よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

指宿菜の花ウオーク番外編

2014-01-31 05:31:45 | 旅行

いぶすき菜の花マーチ第一日目をゴールした後、「Bちゃん&A」さんたちと車で25kmコースに入っていなかった日本最南端の駅「西大山駅」に行ってきました。

ここから見る開聞岳は旅行パンフにも載っている絶景ポイントです。

スマートフォンで時刻表を確かめると西大山駅に着く列車(枕崎行)が13:36です。現在13:15 約20分ぐらい待てば列車が来ます。(西大山駅は一日に上下線16本(上り8本、下り8本)しかありません)

私は、あまり使ったことのない動画を試みました。(スマホやタブレットでは時々映すのですが、デジカメでは初めてです)

列車が着くまで駅周辺を探索するとA・T・Rの看板があります。AKBだったら知っていますが、ATRとは???

Aは大河ドラマの「篤姫」 、Tは江戸時代海運業で名を挙げた「浜崎太平次」、Rは日本に初めてサツマイモ(唐芋)を持ってきた「前田利右衛門」。

略して「ATR」キャッチコピーは『あったまる指宿温泉』だそうです。

    

13:36踏切の警報機が鳴り列車が入ってきました。すぐデジカメで動画撮影開始します。

うまく撮れていたらここでアップする予定でしたが、ハイスピード動画にしていましたので場面がボケて失敗しました。

    

列車を見送った後、「枕崎」に向かいました。

枕崎方面から見た「開聞岳」です。ここもビューポイントです。

    

西大山駅から約1時間で枕崎に到着しました。ナビで枕崎駅を探しますが、普通駅というと駅前のロータリーなどのイメージですが、ここ枕崎駅は細い路地の右側に四阿みたいな建物が駅です。

駅に着くと西大山駅で見送った列車が終点「枕崎」に到着しました。

かつて枕崎には大正年間に開業した民間の南薩鉄道が走っていて昭和6年には枕崎まで開通しました。昭和38年には旧国鉄の指宿枕崎線が開通。

これで枕崎から伊集院まで行くことができました。旧国鉄の枕崎駅は南薩鉄道の枕崎駅を使わせてもらっていました。

然し昭和58年6月加世田豪雨により南薩鉄道は大きな打撃を受け、翌昭和59年廃線となりました。

土地や駅舎は民間に売却され、JR枕崎駅はホームとゲートだけの駅になりました。

そうして平成25年(2013)4月28日民間の寄付による枕崎の駅舎が完成し今日に至っています。

駅には、「本土最南端の始発駅、終着駅」の看板が立てられています。

因みに本土最北端の始発、終着駅は「稚内」です。乗り換え案内で枕崎から稚内まで検索すると、距離3138km、新幹線を使っての乗車時間は約25時間です。(乗り換え時間を入れると約30時間)

運賃は新幹線指定席で片道約53000円。往復でしたら10万円を超えますね。

   

枕崎といえば「カツオ」ですね。枕崎駅から港の方に移動します。

港には「枕崎お魚センター」があります。中では鰹節の実演販売など行われています。

2階のレストランでは、「カツオ丼」と言ってカツオの刺身をご飯の上に置いた丼が有名です。(840円)

福岡にいるとカツオというと「カツオのたたき」ぐらいしかお目にかかりません。カツオは新鮮さが勝負。ここでは生で食べさせてくれます。

山芋も付いていますので好みに応じて上にのせてもOKです。

  

お腹いっぱいになった所でまた約一時間かけ指宿へ。

16:30ホテルに到着。昨年はホテルの寒緋桜は満開でしたが、今年はまだ2分咲きという所でしょうか?満開になると綺麗でしょうね。

    

ホテルの部屋からは魚見岳と知林ヶ島が見えました。

  

 

 

 

 


第22回指宿菜の花マーチ第2日目20km(鹿児島県指宿市)

2014-01-29 05:04:37 | ウォーキング

昨日(1/25)は、ウオーキングから帰ってホテル内の砂蒸し、露天風呂などに入り右足の指をマッサージしました。

そのせいか足の指の痛みもだいぶん薄らぎました。

今日(1/26)は菜の花マーチ20kmコース。朝6:30にホテルを出て会場に着いたのが6:50。もう準備体操が始まっていました。

昨日一緒に歩いた「Bちゃん&A」さんたちは既に来られていて私達を見つけると手を振ってくれました。

午前7:00また今日も30kmの方と一緒にフライングスタートです。

              

指宿ステージ20kmは、セントラルパーク指宿スタート~グリーンファーム~JR宮ヶ浜駅~錦江楼~魚見港~休暇村~指宿港~砂蒸し「砂楽」~はしむれ~指宿駅~セントラルパーク指宿ゴールです。

今日は朝の気温が12度ですが、風が強く体感温度は9度ぐらいです。私のDバックの後ろの風車も勢いよく回っています。

    

途中民家の庭先に「シコンノボタン??」みたいな花が咲いています。シコンノボタンは夏から秋にかけて咲く花なんですが、もう1月も末ですがまだ咲いています。やはり南国だからでしょうか?

