よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

韓国(からくに)岳登山(鹿児島県・宮崎県境)

2017-06-19 18:03:29 | 山登り

6/9 ミヤマキリシマが満開と聞いて、鹿児島、宮崎県境にある「韓国(からくに)岳」に登りました。

韓国岳は、霧島連山に位置し、連山の中では一番高い山です。別名霧島山とも呼ばれています

山頂から韓の国まで見渡せるということから「韓国岳」と言う説がありますが、実際、山頂からは韓国まで見渡せません。

  

8時丁度にえびの高原駐車場に到着。支度をして登山開始です。

登山口は、えびの高原側からも登れますが、現在、硫黄山が警戒区域ですので鹿児島・宮崎県境の方から登ります。

 

木の間を登っていきますが、途中から階段が多くなってきました。

  

  

  

  

  

木の間から「桜島」が見えてきました。これからも急な階段が続きます。

 

急な階段を登ると視界が開けてきます。大浪池です。遠くには桜島が見えます。もう少し登るとミヤマキリシマが

自生しています。大浪池とミヤマキリシマのコラボです。

左側には新燃岳、その向こう側には高千穂峰があるのですが、雲に覆われ見えません。

山頂まであと少し。ここからは急勾配です。

やっと山頂に着きました。登り初めて約3時間。速い人は1時間ぐらいで登るそうです。

  

山頂で記念写真。

下りは、えびの高原の方に降りて行きました。

  

途中、硫黄山が警戒レベル2でしたので迂回します。

下山して1時間半でえびの高原登山口に到着。

汗を流すため、国民宿舎えびの高原荘で温泉に入りました。

久しぶりの山登りでしたが、たまには登山もいいですね。

 

 

 

 


 

 

 

 

 


蒜山(ひるぜん)高原へ(岡山県真庭市)

2017-06-16 10:47:14 | ウォーキング

SUN-IN未来ウオークゴールの後、今夜の宿泊地、岡山県真庭市「蒜山高原」に向かいました。

倉吉から蒜山までは、車で1時間~1時間半ぐらいです。

途中、道の駅「犬挟(いぬばさり)」で休憩。

休暇村蒜山高原には、午後4時少し前に到着。蒜山高原は初めてですが、素晴らしい眺めです。

蒜山は、三山あり、下蒜山、中蒜山、上蒜山です。

大浴場も蒜山三山に面していて、お湯につかりながら見ることができます。

翌日は少し早く起き、蒜山からの日の出を見ました。午前5時の気温は、5度ぐらいです。少し寒いです。右手には、雲海が見えます。

5時7分蒜山三山から朝日が昇ってきました。空気が澄んでいるからでしょうか、きれいに見えます。

  

午前7時から、休暇村の朝の散歩が始まります。

 

  

 

  

中央のトーテムポールみたいなのが、蒜山の怪物「スイトン」です。

蒜山高原に昔から伝えられる怪物「粋呑(スイトン)」。悪い人のところに“スイー”と飛んできて“トン”と1本足で立ち、

引き裂き食ってしまうと言われています。「だから蒜山には悪人は居ない」のだとか。

 

展望台にやってきました。今日は、天気がいいので「大山」(1729m)がはっきり見ることができます。

昨日は、琴浦町のウオーキングでこの大山を逆の方から見ました。

  

休暇村の案内人の方の話によると、こんなにきれいに大山が見えることはめったにないそうです。私たちはラッキーですね。

 

約1kmの散歩でした。朝食を済ませ、道の駅「風」に立ち寄って約550kmの道を福岡に帰っていきます。

午後4時に自宅に着きました。倉吉往復で距離計は、1150kmを指していました。

  

 

 

 


第17回SUN-IN未来ウオーク2日目22km(鳥取県倉吉市)

