よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

近江八幡プチ歩き(滋賀県近江八幡市)

2012-01-28 15:57:23 | ウォーキング
先日親戚の不幸があり、朝一番の新幹線で滋賀県近江八幡近くまで行きました。
葬儀の後、帰りの新幹線まで時間がありましたので近江八幡の町歩きをしました。
私、親戚があるといっても近江八幡は初めての町でいつかは歩いてみたい所でした。

近江八幡の町は、今から約400年前に豊臣秀吉の甥「秀次」によって、織田信長亡き後の
安土の町を再建するかたちで城を八幡山に築いてから始まりました。
秀次の楽市楽座政策により信長が全国から安土に集めた多くの商人たちもここに移り住み
本格的な商業都市が出来ました。
天正16年(1590)に秀次が移封されてから京極高次が城主になりますが、わずか5年後の
元禄4年(1595)には廃城となります。
江戸時代になるとここは幕府直轄の天領として治められ将軍家の通行手形をもった商人たちは、
各藩の関所を優位に超え全国を商い、江戸や大坂にも出店を設けました。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」といった三方よしや、「てんびんの詩」の
舞台がこの近江八幡です。
今でも近江商人のルーツを引き継ぐ会社は、西武鉄道、ふとんの西川、伊藤忠商事などが
あります。


近江八幡駅からバスに乗り資料館前で下車し町歩きの開始です。
町は碁盤の目のように区切られ一見別な時代に来たような錯覚します。

歩いているとヴォーリズの像がありました。
ウイリアム・メレル・ヴォーリズは、県立商業学校の英語教師として招かれ、彼は終生この町に
留まり、建築設計事務所、製薬会社、学校、病院などの事業を展開しました。
メンソレータムでおなじみの近江兄弟社も彼がかかわりました。


少し先に行くと掘割があります。これは「八幡掘」と言って八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河で大津、堅田と並んで琵琶湖三大港の一つに数えられました。
湖上を往来する北陸と関西の物資を満載にした全ての船はこの八幡浦に寄港し町は大いに
賑わいました。
今も残る土蔵や倉庫群は往時の繁栄を物語っています。
また、川の両側には櫻が植えられ春には桜の名所です。

八幡掘の先には「日牟禮(ひむれ)神社」があります。
千年以上の歴史を誇るこの神社は昔から近江商人の絶大な信仰を集めてきました。
鎌倉時代の木像神座像をはじめとする重要文化財などが多く保管されています。
座議長まつり、八幡祭りなどが有名です。

日牟禮神社の先の山が八幡山で昔お城があったところです。
今は山頂までロープウエイがあります。

白雲館
明治10年(1877)に八幡東学校として建築された白雲館は、八幡商人や地域住民の人々の
熱意と協力で当時6000円の費用をかけて建設されました。
開校時の児童数は男115人、女117人計232人と記されています。
学校として使用された後は役場、郡役所、信用金庫、と経て平成6年に建設当初の姿に
復元されました。

西川庄六邸(非公開)
黒塀に見越しの松・・・・何か「お富さん」に出てくる光景ですね。
2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いしました。
3代目頃になると江戸日本橋4丁目にも出店し九州島津藩の御用商人になるなど
西川利右衛門に次ぐ豪商となりました。
8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田文書」氏らとの交流もありました。
現在も東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として活躍中です。


森五郎兵衛邸(非公開)
初代五郎兵衛は伴傳兵衛門家に勤め、別家を許され煙草や麻布を商いました。
やがて呉服、太物など取り扱いを増やし江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど
活躍しました。昭和6年(1931)村野藤吾設計により東京日本橋室町に7階建ての近三ビル
(屋号 近江屋の近、三左衛門の三により命名)を建築し現在も「近三商事」として健在です。

西川甚五郎邸(非公開)
ふとんの「西川」の基礎を築いた人物です。

西川太郎右衛門邸(安南屋)
慶長8年(1603)西村家2代目の次男として生まれ20歳のとき角倉了以の朱印船で長崎から
安南(ベトナム)に旅立ちます。安南で商いに取り組みました。
帰国の為長崎に帰ってきますが日本は鎖国の世であり上陸は許されず安南の地で没しました。

