よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「三日月山遊歩道から唐津街道を歩く」(福岡市東区)

2024-12-23 18:05:37 | ふくおかウォーキング協会

12/11(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「三日月山遊歩道から唐津街道を歩く」でした。

集合場所は、JR香椎駅、参加者40名

 

今日のマップ

 

自由が丘幼稚園を通ると、ここから上り坂になります。

 

長谷ダム記念広場で休憩

 

休憩後再スタート、三日月山登山口へ

 

三日月山は、福岡市と久山町2市町の町境にある標高272mの山です。自生するクスノキの原生林は、国の天然記念物に指定されています。

三日月~立花山の遊歩道は、都市部に近く道のりが緩やかで登りやすく、健康づくりや遠足などのハイキングコースとして大人気です。

小さなお子さんからお年寄りまで幅広い世代に愛されています。山頂には樹木が殆どなく360度広がる大パノラマは絶景です。天智天皇の時代に大陸からの侵攻を防ぐため防人を置いた

陣屋がここにあったとされ、別名「陣山」とも呼ばれています。博多湾と福岡市内が一望でき、元旦には、初日の出の登山客で賑わいます。(クロスロードふくおかより)

 

 

 

やっと平坦な道に戻りました。

 

九州高校あたりが唐津街道です。

 

11:50 香椎駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 

 


12月例会「春日市の史跡巡りと九大筑紫キャンパス」(福岡県春日市)

2024-12-22 17:17:44 | ふくおかウォーキング協会

12/7(土)ふくおかウォーキング協会12月例会は、「春日市の史跡巡りと九大筑紫キャンパス」でした。

集合場所は、JR南福岡駅、参加者は41名でした。

 

今日のコースです。

9:30スタート、南福岡駅横の踏切は、開かずの踏切ともいわれています。10分ぐらい待ってやっと開きました。  

 

奴国(なこく)の丘歴史公園です。

奴国は、福岡市付近にあった弥生時代の原始国家。「なのくに」ともいう。『日本書紀』に儺県(なのあがた)・那津(なのつ)とみえ、後の那珂(なか)郡に比定される。

『後漢書(ごかんじょ)』倭伝によると、57年(建武中元2)に奴国が後漢に朝貢し、使者自ら大夫と称したとあり、光武帝(こうぶてい)は奴国王に印綬(いんじゅ)を賜ったとある。

1784年(天明4)福岡市志賀島から発見された「漢委奴国王」の金印は、このときに与えられたものとされている。また『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)によると、伊都国の東南百里にあり、

長官を兕馬觚(しまこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)といい、戸数は2万余戸あったと記される。奴国は伊都国とともに紀元前後ころより大陸との交易に従事し大いに発展した。

奴国域内の須玖(すぐ)岡本遺跡からは前漢鏡、銅剣、銅矛など多数の舶載品が発見されている。(ニッポニカより)

このあたりが、奴国の中心部だったそうです。

園内には、弥生時代の青銅器や鉄器、鋳型など多数の遺物を展示したコーナーがあります。

 

 

外に出てみると、「須玖岡本遺跡」があります。

福岡県春日市は福岡平野の南端に位置し、弥生時代中期をとおして巨大な集落が営まれました。福岡平野には「那の津」などの名前がいまにも残ることから、この地は倭の国の1つ奴国の

領域だったと見られ、須玖岡本遺跡は奴国の中枢拠点だったと考えられています。この遺跡の内で、特徴の異なる3つの墓域が発見されました。それぞれ王墓、王族墓、有力者層の墓域に

該当すると想定されます。

 

 

須玖岡本遺跡から再スタート

 

 

春日ふれあい文化センターで休憩

 

ふれあいプラザから春日神社に向かいます

 

 

牛頸(うしくび)川を渡ります。

 

春日公園を通り、九大筑紫キャンパスへ

 

12:00 JR大野城駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 


やさしいウォーク「師走の遠賀川河川と飯塚市内をウォーク」(福岡県飯塚市)

2024-12-10 05:35:35 | ふくおかウォーキング協会

12/5(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「師走の遠賀川河川と飯塚市内をウォーク」でした。

昨日に続き、筑豊地区をウォーキングです。

集合場所は、JR鯰田駅。参加者23人。鯰田駅は、無人駅でトイレもありません。

 

9:30スタート。鯰田大橋を渡ります。

 

