1月17日東京文化会館小ホールで、原裕子のヴィオラ演奏会を聴いた(東京文化会館「上野 de クラシック」シリーズ)。
ギターのジェイコブ・ケラーマンとの合奏という珍しい組み合わせ。
曲目は前半に近現代の曲、メインがシューベルトのアルペジオーネ・ソナタ。
曲と曲の間に彼女自身が解説してくれて、会場は温かい空気で満たされた。
彼女のことは、彼女が高校生の時から知って(目をつけて)いる。
マスタークラス(公開レッスン)で仲間たちとカルテットをやり、大御所の今井信子などの指導を受けていた。
当時も光っていたが、久々に聴いたこの夜の彼女は、素晴らしい成長ぶりを見せてくれた。
解説も親切丁寧かつ的確で、知性を感じさせる。声も快く、温かい人柄が伝わってくる。
シューベルトの名曲では、期待通り大いに楽しませてくれたし、評者にはあまり馴染みのなかった近現代曲でも、彼女が非常に優れた演奏家
であることはよく分かった。
陶然と聞き惚れているうちに、思った。
どうしてこんなにうまいんだろう。うまい人と下手な人の違いって一体何だろう。
それって、もしかしたら技術的なことじゃないんじゃないか。
昨年、都内某所で行われた某ヴィオラ奏者の演奏会に行った時、あまりの下手さに耐え難く、途中退席するという初めての経験をした。
ただ、その時は、その人の演奏の、どこがどうよくないのか、言葉にすることが難しかった。
それが、この日、原さんの演奏を聴いているうちに分かってきた。
楽譜というのは、ただ適当に、意味もなく書かれているのではない。
一つ一つの音の動きにはすべて「意味」があるのだ。
音の上がり下がりにも、その長さにも。
だから、音程とリズムさえ合っていれば、後は何も考えず、ただやみくもに弾けばいいというものではない。
あの時、大好きなバッハの名曲がズタズタにされ、まるで知らない曲のようだった。
一体どうすればそんなことになるのか、まったく不思議と言う他なく、あっけに取られた。
だって、音程は、特に悪いというほどではなかったから。
楽譜に書かれた音楽には、それ自体が持つ自然な流れ、息遣いがある。
演奏家がそれを、言わば本能的に感受して、その通りに表現してくれると、聴いている人も、自然に、音楽と同じ息遣いができて
身体が心地良いのだ(従って、当然脳も心地良くなる)。
その時、生理的とも言うべき快感が味わえる。
逆に、その曲が持っている本来の流れ、息遣いが無視される、あるいは軽視されると、音楽はただもう不快な、意味の分からない
ものになってしまう。それはもはや音楽とも言えないだろう。
つまり、重要なのはフレージングということだ。
音楽が人間のものである限り、それは我々の呼吸と密接に関わっているのだ。
そして、弦楽器であっても歌と同じく「語りかけ」であることを忘れてはいけない。
音程が正しいとか左手の指がよく動くとかは、もちろん大事だが、実はもっとずっと本質的なことがあるのだ。
この日は音楽の歓びを心ゆくまで味わうことができた上に、このように頭の中を整理できたことは、まったくもって有難い。
素晴らしい成長を遂げつつある原裕子さん。
まるで親戚の子供の成長を目を細めて見ているようで、我ながらおかしい。
知的で美しい彼女は自分の進むべき道を知っている。そしてそのために何をすべきかを知っている。全く頼もしい限りだ。
彼女の更なる飛躍を確信し、期待する者です。
ギターのジェイコブ・ケラーマンとの合奏という珍しい組み合わせ。
曲目は前半に近現代の曲、メインがシューベルトのアルペジオーネ・ソナタ。
曲と曲の間に彼女自身が解説してくれて、会場は温かい空気で満たされた。
彼女のことは、彼女が高校生の時から知って(目をつけて)いる。
マスタークラス(公開レッスン)で仲間たちとカルテットをやり、大御所の今井信子などの指導を受けていた。
当時も光っていたが、久々に聴いたこの夜の彼女は、素晴らしい成長ぶりを見せてくれた。
解説も親切丁寧かつ的確で、知性を感じさせる。声も快く、温かい人柄が伝わってくる。
シューベルトの名曲では、期待通り大いに楽しませてくれたし、評者にはあまり馴染みのなかった近現代曲でも、彼女が非常に優れた演奏家
であることはよく分かった。
陶然と聞き惚れているうちに、思った。
どうしてこんなにうまいんだろう。うまい人と下手な人の違いって一体何だろう。
それって、もしかしたら技術的なことじゃないんじゃないか。
昨年、都内某所で行われた某ヴィオラ奏者の演奏会に行った時、あまりの下手さに耐え難く、途中退席するという初めての経験をした。
ただ、その時は、その人の演奏の、どこがどうよくないのか、言葉にすることが難しかった。
それが、この日、原さんの演奏を聴いているうちに分かってきた。
楽譜というのは、ただ適当に、意味もなく書かれているのではない。
一つ一つの音の動きにはすべて「意味」があるのだ。
音の上がり下がりにも、その長さにも。
だから、音程とリズムさえ合っていれば、後は何も考えず、ただやみくもに弾けばいいというものではない。
あの時、大好きなバッハの名曲がズタズタにされ、まるで知らない曲のようだった。
一体どうすればそんなことになるのか、まったく不思議と言う他なく、あっけに取られた。
だって、音程は、特に悪いというほどではなかったから。
楽譜に書かれた音楽には、それ自体が持つ自然な流れ、息遣いがある。
演奏家がそれを、言わば本能的に感受して、その通りに表現してくれると、聴いている人も、自然に、音楽と同じ息遣いができて
身体が心地良いのだ(従って、当然脳も心地良くなる)。
その時、生理的とも言うべき快感が味わえる。
逆に、その曲が持っている本来の流れ、息遣いが無視される、あるいは軽視されると、音楽はただもう不快な、意味の分からない
ものになってしまう。それはもはや音楽とも言えないだろう。
つまり、重要なのはフレージングということだ。
音楽が人間のものである限り、それは我々の呼吸と密接に関わっているのだ。
そして、弦楽器であっても歌と同じく「語りかけ」であることを忘れてはいけない。
音程が正しいとか左手の指がよく動くとかは、もちろん大事だが、実はもっとずっと本質的なことがあるのだ。
この日は音楽の歓びを心ゆくまで味わうことができた上に、このように頭の中を整理できたことは、まったくもって有難い。
素晴らしい成長を遂げつつある原裕子さん。
まるで親戚の子供の成長を目を細めて見ているようで、我ながらおかしい。
知的で美しい彼女は自分の進むべき道を知っている。そしてそのために何をすべきかを知っている。全く頼もしい限りだ。
彼女の更なる飛躍を確信し、期待する者です。
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