JR宮ヶ浜駅が30kmとの分岐点です。宮ヶ浜は昭和初期まで指宿の中心地でした。今でも駅前の通りには、古い家並みが残っています。

海岸線には「長淵 剛ゆかりの地」の横断幕があります。長淵 剛のお母さんはここ宮ヶ浜の出身で長淵さんは幼いころよくこの浜で遊んでいたそうです。

宮ヶ浜駅には長淵 剛が書いた散文詩「母ちゃんの海 宮ヶ浜」が掲げられています。

    

 母ちゃんの海 宮ヶ浜

新しい指宿市が 生まれた。
私は、幼い頃、母スマ子に連れられて、
宮ヶ浜の海岸に 座った。
『・・・剛! ここが 母ちゃんの育った海だよ!』
よせては、かえす波の音。
灼熱の夏の山からは せみの声。
『・・・剛。いっしょに泳ごうか?』
『うん。』
私は、母ちゃんと宮ヶ浜の海で思いっきり泳いだ。
そして、小さな魚になって、はしゃいだ。
きれいな きれいな 海だった。
母は、幼い私を
肩にのせ、スイスイ 泳いでみせたり
ジャンプしてみせたり・・・・・・・・
若き母の白い柔肌のぬくもりが
たまらなく優しかった。
ずうっとずうっと いっしょにいたかった。
ずうっとずうっと いつまでも そこに いたかった。
浜の西に沈む夕陽が 赤くゆれていた。
やがて指宿・宮ヶ浜の海は 黄金に変わった。
今でも時々 私は鹿児島に帰る。
そして、浜の海岸に座る。
六年前、死んだ母ちゃんが生まれた海は、
いつも ないでいて、
あの時のまんまだ。
大好きな 母ちゃん。
大好きな 海。
大好きな 宮ヶ浜。
大好きな 指宿は、
私の原風景そのものだ。
熱く 白き噴煙たちこめる 指宿の湯の里と
私の血脈が ドクドク流れ生き続ける指宿の兄弟たちに、
今、
心から『おめでとう』を言いたい。
そして、
『ありがとう 母よ!
海よ!
浜よ!
指宿よ!』

      

錦江楼の前がチェックポイントです。これから「かごしまロマン街道」と呼ばれている海岸線を通ります。強風の為か海は少し荒れています。

知林ヶ島が見えてきました。干潮時には、砂の道が現れ陸続きになります。韓国の「珍島」みたいですね。ただ潮の干潮を調べておかないと戻れない場合があります。

 

休暇村を通り指宿港へ。休暇村の風景を見るとなんだか外国のリゾートに居るみたいです。

    

 指宿は今日から市長、市議会議員の選挙が始まってウオーキングコースにも選挙カーがきていました。手を振ると笑顔のお返しがありました。

    

11:20 20kmコースをゴールしました。私の足の指は、道中時々痛みはありましたが何とかゴールまで持つことができました。

ゴールの所では、お土産にとたくさんのサツマイモが振る舞われていました。

ゴール後、Bちゃんさんから頂いた「湯活」のサービス券を持って日帰り温泉に行きました。2日間の疲れもとれ福岡へ帰宅の途につきました。

    

 尚、2日目の参加者は、6425人。2日間で10613人の参加でした。




 

 

 

 

 


第22回指宿菜の花マーチ第1日目25km(鹿児島県指宿市)

2014-01-28 10:24:41 | ウォーキング

今年もまた指宿菜の花マーチに参加しました。

           

24日(金)の夜9時ごろから車で福岡の自宅を出発し途中何回か休憩して会場のフラワーパーク鹿児島に着いたのが25日午前5時半。

今回の菜の花マーチは、会場とコースが一部変更されています。

因みに25kmコースは、フラワーパークかごしま~鰻温泉~道の駅山川~山川砂蒸し温泉~浜児ヶ水公民館~長崎鼻~フラワーパーク鹿児島です。

昨年までの「西大山駅」には立ち寄りません。

又、昨年まで参加賞としてTシャツが配られていましたが、今回はハンドタオルのみです。Tシャツを楽しみにしていたのに・・・・・・・・

JR九州ウオーキング仲間の「Bちゃん&A」さんと会場で合流し一緒に歩きます。「Bちゃん&A」さんたちは前日から指宿に入られていたそうです。

本来25kmコースは、8:30のスタートですが、ゴールした後の予定があり、40kmの方と一緒にスタートしました。

指宿は、日本で一番早く「菜の花」が咲く町として知られています。2週間前は「菜の花マラソン」も開催されています。

天気予報では今日は晴れで夕方雨、気温は20度近くなるそうですが、朝は冷え込み防寒着を着てのスタートです。

その防寒着も30分も歩けば体の中から暖かくなり、すぐ脱いでしまいました。

錦江湾沿いに歩くと南薩摩のシンボル「開聞岳」(924m)が見えてきます。その優美な姿から「薩摩富士」と呼ばれています。

開聞岳には、菜の花が似合いますね。指宿は日本で一番早く菜の花が開花するそうです。

また、火山灰を利用してソラマメ、レタス、ニンジン、キャベツなどが栽培されています。

      

    

長い上り坂を登っていくと「鰻池が見えてきます。

鰻池は、直径1.3k、水深56.5m、周囲4.2kで大鰻が獲れたことからその名が付いたそうです。

鰻池温泉では毎年楽しみにしている「お・も・て・な・し」があります。スメと呼ばれる温泉の蒸気で作った「ゆで卵」「ふかしイモ」「茶ぶし」などを振る舞ってくれます。

    

鰻温泉

かつて西郷隆盛も湯治に訪れたという鰻温泉。周囲に硫黄の匂いが立ちこみます。少々熱めのお湯とのことですが、一度は入ってみたいですね。

鰻温泉から降りてきて山川港を通り竹山の方に向かって歩きます。

ここで私の足の指に痛みが・・・・・・・前日から右足の薬指と小指がしもやけみたいに腫れており、特に小指が歩くたびにピリピリと痛んできました。

立ち止まってエアーサロンパスをスプレーしますがそれも30分もしたらまた痛くなります。一緒に歩いているBちゃんさんからサポーターを借りたりしましたが

その場はいいのですが、時間が経つと痛み出します。それでも何とか頑張って歩きます。

竹山の近くを通りました。この風景はのどかで何か落ち着きます、癒されます。

菜の花も満開です。

     