2017-06-15 19:45:41 | オールジャパンウオーキングカップ

6/4(日)SUN-IN未来ウオーク2日目22km。「八幡往来・名探偵コナンコース」です。

倉吉パークスクエアから、シャトルバスで琴浦町役場に移動し、パークスクエアに戻るコースです。

  

   

8:30琴浦町役場前をスタート。琴浦町は、2004年、東伯町と赤碕町が合併してできた町です。

右側には、山陰のランドマーク「大山」が見えました

 

コースは、方見神社を通り、加勢蛇川に架かる宮橋に出ます。ここからは、日本海が見えてきます。

 

 

今歩いているコースは、昔「八橋(やばし)往来」と言って伯耆(ほうき)国の中心であった倉吉と出城があった八橋とを結ぶ奈良時代からの街道でした。

かの伊能忠敬もこの街道を実測しており当時の道筋が200年経った今でも残っています。伝馬跡、宿場跡等が現存しています。

  

この先には、「斉尾廃寺跡」があります。

奈良前期・白鳳時代の寺院跡で、法隆寺式伽藍配置をとった山陰で唯一の国指定特別史跡。東西160m南北250mの土地に

塔・金堂・講堂・中門・回廊・土堀の跡があり、基壇・礎石が当時の面影をしのばせます。金堂跡の周辺で多くの塑像片が出土

(琴浦町歴史民俗資料館蔵)し、その中に丈六の仏像と小さな塑像があり、金堂に安置されていたものと思われます。

仏頭は、高さが14cmと小さく表情は優雅で優しさをもつ小塑像で原品は、京都国立博物館に所蔵されています。(琴浦町HPより)

 

 

「鳥取芝発祥地」の石碑が建っています。鳥取県は、全国でも有数の芝の産地。1958年(昭和33年)にここ琴浦町で栽培されました。

 

鳥取県の日本海側は、風が強いからでしょうか、風力発電用の風車が建っています。

コースは、北栄町に入りました。北栄町は、2005年北条町と大栄町が合併してできました。

  

北栄町は、スイカの産地です。ビニールハウスには、出荷待ちのスイカがありました。マンホールにもスイカがデザインされています。

  

北栄町は「名探偵コナン」の作者「青山剛昌さん」の生誕地です。北栄町は、コナンで町おこしです。

  

由良駅は「コナン駅」

 

  

北栄町のスイカのオブジェもありました。

 

北栄町の由良は、江戸期には山陰道(伯耆街道)が東西に通り、伯耆街道より八橋で分岐して倉吉に向かう八橋往来も通る交通の要衝であり、

享保17年(1732)から宿駅に指定された。

由良が大きく発展したのは享保4年(1719)に由良宿内に藩蔵が建設されたことによる。藩主池田氏は由良が水陸交通の要地であることに着目し、

由良川左岸の微高地(現JR由良駅北方の海岸まで400m程のところ)に年貢米2200俵格納可能な13棟もの藩蔵を建築した。

藩蔵は東西50間・南北34間という大きなもので、これにより由良は港町・宿場町として大きく発展するのである。

藩蔵は明治4年まで約160年間も使用された。

伯耆街道を荷車が通れる広さに拡張整備し、藩蔵周辺の道路も整備して問屋や住民の移住を促し、蔵役人も移り住んできた。

寛永9年(1632)家数21・人数146、元文2年(1737)村分帳では家数90余り、明和4年(1767)家数144、天保11年(1840)240、

文久3年(1863)組合帳では243戸となり、江戸時代を通じて港町・宿場町として賑わっていた。

藩蔵正面から伸びる広い道を本町通りとし、そこに御蔵役人や米問屋が軒を並べ、年貢米の廻船業者も集住して在町の発達を促した。

そして天保初期から由良川水路開削が行われ、川船の運航を便利にし、藩蔵の所在地と宿駅であることも相まって、各地の物産の集散地となり

在町としても賑わいを見せ、鍛冶屋・紺屋・米屋・運送屋などもいた。(中国地方の古い町並みより抜粋)