しばらく歩くと「幸袋地区」に入ります。幸袋には、炭鉱主「旧伊藤伝衛門邸」があります。伊藤伝衛門は、歌人柳原白蓮と結婚した人でもあります。

「茅葺の家」が見えてきました。築200年の古民家を新しく茅葺に改修されたそうです。

この家は、「黒田藩三孝子」の一人畠中好平の家です。

 

犬小屋も茅葺です。残念ながら犬はいませんでした。

 

スーパーALZOで休憩、休憩後遠賀川河川敷を歩きます。

 

途中、柳原白蓮(伊藤伝衛門の奥様)の歌碑があります。

おもひきや 月も流転の かけてかし わがこしかたに 何をなげかむ

意味は、晩年に我が身を振り返り、月の満ち欠けと自分の一生を思い合せて「わがこしかたに何をなげかむ」と強く生きる覚悟を表した歌です。※こしかた→過ぎてきた時、過去

 

 

飯塚市街地に入ります。

 

クリスマスモードですね。

 

長崎街道上にある曩祖(のうそ)八幡宮です。

神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と

口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれています。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。

 

 

 

11:30 新飯塚駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 

 


楽しいウォーク「田川市内散策ウォーク」(福岡県田川市)

2024-12-06 21:16:17 | ふくおかウォーキング協会

12/4(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは「田川市内散策ウォーク」でした。

田川と言えば、やはり五木寛之さんの「青春の門」ですね。本嫌いの私が唯一自立編から風雪編まで全部読みました。

映画にもなりましたね。観に行きました。吉永小百合さん、大竹しのぶさん・・・・映画の挿入歌山崎ハコさんの「織江の歌」も良かったです。

 織江の歌    Bing 動画

私、いろんなところを歩いていますが、田川はもう何年ぶりかな・・・・30年、40年前  確かJRウォークで歩いた時以来かな???

今回、電車で行こうと計画しましたが、乗換、乗換で結構時間がかかるので車で行くことにしました。

田川後藤寺駅に車を置き、日田彦山線で集合場所の田川伊田駅へ。

スタート前まで少し時間がありましたので伊田商店街を散策します。9時になるのにまだオープンしているお店はありません。

 

風治八幡宮は、毎年5月に行われる福岡五大祭りの一つ「川渡り神幸祭」の舞台です。

 

今日のウォーク、参加者26名、やはり遠方だったから少ないのでしょうか?

今日のコースです。9:35スタート

 

先ずは、「石炭記念公園」へ

田川の石炭の歴史と文化を残そうと、旧三井田川鉱業所跡地に整備された公園です。
国登録有形文化財の伊田竪坑第一・第二煙突と伊田竪坑櫓のほか、炭坑節発祥の地の碑などの記念碑やモニュメント、炭坑夫之像が建てられています。
敷地内に「田川市石炭・歴史博物館」もあり、石炭採掘の歴史資料や昭和初期の炭坑住宅の再現、運搬に使用されたSLなどが展示されています。

 

 

盆踊りなどで歌われる「炭坑節」の発祥の地は、田川・伊田です。

田川市HPによると 

昭和7年(1932)、後藤寺町検番の長尾イノさんら3人が日東レコードに「炭坑唄」を収録したのが炭坑節レコード化の初めである。その前年、隣接する伊田町でも選炭唄をレコード化しようとする動きがあったが、実現しなかった。

炭坑節は、炭都田川の発展に伴い、労働の中で生まれた仕事唄が宴席に持ち込まれ、やがて花柳界で洗練されつつ歌われるようになったものである。大正から昭和初期にかけて、筑豊の炭鉱主たちが博多・小倉などの料亭で豪遊したこともあって、宴席では欠かせぬ唄となり、やがてラジオを通じて全国的にも知られるようになった。
盆踊りの定番 その発祥は炭坑節が爆発的に広まったのは、「戦後の復興は石炭から」という国策に沿って、この唄が毎日のようにラジオで放送されたことによる。その軽快なメロディは一般に親しまれ、やがては盆踊りの定番となった。

炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに伊田尋常高等小学校(現鎮西小学校)の小野芳香氏が田川郡内の民謡・童謡調査の際、採集した膨大な数にのぼる歌詞の中に「伊田場打撰炭節」があった。明治43年(1910)には一部改曲したものを補習科の生徒に試唱させている。また、大正14年(1925)に編纂した『福岡県田川郡民謡・童謡の研究』の中にも「炭坑節(伊田町三井炭坑唄)」として収録されている。炭坑節の元唄はまがうことなく田川の炭坑で選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。