伴屋右衛門邸
屋号:扇屋。寛永年間に東京日本橋に出店し麻布、畳表、蚊帳を商いました。
5代目は18歳で家督を継ぎ大坂淡路に出店。学問にも興味を持ち本居宣長、上田秋成、与謝野蕪村
らと親交があり国学者にもなりました。



一通り歩いてみると「朝鮮人街道」という石碑を目にしました。
これは、江戸時代将軍が変わるたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は
役人の他に文人や学者など多いときには500人規模でした。
1年もの歳月をかけたと言われています。
行程はソウルから江戸まで約2000kmになりますが、近江八幡を含む彦根から野洲までの
一部の地域で朝鮮人街道と呼ばれています。

通りには、和菓子屋さんやバームクーヘンで有名な店などがありました。
30分ぐらいの町歩きでしたが次回は時間をかけてゆっくり廻ってみたいと思います。







第20回指宿菜の花マーチ(第2日目)20km

2012-01-26 05:00:00 | ウォーキング
2日目は「なのはな館」からのスタートです。
天気予報では、曇り9時ぐらいから晴れなんですが、7時の出発早々から雨が降ってきました。
傘をさしてのスタートです。(本来20kmは8時半のスタートですが帰りのことを考え早めに
スタートしました)

このコースは指宿港からの日の出がとても綺麗なんですが、雨のため見ることができません。
山川駅の少し先が20kと30kの分岐点。
20kmはここから右折していきます。

コースはなだらかな坂になってきます。
途中、行橋から参加された方とお話しながら歩いていきます。
その方は昨年の「行橋~別府100kmウオーク」に参加された方でそのときの事を
話していただきました。いつか、私もチャレンジしてみようかな?

鰻池にやってきました。


ここには鰻温泉があってあの西郷隆盛が療養の為訪れた所です。
最近この温泉もテレビで取り上げられゲストが温泉に入ったりしていますが、
とても熱い温泉だそうです。
また、この鰻温泉の接待はウオーカーにとってとても楽しみな所です。
「スメ」と言って温泉の蒸気でゆで卵、ふかし芋、お菓子、カツオ節を入れた味噌汁などの
サービスがあります。これが実に美味しいのです。
ここだけの話ですが、ふかし芋3個頂きました。(笑)
朝から降っていた雨も上がったようです。
開聞岳はまだ雲がかかっていてはっきり見ることができません。

コースは山道を上り下りしながら歩いていきます。
30kmの速い方はもうここで私たちを追い越していきます。
ついていこうと思ってもとても追いつけません。

指宿市街地に入ってきました。
橋牟礼古墳の前を通り指宿駅へ。
駅には昨年から運行を始めた「指宿のたまてばこ」という電車が止まっていました。
(「たまてばこ」というネーミングは、長崎鼻の龍宮伝説によるものです)
指宿駅のチェックポイントを通るとゴールまであと2km余り。



11時19分、なのはな館に無事ゴールしました。

ウオーキングを始めて最初に参加したのがこの大会。
始めは肝試し的感覚で参加したのですが、毎年毎年指宿の魅力にはまっています。
また来年も参加したいですね。

ゴールの後車を鹿児島市内に走らせ桜島を見学に行ってきました。
雄大な桜島、これもいいですね。







第20回指宿菜の花マーチに参加しました(第一日目25km)

2012-01-25 14:23:06 | ウォーキング
今年もまた指宿菜の花マーチに参加しました。これで5年連続の参加です。
1/21福岡の自宅を午前2時半に出て会場のかいもん山麓公園についたのが午前7時半。

会場内には満開の菜の花があります。8時半25kmコーススタート。
今年は20回の記念大会ということで長崎鼻を通る設定になっています。
参加された方のゼッケンを見ると北海道から九州まで日本全国にまたがっています。
ゼッケンの住所を見て声をかけて見ますとブログ友達の札幌・Nちゃんのお知り合いだったり、
藤沢・Sさんのお知り合いだったりします。
その方たちは私がお友達だというと皆さんびっくりされます。(笑)
その中の福島いわきの方は4~50人の団体で参加されていました。
そしてゼッケンには「応援有難う」など書かれています。


約1時間半ほどで長崎鼻に到着しました。
この長崎鼻は、家内と結婚して初めて夫婦旅行した場所です。
あの時は、長崎鼻パーキングセンターには「南国情話」の歌が流れていたと記憶しています。
♪南の風に咲いて散る ハマユウかなし恋の花 薩摩娘は長崎鼻の・・・・♪
今でもこの歌は歌えます。(笑)
私知らなかったのですが、この長崎鼻にも「竜宮伝説」があるのです。
竜宮伝説は日本の各地にありますが、長崎鼻にはウミガメが産卵に訪れます。
地元の漁師さんなどが手厚く保護したからそんな伝説が出てきたのではないでしょうか?