    

 19km地点の浜児ヶ水公民館が昼食会場です。ここでは菜の花のお漬物、つぼ漬けの「お・も・て・な・し」がありました。

菜の花のお漬物はおいしく、これだったらご飯が何杯もいけるのではないでしょうか。

    

12:30 25kmコースゴール。足の痛みのもめげず無事ゴールしました。

今日の参加者は40k 498人、25km 1587人、10km 2103人 合計4198人でした。

    

                                                                                                                                     (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 


怡土(いと)城址、高祖(たかす)神社を歩く(福岡県糸島市)

2014-01-20 10:11:26 | ウォーキング

来週(1/25~26)は「いぶすき菜の花マーチ」参加予定です。そのトレーニングを兼ね

1/18、ウオーキング友達のBちゃんさんご夫妻とふくおかウオーキング協会の例会で怡土城址、高祖神社を歩きました。

10:00JR周船寺(すせんじ)駅出発。今日は風が強く私のDバックの風車が強く廻っています。

民家の庭先では珍しい花を見つけました。

マホニアチャリティ  柊南天の一種です。(葉っぱが柊みたいです)

怡土(いと)城址に着きました。

先月山陽道岡山、矢掛、真備町を歩いた時に「吉備真備館」を見てきました。

吉備真備は、遣唐使に加わって2度唐へ留学しその後九州大宰府の高官となりました。当時唐では玄宗皇帝に対する「安禄山の乱」が勃発し朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど

対外的な緊張が高まり九州の防備が急務となっていました。

怡土城は、孝謙天皇の命により天平勝宝8年(756)6月築城に着手。途中吉備真備が東大寺造営で佐伯今毛人と交代し神護景雲2年(768)2月完成されたとされています。

その後戦国時代地元の豪族、原田種継が城郭を再利用して「高祖(たかす)城」を築城しました。

   

怡土城址から少し登った所に「高祖(たかす)神社」があります。勾配がきつく一遍で汗が出てきます。

   

高祖神社の御祭神は、彦火火出見尊(ヒコホホデシノミコト、山彦神)、玉依姫命(タマヨリヒメ、豊玉姫の妹)、気長足姫(オキナガラタラシヒメ、神功皇后)です。

彦火火出見尊は、海彦山彦の神話に出てくる山彦です。玉依姫命は、山彦と結婚した豊玉姫の妹で彦火火出見尊と豊玉姫の間に生まれた「ウガヤキアエズ」の養育係でその後ウガヤキエアズと結婚し

4人の子供をもうけました。その一番下が「紙倭伊波礼琵古命」(のちの神武天皇)です。

高祖神社では、「高祖神楽」が有名です。4月と10月の大祭に神楽が奉納されます。

   

神社の中を歩くと高い木々の間からパワースポットみたいなものを感じました。

神社を下りていくと民家の庭の中に「衢大神」という石碑がありました。「ちまたたいしん)と読むのでしょうか?ちょっと難しくて読めませんね。

「衢(ちまた)」とは道の神様、道祖神です。

  

 そのあと伊都国歴史博物館を通りゴールは糸島の産直店「伊都采彩」でした。13kmのウオーキングでした。

来週はいよいよ「いぶすき菜の花マーチ」です。

  

 

 

 

 

 

 

 

 


牡蠣小屋までウオーキング(福岡市西区)

2014-01-13 21:11:45 | 日記

牡蠣が美味しい季節ですね。

今日(1/13)は、歩いて牡蠣小屋に行ってきました。

海を見ながらのウオーキングです。

   

  

牡蠣小屋に着きました。すでに20組ぐらいの方が待っておられます。

     

メニューを見るといろんなものがありますね。牡蠣は1kg/@1000です。

    

30分ぐらい待ってテーブルへ。  先ずは  ですね。

   

    

カキ飯も美味しかった。  帰りにはパン屋さんでスイーツ。

    

とても満足した一日でした。

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「三石宿〜有年(うね)宿」兵庫県に入ります

2014-01-11 14:47:11 | 山陽道(西国街道)を歩く

1/04 車を相生駅に置き山陽本線で昨日ゴール地「三石駅」へ。三石駅9:58着。

今日は、三石から船坂峠を越え兵庫県との県境の有年(うね)宿まで歩く予定です。

山陽本線と並行している旧道を進むと左の丘の上に「三石一里塚跡」があります。駅前にも一里塚がありましたがそれとは別かな?

先に進むと踏切があります。これから電車は、「船坂トンネル」です。旧街道は2号線と合流ししばらく行くと「梨ヶ原」の看板を左折します。

    

船坂峠に入りました。峠ということでしんどいのでは?と思っていましたが、そんなに急な峠でなく登っていくとすぐに頂上に着きました。

                    兵庫県に入りました!

