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音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

先日NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が完結した、意外と出演者の衣装が何故か自然に感じた、再度実物大の光秀を考察する。

2021年02月09日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

昨年の暮れ近くに自宅の壁面の塗替工事をした、以前は玄関前は鉢植え等を置いていたが、工事後は何も置かずに日本家屋の玄関先をと、よりシンプルに見せるよう心がけている。すでに築後30年以上にもなるが、日本家屋の良さは月日が流れてもあまり変わらない表情をする感じは好みでもある。むしろ少し年月が流れた建物が味わいが出てくる様に見える感じもするが・・・。

建てた当時は客間8帖を茶室に見立て、壁は勿論塗り壁(漆喰)だが京壁は余り雰囲気に合わず、普通の(漆喰)鶯色に注文し、勿論廊下には水屋も設置し、部屋は書院作りにし天井も船底天井で茶釜を吊るす自在釘も装備し武家風のお抹茶の席も開催出来たが、10年前から義母と同居のためバリヤフリーに改装した。

昔からNHKの大河ドラマは好きで良く見ているが、武漢ウイルスの影響もあり、途中休み、先日「麒麟がくる」も最終回と相成った。
先日ネット上で2020年度【戦国時代の大名】人気ランキングTOP、10!が発表され以外にもTOP、10の中に明智光秀の名前も見つけた。
 第10位:毛利元就
 第9位  :徳川家康
 第8位  :黒田孝高
 第7位  :明智光秀


 
 第6位  :石田三成
 第5位  :真田昌幸
 第4位  :武田信玄
 第3位  :伊達政宗
 第2位  :織田信長
 第1位  :上杉謙信
となっていて、以外に思うは武将より智将が多く選ばれ改めて驚く次第であった。

歴史好きの爺さんが見た、遅咲きの武将「明智(十兵衛)光秀」とは、どの様な人物であったのか?一般的に武士としては大変不名誉な「逆臣」という烙印を押される「本能寺の変」を行った。歳は67歳説と55歳説があるが未だ不明な所が多く、光秀自身の生い立ちも不明な部分が多い事も事実のようだが、光秀の魅力ついて調べてみると大変教養もあり武士らしい武士であるように感ずるのは何故か?何故か思うは信長の兄貴といった様にも感じるが・・・・

光秀が家臣に言った文章の中に「瓦礫沈淪」と言う言葉が残る、よほど信長を信頼していたのであろう。

弱肉強食の戦国時代の時代背景が現実の時代に何か日本人としての、人としての大切さを守ろうとしたのかもと思える、美しい日本人らしい光秀の生きる形は共感が感じられる、信長と違う足利幕府時代の教養を持った武士像が見えてくるのは何故か。但し信長登場し一番の変化は戦闘方法にある、特に種子島の登場により「長篠の戦い」以降からの戦いは戦死者の数は10倍以上に増え、現在で言えば原子爆弾の投下で更に戦死者は膨大に増えた。



明智光秀、誕生不詳―1582年。素性も大変よく清和源氏の土岐氏支流である明智氏の長男として生まれる。織田信長に抜擢され、比叡山焼き討ちや丹波平定などの武功をあげる。本能寺の変で、信長・信忠親子を討つが、弔い合戦を掲げる豊臣秀吉との山﨑の戦いで敗北。落ち武者狩りで深手を負い自刃する。
筆者が思う一番不思議な点は、信長討取り後の行動の記載もなく、光秀らしくない行動が納得出来ない事は今も不思議である。

まず(「十兵衛」じゅうべえ)とは何か書かせていただきます。明智光秀の大河ドラマで、光秀は十兵衛(じゅうべえ)と呼ばれています。十兵衛は、光秀の通称です。それでは、明智光秀は何かというと、明智は名字、光秀は諱(いみな)(実名)です。諱の光秀は現在では馴染みのある名前ですが、諱は死者に贈る名前であるとして、光秀が存命当時、通常は通称の「十兵衛」の名前で呼ばれていました。(親や主君であれば諱で呼ぶことはあったそうです。)
戦国武将は、沢山の名前があってややこしいですね。光秀の場合も同様で、元服するまでは幼名の彦太郎(ひこたろう)でした。
天正3年に朝廷より「惟任」(これとう)と「日向守」(ひゅうがのかみ)という官位を賜ってからは、光秀の正式な名乗りは、惟任日向守光秀になります。
光秀はこの肩書から、「惟任」(これとう)殿とも呼ばれていたようです。

筆者が思う光秀像はこの「本能寺の変」事件の頃は一般的にはすでに隠居する歳になっていて、出世が遅すぎた事実でもあろう、此のあたりの正確な年齢不明で多分還暦近い年齢と想像する実に世にでることが遅かったようである。
正に遅咲きの武将で尚且との武将との違いは学識も高く、朝廷との関わり合いも如才なく取り仕切るさまは、他の武将では真似できない雅感があり、信長にも重宝された面かもしれない、行動は実に雅でもあったようです。


筆者が思うに、謀反は諸説色々理由もあるが単純に弟、信長への兄の戒めと思える行為と考えれば何かと辻褄があって来ることが理解出来るように思う。この考え方は信長から考える実の兄弟仲はさほど良くなく、むしろ光秀を自身の兄貴と思いを抱いたとは思えないだろうか?