 

「月が出た出た月が出た三池炭鉱の上に出た♪♪」→→もともとは、「月が出た出た月が出た三井炭鉱の上に出た♪♪」だったそうです。

三池炭鉱(大牟田)も三井伊田炭鉱(田川)もどちらも「三井」の炭鉱でした。

  

 

 

 

石炭記念公園から再スタート

 

国道201号線沿いに相撲茶屋「貴ノ花」があります。貴ノ花が師匠の時は、九州場所の宿舎でした。

 

「10円あったらチロルチョコ」のキャッチフレーズで有名な「チロルチョコ」は、田川が発祥の地です。

本社工場の近くには、直売店があり、ここにも立ち寄ります。

 

ディスカウントストアで有名な「Mr.MAX」も田川が創立地です。

田川市役所で休憩。

 

休憩後再スタート。三井寺(みついでら平等寺)へ

 

地元では「風鈴寺」とも呼ばれる真言宗御室派平等寺、通称「三井寺」。4月下旬~9月頃、本堂横の庭には夏の風物詩、風鈴のトンネルがお目見えします。幅約2.5m、長さ約50mのトンネルには約10,000個の風鈴がチリンチリンと揺れ、参拝客の目と耳を楽しませます。1時間に2回のしゃぼん玉タイムには、境内にたくさんのしゃぼん玉が舞い、風に揺れる色とりどりの短冊や、きらきらと輝く風鈴とのコラボレーションは幻想的。風鈴を購入し、短冊に願いを書いて吊るすこともできます。
風鈴以外にもユニークなポーズのお地蔵さまが見どころ。ガッツポーズ地蔵や手抜き地蔵、ほほえみ地蔵や親子地蔵などが、訪れる人の心を癒やしてくれます。個性豊かな八本地蔵、八方ふさがりの人千手観世音菩薩などもありますので、境内をゆっくり散策してみてください。(クロスロード福岡より)

ちょうど紅葉の真っ最中でした。

 

 

 

 

 

 

帰りには、皆で記念写真を。

 

12:35 田川後藤寺駅へゴール

追記

田川は、1943年(昭和18年)伊田町と後藤寺町が合併してできた市です。

田川についての言い伝えはいくつかある。そのうち今でもよく見聞きするのが、現在の鷹ノ巣山(添田町)に光り輝く鷹が降り立ったというもの。鷹ノ巣山の名の由来であるとともに、

「鷹羽」→「高羽」→「田河」→「田川」と時代とともに移り変わって、現在にいたるという。(筑豊百景より引用)

伊田」の地名の由来は、井田、飯田から転訛したものです。

後藤寺」には、後藤寺というお寺はありません。江戸初期の1600年代には宮尾弓削田(みやおゆげた)村新町として記録に表れ、1700年代には後藤寺(ごとうじ)町村として記録に表れます。

中世の弓削田荘の鎮守春日神社の門前町として香春(かわら)道(秋月街道)に沿って発達したのでしょう。後藤寺の地名は「藤寺」があったという説、『応永戦乱記』にある「五塔寺」から

転訛したという説、『豊前村誌』に出てくる「牛頭寺」から転訛したという説があります。明治15(1882)年の小名調では、大字池尻に「牛頭寺原」「牛藤寺」「後藤寺原」、大字宮ノ尾に

「後藤寺原」とあります。

 

 

 


楽しいウォーク「大野城山麓散策と印刷工場見学」(福岡県大野城市)

2024-11-29 18:22:19 | ふくおかウォーキング協会

11/27(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは「大野城山麓散策と印刷工場見学」でした。

この日福岡地方は暴風警報が出されていました。会の規則は、朝6時時点で「警報」が出ていると中止ですが、よく天気予報を調べてみると、暴風警報は、沿岸沿いそれもお昼頃ということで

ウォーキングを決行することにしました。(印刷工場見学が予定に入っていましたので)会員の皆さんには、Lineやメールで「決行」を連絡しました。

集合場所は、JR春日駅、参加者31名。雨も降っておらず、風もそんなに強くありません。

 

今日のマップ

9:30 スタート

 

大野城北コミセンで休憩

 

休憩後再スタート

 