この竜宮神社は浦島太郎と乙姫様が出合ったところとして今では恋のスポットとして
貝殻に望みごとを書き奉納します。
見てみると沢山の貝殻が奉納されていました。
そういえば、指宿枕崎線の急行列車のネーミングも「たまてばこ」ですね。
納得しました。

長崎鼻というとキンギョソウの栽培も盛んです。
キンギョソウと開聞岳よく似合っています。
ついでに長崎鼻の灯台の方まで寄り道してみました。
向こう側が九州最南端佐田岬の大隅半島です。
実に気持ちのいい眺めです。

長崎鼻を後に歩き出すとチューリップが沢山咲いています。
足を止め記念写真を撮ります。
チューリップの横にはパンジーで「タツノオトシゴ」をイメージしています。

今日は気温も17度ぐらいあり、歩いていると汗が額から落ちてきます。
東の方では雪のニュースが入っていましたがここは春満開です。

JR西大山駅には11時過ぎに着きました。
すぐ時刻表を見に駅に入りますが電車が来るにはまだ1時間以上あります。
ここにはポストも菜の花にあわせ黄色です。
駅前ではお漬物屋さんがお漬物の接待をされています。
ラッキョのワイン漬けや菜の花のお漬物などどれも美味しかったです。


12時半過ぎには「唐船峡」に到着しました。
ここが「流し素麺」発祥の地です。
私も30数年前にここで素麺流しを頂きましたが美味しかったです。
この唐船峡には、珍しい石が立てられていたのですが探してもみつかりませんでした。

コースも終盤にかかってきました。
畑一面に菜の花が咲いています。
また、この菜の花が開聞岳とマッチしてとても綺麗です。

牧聞神社を過ぎるとゴールまであと1kmです。
ここからがこのコースの難所の急な坂道です。
ゼイゼイゼイゼイ言いながら息を切らして登っていきます。
13時53分ようやくゴールしました。ゴールでは指宿のゆるキャラ達が迎えてくれました。

指宿菜の花マーチには山川の砂蒸し温泉の割引券も付いています。
冬の最中ですがここ指宿は暖かいです。気温も16度から18度ぐらいです。
歩いていて汗をたくさんかきました。
勿論砂蒸し温泉に直行です。
横になり砂をかけてもらうと、うとうととしてきました。
背中の方からじわりじわりと温かくなります。
20分ぐらい寝ていたでしょうか、自分の汗が口の中に入ってきましたので
目が覚めました。本当に天然のサウナですね。
気持ちがよくなり今晩のホテルに直行しました。      











門司往還(参勤交代往還)小倉~門司港

2012-01-17 19:16:32 | 長崎街道歩き
先日長崎街道をゴールして次は山陽道を歩きますと宣言しました。
あれから資料などを調べてみますと江戸後期長崎街道が門司大里まで延長されていたのです。
江戸後期には大里から船で本州に渡る人が増えていました・
あの長崎街道を歩いた象さんも、歩いて大里まで行きそこから船に乗って下関・赤間関に到着しました。

この道は長崎街道なんですが、門司往還とか、参勤交代往還とも呼ばれています。
私もこの街道を歩いてみることにしました。
この街道は地図など資料が乏しく何年か前に歩いた「無法松2DM」などを参考にしました。

前回ゴールの常磐橋を渡り京町商店街に入っていきます。
常磐橋は伊能忠敬が測量を行ったモニュメントがあります。



商店街をまっすぐ進むと左手に小倉駅が見えてきます。
門司往還はというと、デパートの中を通っているんです。
折角ですのでデパートの中を通ろうと思いますがまだ10時前、デパートの開店まで
小倉駅で時間をつぶすことにしました。

