唐津では、11/2~11/4まで「唐津くんち」が行われました。
「唐津くんち」とは唐津神社の秋季例大祭(しゅうきれいたいさい)の事をいいます。くんちとは「供日(くにち)」が九州の方言で訛ったものとも言われ、九州北部地方では秋祭りの事を「くんち」と呼ぶ地域が多くあります。お供えの日と書くことから、秋の実りを神様にお供えして五穀豊穣に感謝するお祭りであることがわかります。(諸説あります)
唐津くんちの御神輿の渡御は江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃に始まったと伝えられております。曳山は御神輿にお供して神様を警護する目的で造られました。現在伝わる曳山が誕生したのは氏子町の一つである刀町が赤獅子を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納したのが始まりで、それ以後明治9年まで57年の間に15台の曳山が製作され、その内一台が明治中期に損滅し、
現在14台が現存しています。
製作には3年前後を費やしたと言われ、木組み・粘土で原形をつくりその上から和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、漆を塗り重ね、金銀を施して仕上げたものです。
1台あたりの重さは2~4トンあり、1台あたり曳き子200~400人で曳いています。曳山は昭和33年に佐賀県の重要有形民俗文化財に指定され、唐津くんちの曳山行事として昭和55年に
国指定重要無形民俗文化財に指定されています。(唐津神社HPより引用) ※下記写真は、唐津神社HPより借用
今年の唐津くんちは、3日間で約64万人の方が訪れたそうです。
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11/6(水) ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、唐津くんちが終わったばかりの唐津市を訪ね「唐津藩と虹ノ松原(田園と松原)を歩く」でした。
今日は、朝の最低気温が15度で風もあり少し寒いです。
集合場所は、JR浜崎駅。参加者は21人。
今日のリーダーは、唐津在住のS氏。
今日のマップ
9:40 浜崎駅スタート
浜崎は、以前「唐津虹ノ松原ツーデーウォーク」で歩きました。今年は12月に唐津市相知町で行われます。
浜崎諏訪神社の前は、旧唐津街道です。
旧唐津街道から田園地帯に入ります。今は稲刈りが終わっている田んぼですが、春先には一面菜の花が咲きます。
おさかな村でトイレ休憩
休憩後再スタート。田園地帯を通り、虹ノ松原に向かいます。
虹ノ松原から海岸へ。
今日は風が強く海も荒れ気味です。遠くには唐津城が見えます。
海岸から再び松原へ
虹ノ松原ホテルで休憩。この虹ノ松原付近には、リゾートホテルが建立しています。
さかもと食堂は、今年8月将棋の王位戦で「海鮮丼」が昼食に出されました。
舞鶴橋を渡ります。
唐津城は、初代城主の寺沢志摩守広高は、名護屋城普請や朝鮮進攻において、兵力輸送や食糧補給などの任務を担いました。秀吉からの信頼も厚く、広高は岸岳城主波多三河守
(はたみかわのかみ)の領地を与えられました。また、唐津城築城にあたり、広高は松浦川と神田川の河口部分の大改修を行い、海と河口に囲まれた要害堅固な海域(平山城)として
名護屋城の建材や薩摩藩・肥後藩を中心とした九州各藩の協力や穴太衆(あのうしゅう 滋賀県大津市坂本穴太)の石工技術を持って7カ年の歳月を費やして完成させました
唐津城の歴史|【公式】唐津城
唐津城の近くには、「早稲田佐賀中・高校」があります。早稲田の創立者「大隈重信」は、佐賀の出身です。
旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好(たかとりこれよし)の邸宅です。唐津城本丸の西南の海岸沿い、約2,300坪の広大な敷地に大きく2棟の建物が建っています。
平成6年から平成7年にかけて行われた国の近代和風建築総合調査でその重要性が確認され、平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
この邸宅は、伊好が自宅兼迎賓(げいひん)のために明治38年(1905年)に建てたものです。大広間棟にある板敷きの能舞台、植物の浮き彫りや型抜きの動物を施した(ほどこした)欄間(らんま)、杉板戸の絵など和風を基調としながらも洋館を設けるなど当時の最新の優れた意匠を見ることができ、近代和風建築のすばらしさが堪能できます。
特に藤、山桜、垂れ桜、菊、松、紅葉が描かれた29種類72枚の杉戸絵は京都四条派の絵師:水野香圃(みずのこうほ)が約半年くらい滞在して描いたと言われています。
自然の豊かさがいっぱいです。
来賓用の玄関と主人用、家族用と3つもある玄関があります。風呂も、家族用と使用人用と別々にありました。外にはワインセラーの建物もあり、当時の豪商の凄さを伺うことができます。
平成13年から17年度にかけて文化庁の指導のもと修復・復原工事を行い、建築規模が最大になった昭和初期の状態に復元しました。(唐津市HPより引用)
旧大島邸は、唐津の近代化に尽力した大島小太郎(おおしまこたろう)の旧宅です。大島小太郎(1859~1947年)は、唐津藩士大島興義(おおしまおきよし)の長男として唐津城内に生まれました。
唐津藩の英語学校耐恒寮(たいこうりょう)において、東京駅を設計した辰野金吾(たつのきんご)や同じく著名な建築家である曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、後の蔵相、首相を務めた高橋是清(たかはしこれきよ)の薫陶を受け、明治18年には佐賀銀行の前身となる唐津銀行を創立。その後も鉄道や道路の敷設、市街地の電化、唐津港の整備など、唐津の近代化に大きく貢献しました。
本邸はかつて、ここから300mほど西側の地点に建っていましたが、小学校校舎の建設に伴い解体され、現在の地に復元されました。母屋の完成は明治26年(1893)と考えられており、
明治時代中期の大規模かつ極めて上質な住宅で、当時の和風住宅の庭をともなう建物構成や意匠の優秀さ、特徴をよく示している建物といえます。(旧大島邸HPより引用)
唐津神社は、其の昔、神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に 鏡を捧げておいのりされたのが起源と
されています。
その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、
早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった。
宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して
「唐津大明神」と賜ったのであります。
その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
慶長七年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。(唐津神社HPより引用)
冒頭に述べました「唐津くんち」は、唐津神社の秋季例大祭です。
唐津市役所を通りゴールの唐津駅へ。
12:37唐津駅にゴールしました。
今日のウォーキングは、リーダーのSさんによる随所の詳しい説明で知らない唐津の事がわかりました。
最近、当ウォーキング協会のウォーキング教室も各リーダーの方が事前に勉強され、そのコースの見どころなどを説明されています。
ウォーキングは「五感」(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)をフル活用して脳を活性化し、ストレスを軽減する効果があるといわれています。
やはりウォーキングは、いいですね。