2/11は、JR九州ウオーキングで「筑後吉井のおひなさまめぐりウオーキング」に参加しました。
8時25分に筑後吉井駅に到着。到着して受付を探しますが、受付がない????駅の方に聞いてみると9時半からの受付とのこと。
どうしようかと迷いましたが、このコースもう何回も歩いていますので大体のコースは知っていますのでマップなしにスタート。
江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町(筑後吉井)。筑後川に堰を築き、水を引き込み、
豊かな農産物が育ち、酒造業、製麺業、精鑞などの産業が生まれ財をなします。今ある白壁土蔵の家々は、その富の象徴でもあり、明治初期までに、
三度もの大火を経験から、防火対策の意味も含め建てられたものです。その多くが白壁通りと国道210号線に残ります。(観光パンフより)
歩いていると「はやしらいす」という文字が目に飛び込みました。てっきり「ハヤシライス」かな?と思いましたが、ここは、林さんという「米屋」さんです。
先ず初めに吉井町の観光案内所にある「土蔵」に入りました。
今日は、おひなさまめぐりの初日、10時からここで開会式が行われるそうです。その準備の為係りの人は慌ただしく準備をされていましたが、私達を快く迎え入れ丁寧な説明もしていただきました。
雛飾りを見ていると、お内裏様の位置が左であったり、右であったりします。
これは、京雛は、向かって右が「お内裏様」、関東雛は、向かって左が「お内裏様」です。現在の雛飾りは、ほとんど関東雛ですね。
これは、大正天皇がかかわっているそうです。
明治時代、西洋の流れを受けて国際儀礼である「右が上位」の考え方が取り入れられるようになりました。
大正天皇が即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋のスタイルで皇后陛下の右に立たれた事からこの風習が広まったとされています。
明治天皇の時代から皇居は東京に移っておりましたから関東を中心にこのご即位時のスタイルが定番となっていきました
「おきあげ(起き揚げ)」とは、おひなさま、歌舞伎や浮世絵を題材に各家々の女性が手作りで羽子板の押絵と同じように下絵を描いて、厚紙に写し絵を乗せて着物の端切れなどの布地でくるみ、
貼り合わせ、その中に細く削った竹を取り付け藁や畳のへりに挿して飾る雛です。主に箱雛の廻りに彩ります。
次に行ったのが、「鏡田屋敷」。
幕末から明治時代初期に郡役所の官舎として建てられ、うきは市の指定文化財「鏡田屋敷(かがみだやしき)」。
明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住されました。平成3年の台風被害により取り壊されることになっていましたが、
所有者の籠田氏により市に寄付され、修復されたのが現在の鏡田屋敷です。
この建物の正面部分は、1863年(文久3年)に建てられ、その後明治26年(1893年)に背面の座敷や2階の増築が行われました。明治期の吉井らしい豪華な造りとなっています。
(うきは市指定文化財)
ここにもたくさんの雛飾りが展示されていました。JRウオーキングのパンフには載ってないため、雛飾りを見学に来る人がいなく、係りの方がつきっきりで約1時間ぐらい説明してくれました。
係りの方から、三人官女のうち、結婚されているのは誰かという質問をされました。今でしたら指輪をみればわかるのですが・・・・・・・
わからないので聞いてみると、眉を剃って、お歯黒な方が既婚者だそうです。
北東隅の土蔵との間は、庭園となっていて、母屋の東側から南側にかけて水路を引き込んだ池を持つ庭園が広がっています。
庭園の中には、面白い樹がありました。これは、「博打の木」といって、 樹皮ははがれやすく、はがれた跡が赤っぽくなることから、バクチに負けて赤裸になる様にたとえられました。
鏡田屋敷で1時間ぐらい費やしましたので屋敷を出るともうたくさんのウオーカーの方が歩かれています。
「長野水神社」では、白玉ぜんざいのお接待を受けました。
長野水神社は、江戸時代、寛文3年の大干ばつを機に、山下助左衛門をはじめ五人の庄屋が筑後川が流れる大石地区に堰を造り、 掘割を掘って水を引く開削工事を久留米藩に申し出たが、
筑後川を利用した用水路開削工事は難事業であるため、 藩からの許可はなかなか下らなかった。五人の庄屋は失敗したら処刑になる覚悟で請願書を提出し、 この難工事に着手して寛文4年3月完成に至った。
この五人の庄屋偉業を祀ったのが「長野水神社」です。
ゴールは、うきは駅前の「マルシェ会場」です。その前に地元の酒造会社「いそのさわ」の蔵開きが行われていました。100円を払えば、試飲ができるのですが、この日私は車で来ていましたので
雰囲気だけを味わいました。
このあと、凧のコンテストが行われている「道の駅うきは」に向かいました。