岡山に入って9日目。やっと兵庫県に到着です。

     

船坂峠を下ると赤穂郡上郡町梨ヶ原です。

兵庫県に入ると山陽道が「西国街道」に名前を変えます。

   

梨ヶ原宿は三石宿・有年(うね)宿間の「間(あい)の宿」の休憩所で宿屋や茶店がありました。明治18年明治天皇がここに来られた時の記念碑も建っています。

       

船坂神社」があります。中に入ってみますと備前焼の狛犬や子供を連れている狛犬、玉を転がしている狛犬があります。

    

また本殿に入ると赤穂浪士47士の絵馬が奉納されています。ここ梨ヶ原は赤穂郡ですね。赤穂と言えば「赤穂浪士」です。

   

梨ヶ原集落の東の入り口に「有年」の標示があります。本来はこの街道これから「有年峠」という所を通るのですが、街道を歩いた先輩方のブログを見ていますと、イノシシが多いため柵があったり

またイノシシ駆除為3月末までハンターがいるから音のするものを持っていく・・・・・などと書かれています。家内と有年峠を通るか、2号線を通るか話し合った結果、安全な2号線を行くことにしました。

   

国道2号線は最初は歩道がなく道路の端を歩きましたが、車の往来が激しく怖いです。落地神社を過ぎると「鯰峠」に差し掛かります。昔は有年峠だけでしたが明治16年に山を切り崩してこの道路を造ったそうです。

昔はこんなに広くはなかったのでしょう。今は歩道もあり安心して歩けます。峠の頂上から「赤穂市」に入ります。

「西有年」に入りました。有年峠を通った街道はこのあたりに出てきます。橋を渡り「大避(おおさけ)神社」の所から2号線と別れ旧道に入ります。

大避神社は、大避大神(秦 河勝)をお祀りしている神社です。本家は赤穂市坂越にあります。また、赤穂市の巡回バスの名前が「ゆらのすけ」というのも面白いですね。

大避神社の先に歴史の案内の碑が立っています。もう消えかかってわかりずらいですが、「西有年宮東遺跡」です。

案内板の横には「平安時代末から鎌倉時代頃の掘立柱建物跡がたくさん見つかった。いっしょに壺や皿などの土器も出土した。」と書いてあります。

私、「宮東遺跡」というのを知りませんでしたのでネットで調べましたが、全国にあるのですね(埼玉、会津・・・・・)。大避神社に関係するものでしょうか?

とその時、消防車と救急車のサイレンの音・・・・・何事かな?と思って消防車の方を見ると国道で軽自動車が転倒しています。もし私達が大避神社に行かずにそのまま国道を歩いていたらこの事故に遭遇していたかも

知れません。大避神社のおかげです。

「東有年」に入ってきました。

    

 淳泰寺、有年小学校を通ると国道の所に弥生時代の住居が立っているのが見えます。興味深々でそちらの方に寄り道します。

   

    

説明文によると、

有年地区は千種川とその支流によって形成された東西に長い盆地であり赤穂市において最も遺跡が密集する地区となっている。

平成元年~平成4年迄圃場整備事業に伴って調査が行われ縄文時代後期(3500年前)から室町時代にかけての建物跡がたくさん発掘され、太古から人々が断続的ながら長期間「ムラ」を

営んできたことが明らかになった。ここでは弥生時代後期(1800年前)竪穴住居7棟、古墳時代後期(1450年前)竪穴住居22棟及び高床倉庫1棟が密集して検出された。

古墳時代の住居跡からは須恵焼、土師器、ミニチュア土器、鏃、紡錘車(糸を紡ぐ道具)など当時の生活を偲ばせる道具が多数出土したほか、古墳時代としては全国的にも珍しい土馬(土で作った馬の模型)も見つかっている

東有年の信号の所に「八幡神社」があります。八幡神社の鳥居は、延享元年(1744)の創建で今年で270年経つそうです。

八幡神社を左に行くと「有年(ありとし)家長屋門があります。宿場は有年(うね)ですが、ここでは有年(ありとし)です。どちらが先だったのでしょうか?

    

有年家は、江戸時代この地の大庄屋を務めた家柄であった。この長屋門は高さ8尺の石垣の上に建ち白漆喰の練塀、納屋と並び建って庄屋屋敷の格式を強く印象付けている。

赤穂市内に残る江戸時代の長屋門は赤穂城内にある大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門及びこの有年家長屋門のみであり主屋と一体となって赤穂藩の庄屋の

屋敷構えを残す貴重な文化財と言える。(説明文より)

東有年信号から旧街道に戻ります。

有年宿はかつて近世山陽道を備前国から東に山を越えた西有年上所にあった。然し街道の往来が増えるにつれておよそ1里東の熊見川(千種川)の川待ちに対応するためより川に近い

東有年に宿場が移された。参勤交代の際に大名が宿泊する本陣は、有年宿内でもやや左寄りにある「柳原家」に設けられたが現在は標柱があるだけとなっている。

また脇本陣は宝永3年(1706)の古文献では「儀兵衛宅」に設けられたとあるが場所等の詳細は不明である。

旅籠では柏屋、瓦屋、新屋、亀屋、蔦屋、菊屋、丸屋、紙屋、横屋、渋屋、池田屋、有田屋、角屋など数十軒があり今もこの屋号で呼ばれる家がある。

このほかにも木賃宿、商人宿、茶屋、牛馬宿、各種の商店等が軒を連ねていたが残念ながら数度の水害により浸水被害を受け、古い町並みの殆どが取り壊されており、

今は見る影もなくなっている。

  

   

時間は13:30分を過ぎてきました。街道は千種川を渡り有年駅に向かいます。途中「池魚塚」というのがありました。

道路改修資金のために売られた池の魚への感謝とその供養の塚。

14:00JR有年駅到着。今日はこれから車で自宅まで帰らねばいけませんのでここまでとします。

有年駅では、「特急スーパーはくと」が追い越していきました。

   

今日のGPSです。

 今回3日分のGPSです。西宮まであと約110kmぐらいになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「長船~三石」

2014-01-09 22:15:46 | 山陽道(西国街道)を歩く

1/03 岡山発7:52で前日ゴール地JR長船駅へ 長船駅8:20着。長船駅から約30分かけて備前大橋へ向かいます。

       

