12月10日紀伊國屋ホールで、R.カリノスキー作「月の獣」を見た(翻訳:浦辺千鶴、演出:栗山民也)。
1921年、写真家のアラム(真島秀和)は、自分と同じアルメニア人の少女セタ(岸井ゆきの)を、孤児院からの写真で選び、妻として迎え入れる。
二人共、トルコでのアルメニア人虐殺で家族を殺されアメリカに逃れて来た孤児だった。
15歳のセタは母の手作りの人形を始終抱きしめている。まだ迫害のトラウマで怯えているようだ。そんな彼女に早速夫婦関係を迫るアラム。
と言うのも、子供を持つことが今では彼の人生の目的になっていたのだ。彼は、失った家族を再構築しようと焦っている。
だがセタから見れば、そんな彼は、彼女の姉を強姦したトルコ人と同じだった・・・。
子を産むことを「俺たちの仕事」と言う彼だが、2年たってもセタは妊娠しない。苛立ち、しまいに悲嘆に暮れるアラム。
だがイタリア系の孤児の少年ヴィンセント(升水柚希)の登場で、二人の関係が変わっていく。
二人の生い立ちは正反対。
アラムの父も写真家だったが保守的で、結婚後1年間は妻に口をきくことを禁じていたという。食卓では家長として聖書を朗読。
アラムも当然それにならう。そしていちいち「これどういう意味?」と教師のようにセタに質問して答えさせる。
セタは賢くて自由な精神の持ち主。父は弁護士で母は教師。アラムと同じキリスト教徒だが、聖書に対する態度も違う。アラムは聖書を聖域として
絶対視し、その内容を批評したり笑ったりするなどとんでもないという、いわゆるファンダメンタルな硬直化した考えだが、彼女の方は対照的に、
明るく自由に感想を口にする。リベラルな両親に育てられたことが分かる。
ヴィンセントは利発な子で、アラムに対しても萎縮することなく自由に対等に話をするのが見ていて気持ちいい。
セタは次第にアメリカでの暮らしに慣れてくる。近所の女性にケーキの作り方を教わると、まもなく腕を上げ、しまいには買ってくれる人達が
出てきて、何個も焼いてお得意先に届けるようになる。
この頃になると、アラムが聖書から、例によって「婦人は静かに、従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は
許しません」(テモテ2章11節)などという箇所を朗読すると、それに対して聖書の別の箇所を挙げて反論するようになる。
彼女は何箇所も暗唱できるようだ。
アラムは少したじたじとなるが、「諍いを好む妻といるよりも、・・・」とやり返す。この応酬が面白い。
映画「野のユリ」(1963年米国)を思い出した。
アリゾナの荒れ地に修道院を建設しようとする女子修道院長と、気まぐれからそれを手伝うことにした流れ者の黒人青年シドニー・ポワチエとが、
互いに聖書を引用して相手を説得しようとするシーン。
この芝居は、三人が家族として結ばれる、静かな愛と希望を感じさせる場面で終わる。
三人共、辛い過去を背負って生きてきた。その彼らが、これからは家族として一緒に生きていくことを決めたのだ。
この作品は世界20か国以上で上演され、フランス演劇界で最も権威あるモリエール賞を受賞した由。
セタ役の岸井ゆきのは、冒頭のおどおどした15歳の少女から、落ち着いたしっかり者の主婦への成長ぶりが鮮明。別人かと見紛うほどで驚いた。
アラム役の真島秀和は、かつてイプセンの「海の夫人」で、麻美れい扮する夫人の元カレ役で強い印象を与えた人。
あの時は、まるで「さまよえるオランダ人」のようだった。背が高くて美しく、孤独で不幸そうで。
この人は端正な容貌もあり、(今回もそうだが)少し冷酷そうな、陰のある役が似合うのかも。
子役は往々にして難しいが、ヴィンセント役の升水柚希はのびのびと演じ、なかなかの好演。
年老いたヴィンセント役の久保酌吉が、幕のたび、暗転のたびに登場し、当時の社会情勢や二人の過去などを解説する。
その語り口は温かく、しみじみと観客の心に沁みる。