一見光秀の性格は穏やかで、素性も良く勿論能力も高く一般教養があり、皇室関係(足軽頭)との付き合いもあり、其れなりに信用出来た人物と理解したように思える、正に利害関係は一致したのである。光秀自身従兄弟の道三の娘、濃姫には淡い恋心も抱いていた関係もあるようであり、信長を出世させようと心が動いたのかも知れない。信長の先祖はお寺と言われ、光秀とは位が違ったようです。
信長と同じ家来であっても、光秀と秀吉の扱いは特別の変化があったのだろうと想像できる。この辺り秀吉は良い気ではいなかった様に思う。

ここで一番面白い説は、信長、光秀とも実は生きて、海外で生き延びた説には夢があるが、最後は地動説を説いて処刑された説もあると聞く。

又今回の秀吉の描き方は筆者の思い描く秀吉ではなく、一般に秀吉について、「明るくて愛嬌(あいきょう)があって人懐っこくて、一般庶民と身近なイメージがあったりしますが、今回は明智光秀(長谷川さん)が主人公ですので、また 違った見え方になるかと思いますが、今回の「藤吉郎は出世欲が強くがむしゃらです」という印象を抱いており、『字が読めなければ出世ができない。教えてくれ』と頼み込みます。とにかく今の貧しさから抜け出そう、這(は)い出そうと、ひたむきです」と評している。

秀吉の裏側が大変良く描かれて関心する次第であるが、秀吉の本心が全面に出て、陰謀家として又百姓上がりの金儲け主義の人となりが見事に描けれていることも新しい試みで、武士出身の家康等との違いになにか今の政治の世界と似通った思いを感じた。今回の秀吉役は秀吉の裏の顔が出過ぎで、全くミスキャストに思える。従来「人たらし顔の秀吉」の顔が欲しかったと思うは私だけか?このキャストによると皆に嫌われ悪人の猿にしか見えない・・・のは何故か?

勿論日本の総理も誰もがある程度納得出来る人物でありたい日本の品格の問題である、今更言うことでは無いが日本が男女平等(日本人の考える男女平等とは、男性は男子らしい仕事を、女性は女子らしい仕事と区分していた)とか人種差別と植民地問題で日本は戦前このために戦争を行い、戦ったことは誰もが知っていることです。その後植民地から解放された国は多い、又逆に朝鮮等はロシア、支那から逃げるために日本に統治を頼みに来た。
班の国、大韓民国は盛んに反日と叫び不買運動をする国もあり戦後間違った歴史教育を行い竹島も勝手に自国に替えた情けない国も含め様々である。



最後に細川家との関係も公開されているが、今も残り光秀からの催促状の前の書状は残って無く、光秀の本心はやはり闇の中であり、本能寺の変の後細川幽斎と坊主になり改連歌の会を催し、光秀との関係を紛らわすのだ、
幽斎独自の文化的解決法にてその場を凌ぐ、狸坊主の幽斎が光秀同様の文化的生き残りの見本かもしれない。当時の武人は多いが教養人は少ない感じがこの事で解明出来るようです。

これも面白いエピソードではあるが、天正10(1582)年5月27日、光秀は戦勝祈願のため、亀山城から愛宕山山頂の愛宕神社を目指します。神社には西国遠征の戦勝を祈願するための参拝であると伝えていたようですが、山頂からは信長の宿所である本能寺がよく見えていたはずです。光秀公はここで、戦の結果を占う神社のくじを2度、3度引いたといい、心中の葛藤が感じられます。光秀といえば、武将としてはもっとも不名誉な、「逆臣」という烙印を押されてきた人物であるから、驚いた読者諸賢も少なくなかったのではなかろうか。

これまで大河ドラマに登場する光秀は、記憶の範囲内ではあるが、線が細く本能寺の変に至る過程で精神的に追い込まれてゆくように描かれることが多かった。これに対して、秀吉は一生を通じて豪放磊落に描かれてきたのではなかろうか。二人の関係は、一代の逆臣と英雄として、まさに陰と陽というように、対照的に理解されてきたのである。