備前大橋から2号線を歩きます。道路が広く川面を眺めながらのウオーキングです。土手には「道標」があります。左「西大寺みち」右「久だ里みち?」。

街道は右カーブになっています。新幹線橋梁横には「長船パーキングセンター」があります。ここには温泉があるそうです。ここから右折すると「天王社刀剣の森」があります。

     

説明文を読むと

 この森の松は足利尊氏ゆかりの松で、その昔(1331年)新田義貞に敗れ九州に落ちる途中、この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶ったお礼に九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫とされ、

 昔から日向松と呼ばれています。

 森の西側は旧山陽道(現2号線)に接し吉井川の水運と相まって、交通の便に恵まれ、往時は刀の産地「備前長船」として栄え、その模様は「鍛冶屋千軒打つ槌の音に西の大名が駕籠とめる」と

 謳われたほどで多くの名刀を産出しましたが、現在は古跡としてのみ侘しくその名をとどめています。(以下略)

天王社の裏側には、「備前長船刀剣博物館」がありますが、残念なことにお正月休みで入ることができませんでした。博物館の近くには「刀剣ギャラリー」もありますが、こちらもお休みでした。

    

再び街道に戻ります。街道は長船パーキングセンターの先で新幹線のガードを潜ります。潜ると「備前市」に入ってきます。しばらく歩くと「香登(かがと)宿」です。

香登の入り口には「石長姫神社」があります。ここの常夜灯は嘉永2年(1849)作で上の部分が天然石でできています。

    

香登宿は、片上宿と藤井宿の間にある間宿で吉井川が川止めになると滞留客で賑わっていました。香登は、塩や木綿、油などの地元物産の集散地として商家が多く酒造や油絞りなども盛んでした。

歩いていると民家の庭先に「明治天皇香登駐輦(ちゅうれん)」の碑が建っています。

     

香登を歩いていると正月飾りの珍しいものがありました。角松でしょうか?

大内(おおち)神社の境内の高い所には、「香登の一里塚」があります。香登地内には南北に1対の一里塚が造られました。北側のこの一里塚は、南北7m、東西5m、南側の高さ1.8m、周囲は石積みで囲まれていました。

南側の一里塚は、明治20年ごろ塚石を利用して用心井戸を造ったため今はもうありません。

       

香登宿を過ぎると右手に大きな池が見えてきます。「大ヶ池」です。

この池には、新幹線の橋梁が池の中にあります。この池に新幹線が通る所をカメラで構えました。

普通ですと3~5分間隔で新幹線が通るのですが、出来れば上下線がこの池ですれ違う所を撮ってみたかったのですが、この日は上りは何本か通るのですが下りがあまり通りません。

30分ぐらい待ちましたが下りの新幹線が来ません。あとで分かったことですが東京駅近くで新幹線そばのビルの火災のため新幹線が停まっていました。

    

「伊部(いんべ)宿」に入ってきました。

入ってくるなり町のあちらこちらに「備前焼」の看板があります。

    

備前焼は平安末期頃、伊部で壺、甕、鉢などの生活雑器が作られたのが始まりとされています。備前焼の実用性が高く評価され室町末期には共同の大窯で量産されるようになり全国に広がりました。

備前焼の飾らぬ素朴さが茶人に好まれ茶陶が盛んに作られるようになりました。

江戸時代備前藩主池田光政公は窯元から名工を選び御細工人として援助するなど備前焼を保護奨励しました。布袋、獅子などの置物のほか酒徳利や水瓶などの実用品も大量に作られました。

明治以降一時的に衰退し廃業、転職と苦しい時代が続きましたが陶工たちの弛まぬ努力により昭和31年初代人間国宝として金重陶陽、以後平成16年まで4人の人間国宝を輩出しました。(備前焼案内文より)

     

店頭の備前焼の価格を見ていますといい作品にはそれなりの価格がついていますね。

町の中に「天津神社」があります。天津神社は、由緒書によると、応永18年(1411)以前の創立で、昔は浦伊部にあったが、御神託により、天正7年(1579)に現在地に遷宮した。

本殿は、棟札によると、延宝6年(1678)の建築で蟇股、虹梁、木鼻の繰形が特にすばらしい流れ造りの、堂々とした一間社で、江戸前期の一間社建築としては例のないすぐれた建築である。

境内には日本で最も古い歴史がある焼き物である、備前焼の狛犬、備前焼のタイル参道、備前焼の瓦、備前焼の角陶印陶板が飾られた壁、備前焼の十二支など、備前焼製のもので溢れている。(神社由緒より)

境内を散策しているといろんな所に備前焼が使われていてそれを探すのも楽しかったです。見事です。

     

     

伊部東の信号で写真を撮っていたら後方からけたたましく車のクラクションを鳴らしてくる軽自動車があります。振り返ると目の前に狭い路地から50~60km/hぐらいのスピードで走ってきた車が・・・・・

約5mぐらいの距離でした。咄嗟に横に逃げましたがその車は交差点に差し掛かっても徐行もせずまた左右も確認せずスピードを上げて去っていきました。(制限速度20kの所)

乗っていたのは50~60代の男女でしたがお正月ですし、多分酒を飲んで運転していたのでしょう。本当に怖かった・・・・・・

また、昨日は岡山市内の京橋を渡った所の横断歩道が青になったので渡っていたら左から猛スピードで来た車がこれもけたたましくクラクションを鳴らして近づいてきました。

私が停まると後方を猛スピードで走り去りました。乗っていたのは若い男の方です。これも怖かった・・・・・・・

こんなにたて続けて危ない目に遭うと、岡山のほんの一部の方だろうと思うのですが、私達旅の者からすると「岡山の人は交通マナーが悪い」となってきます。

伊部一里塚」は、2号線の側道の所にありました。街道は2号線と並行する下の道を通ります。国道はここからトンネルになりますが、街道は2号線を横切り「葛坂峠」に入ります。

