「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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私とエレクトーンとの出合い

2020年07月28日 11時05分25秒 | 日常のこと&写真
 もうずいぶん古い話となる。
 大学時代グリークラブ(男性合唱)に所属し、それまでテニスや登山などにうつつを抜かしていが一転して文科系クラブへ転身。
 当時はグリークラブ全盛期でどこの大学でも盛んに活動していた。関東圏では早稲田大学が横綱、関西圏では関西学院大学が横綱で,全国大学グリークラブコンクールでは両横綱の激戦,人気を二分していたが、関西学院大学が勝っていた。そして関東では慶応大学、上智大学、横浜国立大学、関東学院大学等がそれに続きしのぎを削っていた時代。
 そのグリークラブ時代の2学年のときの定期演奏会で、グリークラブの大先輩でヤマハ楽器に勤めていて電子オルガン(エレクトーン)の開発プロジェクトメンバーだったS氏が、ヤマハ音楽教室などで使用する初代D-1の改良機種を広めるためのデモストレーションとして定期演奏会ステージで演奏させてくれと働きかけられ、大先輩であることから休憩をはさむ20分間、デモ演奏を行った。下手で控えていた私(ステージ担当)は先輩の不思議で魅惑的な旋律に圧倒され魅了された。その時、「自分に子供ができたらエレクトーンをさせる」と深く心に刻み込んだ。
 それがエレクトーンとの出合いで、時が経て結婚をし転勤を重ねるうちに長女が秋田県勤務中に生まれ、3歳7か月くらいだったかな,玩具のピアノを与えてあげると気に入り夢中になっていた。この時、「三つ子の魂百までも」とばかり、大学時代の思いが蘇りエレクトーンを購入(ステージモデルEX-42と記憶しているが?)。妻はピアノを勧めだが、私は頑として譲らなかった。というのもエレクトーンへの思い入れと、多くの家庭で子供にピアノを習わせるのことが多かったが、ほとんどの子はつまらなくなり飽きてしまう。そしてピアノは埃をかぶり大型ごみ化。私が下宿していた娘さんも同様で埃をかぶっていた。 
 その狙いは的中。娘は夢中になり大げさにいえば朝から晩まで弾いていた。その時「プロの演奏家にさせる」が私の夢となった。
 娘はその思いを受けてかめきめきと上達し、親ばかな私は「天才」と思うほどに(実際はそうではなかったが)。しかしやり過ぎたのか一時飽きてしまいプッツリ弾かなくなり教室にも行かなくなった。それから1年余り過ぎたころ「また習いに行ってもいい?」と言い出し、無論、聞き入れた。そして演奏家への道としてピアノも並行させた。娘もこれで身を立てると思い始めエレクトーンもピアノも熱心に取り組んでくれた。
 新婚時代からブライダルとステージをこなしていたが、子供が生まれてからもエレクトーンに没頭していたのをとがめられ夫のパワハラが続き、それに耐え切れず幼い3人の子を抱えて離婚、ブライダルとステージだけでは生計が成り立たず、私宅を改造し音楽教室を開設した。
 ヤマハの支援もありお陰様で多くの生徒をかかえ暮らしも立つようになった。
 半世紀も前に出合ったエレクトーン、その夢を娘は実現してくれた。
 ブロ友のすずさんがエレクトーンを奏でているとき、何もかも忘れることができるとお話されていたが、娘もそのようなことを言っていたことを思い出す。特にパワハラを受けて暮らしているときエレクトーンが救いだったという。離婚したのは子供たちのためだった。 親はそんなこんなで悠々自適な暮らしが未だに出来ない。親は誰でもそうなんだろうと。


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