 

また、由良には、「由良台場跡」がありました。江戸末期、文化5年(1808)のフェートン号事件、安政8年(1825)の異国船打払令など

諸外国との緊張が高まる中、沿岸警備のため築造されました。その設置場所も鳥取県海岸線東西160km(40里)の内、重要港湾を控えた

八か所(浦富、浜坂、賀露、橋津、由良、赤碕、境)に築造されました。

 

お台場公園を過ぎると「青山剛昌ふるさと館」があります。中に入ってみると、名探偵コナンのグッズでいっぱいです。

 

 

北栄町は、「長芋」の生産でも有名です。畑では、長芋の植え付け作業が行われていました。

 

 

コナン大橋を渡り、まっすぐ行くと「北栄町役場」です。

 

役場の横には、「豊田父子頌徳碑」があります。豊田太蔵(たぞう)、豊田収(おさむ)さん父子で、太蔵さんは、安政3年5月9日生まれ。

鳥取県会議員をつとめ,明治39年生地の鳥取県由良村(大栄町)に育英黌(いくえいこう)を創立。私財を投じて学校経営にあたり,

現在の県立由良育英高の基礎をつくりました。息子の収さんは、衆議院議員を6期務め、政務の傍ら、郷土における有為な人材育成を忘れず、

私学経営のみならず、各種育英、奨学事業に一生を捧げました。

由良育英高校は、2003年、赤碕高校と統合し、「鳥取県立鳥取中央育英高校」と名称が変わりました。

頌徳碑には、鳥取県知事石破二朗の名がありますが、現自民党の石破茂氏のお父上です。

   

六尾反射炉跡に立ち寄り再び先に進みます。この辺りの田んぼは、もう田植えが終わっています。お米は、「きぬむすめ」かな?

 

歩いていると子供たちが待っています。コナンのせんべいのお接待です。ちゃんとコナンの印も入っており、おいしかったです。

  

 

チェックポイントは、灘手公民館です。ここまで15,2km。接待では、メロンが振る舞われました。

  

和田橋、出口橋を渡ると倉吉の市街地です。

 

倉吉淀屋は、倉吉に現存する最古の町屋建物です。「淀屋」は、倉吉を代表する商家で、淀屋橋で有名な大阪の豪商「淀屋」と密接な関係を

持っていたといわれています。大都会大阪の中心に架かる「淀屋橋」の名前の元となった天下の豪商「淀屋辰五郎」は五代目のときに、

闕所・大坂処払いの極刑を受けて没落。しかしながら、先代の番頭であった「牧田仁右衛門」の徹底した陰働きによって、

「淀屋」は再興したのですが、実はこの「牧田仁右衛門」が、倉吉の出身で稲扱き千刃の発展普及に深く関与し、倉吉と大坂の橋渡しをし、

倉吉の産業発展の礎となった「淀屋清兵衛」の元祖だったのです。

 

河村郡は明治時代の呼び名、それから久米郡~東伯郡になり、倉吉市になりました。

豊田家住宅は、久米郡倉吉驛だった施設でした。驛とは街道に設けられ,宿泊施設・馬・舟・人夫その他を供給した場所のことで、

うまやとも言われます。なおこの豊田家は代々呉服屋だったそうです。

  

コースは、弁天参道を左折します。その先が「大連寺」。大連寺は、豪商淀屋清兵衛歴代の墓や武将脇屋義助所縁の寺として知られています。

 

倉吉のシンボル「白壁土蔵群」です。江戸、明治期に建てられたものです。

 

 

クラカフェが給水所です。冷たい胡瓜が出されました。ちょっと塩味でおいしくて塩分は控えなくてはいけませんが、2本いただきました。

 

滝沢馬琴「南総里見八犬伝」のモデルと伝われている、房総里見十代里見安房守忠義の無念の想い、江戸時代の初め頃、

幕府の陰謀によって国替となった里見忠義主従と8人の家臣は、ここ倉吉の地で終焉、東町にある古刹「大岳院」に静かに眠っています。

 