デパートの開店に合わせ歩いてデパートの中を歩いてみます。
デパートの中の街道は催事用のワゴンなどが街道?いっぱいに並べられていました。

砂津川の手前に「西顕寺」があります。
ここには「岩松助左衛門」の墓があります。

説明文によりますと岩松助左衛門は、
文化元年(1804)小倉城外の長浜浦に生まれた。岩松家は代々庄屋を勤め助左衛門も18歳で庄屋となり、のち文久元年(1861)海上御用掛難破船支配役を命じられました。
小倉沖の藍島白洲付近は暗礁が多く、西国一の海の難所として船人から恐れられ難破船の絶え間がなかった。
助左衛門は深くこれを憂い文久2年(1862)灯台建設を発起、白洲灯篭築立願書を藩に提出した。
然しその時期がちょうど幕末維新の変動期であったため、事業の進展は容易でなく助左衛門を苦境に
追い込んだがその決意はひるまなかった。
明治4年灯台建設事業は国に引き継がれ明治6年宿願の白洲灯台は点灯されたが助左衛門はその完成を
見ることもなく前年の4月病没した。享年69歳でした。
助左衛門の美挙は小学校国語教科書にも掲載され全国的に紹介された。


西顕寺の先を左折しJRの線路を横断すると「門司口橋」につきます。
ここは小倉城郭の門の一つで昼夜常に開門しており番所には数人が交代で勤めていた。


この門を過ぎると貴布祢神社があります。
このあたりは昔、企救の長浜と言って境内には万葉歌碑が建っています。


注)豊国の企救の長浜ゆきくらし  日の暮れぬれば妹をしぞ思ふ
(訳)豊前の国の企救の長浜を歩き続け 日が暮れてしまえばそぞろにいとしい人のことが思われる


この神社の先の右側が岩松助左衛門の生誕地です。
街道は199号線沿いに出てきました。
昔はこの辺りが海岸線だったのでしょうか、松並木がそれを物語っています。

ここで街道をはずれ手向山の武蔵、小次郎の碑を訪ねることにします。
この碑は宮本伊織が建立したものです。
宮元武蔵の養子伊織(武蔵の兄の子供)は、寛永3年(1626)播州明石藩主だった小笠原忠真に
15歳で仕え寛永9年小笠原氏が小倉に入国したときには若くして知行2千5百石の家老だった。
武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられていますが寛永17年には熊本に移り、正保2年(1645)
5月19日に没しました。
碑は伊織が藩主忠真公から拝領した手向山に武蔵を偲んで建てられました。
碑を見ると小さい字で刻まれています。
碑の裏側にはその意味が書いています。


武蔵の碑の数十メートル先には小次郎の碑も建っています。

この手向山から下関側を見ると巌流島が見えます。
  
巌流島は元々「舟島」と呼ばれていたそうで巌流とは小次郎の号だったそうです。
またこの手向山は、明治になり日清、日露戦争の為か、砲台があったところです。
この手向山の山手には幕末幕府軍と長州藩の戦(豊長戦争)の戦場になった鳥越峠があります。


街道は大里(だいり)の町に入ってきました。

大里は昔,柳ヶ浦と呼ばれていましたが、寿永2年(1183)山鹿(現福岡県芦屋町)から逃れてきた
平氏が安徳天皇の仮在所として内裏(だいり)を置いた所からこの名がつきました。
享保年間に「内裏」から「大里」に変わりました。

大里宿は小倉藩主小笠原忠興公が本土への渡海には大里が最適の地とし宿場を設置しました。
以来江戸中期以降は九州の参勤大名の8割以上が大里宿から渡海したので幕末まで大いに繁栄しました。
直線5町52間(646m)の町並みでここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠などが
立ち並んでいました。また密航船や長崎へ向ける品物の検品の為番所も設けられました。
          
大里宿を歩いていると西生寺があります。
ここは又の名を「判行寺」(踏絵寺)といって寛永16年(1639)徳川幕府による宗門改め政策により
キリスト教は禁制となりそれに伴い踏絵が実施されました。
豊前国企救郡に於ける踏絵は毎年3月3日頃西生寺にて行われ幕末まで続きました。