今日の印刷工場見学は、12:00~。イオン乙金店で30分の時間調整します。

ここで早いけど昼食にします。

 

11:15 店舗の外で集合を掛けますが、1人いません。店内放送を依頼し待っていますが、10分経っても来られません。

別の人がその方の携帯に電話しますが、一向につながりません。5~6人で探しますが見つかりません。

どうしようかと思っているとその方から電話が・・・・それによると、今日は雨が降りそうなので大野城総合公園にはパスすると言ったのにそちらに行かれていました。

大城3丁目の交差点で待ち合わせし、やっと合流しました。先発隊はもう印刷工場の方に行ってます。

 

何とか、全員揃い、印刷工場の中へ。

 

 

機械に巻かれているロール紙(新聞紙)は重さ1トンあるそうです。

工場内は、ほとんど撮影禁止です。新聞を印刷する輪転機は、早いときは時速50km/hだそうです。印刷し裁断、梱包まですべて自動化されています。

私の子供の頃、NHKTVで「事件記者」という番組がありました。その時この輪転機が映し出されフェードインで字幕が出て居ました。

懐かしくてしばらく見ていました。

 

 

案内していただいた女子社員の方です。

工場を出ると雨が本降りになっていました。

 

帰りには、今日の新聞に私たちの集合写真が載った新聞をいただきました。

  

西鉄白木原駅を通りJR大野城駅でゴールしました。

 

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「福岡マラソンコースを歩く①」(福岡市中央区~西区)

2024-11-24 06:39:25 | ふくおかウォーキング協会

11/20(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「福岡マラソンコースを歩く①」でした。

福岡マラソンは、11/10(日)福岡市中心部天神をスタートし、糸島市志摩庁舎まで42,195kmのコースで行われました。

当協会の会員さんもスタッフやランナーとして参加されていました。

このマラソン第1回大会は、市民マラソンとして2014年11月9日に開催され、私、その2日前に歩いてチャレンジしたことがあります。タイムは7時間半ぐらいだったと記憶しています。

25km付近で足に肉刺ができ、それまで快調に歩いていたのですが、肉刺の為ペースダウンしてしまいました。(マラソンは制限時間7時間以内)

あれから10年、いつかはまたチャレンジしようかと思ってましたが、膝に持病を抱えていますので思うように歩けなくなりました。

※12月初旬に行われる福岡国際マラソンとは、別の大会です。

 

「楽しいウォーク福岡マラソンを歩く」は、42,195kmを何回に分けて歩いてみようと計画しました。

その1回目は、スタート地点の天神交差点から姪浜まで約10kmです。

集合場所は、天神の警固公園、参加者36人。9:30スタート

今日のマップ

 

 

12/1には、一流ランナーが参加する「福岡国際マラソン」が行われます。

 

簀子(すのこ)公園で休憩

 

 

休憩後再スタート。当仁(とうにん)小学校の所で右折。この当仁小学校は、唐人町にあるのですが、学校名は、当仁(とうにん)です。

普通だったら唐人町にあるのだから「唐人小学校」となるのですが、当仁小学校となっています。

分離校の校名は、南当仁(みなみとうじん)小学校です。校名の由来を調べてみると、論語の一説「仁に当たりては 師にも譲らず」(當仁不譲於師)から引用されています。

子曰く 人として恥ずかしくない生き方については、相手が師と仰ぐ人であっても人任せにしてはいけない。

道徳(仁・人の道)の実践においては、(それが正しい以上)たとえ師に対してであっても一歩も譲らない。

こんな意味だったのですね。

 

 

 

 

愛宕大橋です。ここを渡ると「西区」になります。

 

イオンマリナ店でトイレ休憩

 

12:20  姪浜駅にゴールしました。

機会があれば、第2弾として「姪浜~九州大学コース」 も企画したいと思ってます。

今日のGPSです。

 

 

 

 


楽しいウォーク「香椎かもめ大橋を渡り千早へウォーク」(福岡市東区)

2024-11-15 05:09:21 | ふくおかウォーキング協会

11/13(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「香椎かもめ大橋を渡り千早へウォーク」でした。

集合場所は、JR箱崎駅。参加者は、交通の便が良いからか、36人でした。会員の中には、風邪をひかれている方も何人かおられ、その方々が参加されれば40人は超えてたかも?