53代横綱琴桜(佐渡ヶ嶽親方)は、ここ倉吉の出身です。琴桜記念館もありました。

 

 

 大江磐代君誕生の地

倉吉の町娘“りん”と鳥取池田藩の家老荒尾志摩守の家臣“岩室常右衛門”との間に生まれた“つる”は、第119代光格天皇(明治天皇の曽祖父)の

御生母“大江磐代”なのです。   つる女9歳の時、父親とともに京の都へ上り、当時の女性として一流の教養・行儀作法を身につけ、

閑院宮家へ奉公。閑院宮典仁親王の目に留まり、後の光格天皇・祐宮師仁親王を生むことになりました。

  

13:08 2日目ゴールしました。2日目のコースは見どころがいっぱいで寄り道ばかりしましたので予定時間より遅くのゴールです。

 

ゴールすると、白バラ牛乳、ノンアルコールビールなどが配られました。

2日間の参加者は、約2700人でした。

   

ゴール後、本日の宿泊地、岡山・蒜山(ひるぜん)高原に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


SUN-IN未来ウオーク交流会

2017-06-08 10:48:52 | 日記

SUN-IN未来ウオーク1日目ゴールの後、交流会まで時間がありましたので倉吉駅周辺を散策しました。

鳥取県の名前の由来ですが、鳥取県のHPによると日本最初の歴史書「古事記」には、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があります。

そして、当時、鳥取平野には、沼や、沢の多い湿地帯で、水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らす狩猟民族が住んでいました。これらの人々が、大和に政権ができてからその支配体系に組み込まれ、

「鳥取部」として従属するようになり、そこからこの地の呼び名「鳥取県」が生まれたとされています

   

倉吉駅前に「お倉とお吉」の銅像がありました。

説明文を読んでみると、「むかし、昔、狩人が水浴びをしている天女の羽衣を見つけ、その美しい天女を妻にしようと羽衣を隠してしまいました。

天女は、泣く泣く狩人の妻となり、やがて月日が流れ、二人の可愛い娘、「お倉」と「お吉」が生まれましたが、しかし、天女はどうしても天のことが忘れられません。

とうとう娘たちから羽衣の隠し場所を聞き出し、天女は天に帰ってしまいました。

残されたお倉とお吉は母を呼び戻そうと近くの山に登り、笛や太鼓を鳴らしましたが、ついに母を呼び戻すことが出来なかったと伝えられています

日本各地にある「羽衣伝説」と同じですが、各地によって少し脚色されています。

このお倉とお吉が倉吉の地名になったと言われています。

  

交流会は、午後5時からです。4時ぐらいのバスで会場の倉吉パークスクエアに向かいました。

鳥取の梨と言えば「二十世紀梨」ですね。会場横の「なしっこ館」では、梨のソフトを頂きました。

  

【交流会】

午後5時からパークスクエアにて交流会が開かれました。会では、台湾・韓国のウオーカーも出席されました。

また、大会のゲストウオーカー、スキーの「萩原健司さん」も出席されました。

参加者は目勘定で約100人ぐらいです。

  

 

萩原健司さんとのツーショットです。

  

  

  

  

約2時間で交流会は終り、事務局が準備してくれたバスでホテルに戻りました。

 

 

 

 


第17回SUN-IN未来ウオーク1日目22km(鳥取県倉吉市)

2017-06-07 17:50:22 | オールジャパンウオーキングカップ

6/3~6/4 鳥取県倉吉市で行われた「第17回SUN-IN未来ウオーク」に参加しました。

倉吉市を含む鳥取県中部地方は、昨年(2016年)10月21日、M6,6、最大震度6弱の鳥取県中部地震が発生しました。町を歩いていると、まだブルーシートで覆われた家が見られます。

