よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

西国街道(山崎街道)を歩く1日目(西宮から伊丹)13,1km

2014-07-30 20:30:00 | 西国街道を歩く

19日、山陽道・西宮ゴール後、灘五郷の一つ、今津郷を訪ねました。阪神電車で西宮から今津までは、1駅。この日は、甲子園でプロ野球オールスター戦があるためか、電車の中は、タイガースやカープのユニフォームを着た方がたくさん乗ってこられました。 私、阪神電車に乗るのは初めての経験です。しかしこの日は、相互乗り入れしている近鉄の電車でした。

  

駅前から海岸の方に向かって歩きます。民家の庭先には、木苺が実っていました。(子供の頃はよく食べたっけ)

酒蔵通りがありそこを左折。右側には大きな旧家が見えてきます。その横には、大関酒造が経営している「甘辛 関寿庵」があります。ここでは、酒饅頭や酒カステラが販売されています。

    

 

今津六角堂」は今津小学校の中にあります。明治15年(1882)に建設されたというピンク色の壁と六角形の突き出た部分が珍しい校舎です。できた当初は遠方から手弁当を持って見物に来る人も多かったそうです。小学校の校舎建て替えなどで何度か移転した後、今の位置に戻ってきました。現在も一部は校舎として使われているそうです。1階は展示スペースになっており、見学も可能ですが、今日は土曜日で学校も休みのため見学できませんでした。

  

 小学校の先の交差点を右折すると目の前に大関酒造の工場が目に飛んできます。さらに先へ進むと海に出てきます。ここにあの「今津灯台」があります。今津灯台は、今津郷の酒蔵家「大関」醸造元長部家五代目長兵衛によって文化7年(1810)に設置され、樽廻船による日本酒をはじめとして木綿、干鰯といった荷を積んで今津港を出入りする船の安全を守っていた。かつては、毎晩大関の丁稚が油2合を携えて点灯に向かっていましたが、大正年間には電燈となった。

     

この頃になると、空が暗くなりポツリポツリと雨が落ちてきました。このあと酒造メーカーのミュージアムに行こうと計画していたのですが、急いで駅に戻りました。 今日は、夕方、枚方に住んでいる従姉妹夫婦と梅田で約30年ぶりに会いました。3~4歳だった従姉妹の子供さんは、もう30代半ばだそうです。今会ってもわからないでしょうね。

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【西国街道出発】

旧山陽道は、西宮から下関を山陽道、西宮から京都までを西国街道あるいは、山崎街道と呼ばれていました。

山陽道を西宮にゴールした私たちは、これより京都へ向かいます。したがってこの京都までの道を「西国街道」として分けていきたいと思っています。西国街道は、西宮から京都まで約80km。宿場は、昆陽宿(伊丹市)、瀬川宿(箕面市)、郡山宿(茨木市)、芥川宿(高槻市)、山崎宿(島本町)の5宿です。

7/20宿泊先の新大阪のホテルを出て、地下鉄で梅田まで、梅田より阪神電車で昨日のゴール地西宮へ行きました。     8:55前日ゴール地西宮神社へ到着。西国街道のスタートです。

  

西宮神社からの道をまっすぐ進んだ所に「蛭子大神御興座伝説地」の碑があります。昔、鳴尾浜の漁師が沖で漁をしていたところ、変なものが網にかかり捨てた所、また和田岬の沖で網にかかったので持ち帰りお祀りすると夢枕に神様が出てきてもっと西へ連れて行けと言うので神輿に乗せてこの辺りまで運んできたら神様が眠ってしまわれたのでここで輿を休めた所とか、神様のお尻をつねって起こしたのでオコシヤ伝説の地と言われています。これが西宮神社に恵比寿様が祀られている所以だといわれています。

西宮宿は、本町あたりにあったと書いてありますが、現在それらしきものはありません。

与古道公園には、お地蔵様と廣田神社の石碑が立っています。

  

街道は、阪神電鉄の高架を超え東川信号に出ます。この左側に「海清寺」があります。

  

東川からJRを超えしばらく行くと、西宮市民運動公園があります。ここを横断し橋を渡り左に行き、100mぐらいの所を右に行きます。街道は細い路地になります。路肩が狭いので車が来るとよけなければいけません。

  