坂の頂上には、「お夏茶屋跡」があります。お夏というと、あの井原西鶴の「好色五人女」に出てくる「お夏清十郎」です。

寛文2年(1662)姫路の旅籠「但馬屋」の娘「お夏」と手代清十郎が駆け落ちしようとして捕らえられ、その上金子(きんす)紛失嫌疑で清十郎は死刑、お夏は発狂したという話ですが、

ここでの話は、この先の片上港で追手に捕まったお夏は、清十郎が処刑された後、この葛坂峠で茶屋を開き大変繁盛したそうです。

お夏のお墓は、この峠を下った所にありました。

     

葛坂峠を上っていくと「茶臼山城跡」の看板が見えてきました。ちょっと街道とは離れますが、この急な坂を上っていきます。入口には「イノシシ、鹿注意!」の看板があります。

茶臼山城は浦上氏の富田松山城です。

ここから「片上湾」が見えます。街道を歩いていて尾道以来の「海」でしょうか。海を見ていると落ち着きますね。ここは桜の名所としても知られています。

    

降りていくと「お夏の墓」があります。左前方には、国指定重要文化財の「眞光寺三重塔」があります。行ってみようかと思いましたが2号線を渡らないといけませんのでパスしました。

突き当りが「片上(かたかみ)宿」です。

    

片上は古くは多様な表記がされ、「かた」は「片」の他「方」「潟」「形」「肩」など、「かみ」は「上」の他に「神」などの字を用いたが、天正年間から片上の使用が多くなった。

江戸時代に入り、主要街道に宿場が整備されると西片上村には本陣、脇本陣、問屋などが定められた。また、備前岡山藩の蔵屋敷が設けられ、和気郡一円と邑久郡東北部の年責米を収納した。

収納米の一部は地元の問屋(和泉屋)が引き受けて売却し、大部分は片上港から船積みして大坂の備前屋敷に送った。西片上村は岡山藩領下の公式な在町として許され、商人の町筋をつくった

   

片上の町を歩いていると歴史の案内の碑が町のあちらこちらに立っています。

脇本陣と恵美須屋跡は、平成14年に閉店になった「アルファビゼン」の所にあります。

      

 【恵美須屋跡】

西片上内座に移転するまで恵比寿宮はこの地にあったといわれている。

【片上脇本陣】

京屋中村氏があった所。

【万代常四閑翁跡】

岡山城下に住み、第二代池田綱政候から「延寿返魂丹」の金看板を拝受。第11代万代常閑が富山に返魂丹を伝授した。

【前海屋跡】

宝永橋が落ちても前海屋は倒れぬといわれた片上の富豪。海を埋め立て土地を広げた。

【往還名主跡】

片上駅の駅長と言っても差し支えない程の往来の行き交う者に対して厳重な調査、取締の権限を有していた。馬継所も設営されていた。

他にもいろいろな歴史案内の碑が立っています。

街道を進むと左側に「宇佐八幡宮」があります。

建武3年・延元元年(1336)足利尊氏が多々良浜(福岡)の戦いで大勝し九州制覇ができたのは豊前の宇佐八幡宮に参籠して武運長久を祈願したおかげだと勧請し足利の守護神にしようとした。

然し帰路大しけに遭い、神のお告げで潟神村(片上村 現備前市)に祀ることとし、富田松山の麓に祀った。その後応永元年(1394)には和鹿林山(若林山)に勧請、更に正保3年(1646)現在地に遷宮した

この神社には備前焼の狛犬があります。胴回り2,5m、高さ1,4mです。文政9年(1826)作製。

神社の前には、山陽道の道標があります。(藤井宿4里半18km、三石宿2里半10km)

      

時間は14:20 今日は三石宿まで予定していますが道標によるとあと10kmです。16:30ぐらいに到着できそうです。

歩いていると作家「藤原審爾」さんの住居があります。藤原さんは、3歳の時母と生別、6歳で父と死別、父の故郷であるこの備前市で祖母によって育てられました。晩年はここで住む予定でした。

 

     

塩谷口の信号から2号線と合流ししばらく2号線を歩きます。一本松バス停から旧道に入っていきます。

しばらく行くと左手に「閑谷(しずたに)神社」の道標があります。その先を左折すると「閑谷(しずたに)学校」に向かう道があります。ここから約2.5km。行ってみようかな?と思いましたが時間がなくパスしました。

閑谷学校は、寛文10年(1670)岡山藩主池田光政が領内の手習い所を統合して閑谷に設立した郷学。藩営の民衆教育機関としては最も早期の開設で明治3年(1870)閉鎖、のち中学校として再興。

校地内の閑谷神社・講堂は貞享3年(1686)及び元禄14年(1701)の建立で現存最古の学校建築です。

八木山という所で再び2号線に合流。この辺りが兄坂、弟坂でしょうか?八木山には「一里塚」がありました。

      

坂を越え山陽自動車道の下を歩きしばらく行くと「三石駅」の標識が見えてきました。山陽本線の煉瓦の橋梁を潜ると「三石宿」です。

三石は、「煉瓦の町」で知られています。町の中には煉瓦工場があります。

    

 

    

   

    

16:59ゴールのJR三石駅到着。ここから17:23 発の山陽本線で岡山駅に戻りました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「岡山~長船」

