<吉田健一のオセロー論 続き>
前回紹介したように、吉田健一はこの戯曲に流れる二重の時間に注目している。
オセローは妻デスデモーナが他の男と何度も浮気をしたと、部下イアゴーによって信じ込まされ苦悶するが、実際には、彼女が浮気をする暇などまったくなかった。
にもかかわらず、我々観客は違和感を覚えることなく、物語の迫力に圧倒され、舞台から目が離せなくなる。
それは作者シェイクスピアの巧妙なトリックによるものだと指摘している。
そして、イアゴー。
吉田は彼のことを、稀代の悪党という伝統的な解釈とはまったく違った風にとらえる。
合理主義者だが、性格に深みがなく、悪人と言えるほどの人物ではなく、間の抜けたところがある、とさえ言うのが面白い。
今回も引き続き、彼の文章を引用(抜粋)していきます。
①オセロの性格
なぜオセロはイアゴの巧みな言動に屈するのだろうか。
彼はイアゴの論理に対して、それを覆すに足るだけの言葉を見つけることができない。
彼は生え抜きの武人であって、自分の妻について本能的に知っていることを自分自身に説明しようとしても、「女」とか「愛」という、
一般的な概念しか頭にない・・。
男であり軍人であることを自分の本領と考え、女を愛することを一種の「惑溺」と見ている点で、彼はイアゴの域を出ていない。
イアゴはいつでもそこを衝けたのである。・・
彼はデスデモナを愛することに自分のどれだけが賭けられているかを、まだはっきりとは認識していない。
もしイアゴに事情がわかっていたならば、デスデモーナに対するオセロの信用を揺るがせるのに、かくまで中傷の秘術を尽くす必要はないことも
彼は見抜いたはずである。そしてまた、もし事情がわかっていたならば、彼は自分が計画したことの結果として起こるべきことを予感して、
そのような行動を取るのに二の足を踏んだに違いない。
それができないのは、女を疑うというのは彼の持ち前の性分であっても、女を信じるなどということは、彼には思いもよらないことだからである。
その意味で彼は滑稽であり、そこに彼の役が喜劇役者によって演じられていい所以も認められる。・・・
オセロは彼を糾明して、一挙に自分の悩みに解決をつけようとする。
イアゴも必死である。それはすでに補佐官に昇格するかしないかの話ではなくて、返事を一つ誤れば、自分の生命が危いことを彼は感じている。
・・この場面を美しくしているものは、オセロがここでようやく到達しようとしている自覚、彼が失ったものに対する諦念、またその愛惜である。
彼はイアゴを憎悪して言う。
あれが人の目を盗んで愛欲の時を過ごしていたのを俺は感じたか?
俺は見なかった、考えもしなかった、傷つきもしなかった、
次の晩もよく眠った、よく食った、のびのびと愉快だった。
あれの唇にキャシオーのキスの跡など見当たらなかった。
盗まれても、盗まれたものが無くなっていなければ、
持ち主には知らせるな、そうすれば何ひとつ盗まれたことにはならない。
・・
俺はどんなに幸せだっただろう、たとえ全軍の兵士が、・・・
あの美しい体を味わったとしても、
それを知らずにいたならば。ああ、もう永遠に
さらばだ、心の静けさ、さらば、満ち足りた思い!
さらばだ、羽根飾りと甲冑に身を固めた軍隊、
野望が美徳となる大いなる戦争!おお、さらば、
さらば、いななく駿馬、鋭く響き渡るラッパ、
士気を鼓舞する軍鼓のとどろき、耳をつんざく笛の音、
堂々たる軍旗、栄光の戦場にそなわるすべてのもの、
誇りと誉れ、威儀を正した行進や儀式!