今回の未来ウオークは、鳥取県中部地震復興祈念ウオークと称された大会です。

会場は、倉吉パークスクエア。来賓には、スキーで金メダルの萩原健司さんが来られていました。

       

9:00 22kmコーススタート。22kmコースは、天神川沿いに歩き、はわい温泉、東郷温泉を有する東郷湖畔、中国庭園「燕趙園」を通り、途中、伊能忠敬が訪れた「八橋往来」の現存する道を歩きます。

   

会場を出ると、すぐ旧JR倉吉線跡地を歩きます。JR倉吉線は、倉吉~関金の山守駅までの20kmの区間でした。1985年(昭和60年)に廃止されました。

 

天神川の倉吉大橋を渡り、コースは、天神川沿いの側道を歩きます。

  

東伯郡湯梨浜町に入りました。湯梨浜町は、2004年(平成16年)、羽合町、泊村、東郷町の3町村が合併して出来た町です。

温泉(湯)、二十世紀梨(梨)、砂浜(浜)とそれぞれの町の特徴を取って付けられたそうです。

湯梨浜町のマンホールは、梨、温泉、グランドゴルフ、海水浴がデザインされています。グランドゴルフは、旧泊村が発祥地だそうです。

   

田後区集会所の所に「道標」がありました。右、よなご、左、くらよし、東、一の宮?、北、とっとり、南、おかやま。ここは、「八橋(やばし)街道」だったのでしょうか?

コースは、東郷湖に向かいます。(旧東郷町)

    

東郷湖は、周囲12kmの汽水湖で、池の中央から温泉がわき出るという全国でも珍しい湖です。湖畔には、羽合(はわい)温泉、東郷温泉があります。また、ヤマトシジミの産地でもあります。

  

  

更に進むと、中国庭園を有する「燕趙園(えんちょうえん)」があります。これは、鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして平成7年(1995)に建設されました。

 

 

 

四ツ手網は、網(一辺9m)の四隅に竹を張り湖岸の小屋から滑車で上げ下ろしが出来ます。目の細かい網を使い、エビやシラウオの漁をしていましたが、昨年の地震でいくつかの網が壊れたそうです。

    

松崎の所が折り返し地点です。これから松崎の町に向かいます。

  

しばらく歩くと松崎駅の手前が商店街になっています。ここでは、角を生やした女性軍が迎えてくれました。まるで鬼が島に来た感覚です。

商店街のご婦人達がもう一度活性化しようと「鬼が島プロジェクト」を立ち上げました。この女性軍を「鬼嫁」と呼ぶそうです。角が1本の女性は、鬼嫁予備軍だそうです。

鳥取県は、羽衣伝説の地でもありますし、「天女と鬼嫁」実にすばらしい組み合わせですね。(笑)

  

ここがチェックポイントになっており、お接待で東郷湖のシジミ汁が振る舞われました。

  

この松崎で13,8km。ゴールまであと9kmです。再び歩き出します。

 

北山古墳は、全長110m、後円部径70mの山陰地方最大の前方後円墳です。

羽衣石城は南条貞宗によって築かれた城です。「関ケ原の戦い」で西軍に味方しために領地没収となり廃城となるまでの約250年間、南条氏の拠点となっていました。

現在は山頂の本丸跡に模擬天守と「羽衣石城主南条公累代碑」が建てられています。

  

倉吉市に帰ってきました。天神川に架かる竹田橋を渡り、川沿いを歩きます。

  

倉吉東高校の所から会場の倉敷パークスクエアに向かいます。ゴールでは、スタッフの方が笑顔で迎えてくれました。

   

