伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

千葉NT駅前50万球のイルミネーション見学。歴史上80年以上も忘れられていた、音楽の父と言われるバッハ(Johann Sebastian Bach)を考察

2021年12月22日 | バロック音楽・オーディオ一般


今年も暮れが近づく、マニアの間には神が与えた美しい曲。マタイ受難曲を聴く季節になる。
2021年度で4年目となるイルミネーションイベント「イルミライ★INZAI」を開催。今年はエリアを新たに南口まで拡大し、北口を都市ゾーン。駅前の木がツリーに・・・



イオンモールから千葉NT駅までのメイン歩道通り道の並木にイルミ取り付け。



南口を自然ゾーン、駅前デッキを都市と自然の調和ゾーンとして、エリアごとに印西市の特色を表現したイルミネーションを実施。
改札を出てすぐの駅前デッキ上には、高さ約3mにもおよぶ印西市マスコットキャラクター「いんザイ君」のオブジェも登場。



総電球数約50万球、夕方見学に出かける。昨年は20万球であったが、



千葉NT駅近くの印西の花コスモスであしらったイルミの造花の花も可愛い・・・



南口駅前周辺の木々へのイルミ取り付け。今だ木々には緑の葉があり取り付けには大変苦労したことであろう。



南ぐちのメインの大きな木にイルミ取り付けは見事である。今年は範囲を増やした模様です。因みに印西市は現在19万人都市に人口増加している様です。
2022年度より北総線料金も15%程値引きするそうです。益々住みやすい街になり人口増加し目標の印西市、白井市30万人構想もやっと見込める様です。

点灯は2022年2月まで行う予定とあります。冬の風物詩をお楽しみください。

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此のあたりで来年は程よいプリアンプ導入を考える予定です、勿論真空管のプリアンプの中より考えようと計画中です。



キリストの誕生祭の季節が近づき、此処でバッハの音楽の歴史を考えるとメンデルスゾーンから始まったバッハ復活運動は、「マタイ受難曲」再演から21年が経ったバッハの死後100年にあたる1850年に、当時バッハ復活運動を進めていた音楽家や崇拝者が中心となって、ライプチッヒ市にバッハ協会設立いう成果として実りました。
特に当時、「音楽新誌」とい雑誌で編集、執筆にあたっていた作曲家シューマンは誌面を通して、バッハ協会の必要性を説き、多くの音楽家の賛同と理解を得ました。しかし、本格的にバッハの音楽が一般社会に知れわたるまでにはもう少し時間がかかりました。

それは彼の残した膨大な作品を網羅する「バッハ全集」が世に出てか当然バッハの音楽の演奏は古楽器演奏は当たり前ですが、当時は古楽器等は皆無で、チェンバロ演奏もワンダ・ランドフスカ、ポーランドの女性ピアニストが、ピアノよりもチェンバロに注力することを決意し、1908年から1909年にロシアでプレイエル・チェンバロによるコンサートツアーを行った。1912年から1919年の間、ベルリン芸術大学でチェンバロを教えた。1923年にアメリカでデビュー。1933年にバッハのゴルトベルク変奏曲をチェンバロで初めて録音した。
チェンバロを使い出したのが最初の頃と伺います、当然古楽器演奏は新しい演奏方法異なり、現在は古楽器演奏も認められる様になった様です。

筆者の若い時代頃は、当時アーノンクールは、古い教会や、街から遠く離れた城塞のような建築物と同じく、時間の流れに朽ちることなく佇む過去の音楽作品を訪問しようとする私たちに、それらの作品の誕生した時代に暮らした人々の生活や感情をたどり、想いを馳せるという選択を提示した。それは例えば、普段なら1時間のフライトで着く場所に、街道や宿場街を訪ね歩きながら馬車や徒歩で旅をしたことへの畏怖を思い描くということだ。もちろんアーノンクールは博物学者ではなかったから、現代の我々にとって感動的な旅のための手段とそのテクノロジーを否定したわけではない。

当時の音楽評論家などは古楽器の演奏は音が悪い、ガット弦の使用を否定した評論家も多くいた様です。兎に角管楽器などは基本の音はソ・ド・ミ・ソの音程が基本であり、現在も唯一のこる管楽器は軍隊のラッパである。



18世紀の宮廷音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハは死後約80年間、世間から忘れられていた作曲家でした。ビバルディーの名曲「四季」が、イ・ムジチ合奏団により再発見され、その後レコードを通して世界的に広く知れわたったのと同様に、バッハは19世紀の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンにより復活しました。
彼の努力によりバッハの名曲が公開で演奏されるようになり、現在にいたる名声が確立されたのです。では、少し復活されるまでの過程を追ってみます。そこには現代に通じる運命的なドラマが隠されています。