そして、ああ、必殺の大砲よ、お前の荒々しい雄たけびは
不滅の雷神ジュピターの怒号をもしのいだ。
さらば、オセローのこの世の務めは終わった! (ここは松岡和子訳にしました)
一つの世界が崩れてゆく。その世界は一人の男のものではあるが、それが瓦解するさまが壮麗であることに変わりはない。・・・
②デスデモーナ
デスデモナもオセロに対する信頼に生きている。この信頼は、最後の殺しの場面まで脅かされずにいる。
彼女は、オセロが自分を殺しに来るまで、自分が彼に疑われているとは思わない。
デスデモナが落としたハンケチは、オセロが彼女に与えた最初の贈り物であるだけに、デスデモナを疑わせるための有力な証拠の一つとなる。
彼女の召使いでありイアゴの妻であるエミリアは、夫にしつこく頼まれてそれを盗む。
その後エミリアがデスデモナに対して、ハンケチがなくなったのをオセロが怪しみはしないだろうか、と言うと、デスデモーナは
あの方がお育ちになった土地の烈しい太陽の熱が、
そんな気紛れを皆あの方から吸い出してしまったらしいの。
と答える。
この信頼と自恃は、オセロの狂乱と同じく美しい。
それは、オセロの狂乱と対照をなすばかりでなくて、この作品になくてはならない劇的な要素の一つとなっている。
もしデスデモナがオセロを完全に信じていなかったならば、オセロにも彼女に対する疑いを晴らす余地が残されたに違いない。
疑う者にとっては、静謐な自恃は破廉恥にも見える。
涙は悔恨の涙を装うのでなければ、怒りを解くには至らない。
そしてその点、デスデモナの純真はオセロの狂乱にとって、したがってまた劇の進展にとっても不可欠のものなのであって、
デスデモナが純真に振舞えば振舞うほど、オセロの疑惑と混乱は深められてゆく。
オセロは詰問を通り越して、ただ彼女を「売女」と言って罵るほかない。
しかしその後でさえも、彼女はイアゴとエミリアを前にして、
・・小さな子にものを教える時は、
優しく、分かりやすく言ってやるものなのに、
なぜ私をそういう風に𠮟って下さらないのかしら。だって
私はまだ𠮟られたことがない子供なんですもの。
と言う。
この二人の対置はほとんど化学的でさえあって、一定の条件の下では共に平穏にあるべき各自の性質が、イアゴの奸計という装置を転機として
一つの悲劇となって燃焼することを不可避にしている。
オセロは錯乱している。彼はすでに彼自身ではなくなった・・彼は自分の生命を賭けてデスデモナを信じていた。と言うことは、
彼は一つの虚偽を信じていたことになり・・是正されることを必要とする。
こうして彼は妻を殺すが、それでこの悲劇は終わっていない。
と言うよりも、この作品はオセロの悲劇が救われるところで終わっている。
その速度は、そこに達するまで緩められない。
オセロは妻を殺した直後にすべてがイアゴの奸計によるものだったことを知って、少なくとも彼をこの悲劇的な結果に導いたものが
虚偽ではなかったことを確認させられる。とどろき渡る太鼓は、・・その記憶は汚れた幻想ではなかった。
イアゴのことを知らされるまでの彼の狂乱に引き換えて、剣を抜いて自分の胸に突き刺す時の彼の落ち着いた態度は、
彼が後悔よりも、この満足を覚えて安らかであることを示す。
それは、イアゴが彼の前に引き出された時の彼の台詞にも感じられる。
この男の足がどんな恰好をしているか見てくれーーーいや、あれは迷信だった。
この男が悪魔ならば、私には殺すことができない。
イアゴが悪魔であって、迷信に伝えられているように、足のところが蹄になっていても、或いはいなくても、
オセロにはもうどうでもいいのである。
カタルシスとは何であるか・・古典劇の要素の典型的な場合を我々はこの作品に求めることができる。
これこそ認識であり、浄化であると言える。
このように吉田健一のオセロー論は実に味わい深い。
<RSCのカーテンコール>
かつて英国のRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)がこれを上演した時、カーテンコールで出演者たちが踊り出したことがある。
みな笑顔で幸せそうだった。
ついさっき、舞台上で、主役の男が最愛の新妻を殺して後追い自殺したばかり。
これ以上ない悲劇のはずなのに、そこに違和感はなかった。
なぜか。
最後にオセローは知ったのだ。