『明智光秀伝―本能寺の変に至る派閥力学』では、そのような評価を根底から疑った。教科書的な通説では、元亀4年(1576)7月の槇島城合戦における将軍足利 義昭の敗退を室町幕府崩壊の瞬間とみて、その後の信長包囲網の中枢にあった義昭には、まったく関心がない。改元した天正元年から本能寺の変の勃発する天正10年6月までを、義昭を追放した天下人信長の時代とするのである。

封建時代の政治史研究の基本は、武家の棟梁たる将軍を中心に描くことにある。通説によると、義昭の兄である13代将軍義輝まではその原則は維持されているが、その後は信長へとブレてしまうのである。多くの同時代人からは、あくまでも正統は亡命中の現職将軍の義昭であって、信長こそ将軍を利用した逆臣であるとみられていた、と筆者は判断している。戦国時代の将軍の亡命は、常態であり珍しくなかったからである。

天下統一を目指していた織田信長を家臣だった明智光秀が討つ、日本の歴史上の最大の謀反として語り継がれている「本能寺の変」、未だ多くの謎が残されているとされる歴史は、今後どのように描かれるのか。
天正11年の賤ケ岳の戦いでは、織田信雄(信長次男)を使って信孝を尾張大御堂寺(愛知県美浜町)で自刃させ、翌天正12年の小牧・長久手の戦いにおいては、織田家の家督となった信雄を集中攻撃して降伏させた。さらに天正18年の北条氏攻撃の後、織田家の本国尾張からの国替を拒否した信雄を改易している。



このように、恩義ある主家を一貫して否定したのである。織田家以外なら、出自が低かった秀吉を軽輩から城持ち重臣にまで取り立てたりはしなかっただろう。信長のみは、秀吉の非凡さを見抜き、周囲からの批判を抑えて活躍の場を次々と与えたのである。このことは、かつて今川家への仕官に失敗した秀吉には、痛いほどわかっていたはずだ。

ところが、そののち現代に至るまで、秀吉が逆臣と誹られることはなかった。徹底的に追い詰められた光秀は、旧主義昭を奉じて信長を討った。幕臣らからすれば、光秀こそ逆臣を討滅し伝統国家の存続に命を捧げた英雄だった。それに対して、どのような見方をしても、主家をないがしろにし続けた秀吉こそ、稀代の逆臣といわねばなるまい。

光秀と秀吉との違いは、一体何だろうか。それは、唯一、天下人となったか否かのみである。巷間の評価とは、かくも虚しいものなのである。
光秀の構想に天下はあまり考え無く、幕府中心の平和を夢見たようであろう。と思えば光秀らしい考えと思う。



信長的世界の完成を、光秀は望まなかったという下りから・・・
此処から注目は心理分析を脳科学者中野信子が、戦国武将光秀を脳科学分析した何故謀反を起こしたかの解析の記事が面白いので引用させて頂いた。
注目資料は、光秀肉筆の書簡(記録)のようでした。意外と部下思いである。光秀の最大の欠点は高学歴出来男であった事が原因かもしれず歴史も此のような解析を試みることは面白い。

新奇探索性という性格類型があります。英語ではnovelty seeking。危険を顧みず、新しくて刺激的なものに引きつけられるという性質のことです。
この性質を強く持つ傾向の人が、運と才能に恵まれると、常識では考えられないことを成し遂げることがある。古い因習にとらわれず、新しい技術を積極的に採り入れ、他動的に手を打ち、莫大な利益をあげ、急速に勢力を拡大し、大衆の心をつかみます。そういう人は、今の時代にもたくさんいますよね。

新奇探索性はドーパミンと関係します。ドーパミンは神経伝達物質で、脳を覚醒させ、快感を与え る。恋愛のドキドキも、やる気が出てわくわくするのも、主にドーパミンがもたらす感覚です。好奇心が湧いている時や、何か新しいことをするときに放出されやすいため、その快楽報酬を求めて、脳は新しいことを追いかける。これが新奇探索性です。



ただしその傾向には個人差があり、かなりの割合で遺伝的に決定されているらしいことが明らかにされています。鍵になるのがドーパミン受容体DRD4の遺伝子、その型によって新奇探索性の傾向が強いか弱いかがある程度決まる わけです。そしてここが大切なところなのですが、日本人にはこの新奇探索性傾向の強いタイプの遺伝子を持つ人が他の国民に比べてかなり少ないことが統計的調査でわかっています。欧米人の5分の1から25分の1というデータもある。新奇探索性傾向の強い人は日本では少数派なわけです。