門司往還は、この大里までですが、平成の今、下関への渡航は門司港からになっています。
門司港まで歩くことにします。

199号線の左側は関門海峡です。



ブログ仲間のHさんは下関に住んでおられます。
Hさんの方に向かって「お~い」と呼ぶと聞こえそうです。
次回いつになるかわかりませんが、私の次の街道歩きは海峡を渡って下関からスタートしたいと
思っています。


※小さい写真はクリックしていただければ大きくなります。







「鼎泰豊(ディンタイフォン)」の小籠包

2012-01-13 17:10:57 | グルメ
12月に台湾に行った時、小籠包で有名な「鼎泰豊」に行きました。
この店は、1993ニューヨークタイムスで世界の10大レストランに選ばれ、日本にも支店があります。
我が福岡にも昨年3月博多駅の博多阪急5階にオープンしています。


夜の台北市内は右も左もわからず、タクシーに行先を漢字で書いて行ってもらいました。
店の前に着くともう人でいっぱいです。
会話を聞くと日本から来られた方が多いみたいです。
また、店の前は18度ぐらいの気温なんですがストーブが置かれていました。


順番のカードをもらい待つこと20分、ようやく店内に入りました。
店内は若い女性の従業員がテキパキと動き回っています。

私たちはもう夕食は済ませていましたが、(ここに来る為夕食はセーブしていました)小籠包、餃子、
ほうれん草の炒め物、台湾ビールを注文しました。
  

しばらくすると小籠包が運ばれてきました。
食べ方はポン酢に刻み込んだ生姜を載せレンゲで食べます。
アツアツの小籠包を崩さないように口の中に入れるとじわっと肉汁が広がっていきます。
さすが本場の小籠包、とても美味しかったです。

    
これだけで日本円1800円ぐらいだったかな?


若八幡宮と十日恵比須神社(福岡市博多区)

2012-01-12 10:26:44 | 日記
1/9(月)家内の厄払い祈願に福岡市博多区の「若八幡宮」に行きました。
多いだろうと思って早めに出かけたのですが、若八幡宮に着くともう200~300人の行列。

若八幡宮は、厄八幡宮として有名で福岡は勿論九州各地あるいは関東のほうからもお参りに来られます。
約2時間ほど待って本殿へ。

20分ぐらい祈願していただきお札を頂きました。


そのあと、東公園の「十日恵比須神社」へ。
ここも多いです。

また、この日は、昼から博多のきれい所の「博多券番」がお参りされました。
残念ながら時間がなく見ることができませんでした。


九州にコハクチョウ飛来

2012-01-11 14:33:30 | 
ブログ友達の福島・会津若松Kさん、福井・鯖江Uさんがこの時期、よくコハクチョウをアップされますが
コハクチョウは寒い所のものと考えていました。
ところがそのコハクチョウ九州に飛来してきました。



場所は福岡県糸島市。
コハクチョウは、文献によりますと島根あたりまではよく飛んでくるそうですが、
九州にはめったに飛来しないそうです。



多分夫婦で飛んで来たのでしょうか、仲よく草むらの虫か何か食べているようでした。








長崎街道を歩いています№17(黒崎~小倉)

2012-01-10 11:33:22 | 長崎街道歩き
1月7日長崎街道(黒崎~小倉)を歩きました。



JR黒崎駅に8時45分到着。
すぐ黒崎の総鎮守の岡田神社に参拝。



それから街道歩きに出発します。
街道は熊手商店街の中を通ります。

    

まだ朝が早いのか商店街も開いている店舗が少ないです。
商店街に中に「興玉神」があります。
これは道租神で道行く人の安全を祈っています。



商店街でパン屋さんを見つけました。
アンパンフェアなど店頭に書いてあり何かおいしそうでしたので
つい買ってしまいました。



街道はJR鹿児島本線を横断します。
踏切の手前に「桜屋跡」があります。
ここは1800年ごろ創業し主に鹿児島、熊本、佐賀藩の定宿として利用されました。
又の名を「薩摩屋」。
西郷隆盛ら勤皇の志士たちも宿泊したそうです。
今はマンションになっており当時の面影はありません。




地図では「町茶屋跡」とありますが、いくら探しても見当たりません。
多分ここあたりでしょうか?