妻が自分を裏切ってはいなかったと。
デスデモーナはオセローを愛していた。彼だけを愛していた。
オセローは最後にそのことを知った。
その時彼は、この世の秩序が回復されたことを感じ、世界と和解したのである。
彼が喪失したと思い詰めた世界は回復した。
以前と変わらぬ意味ある世界が、そこにはあった。
彼は自分の誤解と早まった行いを嘆き悲しみつつも、納得して彼女の後を追ったのだ。
「そこに幸いがある」とロレンス神父(「ロミオとジュリエット」3幕3場)のセリフが口をついて出る。
決してヤン・コットが言うように、彼は絶望して死んだのではない。
この芝居のラストには和解が、彼と世界との和解があり、舞台にはもう一度明るい光が差し込んでいる。
だから観客の私たちも、老グロスターのように「喜びと悲しみに引き裂かれ」る思いで(「リア王」5幕3場)涙を流すことができるのだ。
前回紹介したように、吉田健一はこの戯曲に流れる二重の時間に注目している。
オセローは妻デスデモーナが他の男と何度も浮気をしたと、部下イアゴーによって信じ込まされ苦悶するが、実際には、彼女が浮気をする暇などまったくなかった。
にもかかわらず、我々観客は違和感を覚えることなく、物語の迫力に圧倒され、舞台から目が離せなくなる。
それは作者シェイクスピアの巧妙なトリックによるものだと指摘している。
そして、イアゴー。
吉田は彼のことを、稀代の悪党という伝統的な解釈とはまったく違った風にとらえる。
合理主義者だが、性格に深みがなく、悪人と言えるほどの人物ではなく、間の抜けたところがある、とさえ言うのが面白い。
今回も引き続き、彼の文章を引用(抜粋)していきます。
①オセロの性格
なぜオセロはイアゴの巧みな言動に屈するのだろうか。
彼はイアゴの論理に対して、それを覆すに足るだけの言葉を見つけることができない。
彼は生え抜きの武人であって、自分の妻について本能的に知っていることを自分自身に説明しようとしても、「女」とか「愛」という、
一般的な概念しか頭にない・・。
男であり軍人であることを自分の本領と考え、女を愛することを一種の「惑溺」と見ている点で、彼はイアゴの域を出ていない。
イアゴはいつでもそこを衝けたのである。・・
彼はデスデモナを愛することに自分のどれだけが賭けられているかを、まだはっきりとは認識していない。
もしイアゴに事情がわかっていたならば、デスデモーナに対するオセロの信用を揺るがせるのに、かくまで中傷の秘術を尽くす必要はないことも
彼は見抜いたはずである。そしてまた、もし事情がわかっていたならば、彼は自分が計画したことの結果として起こるべきことを予感して、
そのような行動を取るのに二の足を踏んだに違いない。
それができないのは、女を疑うというのは彼の持ち前の性分であっても、女を信じるなどということは、彼には思いもよらないことだからである。
その意味で彼は滑稽であり、そこに彼の役が喜劇役者によって演じられていい所以も認められる。・・・
オセロは彼を糾明して、一挙に自分の悩みに解決をつけようとする。
イアゴも必死である。それはすでに補佐官に昇格するかしないかの話ではなくて、返事を一つ誤れば、自分の生命が危いことを彼は感じている。
・・この場面を美しくしているものは、オセロがここでようやく到達しようとしている自覚、彼が失ったものに対する諦念、またその愛惜である。
彼はイアゴを憎悪して言う。
あれが人の目を盗んで愛欲の時を過ごしていたのを俺は感じたか?
俺は見なかった、考えもしなかった、傷つきもしなかった、
次の晩もよく眠った、よく食った、のびのびと愉快だった。
あれの唇にキャシオーのキスの跡など見当たらなかった。
盗まれても、盗まれたものが無くなっていなければ、
持ち主には知らせるな、そうすれば何ひとつ盗まれたことにはならない。
・・
俺はどんなに幸せだっただろう、たとえ全軍の兵士が、・・・
あの美しい体を味わったとしても、
それを知らずにいたならば。ああ、もう永遠に
さらばだ、心の静けさ、さらば、満ち足りた思い!
さらばだ、羽根飾りと甲冑に身を固めた軍隊、
野望が美徳となる大いなる戦争!おお、さらば、
さらば、いななく駿馬、鋭く響き渡るラッパ、
士気を鼓舞する軍鼓のとどろき、耳をつんざく笛の音、
堂々たる軍旗、栄光の戦場にそなわるすべてのもの、
誇りと誉れ、威儀を正した行進や儀式!