バッハの活躍時期はケーテン時代以降多くの器楽曲、オルガン曲は有名になる。1717年、32歳のバッハは、ケーテンの宮廷楽長の地位に昇った。領主レーオポルト侯は音楽を深く理解する愛好家で、バッハを大切にしたため、バッハは満ち足りた心で、職務である世俗音楽の作曲に、手腕をふるった。協奏曲や様々のソナタ、多くのクラヴィーア曲、世俗カンタータ等が、この時代に生まれてきている。1720年、妻マリーア・バルバラが急死した。4人の子供を抱えて途方にくれたバッハは、ハンブルク聖ヤコービ教会オルガニストへの転進を希望する。多額の寄付が条件とされたためにこの転進は成らなかったが、ハンブルクにおけるバッハの演奏は、いつもながら、人々に大きな驚きと感銘を与えた。1721年、バッハは16歳年下のソプラノ歌手、アンナ・マクダレーナを見初め、彼女と再婚する。以後マクダレーナはバッハに献身的に仕え、バッハの波風多く多忙な後半生を支える大きな原動力となった。

不動のライプツィヒ時代 ケーテンでの活動に見切りをつけたバッハは、1723年、大都市ライプツィヒに出て、由緒ある聖トーマス教会のカントルになった。彼の仕事は、音楽の先生として暴れん坊の子供たちを教育する一方、音楽監督として、市の教会音楽をとりしきることであった。しばらくの間、バッハは、日曜祝日礼拝のためのカンタータを、毎週のように書き続ける。「ヨハネ」「マタイ」の両受難曲も生まれ、ライプツィヒ時代初期は、バッハの教会音楽活動の頂点を形成した。



ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt [ˈharnõkuːr] )の芸風については賛否両論があったと思う。カール・ベームとかヘルベルト・フォン・カラヤンの演奏スタイルが主流派だった80年代までは、バロック音楽(およそ16世紀末から18世紀前半にかけての西洋音楽)の専門家としての仕事しかしてなかった。グスタフ・レオンハルトと共同で、史上初となるバッハのカンタータ全集(オーケストラ伴奏の付いた声楽曲)の録音事業を1971年から89年まで、18年かけてゆっくりと進めていたのは知られていたが、指揮者としての存在感、評価はウィーンの小アンサンブルを率いるマイナーな存在でしかなかった。

当時のアーノンクールがやっていたバロック音楽の演奏は、盆栽みたいに枝がクネクネと不自然に曲がりくねった異形が特徴で、私などは比較出来る演奏が少なかったこともあり、それが往時のバロック音楽の語法を再現したものなのだと思い込んでいた。特にヴィヴァルディ「四季」の録音(1977年)はたいそう面白く、それまでのイ・ムジチとかミュンヒンガーとかの演奏が、表面的に楽譜をなぞっただけの生温い音楽に聞こえてしまうほどのインパクトがあった。時代考証を踏まえた学究的なものというより、かなり癖のある人物の老獪な個人的表現に過ぎないのではと思うようになった。



バッハ 無伴奏チェロ組曲(全曲)
ニコラウス・アーノンクール(vc)
第6番はもちろん5弦のチェロ・ピッコロ。 (P)から1965年頃の録音かと思います。 原点に立ち戻るかのような,何ともシンプルな演奏。 素っ気ないほどに無骨だけど力強い。 現代のバロック・チェロによる演奏とはだいぶ違いますが, バロックの先駆者の演奏として大変興味深いです。




J.S.Bach:音楽の捧げ物(Musikalisches Opfer )BWV.1079
1747年にフリードリヒ大王の御前演奏を行なった際、バッハは大王が自ら書いた主題に基づく3声のフーガを演奏しました。その後、同じ主題による作品群を書いて王に献呈したのがこの曲集です。一見単純なひとつの主題がもつ可能性を極限まで追求した独創的な音楽は、バッハ芸術の最高の結晶のひとつ。



ヘルベルト・タヘッツィ(Cemb)、レオポルト・シュタストニー(Fl)、アリス・アーノンクール(Vn)、ヴァルター・プファイファー(Vn)、クルト・タイナー(Vla)、ニコラウス・アーノンクール(Tenor Viola,Vc)の6人による演奏である。