リスクを取って新しいことに挑戦する新奇探索性の反対は、保守性です。心配性で、悲観的で、損害を避ける。価値の定まった古い物、伝統的な価値を尊ぶ心もこれにあてはまるでしょう。光秀はたぶんこのタイプの人でした。
二人はその根本で戦略的に正反対だった。信長戦略と光秀戦略の対立が、本能寺の変の真因だった というのが私の見立てです。
新しくて危険で面白い方を選ぶか、堅実で長続きしそうで危険の少ない方を選ぶか。それは教育や 経験より、生まれつきの性格で決まっている可能性がある。だから話し合っても解決しない。

勝竜寺城


出会った時の二人は、むしろそのタイプの違いに惹かれあったのでしょう。自分にはないものを持つ人に、人は憧れる。戦略の違う人が組織にいれば、組織は強靱になります。信長が急速に勢力を拡大していく過程では、それがうまく機能しました。京都を支配下に置くためにも光秀戦略は役に立った。二人はなりふりかまわず、手段を選ばずに、実を取ったわけです。天下統一は目前でした。その後の日本全体の形を考える段階に来て、二人の戦略が齟齬をきたしたのです。それが天皇の問題なのか、四国の大名の処遇の問題なのか、あるいは他の何かか……それは歴史家の検証を待つとして。

これは現代の企業でもよく起きる問題です。大きな目的を持って仕事をしているときに、その仕上 げの段階で会社のトップが仲違いをする。アップル社にも、そういう歴史がありました。
信長への違和感が高まっていたときに、本能寺にほぼ無防備の信長がいて、周囲には自分の軍勢だ けしかいないという千載一遇の機会が到来します。信長がこれ以上大きくなってしまえば、もう倒すチャンスはない。光秀はその好機に、衝動的に飛びついた。信長を倒すこと自体が彼の目的だった。野望ではないと思います。野望なら、光秀のことです、周到な準備をしたはずですが、その形跡が見あたりません。彼はある種の使命感のためにあえて逆臣となった。そう私は想像してしまうのです。

さて本編に戻りますが、今回の役者の衣裳は見ごたえがあり、人それぞれ実に綺羅びやかさ、艶やかさ、又実に渋い小袖等配役により実に良い感じに写った、種明かしは“黒澤監督の長女の黒澤和子”によるところが多いと見た。


今回の衣裳は筆者の好きな服飾デザイナーが担当してます。衣裳デザイン・黒澤和子1954年、黒沢 明の映画『七人の侍』打ち上げの日に、黒沢 明の長女として東京に生まれ、1988年、父の進言で、映画界に入る。父の影響で映画の世界に魅せられ、時代考証や日本民族衣裳の勉強に励む。「汚し」のテクニックが評価され、それを軸に時代衣裳デザインのすばらしさに目覚め、経歴を積む。時代劇から現代劇、リアルな作品からポップな作品まで幅広い作品を手掛ける。主な作品に映画『八月の狂詩曲』『まあだだよ』『アウトレイジ』『万引き家族』『清須会議』NHKでは「とと姉ちゃん」「西郷どん」など。黒澤明監督の映画「夢」「まあだだよ」のほか、映画「たそがれ清兵衛」「座頭市」「武士の一分」などの衣装デザインを担当。

光秀の渋めの衣装の中にモチーフにした柄は竹と笹の葉の綺麗さは今までには無い艶やかさが感じる。 スクスクと伸びていく竹、風に サラサラと揺れる笹の葉で、光秀のこれからの成長と爽やかさを表現しています 。
益々魅了する十兵衛像が出来上がってゆく、このあたりが魅力的でもある。



今回はエキストラの方の衣装も含め膨大な数をデザインしています。しかも、既存の織物屋さんや生地屋さんにあるもので代用できないものが多いので、新たに染めたり、柄を付けたり・・・。染め屋さんで私がイメージしている微妙な色合いを出すのが難しいときは、自分たちで染めたり、柄付けをしたりもしています。今回の大河の見どころは目を瞠るような華やいだ衣裳とメイクには流石黒澤和子流の手がけた各シーンは実に感動ものでした。

和服での着こなし、思うはこの作品は和服の着付けを習っておられる方は注目したことであろう、独特のオシャレ感これは何時の時代にも共通する感覚で、特に和服の艶やかさ色っぽさの表現は、この時代だからこそ面白く着こなせてのであろう、兎に角独特の色彩が艶やかに感じた、日本独自の伝統色の春色、秋色を多く取り入れ一層色めき立つ配色は流石だ。

最後に江戸時代に明智の家来である斎藤利三の娘は「斎藤福(ふく)」のちの「春日局」になる、1579年(天正7年)に美濃斎藤氏の一族である「斎藤利三(としみつ)」の娘として誕生。愛称は「お福」、3歳の頃本能寺の変が起こる。歴史とは実に面白い展開をする。
歴史は何時も新しい発見により謎が解明できる様に思う、今回も又新しい解釈が発見されたような事が楽しみでもある。ブラボー!