そして、ああ、必殺の大砲よ、お前の荒々しい雄たけびは
不滅の雷神ジュピターの怒号をもしのいだ。
さらば、オセローのこの世の務めは終わった! (ここは松岡和子訳にしました)
一つの世界が崩れてゆく。その世界は一人の男のものではあるが、それが瓦解するさまが壮麗であることに変わりはない。・・・
②デスデモーナ
デスデモナもオセロに対する信頼に生きている。この信頼は、最後の殺しの場面まで脅かされずにいる。
彼女は、オセロが自分を殺しに来るまで、自分が彼に疑われているとは思わない。
デスデモナが落としたハンケチは、オセロが彼女に与えた最初の贈り物であるだけに、デスデモナを疑わせるための有力な証拠の一つとなる。
彼女の召使いでありイアゴの妻であるエミリアは、夫にしつこく頼まれてそれを盗む。
その後エミリアがデスデモナに対して、ハンケチがなくなったのをオセロが怪しみはしないだろうか、と言うと、デスデモーナは
あの方がお育ちになった土地の烈しい太陽の熱が、
そんな気紛れを皆あの方から吸い出してしまったらしいの。
と答える。
この信頼と自恃は、オセロの狂乱と同じく美しい。
それは、オセロの狂乱と対照をなすばかりでなくて、この作品になくてはならない劇的な要素の一つとなっている。
もしデスデモナがオセロを完全に信じていなかったならば、オセロにも彼女に対する疑いを晴らす余地が残されたに違いない。
疑う者にとっては、静謐な自恃は破廉恥にも見える。
涙は悔恨の涙を装うのでなければ、怒りを解くには至らない。
そしてその点、デスデモナの純真はオセロの狂乱にとって、したがってまた劇の進展にとっても不可欠のものなのであって、
デスデモナが純真に振舞えば振舞うほど、オセロの疑惑と混乱は深められてゆく。
オセロは詰問を通り越して、ただ彼女を「売女」と言って罵るほかない。
しかしその後でさえも、彼女はイアゴとエミリアを前にして、
・・小さな子にものを教える時は、
優しく、分かりやすく言ってやるものなのに、
なぜ私をそういう風に𠮟って下さらないのかしら。だって
私はまだ𠮟られたことがない子供なんですもの。
と言う。
この二人の対置はほとんど化学的でさえあって、一定の条件の下では共に平穏にあるべき各自の性質が、イアゴの奸計という装置を転機として
一つの悲劇となって燃焼することを不可避にしている。
オセロは錯乱している。彼はすでに彼自身ではなくなった・・彼は自分の生命を賭けてデスデモナを信じていた。と言うことは、
彼は一つの虚偽を信じていたことになり・・是正されることを必要とする。
こうして彼は妻を殺すが、それでこの悲劇は終わっていない。
と言うよりも、この作品はオセロの悲劇が救われるところで終わっている。
その速度は、そこに達するまで緩められない。
オセロは妻を殺した直後にすべてがイアゴの奸計によるものだったことを知って、少なくとも彼をこの悲劇的な結果に導いたものが
虚偽ではなかったことを確認させられる。とどろき渡る太鼓は、・・その記憶は汚れた幻想ではなかった。
イアゴのことを知らされるまでの彼の狂乱に引き換えて、剣を抜いて自分の胸に突き刺す時の彼の落ち着いた態度は、
彼が後悔よりも、この満足を覚えて安らかであることを示す。
それは、イアゴが彼の前に引き出された時の彼の台詞にも感じられる。
この男の足がどんな恰好をしているか見てくれーーーいや、あれは迷信だった。
この男が悪魔ならば、私には殺すことができない。
イアゴが悪魔であって、迷信に伝えられているように、足のところが蹄になっていても、或いはいなくても、
オセロにはもうどうでもいいのである。
カタルシスとは何であるか・・古典劇の要素の典型的な場合を我々はこの作品に求めることができる。
これこそ認識であり、浄化であると言える。
このように吉田健一のオセロー論は実に味わい深い。
<RSCのカーテンコール>
かつて英国のRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)がこれを上演した時、カーテンコールで出演者たちが踊り出したことがある。
みな笑顔で幸せそうだった。
ついさっき、舞台上で、主役の男が最愛の新妻を殺して後追い自殺したばかり。
これ以上ない悲劇のはずなのに、そこに違和感はなかった。
なぜか。
最後にオセローは知ったのだ。
妻が自分を裏切ってはいなかったと。
デスデモーナはオセローを愛していた。彼だけを愛していた。
オセローは最後にそのことを知った。
その時彼は、この世の秩序が回復されたことを感じ、世界と和解したのである。
彼が喪失したと思い詰めた世界は回復した。
以前と変わらぬ意味ある世界が、そこにはあった。
彼は自分の誤解と早まった行いを嘆き悲しみつつも、納得して彼女の後を追ったのだ。
「そこに幸いがある」とロレンス神父(「ロミオとジュリエット」3幕3場)のセリフが口をついて出る。
決してヤン・コットが言うように、彼は絶望して死んだのではない。
この芝居のラストには和解が、彼と世界との和解があり、舞台にはもう一度明るい光が差し込んでいる。
だから観客の私たちも、老グロスターのように「喜びと悲しみに引き裂かれ」る思いで(「リア王」5幕3場)涙を流すことができるのだ。
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