13:22 ゴール!距離は、22、8kmでした。

翌日(6/4)地元紙日本海新聞には、私達の写真が掲載されました。

6/3(土)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鳥取県倉吉市へ

2017-06-06 20:47:19 | 日記

6/3から始まる「SUN-IN未来ウオーク」参加の為、6/2早朝、車で鳥取県倉吉市に向かいました。

本当は、新幹線で岡山まで行き、そこから電車で行こうとも思いましたが、時間が6時間半もかかります。

ETCの深夜割引を利用するため、午前4時までに九州道福岡ICに入りました。すぐ古賀PAで休憩。2時間ぐらい休憩してスタートします。

関門橋を渡り本州へ。

  

中国道を通り三次東JCTから尾道松江道路(無料区間)に出ます。途中道の駅たかの(広島県庄原市)に立ち寄りました。

 

道の駅の中に入ると、広島菜に包まれたおにぎり、沢庵を刻んで卵の中に入れたサンドウィッチ・・・・・・・どれも美味しそうでついつい買ってしまいます。

  

道の駅の横には、「雪室」がありました。雪室の中は、1℃~2℃。入っていると寒いぐらいです。この中には、リンゴジュース、米、そばなど貯蔵されています。

この辺りは、中国山地に囲まれ、冬は豪雪地帯だそうです。

    

三刀屋ICから山陰道に入ります。もうお昼になってきましたので、皆美館の「鯛めし」を食べに松江で途中下車します。

皆美家伝「鯛めし」とは、そぼろにした鯛の身を、ゆでた卵の白身のみじん切りや、裏ごしした黄身と一緒に、ご飯の上にのせ、ワサビ、大根おろし、ねぎ、海苔を添え、だし汁をかけて食べる。

松江皆美館が、家伝として伝える料理である。 鯛めしは明治二十一年創業時より始められた。江戸時代の文化文政のころ、不昧公と呼ばれた七代藩主、松平治郷(まつだいら・はるさと)が、

長崎に出向いた御用人から献上された 西欧料理にヒントを得て、日本風にアレンジしたものをいう。資料は無く真偽はわからないが、郷土史家は、むしろ茶会の懐石料理の流れをくむとみている。

というのも不昧公は茶道に知識が深く、不昧流という一派を起こしたほどの人である。しばしば茶会を開いたが、これに付き物の懐石料理によく鯛を使っていた資料が残っている。

島根半島沖が鯛の宝庫である関係もあるのだろう。さらに、この懐石料理に汁かけ御飯も出されている。これを初代板前長西村常太郎が考案し、「鯛めし」と名付け、家伝料理に仕立てたのが始まりである。

いずれにしても不昧公とつながりがあるといってよく、当館ではこれを家伝として守ってきた。(皆美館HPより)

 

  

   

前回行った時は、人が多くて食べれませんでしたが、5年ぶりの「鯛飯」です。流石、老舗の味です。美味しかった。またカレイは、2度揚げしていますので、骨まで食べれました。

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15時倉吉に到着しました。走行距離は、550km。駅前のホテルにチェックインして、三朝温泉へ日帰り温泉に入りに行きます。

三朝温泉の由来は、およそ八百五十年以上も昔のこと。大久保左馬之祐というお侍さんが、年老いた白い狼に出会い、一度は弓で射ようとしますが、思いとどまり見逃してあげることに。

その夜、左馬之祐の夢に妙見大菩薩が現れて、白い狼を助けたお礼に温泉の場所を教えてくれたのです。以後、救いのお湯として、村人たちの病を治したと伝わります。

三朝温泉は、世界屈指のラドン泉です。

  

入ったのは、創業85年で国有形文化財の指定を受けている「旅館大橋」。入浴料1000円を払い館内へ。

三徳川のせせらぎを聞きながらの入浴です。また、サウナは、温度は50度とそんなに高くは、ありませんが、じっとしていると汗が出てきます。

  

気分もすっきりし、三朝温泉の周囲を歩きました。

  

  

ここ三朝温泉の近くには、日本一危ない国宝観賞と言われる日本遺産の「三徳山三佛寺投入堂」があります。

家内が登ろうかといいますが、パンフなど見ると崖の上を歩くコースなのでパスしました。