街道を進み、丸橋郵便局の先に「門戸厄神さん」の標識が立っています。「是より門前まで五丁 中山荒神 三田 有馬道」と、右側には、「すぐ京都、伊丹、池田道 左は参拝ちかみち」と書いてあります。

折角ですので、街道からは外れますが、「門戸厄神さん」に行ってみることにしました。ここから五丁ということでしたので5分ぐらいかなと思いましたが、緩やかな上り坂が続き、おまけにこの暑さ、なかなか進みません。

  

  

 

寺伝によれば開創の経緯は、嵯峨天皇の41歳の厄年にあたる天長6年(829年)、空海(弘法大師)により厄除祈願が行われた。その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。 空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、国家安泰のため、高野山の天野大社、皇室安泰のため、山城の石清水八幡宮、国民安泰のため、門戸東光寺へそれぞれ願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。

ここ門戸東光寺は、あらゆる災厄を打ち払うという厄神明王(門戸厄神)が有名で、厄年にあたる年齢の人が厄払いをするほか、十三詣(じゅうさんまいり)といい、数えで13歳の子どもが厄除けと学業成就を願って虚空蔵菩薩に詣でる。初宮参り、交通安全祈願、護摩祈祷、人形供養も受け付けるそうです。

門戸厄神さんを後に来た道を戻り再び街道へ。しばらく歩くと阪急門戸厄神駅。踏切を渡ります。

   

そのまま真っ直ぐ行くと、左側に2本の道標が立っています。大きい方は、左尼崎、大阪、伊丹、池田、京道、右西宮、真ん中には、厄神明王道と書かれています。小さい方は、「すぐか婦と山かんのん是より十五丁」と刻まれています。

  

街道は、阪神水道企業団の所から新幹線のガードを潜ります。しばらく歩くとスポーツで有名な「報徳学園」が見えてきます。そこを右折。報徳学園というと、二宮金次郎の「報徳思想」ですが、校内に金次郎の銅像はあるのか試すために学内に入りました。探すと、金次郎でなく、大人になった二宮尊徳でした。

 

   

報徳学園の前を行くと「武庫川」に突き当たります。この辺に一里塚があったそうですが、今はありません。

報徳学園の横の道路は、歩道がなく車の通行量も多いので川のそばの遊歩道を歩きます。

川に降りていくと「髭の渡し」の看板が立っています。

  

 

江戸時代に西国街道の武庫川を渡る際、堰堤(ダム)の付近には武庫川の渡しがあり、1909年(明治42)に甲武橋がかかるまで渡しは続けられました。西昆陽村の髭の安兵衛さんの茶屋が近くにあったことから髭の渡しと呼ばれたれたようです。西行きは西昆陽村と常松村が隔月で、東行きは段上・上大市・下大市村が月番でそれぞれ渡しを担当しました。川水が少ないときは歩行渡りや仮橋がかけられたりしましたが、増水時は人足・船渡し・連台による渡しが行われ、船頭6人でも船渡しができないと川留めになりました。現在、行者堂が建てられている東岸河川敷付近に東の渡し場があったと思われます。(西宮市文化財より抜粋)

西昆陽村の安兵衛さんの茶屋は、安兵衛さんが立派な髭を蓄えていたので「髭の茶屋」と呼ばれていたそうです。今探してみますが、わかりませんでした。ただ、バス停だけは今もその名が残っています。

 

甲武橋を渡り、武庫川沿いを歩くと、国道171号線に合流します。ここから伊丹市に入ります。

時間も12時を廻りました。お腹もすいてきましたが、この暑さでは、冷たいそばかうどんがいいですね。

うどん屋さんかそば屋さんを探していると「イズミヤ」の近くにそば屋さんがありました。早速ざるそばを注文します。

ホント、暑い時には、冷たいソバが一番です。おいしくいただきました。またこのお店でもお水の補充をしていただきました。

      

※伊丹市のマンホールは、市の鳥「カモ」が描かれています。昆陽池には、渡り鳥も来るそうです。

お腹もいっぱいになり、元気になった所で再び街道歩きをスタートします。 

そば屋さんのすぐ先に「師直塚」(もろなおつか)があります。高 師直は、足利家の武将で観応2年(1351)に上杉能憲勢の待ち伏せに遭いこの地に置いて子息五郎、弟師泰と共に討たれ高一族は滅ぶことになりました。高師直は南北朝の武将で足利尊氏が上洛の折、すでにその側近にあり、足利家の執事として北畠顕家を倒し、河内の南朝軍を弟師泰と共に制圧し、楠木正行を敗死させるなどの功績がありました。師直らの没後、この辺りに墓らしき塚が残っていましたが、耕作の妨げになると崩され、その後山田村の有志により現在のつかが建碑され、国道の拡張工事により現在の場所に移されました。(案内板より)

