練られた戯曲と演出、そして俳優陣の熱演のおかげで、素晴らしいひと時を持つことができた。
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