海蔵庵というお寺に「黒崎宿東構口」がありました。
天和元年(1615)黒崎城を廃し城の南側にあった掘を埋めて構口を開き番所を設けて
行旅の人を監視したのが始まりで黒崎の宿場を通過するのは必ず東と西にある構口で
検査を受けました。東構口には4人、西構口には3人が常時監視していました。



構口を先に進みますと新しい記念碑が建てられています。
平成23年ですのでつい最近です。
ここでは黒崎駅周辺の道路工事で発掘された本陣跡や茶屋跡の説明がされています。
黒崎にも城があったのですね。
城跡はすぐ近くの山の上に建てられたそうですのでちょっとここで城跡見学の寄り道をします。





 ここで我が藩、筑前黒田藩について
慶長5年(1600)関が原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した
黒田長政(黒田官兵衛の長男)は翌6年から福岡城の築城にとりかかった。
(福岡という地名は黒田家のゆかりの地岡山備前邑久郡福岡村(現岡山県瀬戸内市長船)からとった)
また同時に国境の守りを固める為、同15年までの間にこの黒崎城をはじめ、若松城、大隈城、
鷹取城、小石原城、左右良(まてら)城の六端城を築いた。
左右良城は杷木町にあり、豊後国をにらんでいたが、他の五城は豊前国をにらんでいた。
豊前細川忠興とは不仲だったそうです。
黒崎城主は黒田24騎の一人井上周防之房が入った。
然し幕府の一国一城の令により元文元年(1615)わずか十数年で城は破却された。




黒崎城址は道伯山に建てられていました。
今は、新日鉄、安川、三菱の工場がありますが、かつてはこの洞海湾の黒崎湊から大坂行きの船が
出ていたそうです。幕末三条実美ら五卿もこの地から上陸したそうです。



城跡を降りて国道3号線に出ます。
ここで少し小腹がすきましたので黒崎商店街のパン屋さんで買ったアンパンがあることに
気がつきました。Dバックから取り出し行儀が悪いですが歩きながら食べていきます。
このアンパン美味しいです。アンパン好きな私ですが今まで食べたアンパンで五本の指に
入るくらいです。



桃園2丁目の信号から右に入ります。
しばらく行くと「前田の一里塚」があります。
ここでは1里について説明が書かれています。
それによると1里は36町、1町は60間、1間は6尺、6尺は1.8m
計算すると1里は3,9kmになります。(本来、6尺は1.824mですので3.94kmかな?)



八幡図書館の近くに「国境石」があります。上のほうが壊れて見えませんが、多分
「従是東豊前国」「従是西筑前国」と書いてあるのでしょうか?
今は筑前も豊前も同じ福岡県ですが、この時代は別の国だったのですね。
街道は「豊前国」に入っていきます。


新日鉄八幡製鉄所が見えてきます。横にはスペースワールドが・・・・

街道の横には新日鉄病院が。このあたりは新日鉄の城下町です。



大蔵という所に差し掛かりました。地図では階段を登るように書いてあります。
階段を登っていくとここが旧街道になります。
今まで旧街道というと街道の側には旧家があるのですが、この一帯マンションやらの
高級住宅地です。唯一街道の道標を見つけました。



「荒生田の一里塚」があります。
先ほどの前田一里塚を10時48分に通って今11時47分。時速約4kmの街道歩きですね。



この荒生田一里塚の高見神社側にも「国境石」が建っています。
三条の国境石です。
高さ約4mぐらいで「従是西筑前国」と書いてあります。
又、この一帯高級住宅地でこの国境石との対比も面白いです。



高見郵便局を過ぎ板櫃川に出ます。
昔はここは橋がなく川を渡っていたそうです。
今は丈夫な橋も架かっていますので平成の旅人の私たちは橋を渡っていくことができます。

街道もこのあたりは案内板が少なく、まして街道がなくなった所もあります。
あまり遠回りになってはいけないと思い、近くの方に聞いたりして歩いていますが、
中には私のDバックに「長崎街道を歩いています」とプレートをつけていますので
止まって地図を見ていると率先して声をかけ教えていただけます。本当に有難いです。