ニコラウス・アーノンクール / J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調(1968年録音) 
バッハの作品は後期の作品の完成度は高い様に思う、今年はミサ曲ロ短調もじっくり聴き込みしてみようと思ってます。
アーノンクールは1968年にウィーン少年合唱団に同曲を収録していました。1968年録音盤では、当時の習慣に再現するため少年合唱団を使っていましたが、この再録盤のA・シェーンベルク合唱団は、アーノンクールのバロック語法の要求に答えるべく演奏が可能となったものです。CMWの音楽の言葉表現を見事に乗り移ったもので、非常に深い音楽を導き出しています。



今回持続音のヴィオラ・ダ・ガンバの音色と一音一音すぐ音量が減衰するチェンバロとの対比の妙。ニコラウス・アーノンクールとヘルベルト・タヘツィの掛け合いは、当時のバロック語法を見事に再現した名演。1968年録音。巨匠指揮者アーノンクールの追悼企画のCDを入手する。
持続音のガンバの音色と一音一音すぐ音量が減衰するチェンバロとの対比の妙。アーノンクールとタヘツィの掛け合いは、当時のバロック語法を見事に再現した名演です。
J.S.バッハ:『ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ集』BWV.1027-1029
 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第1番 ト長調 BWV.1027
  1.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第1番 ト長調 BWV1027 第1楽章:アダージョ
  2.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第1番 ト長調 BWV1027 第2楽章:アレグロ・マ・ノン・タント00:03:40
  3.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第1番 ト長調 BWV1027 第3楽章:アンダンテ
  4.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第1番 ト長調 BWV1027 第4楽章:アレグロ・モデラート
 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第2番 ニ長調 BWV.1028
  5.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第2番 ニ長調 BWV1028 第1楽章:アダージョ
  6.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第2番 ニ長調 BWV1028 第2楽章:アレグロ
  7.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第2番 ニ長調 BWV1028 第3楽章:アンダンテ
  8.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第2番 ニ長調 BWV1028 第4楽章:アレグロ    
 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第3番 ト短調 BWV.1029
  9.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第3番 ト短調 BWV1029 第1楽章:ヴィヴァーチェ
  10.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第3番 ト短調 BWV1029 第2楽章:アダージョ
  11.ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第3番 ト短調 BWV1029 第3楽章:アレグロ    
 2本のフルートと通奏低音のためのソナタ(トリオ・ソナタ)ト長調 BWV.1039」
  12.2本のフルートと通奏低音のためのソナタ(トリオ・ソナタ) ト長調 BWV1039 第1楽章:アダージョ
  13.2本のフルートと通奏低音のためのソナタ(トリオ・ソナタ) ト長調 BWV1039 第2楽章:アレグロ・マ・ノン・プレスト
  14.2本のフルートと通奏低音のためのソナタ(トリオ・ソナタ) ト長調 BWV1039 第3楽章:アダージョ・エ・ピアノ
  15.2本のフルートと通奏低音のためのソナタ(トリオ・ソナタ) ト長調 BWV1039 第4楽章:プレスト
ニコラウス・アーノンクール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)



ヘルベルト・タヘツィ(チェンバロ)
レオポルト・シュタストニー&フランス・ブリュッヘン(フラウト・トラヴェルソ:BWV.1039)
録音:1968年



アーノンクールはウィーン交響楽団のチェロ奏者からキャリアをスタートし、後にバロック音楽専門の室内楽団を組織して指揮者に転じた。チェロ奏者としての録音にはバッハ「無伴奏チェロ組曲全曲」(64年頃、35歳前後の録音)がある。バロックチェロを使い速めのテンポで力強く弾いている。重音奏法に意識的な騒音性を加味してオヤっと思わせたりするが、現代のバロック・チェロによる演奏とはだいぶ違う。全体的には深みとかコクに乏しく、ゴリゴリと押す無骨さがちょっとせっかちな印象を与える。

重厚長大型のバッハ演奏が普通に行われていた60年代は、時代考証の成果といってもまだこの程度。情緒性を排したドライなスタイルにはそれなりの意味があったのだろうが、今となっては過渡期のスタイルというか、方向性が曖昧で、垢抜けずもっさり、リズムの切れが悪く鈍重に感じる。バッハを、特に宗教音楽を指揮する時のアーノンクールは別の人というか、ロ短調ミサとかマタイ受難曲は、デジタル録音による新盤よりも60年代の古い録音の方が抑制が効いていて好ましく思えるのは筆者でけであろうか?。クラシック音楽の演奏スタイルの流行はいずれ変わるだろうが、バッハのいくつかの録音は、ある時代の記憶として残るような気がする。ブラボー!