よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています プロローグ(長崎出島~蛍茶屋)

2010-06-22 17:25:29 | 長崎街道歩き
【はじめに】
6月21日、私の街道歩きの第2弾「長崎街道ウォーク」をスタートしました。
「長崎街道」は、長崎奉行所から北九州・小倉の常盤橋までの
57里(約228km)の街道です。
25の宿場がありました。



今回出発地に選んだ長崎は、日本が鎖国時代外国との貿易が
許される唯一の窓口でした。
坂本龍馬を代表するように幕末には、若い人が
外国の文化・学問を吸収するため盛んに
訪れた所でもあります。
また、外国の高官が将軍に会う為この道を通って江戸に向かっています。
面白いものでは、「象」が献上物としてこの街道を通ったという記録もあります。
あの大きな象がのっしのっしと長崎街道、山陽道、東海道を通ったことを
想像してみますと面白いですね。
それと付け加えますが、この街道は、当時珍しい「砂糖」が入ってきた所ですので
街道沿いの地域は、菓子文化が発達しております。
例えるなら、長崎・カステラ、佐賀・羊羹、丸ぼーろ、福岡・鶏卵素麺、ひよこ、千鳥饅頭
などのおまんじゅうがあります。こういったことからこの街道を「シュガーロード」とも
呼んでいます。
昔の人は、この街道を7泊8日で通っています。
さて、寄り道ウォークの得意な私は、どれくらいかかるでしょうか?(笑)

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6月21日(日)長崎街道初日
昨日(20日)長崎の天気をチェックすると午前中曇り、午後3時から小雨とのこと。
これだったら歩けると判断し、始発の高速バスに乗って長崎に向かいました。
今日の予定は、長崎から日見峠を越え、諫早までの約26kmです。
始発のバスだったからでしょうか、長崎には定刻よりも10分も早く着きました。
バスを降り、さあ出発と思った瞬間、大雨が降ってきました。
一応雨具の用意はしているもののこの大雨でしたら、先が見えず歩くのは
困難と判断し、とりあえず駅構内の喫茶店でコーヒーを飲みながら今日のウォーキングは
どうしようかと家内と話し合いました。家内はもう帰ろうといいます。
然し、折角バス代を払ってきましたので、たとえ1kmでも長崎街道を歩いたという
足跡を残しておきたいと家内に言いました。
そんな私の願いを神様が聞いてくれたのか、1時間もすると雨は小降りになってきました。
さあ、「長崎街道ウォーク」の開始です。
この長崎街道を歩くにあたり、いろんな本を読んでいますと長崎の出発点が
旧長崎奉行所だったり、出島だったりしています。
私は、江戸時代その頃の若者が西洋の知識を学ぼうと向学心を燃やした地、出島に
しました。長崎駅から出島まで電車では3つ目の電停。でも私もこのSNSに入って
「ウオーカーの端くれ」になりました。歩いていきます。
出島までは10分ほどで着きました。


出島
寛永18年(1641)に長崎・平戸にあったオランダ商館が出島に移転、以後開国まで
の約220年間出島は西洋に開かれたわが国唯一の窓口でした。

出島を出て10分ぐらい歩くと今の長崎県庁に着きます。この県庁の「縣廰」という
文字になっており、風格があります。
この県庁の所に「長崎海軍伝習所」がありました。ここに勝海舟、榎本武揚などが
学びました。
小曽根家邸跡
豪商小曽根家の小曽根英四郎は坂本龍馬、勝海舟などと親交が深く、
亀山社中や海援隊の運営にも援助しました。
龍馬の片腕の「近藤長次郎」は、英国への密航計画がバレ、この邸内で
自決しています。

この一帯が、今、長崎の官庁街になっています。
歩いていると他にも「唐通事会議所」「活版伝習所」などあの頃の時代を語る
史跡がいっぱいです。

少し歩いていくと、旧長崎奉行所立山役所があります。
今、ここには「長崎歴史文化博物館」になっており、
ここでは、長崎奉行所/龍馬伝館が開催されています。
また、私の寄り道癖が出てきました。今日最初の寄り道です。

「長崎奉行所/龍馬伝館」の会場に着くと、龍馬と弥太郎の大きな銅像が
出迎えてくれました。銅像は4mぐらいあるでしょうか?
長崎奉行所は、奉行所の歴史と色々な事例の判決などが展示されていました。
お奉行には、テレビでおなじみの「遠山の金さん」のお父さんもここ長崎のお奉行さん
だったんです。お父さんも「これにて一件落着」と言っていたのでしょうか?

奉行所の横には、龍馬伝館になっています。
ここには、大河ドラマで使われた衣装、小道具などが展示されています。
人形の龍馬とのツーショットの写真コーナーもあります。
また、地元の劇団による「寸劇」も行われていました。
今日の題目は「イカルス号事件」です。
イカルス号事件とは、「1867.7月英国軍艦イカルス号の乗組員が市内で惨殺された事件で
英国公使は、海援隊の仕業ではないかと長崎奉行所に調査を要求しました。」
それを、面白可笑しく演じています。




長崎歴史文化博物館を出ても雨は一向に止む気配がありません。
再び街道に戻りました。
左側に諏訪神社が見えてきます。
この神社は、10月に行われる長崎くんちの舞台になるところです。
街道は新大工町へ。右手の山の高台には、瓊浦(けいほ)高校が見えてきました。
あの辺りが風頭公園で龍馬の銅像や、亀山社中があった所です。



街道は、シーボルト通りとなっています。
看板に「シーボルト記念館450m」と書いてあります。
またまた、ここで私の寄り道癖が出てきました。
シーボルトは、ドイツの医学者、博物学者で1823年オランダ商館の医員として
長崎に着任、日本の動植物・地理・歴史・言語を研究し、また鳴滝塾(※鳴滝は場所)を
開き、高野長英らに医術を教えました。
また、シーボルトはアジサイが好きで彼が著した「日本植物誌」には、
アジサイが数種類紹介されており、その中でブルーの色合いの美しい玉の
ようなアジサイに「ヒドランゲア・オタクサ」と命名しました。
オタクサとは、シーボルトが愛した女性で「おタキさん」と呼ばれた楠本滝さんの
ことです。また、シーボルトの娘「楠本イネ」と「大村益次郎」のことが司馬遼太郎さんに
よって本になっています。「花神」です。大河ドラマにもなりました。

シーボルト記念館に入るとシーボルトが好きだったせいか、満開のアジサイが
咲いています。私知らなかったのですが、アジサイは長崎市の市花なんです。

雨は一向に止みません。持ってきた地図(コピーですが)も濡れて破れてきました。
服は、行く前に防水スプレーをかけてきたのですが、効果がなくなりかけています。
どこか、きりのいいところで今日の街道歩きを中止したいと思っています。
街道は、電車の終点「蛍茶屋」に差し掛かりました。
蛍茶屋跡は、説明文を見てみますと
「文化文政1804~1829 甲斐田市左衛門によってこの地に旅人歓送迎の茶屋が
始められました。幕末から明治初期、二代目政吉の頃が最盛期でした。
蛍の名所だったので蛍茶屋と名づけられました。」
そういえば、何年か前に見た映画「長崎ぶらぶら節」では、蛍が乱舞している
シーンがありました。それが、ここ蛍茶屋だったのですね。

万歩計を見ると今日の街道歩き約5km。
雨の中、何とか長崎街道歩きの足跡を残すことができました。
次回は、ここから始めます。地図ではこの街道の難所「日見峠」が待っています。
今から、本格的な夏に向かいますので今度は少し涼しくなって始めたいと
思っています。