今日のマップ

 

9:45箱崎駅スタート   九大跡地を通ります。

 

九大跡地は、現在大規模な開発が行われています。JRも新駅を作るそうです。

10年後には、このあたりの光景も変わっているかもしれません。

地下鉄箱崎線の終点は、貝塚駅です。ここから西鉄新宮線に乗り換えられます。一時期地下鉄と西鉄の総合乗り入れという話がありましたが、地下鉄の車両は6両、西鉄は2両、

総合乗り入れする場合は、西鉄沿線のホームの拡張をしなくてはいけません。それがネックになっています。

 

貝塚公園で休憩。70年前には、ここに「福岡競輪場」がありました。市内電車の終点も「貝塚」ではなく「競輪場前」だったと記憶しています。

 

グリーンパーク臨海で休憩

 

休憩後再スタート。 香椎かもめ大橋を通ります。

香椎かもめ大橋は箱崎ふ頭4丁目から香椎浜3丁目までの789mのブリッジです。福岡市内では一番最長です。

このあたり埋め立て地で海に近いこともあり倉庫会社が建ち並んでいます。

 

鳥がエサを見つけたのでしょうか、大群です。

渡り終えると「みなと百年公園」です。

 

みなと百年公園から城浜団地の中を通ります。

 

 

11:57 千早駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 


サタデーウォーク「鎮国寺と宗像大社の西日本菊花大会を訪ねて」(福岡県宗像市)

2024-11-12 05:20:41 | ふくおかウォーキング協会

11/9(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「鎮国寺と宗像大社の西日本菊花大会を訪ねて」でした。

集合場所は、JR東郷駅。この日は、加古川・河口湖・高知龍馬など各地でウォーキング大会が開催され、当協会会員の何人かもそれに参加され、参加者はいつもに比べ19人と少ない。

今日のマップ

 

9:40スタート

 

 

約1時間で宗像大社に到着。

 

日本神話に登場する日本最古の神社のひとつ「宗像大社」。天照大神の三柱の娘・三女神が沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、本土の辺津宮にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して

「宗像大社」といいます。三宮の総社である「辺津宮」は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られており、本殿と拝殿は国指定の重要文化財。皇室・国家を守護する神、また道の神様として

信仰が篤く、航海安全、交通安全を祈願する参拝者がたくさん訪れます。
境内にある「神宝館」には沖ノ島から出土された鏡、勾玉、金製指輪など国宝に指定された約8万点の神宝を中心に、宗像大社に伝承されてきた重要文化財などを収蔵・展示。

1階は大社に伝わる美術工芸品、2階は沖ノ島の祭祀神宝、3階は宗像文書と郷土資料を展示しています。(クロスロードふくおかより引用)

境内には、宗像みあれ芸術祭のわらアートがあります。タイトルは「宗像の海 わらのくじら」です。

その昔、北部九州は、捕鯨が盛んで人々は、クジラと共に暮らしていたことに着想を得たそうです。

中で寝れそうですね。(笑)

 

また、境内では、西日本最大級を誇る西日本菊花展が行われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

心字池には、まるで鶴がいるようなアートがあります。

  

宗像大社から「鎮国寺(ちんこくじ)」に向かいます。鎮国寺の長い階段が堪えます。

 

鎮国寺は弘法大師(空海)が中国より帰朝した大同元年(806年)、日本で最初に創建したと伝えられる真言宗最古のお寺です。七堂伽藍を構えて宗像大社の神宮寺として栄えてきました。

寺には、弘法大師の作と伝えられる「不動明王立像」(国指定重要文化財)、五仏堂(県指定文化財)、護摩堂などがあります。また鎮国寺は「花と祈願の寺」と言われるほど年間を通じて

美しい花々を楽しめる名所としても大変有名で、梅・桜などが楽しめる春には毎年盛大に「花まつり」が行われています。

鎮国寺の紅葉は、少し紅くなったぐらいです。2月には、境内に梅や早咲きの桜が咲きそれはそれは、綺麗です。

 

鎮国寺というと「鎮国饅頭」です。お土産に一つ買いました。

 

鎮国寺からは下りです。

 

釣川沿いに歩き、今日のゴール「道の駅むなかた」を目指します。

 

 

11:50 道の駅むなかたにゴールしました。今日は土曜日ということで道の駅は他県ナンバーなどで混雑していました。

 

道の駅むなかたから12:11のバスで東郷駅に向かい、帰路につきました。(土日祭は、この12:11発のバスが最終便です)