2014-01-07 19:53:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

2014.1/02今年の初歩きで山陽道を歩きました。

今回はマイカーで岡山まで行きました。福岡の自宅を朝3:30に出て岡山に着いたのが9時。車を岡山駅近くの駐車場に置き、街道を歩きました。

今回はDバックの後ろに「博多から旧山陽道を京に向け歩いています」というプレートを付けてのウオーキングです。

 9:09前回ゴールの岡山駅西口からスタート。岡山駅西口には「旧万町跡」というプレートが立っています。岡山藩は江戸後期に東の森下町とともに旅籠の営業を許可しました。町の西端には岡山最大の

町門がありました。

岡山駅の地下通路を通り、柳川電停の手前に「金毘羅神社」があります。天正元年(1573)宇喜多直家入城による城下町整備に伴ってこの地に創建されその後岡山城主になった

宇喜多秀家が国家安泰の祈願所とした神社といわれ金毘羅大権現と呼ばれ祀られていましたが明治2年現在の社名に改められました。

        

今回通りませんでしたが、岡山宿の本陣は、表町商店街にあったといわれています。西大寺町の電停を左折すると向かい側に天保年間創業のお饅頭屋さんがあります。

      

更に先に行きますと「京橋」があります。ここが岡山の元標になっています。

     

京橋を渡ると中橋、小橋と続いて大納言に入ります。ここの角には、「きびだんご」のお店が並んでいます。もともと一つのお店だったのでしょうか?

更に先を進むと大きな川に出てきます。この川は「百間川」。100間ぐらいの川幅があるのでこの名が付いたのでしょうか?川を渡ると「幡多」(高屋)に入ります。

     

郵便局の所には「道標」が建っています。見てみると「西大寺。長岡駅」、「岡山玉島、神戸大坂京」と書いてます。

真っ直ぐみ東岡山の駅を過ぎ、赤穂線、山陽本線の踏切を渡ると「古都宿」(こずしゅく)です。

宇喜多秀家の時代に宿が「古都宿」から「藤井宿」に変更されました。したがって何も残っていませんが、地名だけは今でも「岡山市東区古都宿」となっています。

昔の役場跡は、古都コミュニティセンターとなり今、建て替え中でした。

      

古都宿から15分ぐらい歩くと「藤井宿」に到着します。岡山城下からもっとも近い宿場が置かれた所で町並みにその面影を留めています。

山陽道は時代を経るにつれて度々そのルートも変遷しており、宇喜多秀家の付け替え(藤井ー長岡ー原尾島ー森下ー内山下〈桜の馬場〉)により宿駅(岡山市東区古都宿)に替えて

藤井が宿駅となりました。そして江戸時代になり、参勤交代制を定めるにいたり、西国の諸大名が江戸への往来の途中、岡山城下町以東最初の休泊地として、本陣(安井家)、旅籠屋等が整備され大変賑わいました。

後に本陣一つでは不便であったため、更に創設され、従来のものは西本陣、新しい本陣は東本陣と称されるようになりました。(案内板より)

   

藤井宿の入り口には、素戔嗚神社があります。この神社の横には「新往来」の案内板があります。

幕末ペリーの来航で尊王攘夷運動などで諸国の志士、浪人の往来が激しくなり備前藩でも岡山城の警戒を強め山陽道を通行する人々に神経をとがらせていた。

備前藩は、長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通行するのを回避するため一時的に山陽道を宿奥ー奥矢津ー牟佐ー旭川渡りー備前国分寺の新往来を建設し

元治元年(1864)7月より通行させるようにした。

   

備前国安国寺経塔

     

時計は12時半を廻っています。今日は朝3時半に家を出ましたのでお腹もすいてきました。どこか食堂でも???と探しますが今日は正月の2日。 開いている食堂がありません。

仕方ないので上道(じょうどう)駅近くのコンビニに行ってパンとサンドイッチを買い食べました。

お腹も落ち着いたところで又出発します。上道駅の先から山陽新幹線のガードを潜り、山陽本線の踏切を渡ると「沼」が見えてきます。この一帯地名も「沼」です。

浮田小学校付近には「沼城跡」があります。秀吉軍が高松城を水攻めで落城させたのち、高松城から最初にこの「沼城」に立ち寄ったとされています。

     

上道中学を過ぎると砂川を渡ります。名のごとく河原には川砂がたくさんあります。この辺りが「楢原」。橋を渡った所に「道標」があります。

☜神戸大坂、岡山広島、反対側には、☜美作(みまさか)と何だろう?ちょっと読みづらいです。更に先を進むと「和田八幡神社」の鳥居があります。どこかな?と探すと離れた所にありますのでここはパス。

その先にはきれいに整備された水路があります。地元の方に聞くとこれは「倉安川」といって延宝年間、船運のために造られました。延長20kmで岡山城下に続いているそうです。

         

街道は2号線と交差し歩道橋を渡り倉安川沿いに歩きます。左側に「御休小学校」があります。「御休」は「みやす」と読むそうです。昔、明治天皇がここで休憩されたからその名が付いたのではないでしょうか?

その横には「福岡神社」の鳥居が建っています。名前につられ神社の方に歩きますが、本殿まで135段の長い階段が待っています。ここはパスし下の方からお参りします。

神社の由来を見ていますと地元の方が参拝に来られており、私のDバックのプレートを見て話しかけてこられました。

「博多から来て山陽道を京に向け歩いている」というとびっくりされていました。私自身も5~6年前までは街道を歩くなんて思いもしませんでした。

私より一回りぐらい上の方が東海道を歩いているブログを見て面白そうでしたから私もとりあえず近くの「唐津街道」を歩いたのがきっかけでした。

それ以来街道歩きの虜になってしまいました。それから「長崎街道」を踏破し、今回の山陽道歩きになりました。

    

先に進みます。「一日市(ひとひち)宿」があります。ここは東の「片上宿」と西の「藤井宿」間の間宿で一年に一度市が開かれたそうですが、隣接する吉井川の川止めで賑わいを見せていました。