車社会の現代、ナビで目的地を入れれば確実に目的地まで案内してくれます。
私が街道歩きに興味を持ったのがSNS仲間のRさんが東海道を挑戦されたからです。
Rさんの紀行ブログを読んでいますと何か私も街道歩きを挑戦したくなりました。
かといって、仕事をしているので東海道は無理だし日帰りで行ける九州の街道として
一昨年は唐津街道、そして昨年からの長崎街道を挑戦してみました。
いつの日かわかりませんが私も東海道へ挑戦したいと思っています。
普通の人は馬鹿ではないかと思われたりもしますが、この街道歩きをやってみたら
面白くてたまりません。学校の歴史では教えてくれないものがたくさんあります。
道をよく間違えますが、それも楽しい思い出になります。

話が横道にそれましたが、茶屋町に入りました。
ここには九州鉄道(現在のJR九州)が明治24年4月に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁があります。
煉瓦を長手と小口を交互に積んだイギリス式の橋梁です。
100年以上経った今でも現存しています。



街道はここから小倉北区に入ります。
「みずかけ地蔵」があります。
昔、旅人が道中の疲れをここで休憩し水を飲んだ所です。
由来を見てみると神功皇后が新羅出兵の際、立ち寄りここで水を飲んだそうで2000年以上の
歴史があります。また弘法大師が唐より帰国され巡国のみぎりここに立ち寄ったと記録が
あるそうです。



小倉の中心地にやってきました。
このあたり今では裁判所や検察庁などが立ち並びますが、小倉城「清水口門」があった所と
推測されています。昔は武家屋敷だったそうです。



西日本新聞社の所には「到津(いとうづ)口門」があります。
地図では石碑が建っていましたが今では案内板のプレートがあります。



西小倉駅にやってきました。もうゴールはすぐそこです。
「大門跡」もこのあたりにあったそうです。



魚町の商店街を抜け、ゴールの「常盤橋」が見えてきました。
午後2時27分常磐橋へゴール。
昔、この常磐橋は、九州の街道の拠点になっていたそうです。
常磐橋の下からは、下関行きの船の発着所があったり、また門司往還、中津街道、秋月街道、
唐津街道そしてこの長崎街道の起点になっていました。



常磐橋の袂の所では長崎街道を通った象さんに因み「白象饅頭」が売られていました。
私たちも街道踏破記念にこれを買って帰りました。
この店では、500円で店主手作りのランチもあるのですが、もうランチタイムは過ぎており
残念ながら食べることが出来ませんでした。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨年1月から始めた「長崎街道」 1年がかりでようやく踏破することができました。
最初の長崎県ではキリシタン弾圧の歴史を見て心が痛みました。
佐賀県では街道に沢山のえびす様が迎えてくれました。
冷水峠では、対向してくるトラックが怖く引き返そうかな?などと思いました。
内野宿、木屋瀬宿は昔のままの姿が現存しており感激しました。
昔の人は草鞋履きで1週間でこの街道を通ったそうですが、ウオーキングシューズを履いている
私たちは2週間もかかってしまいました。(昔の人は一日に10里(40km)ぐらい歩いたそうです。)

応援していただいた皆様本当に有難うございました。
また私の拙いブログを読んでコメントくださいました皆様、有難うございました。
次回はいつになるかわかりませんが、別な街道に挑戦したいと思います。
                               (長崎街道228km 完)


















長崎街道(長崎~小倉)228km踏破しました。

2012-01-07 20:25:36 | ウォーキング
今日(1/07)長崎街道(黒崎~小倉)を歩き無事長崎街道(長崎~小倉)を踏破しました。
思えば昨年1月から始めましたこの街道歩き、昔の人は約1週間ぐらいで踏破したそうですが、
私の場合「道草」が多く約2週間かかってしまいました。





地図が古く道を何度も何度も間違えましたが何とか228km歩くことが出来ました。
応援していただきました皆様本当に有難うございました。



この日のブログは写真を整理してアップしたいと思っております。

次回の街道歩きはどこにしようか今考えています。
もうこのまま山陽道を歩いて京都までいこうかな?など思っていますが
しばらく休養して(お金を貯めて)出かけようかなと思っています。