 

 

 

 


やさしいウォーク「元寇防塁と生の松原森林公園を歩こう」(福岡市西区)

2024-11-10 07:32:46 | ふくおかウォーキング協会

11/7(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは「元寇防塁と生の松原森林公園を歩こう」でした。

元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻です。蒙古襲来とも呼ばれます。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。

注)「元寇」の「元」は、モンゴル、「寇」は、外敵という意味で「寇」(あだす)つまり侵略者を名詞に表した。(wikipediaより)

今年は、文永の役(1274年)から750年です。「元寇」に所縁のある松浦市・壱岐市・対馬市・福岡市では、「元寇750年スタンプラリー」のイベントが行われています。

「元寇750年」縁の4市で開催!スタンプラリー

蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにしました。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼びます。
元寇防塁は、幅2m、高さ2mの石積みで西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれました。

福岡市内では、まだ防塁跡が残っています。今津や生の松原などがそうです。

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集合場所は、JR下山門駅近くの宇賀公園、参加者28名。今日のリーダーは、姪浜在住のY氏。今日はやさしいウォークですので距離は約7km。

今日のマップ

9:30 スタート

 

十郎川から今津湾の海岸線へ

 

 

生の松原の「元寇防塁」は姪浜側が肥前国(佐賀)、生の松原側が肥後国(熊本)によって築造されました。

『蒙古襲来絵詞』に、肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬上で進む場面は、この生の松原の情景です。

 

 

元寇防塁跡から生の松原に入ります。

 

市道千代今宿線から斜ヶ浦(ななめがうら)池に進みます。斜ヶ浦池で休憩

 

休憩後再スタート

 

 

 

11:23 姪浜駅にゴール

 

 

 

 


楽しいウォーク「唐津藩と虹ノ松原(田園と松原)を歩く」(佐賀県唐津市)

2024-11-09 06:00:45 | ふくおかウォーキング協会

唐津では、11/2~11/4まで「唐津くんち」が行われました。

「唐津くんち」とは唐津神社の秋季例大祭(しゅうきれいたいさい)の事をいいます。くんちとは「供日(くにち)」が九州の方言で訛ったものとも言われ、九州北部地方では秋祭りの事を「くんち」と呼ぶ地域が多くあります。お供えの日と書くことから、秋の実りを神様にお供えして五穀豊穣に感謝するお祭りであることがわかります。(諸説あります)
 唐津くんちの御神輿の渡御は江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃に始まったと伝えられております。曳山は御神輿にお供して神様を警護する目的で造られました。現在伝わる曳山が誕生したのは氏子町の一つである刀町が赤獅子を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納したのが始まりで、それ以後明治9年まで57年の間に15台の曳山が製作され、その内一台が明治中期に損滅し、

現在14台が現存しています。
製作には3年前後を費やしたと言われ、木組み・粘土で原形をつくりその上から和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、漆を塗り重ね、金銀を施して仕上げたものです。

1台あたりの重さは2~4トンあり、1台あたり曳き子200~400人で曳いています。曳山は昭和33年に佐賀県の重要有形民俗文化財に指定され、唐津くんちの曳山行事として昭和55年に

国指定重要無形民俗文化財に指定されています。(唐津神社HPより引用)   ※下記写真は、唐津神社HPより借用

 

今年の唐津くんちは、3日間で約64万人の方が訪れたそうです。

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11/6(水)  ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、唐津くんちが終わったばかりの唐津市を訪ね「唐津藩と虹ノ松原(田園と松原)を歩く」でした。

今日は、朝の最低気温が15度で風もあり少し寒いです。

集合場所は、JR浜崎駅。参加者は21人。

今日のリーダーは、唐津在住のS氏。

今日のマップ

9:40 浜崎駅スタート

 

浜崎は、以前「唐津虹ノ松原ツーデーウォーク」で歩きました。今年は12月に唐津市相知町で行われます。

 

浜崎諏訪神社の前は、旧唐津街道です。

 

旧唐津街道から田園地帯に入ります。今は稲刈りが終わっている田んぼですが、春先には一面菜の花が咲きます。

おさかな村でトイレ休憩

 

休憩後再スタート。田園地帯を通り、虹ノ松原に向かいます。

 

虹ノ松原から海岸へ。

今日は風が強く海も荒れ気味です。遠くには唐津城が見えます。

 

