6月8、9日と2日間 山陽道を歩きました。
福岡の自宅を車で5時に出て岩国駅には9時半に着きました。岩国駅に車を置き前回ゴール地の「関戸」までは
バスでいきます。関戸に着いたのは10:15。まず客神社(くろうど)で旅の安全を祈願します。
今回より私のDバックには、新しい風車がついています。これから暑くなる時期、扇風機代わりになるのではないでしょうか?
客神社をあとに小瀬峠に向かいます。途中「山陽道」の碑があります。近くの方に尋ねますと途中で行き止まりになっているそうです。
したがってまっすぐ歩きます。この峠長い上り坂で汗だくだくです。
頂上付近にも「山陽道」の碑がありました。
下りてくると右側にも「山陽道」の碑があります。本当はこの道でしょうが、そのまま真っ直ぐ行きました。
関戸を出発してから約40分、小瀬の町に着きました。小瀬は昭和30年に岩国市と合併し、街道沿いに合併記念碑が建っています。
この記念碑の先が小瀬川です。ここに「
吉田松陰の歌碑」が建っています。
夢路にもかへらぬ関を 打ち越えて今をかぎりと 渡る小瀬川
安政の大獄で幕府の召喚をうけ籠で護送されながら小瀬川に差し掛かり防長二州と最後の別れをされるときに詠まれたものです。
安政6年5月28日です。それから1か月後江戸に着き幕府の調べを受けられましたが国を思う姿勢が幕府には通ぜず同年10月27日
江戸伝馬町の獄舎で処刑されました。30歳の若さでした。
この書を書いたのが安部首相の祖父の「岸 信介」元総理です。
両国橋に差し掛かりました。この橋の真ん中が県境です。
広島県に入ってきました。昨年12月8日下関を出発し、14日目で達成しました。
然し、兵庫西宮まではまだ400km余り・・・・・・・先は長いです。
街道は広島県大竹市木野(この)に入ります。
小瀬川は木野側では木野川と呼ばれています。地図表記は「小瀬川」。また山陽道も広島側では西国街道になります。
両国橋を渡り右の方に行くと「木野の渡し」があります。
渡し賃は、武士が無料、一般の人は米1合でした。
小瀬川では洪水が起こるたびに川の流れを変えていました。このため安芸では洪水から村を守るため「福島堤防」と呼ばれる「まき石護岸」や
その上流に「小林三角和久(こばやしさんかくわく)」と呼ばれる三角形の石組みの堤防を築きました。
これらの堤防は何百年もの間洪水に耐えながら今もその役割を果たしています。
木野の町は宿場町ではありませんが、小瀬川が雨などで渡れなく足止めされされたようです。
そのために仮の宿場になっていました。
更に小瀬川沿いの西国道を歩きます。
途中「長州戦跡 苦の坂」入り口の案内板があります。
案内板によると
ここは、西国街道苦の坂です。木野側に4町9間(453m)の急坂を持つこの天剣は古くから大河原山・立戸山とともに、防長に対する戦陣の敵地として注目されました。
芸防の国境がにわかに戦雲につつまれ、二分された国論を背景に、幕府軍と長州軍が、小瀬川を挟んで合戦の布陣を終わったのは、慶応2年(1866年)の6月13日でした。
幕府方は、正面軍として、彦根藩と高田藩の一手を大竹口へ、側面軍として、高田藩の主力を立戸山から苦の坂に進めました。
これに対して、長州軍は、本藩(萩)の一手と岩国藩の主力を幕府正面軍に配置し、本藩の有力な遊撃軍を要所に配備して機会を待ちました。
翌14日の明け方、幕府軍正面軍の先攻により合戦のひぶたが切られました。長州軍は直ちに烈しい砲火と銃撃をもってこれに応じました。
遊撃軍も未明に行動を起こし、まず住民の立ち退いた中津原に進入し、ここで部隊を二手に分けて、一手は、幕府軍正面軍の側面に向かい、
もう一手は、小瀬村小原道を進んだ他の一体と共同して、幕府軍側面軍の主力に攻撃をかけました。
この苦の坂をめぐる両軍の攻防は、烈しい白兵戦でした。ついに勝敗は決し、勝を制した長州遊撃軍は更に立戸山に進出して、幕府正面軍の背後を抑えました。
この為、このときすでに敗退しつつあった幕府正面軍も退路をたたれて総崩れとなり、逃げ送れた多くの兵士を残して船で逃走しました。
この旧街道を歩いて行こうと思いましたが、何年か前まで頂上付近で通行止めになっているそうで(現在は知りません)もし通行できなかったら、ということと
現在、入り口には1mぐらいの草が茂っており危険看板には「マムシ、ハチ注意」となっており安全面を考えトンネルの方を行くことにしました。
長州戦跡の碑の先には「滕池(ちきりいけ)神社」があります。
言い伝えによると推古天皇(600年ごろ)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸に移るとき2歳の嬰児を連れてこの坂に差し掛かった。
あまりにも急坂で「えらや苦しやこの坂は金の滕も要らぬものを」と呟かれ持っていた滕を投げられたら麓の池に飛んで行った。
その場所に今の神社を建てた。そうして坂の名前も苦の坂といわれるようになった。
※滕とは何か辞書で調べると 織機の部分品。経糸を巻く中央がくびれた棒状のもの。となっています。
滕池神社を過ぎると国道186号線の油見トンネルになります。隣は高速道御園トンネルです。西国道はこのトンネルの上を通るようになっていますが
途中通れるかどうかわかりませんので油見トンネルを通ることにします。
総延長1120mのトンネルを渡り大竹駅を経由して高速道路付近にある西国道に向かいます。
山陽自動車道の横に「橋姫神社」があります。よく気をつけてみないとわかりませんがこの神社は
旧西国街道一の坪馬ころ橋の下に鎮座の姫神様は昔からセキ、ゼンソクまた交通の守護神として広く尊崇されていた。
山陽自動車道建設にあたりこの地に遷座されたそうです。
旧小方町に入ってきました。
町の入り口に芭蕉の「けごろもの歌碑」が建っています。※「けごろも」と変換しようとしましたがこの字がありませんでした。
けごろもに 包みてぬくし 鴨の足
「けごろも」とは毛皮でつくった防寒着だそうです。
小方町を歩いていると旧家が残されています。
ウダツのある家、白壁の蔵・・・・・・こんな風景を見るとうれしくなってきます。
玄関先にはきれいなお花が咲いています。
もう時の記念日ですね。トケイソウも咲いています。この花は面白い形をしていますね。なんという名前だろう?
山陽本線の歩道橋を渡りそこから急な坂道を上ると「亀居城址」があります。
慶長5年(1600年)、関が原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は領国八カ国のうち防長二カ国を与えられ、その本城広島を去り、
東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二カ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、
小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。このとき小方の城将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、
慶長8年(1603年)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
五年の歳月を経た慶長13年(1608年)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、
これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました
なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃、正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、
完成間もない慶長十六年(1611年)、この城は取り壊される運命となりました。(案内板より)
ここは大竹市の桜の名所になっており桜の季節には約700本の桜が咲くそうです。
今日のゴール地「JR玖波駅」には15:04に到着しました。駅に着くとすぐ岩国行の電車がありそれに乗って岩国へ。
それから約1時間かけ宿泊地徳山に戻りました。明日は宮内ぐらいまで歩こうと思います。
本日のGPSです。