  

昆陽里信号から斜め右の道路に入るのですが、道を間違え引き返しました。この西国街道は、街道の案内板が沢山立っていて、道を間違えてもすぐ引き返せます。

 

僧行基が掘ったと言い伝えられている「閼伽井(あかい)の井戸」があります。「あかい」とは梵語で水、特に仏前に供える水の事を言い、昆陽寺の付近の地を閼伽井と呼んでいたことから、ここにある井戸が閼伽井の井戸と呼ばれてきました。大変霊験豊かな水をたたえていたことが記録にあります。

  

地図を見ているとこの辺りに「昆陽(こや)寺」があります。171号線を渡らなければいけませんが、近くに横断歩道がなく寺本4丁目の信号から戻ってきます。

 

昆陽寺は奈良時代の名僧、行基が建立した畿内49院の一つで、天平3年(731年)創建の昆陽施院の後身寺院。朱塗りの山門と境内の観音堂が昭和44年に、また山門内に安置されていた広目天・多聞天立像が平成10年に、それぞれ兵庫県指定文化財となっています。(伊丹市HPより)

 

西天神社の前を通り、昆陽8丁目の所から旧街道になります。この辺りが「昆陽(こや)宿」になります。  

昆陽宿は、天保14年の記録では、家敷7軒、人口913人、本陣1軒、旅籠7軒、人馬問屋1か所あったとされている。本陣は、川端家が務めていたそうです。長勢児童公園あたりだったそうです。

 

  

道標の「中山」は、伊丹市の中山寺、「小濱」は、京伏見街道、宝塚の小濱宿です。稲野小学校の所にも西国街道の案内板がありました。

 

街道は、伊丹警察署、伊丹市役所の所に来ました。今から街道を外れ、「有岡城址」に行きたいのですが、歩いていくと片道30分ぐらいかかりますので、バスを利用します。日曜日なのでバスの本数が少なく30分ぐらい待ってバスが来ました。(あとで聞きましたら、国道の方に行けば、頻繁にバスが出ているそうです)

  

有岡城址は、JR伊丹駅のすぐ前にありました。

「有岡城」は、伊丹氏がこの場所に城を築いたのが鎌倉時代末期頃のことです。初めは居館として建てられましたが、戦国時代を経て、次第に堅固な構えになってきました。伊丹氏の城は、天正2年(1574)織田信長の武将荒木村重の攻撃によって落城しました。その後村重は、信長の命によって有岡城と改名し、壮大な城を築きました。有岡城は、伊丹段丘の高低差を利用し、南北1,6km、東西800mに及ぶ惣構えが築かれ、要所には、岸の砦、上臈(じょうろう)塚砦、鵯塚(ひよどりつか)砦が配置されました。  謀反を起こした村重は、天正6年(1578)、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城しました。

天正8年池田之助が城主となりますが、同11月美濃の国に転封を命じられ廃城となりました。明治26年鉄道の開通によって城跡の東側が削り取られましたが、土塁や堀など今もその姿を留めています。昭和50年より発掘調査が実施され土塁、石垣、堀、建物、池等の遺構を検出し中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになりました。

  

 

城址では、ボランティアの方が有岡城の説明をされていました。有岡城といえば、我が福岡藩租「黒田官兵衛」が一年近く幽閉された所です。土牢ということで聞いてみましたが、土牢は、発見されていないそうです。

このあと、また街道に戻り桜井まで歩く予定でしたが、有岡城址で急に雷雨に遭い慌ててJR伊丹駅に入り雨宿りをしました。しばらく雨の様子をうかがっていましたが、雨脚は、激しくなるばかりです。今日は一応ここで打ち切りとします。JR伊丹駅から、ホテルの新大阪まで戻りました。

夕方の6時ごろには、雨もやみ、久しぶりに大阪新世界に行ってきました。

  

入ったのは、「串かつ屋」です。ここも人が多く30分ぐらい待ってようやく店の中に入ることができました。