海岸から再び松原へ

 

虹ノ松原ホテルで休憩。この虹ノ松原付近には、リゾートホテルが建立しています。

 

さかもと食堂は、今年8月将棋の王位戦で「海鮮丼」が昼食に出されました。

 

舞鶴橋を渡ります。

 

唐津城は、初代城主の寺沢志摩守広高は、名護屋城普請や朝鮮進攻において、兵力輸送や食糧補給などの任務を担いました。秀吉からの信頼も厚く、広高は岸岳城主波多三河守

(はたみかわのかみ)の領地を与えられました。また、唐津城築城にあたり、広高は松浦川と神田川の河口部分の大改修を行い、海と河口に囲まれた要害堅固な海域(平山城)として

名護屋城の建材や薩摩藩・肥後藩を中心とした九州各藩の協力や穴太衆(あのうしゅう 滋賀県大津市坂本穴太)の石工技術を持って7カ年の歳月を費やして完成させました

歴代藩主

唐津城の歴史|【公式】唐津城

 

唐津城の近くには、「早稲田佐賀中・高校」があります。早稲田の創立者「大隈重信」は、佐賀の出身です。

 

旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好(たかとりこれよし)の邸宅です。唐津城本丸の西南の海岸沿い、約2,300坪の広大な敷地に大きく2棟の建物が建っています。
平成6年から平成7年にかけて行われた国の近代和風建築総合調査でその重要性が確認され、平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。

この邸宅は、伊好が自宅兼迎賓(げいひん)のために明治38年(1905年)に建てたものです。大広間棟にある板敷きの能舞台、植物の浮き彫りや型抜きの動物を施した(ほどこした)欄間(らんま)、杉板戸の絵など和風を基調としながらも洋館を設けるなど当時の最新の優れた意匠を見ることができ、近代和風建築のすばらしさが堪能できます。

特に藤、山桜、垂れ桜、菊、松、紅葉が描かれた29種類72枚の杉戸絵は京都四条派の絵師:水野香圃(みずのこうほ)が約半年くらい滞在して描いたと言われています。

自然の豊かさがいっぱいです。

来賓用の玄関と主人用、家族用と3つもある玄関があります。風呂も、家族用と使用人用と別々にありました。外にはワインセラーの建物もあり、当時の豪商の凄さを伺うことができます。

平成13年から17年度にかけて文化庁の指導のもと修復・復原工事を行い、建築規模が最大になった昭和初期の状態に復元しました。(唐津市HPより引用)

旧大島邸は、唐津の近代化に尽力した大島小太郎(おおしまこたろう)の旧宅です。大島小太郎(1859~1947年)は、唐津藩士大島興義(おおしまおきよし)の長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校耐恒寮(たいこうりょう)において、東京駅を設計した辰野金吾(たつのきんご)や同じく著名な建築家である曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、後の蔵相、首相を務めた高橋是清(たかはしこれきよ)の薫陶を受け、明治18年には佐賀銀行の前身となる唐津銀行を創立。その後も鉄道や道路の敷設、市街地の電化、唐津港の整備など、唐津の近代化に大きく貢献しました。

本邸はかつて、ここから300mほど西側の地点に建っていましたが、小学校校舎の建設に伴い解体され、現在の地に復元されました。母屋の完成は明治26年(1893)と考えられており、

明治時代中期の大規模かつ極めて上質な住宅で、当時の和風住宅の庭をともなう建物構成や意匠の優秀さ、特徴をよく示している建物といえます。(旧大島邸HPより引用)

 

唐津神社は、其の昔、神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に 鏡を捧げておいのりされたのが起源と

されています。
その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、

早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった。
宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して

「唐津大明神」と賜ったのであります。
その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
慶長七年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。(唐津神社HPより引用)

冒頭に述べました「唐津くんち」は、唐津神社の秋季例大祭です。

 

唐津市役所を通りゴールの唐津駅へ。

 

 

12:37唐津駅にゴールしました。

今日のウォーキングは、リーダーのSさんによる随所の詳しい説明で知らない唐津の事がわかりました。

最近、当ウォーキング協会のウォーキング教室も各リーダーの方が事前に勉強され、そのコースの見どころなどを説明されています。

ウォーキングは「五感」(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)をフル活用して脳を活性化し、ストレスを軽減する効果があるといわれています。

やはりウォーキングは、いいですね。