山陽道を歩いた先輩方の写真を見ていますと田んぼの中に宿場の碑が建っていましたが、現在田んぼは埋め立てられ家が建っています。宿場の碑は駐車場の後ろにひっそりと建っていました。

常夜灯の近くには一里塚があったそうです。

      

一日市の信号で2号線と合流します。残念なことに、ここの国道には歩道がありません。道路の端を歩いていますが、大型トラックなどがスピードを上げて通行していると何か巻き込まれそうで怖いです。

備前大橋にたどりつきました。この橋を渡ると「瀬戸内市」に入ります。備前大橋には歩道も付いていて歩道の中ほどには、備前焼で造った陶板があります。

  

 橋を渡ると「明治天皇巡行之碑」が建っています。

このあと、私達は街道を外れ、「福岡県」の地名の元になった、「備前福岡」の町を散策してきました。(ブログで公開しています)

帰りは赤穂線「長船駅」17:24の電車で宿泊先の岡山駅まで戻りました。

    

今日(1/02)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


福岡県の県名「福岡」のルーツ「瀬戸内市長船町福岡」を散策

2014-01-05 20:15:35 | 歴史

今日(1/5)からNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」が始まりましたね。

関ヶ原の戦いの功績で官兵衛は、筑前52万石を拝領しました。

お城は、最初名島城でしたが、福崎(今の大手門から舞鶴)に新しいお城を築きました。

そのお城の名前を、黒田家の再興の地、岡山県瀬戸内市長船福岡庄からとって「福岡城」と名付けました。

官兵衛の曽祖父「高政」は、近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町)出身。京極氏に仕えていましたが、

将軍足利義稙と前将軍足利義澄の船岡山の戦いで軍令に違反したとされ、義稙の怒りに触れお家断絶だけは免れましたが、

近江の国にいられなくなり親族を頼って、邑久(おく)郡備前福岡(現瀬戸内市長船福岡)に移りました。

その後、高政は、福岡で没し、その子重隆は播磨の豪族赤松氏に仕えていましたが失望して福岡に戻り小作人同様の生活をしていました。

然し広峰神社の御使と組んで黒田家家伝の目薬、「玲珠膏」を売り出した所、これが大ヒットして有力豪族の仲間入りしました。

それから、重隆は嫡男「職隆」に家臣団を与え、共に豪族「香山重道」を襲わせその首を御着城主小寺にその首を差出し重用され、その後職隆は姫路城の城代となりました。

職隆の嫡男「官兵衛」は天文15年(1546)11月この姫路城で生まれています。

私感ですが、官兵衛は、黒田家にとって備前福岡時代は一番失望したときであり、これから運があがってきたのでそこからこの「福岡」を新しいお城の名前にしたのではないでしょうか?

福岡には「博多」という商業都市があり、城下町「福岡」とは那珂川を挟んで分かれていました。

明治22年市制を施行と 市名をどうするか議員の間で投票になり「博多市」「福岡市」は同数。議長の決済で「福岡市」になりました。

プロローグはここまでにし、早速この「備前福岡」を紹介します。

備前福岡は

福岡の地は鎌倉時代吉井川の水運に支えられて大いに栄えた。山陽道周辺に市場が発展、福岡市(ふくおかのいち)と呼ばれ、西国一の賑わいであったといわれている。この市は長く繁栄し、江戸時代まで続いたという。

弘安元年(1278)に一遍が布教に訪れて280名もの住民が出家したと伝えられている。その様子は一遍死後に描かれた『一遍上人絵図』に描かれている。なお、これには福岡市の様子も描かれており、その繁栄ぶりが全国的に有名となった。

また、この地に住み着いた刀工はと呼ばれる名刀を生み出し、福岡一文字や備前長船などといった有名な刀工派閥が誕生、備前刀として伝統工芸となり今に残る。さらにはこの地は備前焼の集積地としても知られていた。

室町時代から南北朝時代になると最勝光院領を経て、後醍醐天皇の命により東寺領とされた。また、この頃、吉井川の中州に福岡城が築城され、北朝の赤松氏の支配下に置かれており、観応元年(正平5年/1350)には足利尊氏が、応安4年(建徳2年1371)には今川了俊も陣地を構えている。 (ウィキベディアより)

     

   

妙興寺には、官兵衛の曽祖父のお墓があります。

      

吉井川近くには、「福岡市 跡」の碑が建っています。また「一遍上人」の布教の絵図もあります。

   

町には、バス停みたいな小路の案内板があります。

    

    

駆け足で町の中を廻りましたが、静かなとても落ち着きのあるいい町でした。

また長船町の中には「備前長船刀剣博物館」もあります。

 

 

 


新年明けましておめでとうございます。

2014-01-01 08:19:13 | 日記

 

 

2014年  新年明けましておめでとうございます。

     

   

     

ここ福岡では、今気温が10℃。風が強く体感的には5℃ぐらいでしょうか?(6:00現在)

日の出時刻は7:20ぐらい。空を見ますと星が出ていますので見えるかもしれませんね。

早速、日の出スポットに行ってきます。

2012、12月より始めました「山陽道歩き」も昨年岡山に到達しました。

今年の秋ぐらいまでに京都・東寺までゴールしたいですね。

本年もどうぞよろしくお願いします。

 

【追記】

7時ごろから日の出スポットに行ってきました。日の出時刻7:20ごろになっても東の方に雲があり今日は日の出は無理かな?と思っていた所

雲の隙間から微かにお日様が・・・・・・・・

今年も初日の出が見ることができました。今年もいいことがあるといいですね。