本当に応援有難うございました。

写真は常盤橋袂で売っている「小象饅頭」です。


唐津街道を行く№10(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:22:52 | 唐津街道

中州の中島橋を渡ると城下町「福岡」に入ります。
よく、福岡と博多を間違えられますが、博多は商人の町、福岡は城下町です。
明治時代、福岡の市名を福岡にするか博多にするかで投票がありました。
投票の結果、僅差で福岡になりました。
博多の名前は昭和47年政令指定都市になった時、博多区として残されました。

福岡部に入ると、街道を少しそれ、街道と平行している旧電車道に入ります。
すぐ右手には「水鏡天満宮(すいきょう)」があります。
ここは、「菅原道真が京より太宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、四十川
(現、薬院新川)の水面に自分の姿を映された場所であるとされ、今泉に社殿が建造され、
「水鏡天満宮」「姿見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。
1612年福岡藩主黒田長政によって福岡城鬼門にあたるこの地に移住した。
福岡市の中心地「天神」は、この天満宮に由来します。また、鳥居の「天満宮」は
福岡出身の初の総理大臣「広田弘毅」が小学生の頃書いたものです」
改めて、鳥居を見てみると、とても小学生が書いたとは思えない立派な字体でした。




※写真説明 左上、中島橋からキャナル方面、右上、福岡市の中心部天神交差点
        左下、水鏡天満宮、右下、水鏡天満宮鳥居

時間は2時を過ぎました。箱崎からここまでは、そんなに距離はないんですが、
彼方此方寄り道している為か、距離以上に万歩計の数字が上がっています。
この街道歩き、1月2日にスタートしました。お正月でお昼を食べたいのに
食堂は休みでお昼に苦労しました。
然し、今回は、福岡市の中心地「天神」。家内の情報では、ビルの地下に安くて
美味しい店があるということ聞き、(家内はこの天神の某社に勤めています)
即、そこに行きました。
早速そこのお店の「おまかせ定食」を注文し、メニューを見るとグラスビールが
100円であります。唐津街道も半分を超えたし、また今日は暑いし、いろいろ
理由を考えながら二人でビールで乾杯。
babyさんがいつも言われているように歩いた後のビールは美味しいですね。

30分ぐらい休憩のあと、再び街道へ。
今日はここから20KM先の前原宿まで行きたかったのですが、
寄り道ウオークが多く、前原宿までは無理ですので、行ける所までいくように
しました。

天神の交差点から100Mぐらい行った所の証券ビルの一角に福岡民謡「黒田節」の
モデルになった「母里太兵衛」の屋敷跡があります。
この一帯は、大名町と言って、福岡藩上級武士の屋敷があったところです。
「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに
のむならば これぞまことの 黒田武士♪」
この黒田節には、こんな逸話が残っています。
黒田長政の使者として伏見城の滞在中の福島正則を訪ねた太兵衛は、
酒を勧められるが、酒豪で有名な太兵衛は、使者であるからと断った。
私だったら、いただきますかと言ったと思いますが、彼は仕事ということで
断り続けます。あまり断るので正則は何か太兵衛に言ったのでしょうね。
そこで正則は、大盃を出し、「これを飲み干せば好きな褒美をとらす」と
言いました。太兵衛はあまり言われるのであえて受け、大盃になみなみと
注がれた一気に飲み干すと、褒美として正則が秀吉から拝領した
名槍「日本号(ひのもと)」を所望します。
正則はしぶしぶ「武士に二言はない」といって太兵衛に「日本号」を
渡します。これが民謡の黒田節になっているんです。

赤坂門の交差点を抜けると福岡城が見えてきます。
私が殿様だったら沿道にお迎えがずらっと並んでいたのでしょうが、
私は、一市民。お迎えなどありません。(笑)
一応、殿様気分になったつもりで裁判所横の上の橋から城内に入っていきました。



※写真説明 左上、母里太兵衛屋敷跡、 右上、赤坂門の古い赤煉瓦塀
   左下、福岡城上の橋、右下、福岡城本丸入口

このあと、福岡城内にある「鴻臚館」を見学し、これより西の姪浜宿手前まで
歩きました。
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本日の歩行距離21,5KM(寄り道が多く距離は稼いでいます)
交通費 地下鉄540円、
昼食代 おまかせ定食@880、グラスビール@100
おやつ 酒饅頭@90、蜂蜜饅頭@100