1921年、写真家のアラム(真島秀和)は、自分と同じアルメニア人の少女セタ(岸井ゆきの)を、孤児院からの写真で選び、妻として迎え入れる。
二人共、トルコでのアルメニア人虐殺で家族を殺されアメリカに逃れて来た孤児だった。
15歳のセタは母の手作りの人形を始終抱きしめている。まだ迫害のトラウマで怯えているようだ。そんな彼女に早速夫婦関係を迫るアラム。
と言うのも、子供を持つことが今では彼の人生の目的になっていたのだ。彼は、失った家族を再構築しようと焦っている。
だがセタから見れば、そんな彼は、彼女の姉を強姦したトルコ人と同じだった・・・。
子を産むことを「俺たちの仕事」と言う彼だが、2年たってもセタは妊娠しない。苛立ち、しまいに悲嘆に暮れるアラム。
だがイタリア系の孤児の少年ヴィンセント(升水柚希)の登場で、二人の関係が変わっていく。
二人の生い立ちは正反対。
アラムの父も写真家だったが保守的で、結婚後1年間は妻に口をきくことを禁じていたという。食卓では家長として聖書を朗読。
アラムも当然それにならう。そしていちいち「これどういう意味?」と教師のようにセタに質問して答えさせる。
セタは賢くて自由な精神の持ち主。父は弁護士で母は教師。アラムと同じキリスト教徒だが、聖書に対する態度も違う。アラムは聖書を聖域として
絶対視し、その内容を批評したり笑ったりするなどとんでもないという、いわゆるファンダメンタルな硬直化した考えだが、彼女の方は対照的に、
明るく自由に感想を口にする。リベラルな両親に育てられたことが分かる。
ヴィンセントは利発な子で、アラムに対しても萎縮することなく自由に対等に話をするのが見ていて気持ちいい。
セタは次第にアメリカでの暮らしに慣れてくる。近所の女性にケーキの作り方を教わると、まもなく腕を上げ、しまいには買ってくれる人達が
出てきて、何個も焼いてお得意先に届けるようになる。
この頃になると、アラムが聖書から、例によって「婦人は静かに、従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は
許しません」(テモテ2章11節)などという箇所を朗読すると、それに対して聖書の別の箇所を挙げて反論するようになる。
彼女は何箇所も暗唱できるようだ。
アラムは少したじたじとなるが、「諍いを好む妻といるよりも、・・・」とやり返す。この応酬が面白い。
映画「野のユリ」(1963年米国)を思い出した。
アリゾナの荒れ地に修道院を建設しようとする女子修道院長と、気まぐれからそれを手伝うことにした流れ者の黒人青年シドニー・ポワチエとが、
互いに聖書を引用して相手を説得しようとするシーン。
この芝居は、三人が家族として結ばれる、静かな愛と希望を感じさせる場面で終わる。
三人共、辛い過去を背負って生きてきた。その彼らが、これからは家族として一緒に生きていくことを決めたのだ。
この作品は世界20か国以上で上演され、フランス演劇界で最も権威あるモリエール賞を受賞した由。
セタ役の岸井ゆきのは、冒頭のおどおどした15歳の少女から、落ち着いたしっかり者の主婦への成長ぶりが鮮明。別人かと見紛うほどで驚いた。
アラム役の真島秀和は、かつてイプセンの「海の夫人」で、麻美れい扮する夫人の元カレ役で強い印象を与えた人。
あの時は、まるで「さまよえるオランダ人」のようだった。背が高くて美しく、孤独で不幸そうで。
この人は端正な容貌もあり、(今回もそうだが)少し冷酷そうな、陰のある役が似合うのかも。
子役は往々にして難しいが、ヴィンセント役の升水柚希はのびのびと演じ、なかなかの好演。
年老いたヴィンセント役の久保酌吉が、幕のたび、暗転のたびに登場し、当時の社会情勢や二人の過去などを解説する。
その語り口は温かく、しみじみと観客の心に沁みる。
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