よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)を歩く1日目「山科~伏見」(京都市)

2022-05-31 14:40:50 | 京街道(東海道57次)

2018年に東海道を踏破しましたが、あとで調べてみると、東海道は、57次だそうです。

京阪電鉄が出しているガイドブックによると、「東海道53次は、実は、❝57次❞だったともいわれています。その理由は、東海道の延長として同じく京と大坂を結んでいた「京街道」にあります。

街道には、伏見・淀・枚方・守口にそれぞれ宿場が設けられており、東海道53次にこれらの宿場を加えた「東海道57次」が本来の姿ではないかというわけです。

湖都、古都、水都をつないできた「みち」と「まち」に思いを馳せてみませんか。

5/21より福井県若狭町で行われる「若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に合わせ、この街道を歩いてみることにしました。

本当は、2020年3月に計画しましたが、コロナの緊急事態宣言等があり、今回になりました。この街道は、途中まで「奈良街道」とダブっています。

 

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京街道は、ガイドブックによれば、約60k弱。普通なら4日でいける距離ですが、この街道は見どころ満点のコースですのでさて、何日かかることやら・・・・

5/17(火)博多発6:50の新幹線で大阪へ。大阪のホテルに荷物を預け、京街道の出発点、京都・山科の追分(追分は、滋賀県)からスタートします。

11:15スタート。髭茶屋の所には、蓮如上人の石碑と追分石(道標)があります。(みぎハ京ミチ、ひだりハふしみみち)

  

 

音羽地域は古来より「水不足」で悩んでいたために,明治初期に行われた琵琶湖疏水の開通と,それにつながる「音羽用水路」の完成は,大きな出来事でした。琵琶湖疏水は,技師の田辺朔郎

(たなべさくろう)の綿密な計画のもと,多くの犠牲を出しながらも明治23(1890)年,ついに完成しました。琵琶湖畔の三井寺の近くから長等山トンネルをくぐり,山科盆地の北の山沿いに

走り,九条山を経て京都盆地に入っている。四ノ宮・音羽地域はその通路に当たっているのでした。疏水の完成と共に,疏水から水をひいて山科の田畑を潤(うるお)そうと,用水路が

つくられました。山科には3つの用水路がつくられましたが,その一つが音羽病院の横を流れる「音羽分水路」です(これは後に「洛東用水」と呼ばれます)。疏水の取水所から

約1000mにわたって,四ノ宮・音羽地域を流れており,これによって音羽地域の人たちは,長年苦しんできた「水不足」からやっと救われることになったのでした。この音羽用水路の完成を

記念して,後に「音羽水路紀功碑」が建立されました。

 

 

新幹線のガード下には、道標があります。(みぎうじみち、ひだりおおつみち)

皇塚は、もともとこの地には,直径20mほどの円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。6世紀前半ごろのものと推定され,山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていない。

その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われる。この石標は,大塚(王塚・皇塚)の跡を示すものである。なお現在,この地は岩屋神社の御旅所と

なっている。(京都市HPより)

  

名神自動車道のガードの前に、「大宅(おおやす)一里塚」があります。この一里塚は、京都市内で唯一残っている一里塚です。

  

自分で作ったマップを見てみるとこの近くに「醍醐天皇後山科陵(やましなのみささぎ)」があります。街道とは離れていますが、ここに立ち寄ってみます。

醍醐天皇は第60代の天皇、ちょうど菅原道真左遷の頃の天皇です。

 

  

第61代朱雀天皇醍醐陵(だいごみささぎ)を通り醍醐寺へ。

 

世界文化遺産「醍醐寺」は、真言宗醍醐派の総本山。874年に、弘法大師空海の孫弟子、理源大師聖宝によって開創されました。醍醐山全体を寺域とし、山上の上醍醐、山下の下醍醐からなる

広い境内を持ちます。多くの国宝・重要文化財を含む、建造物・仏像・絵画・文書を伝承しており、世界遺産にも認定。豊臣秀吉が豪華な花見を行った桜の名所としても有名で、

「日本のさくら名所100選」にも選ばれています。

  

醍醐寺三宝院は、豊臣秀吉が慶長3年(1598)の催した「醍醐の花見」を契機として整備されました。その庭園は秀吉自ら基本設計したもので国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

 

 

醍醐寺仁王門を潜って金堂へ。

  

 

醍醐寺から小野小町ゆかりの隋心院に向かいます。隋心院は、真言宗善通寺派の大本山。小野小町がかつて住んでいたという(諸説あり)ゆかりの寺としても知られ、小町が化粧に使った

化粧井戸や、貴公子たちから寄せられた手紙を埋めた文塚、手紙を下張りに使った文張地蔵などがあります。

  

京都市の南東に位置する山科区小野は、平安時代に小野一族が栄えた場所と伝えられています。

小野一族といえば、古くは大和朝廷の外交の任をもって二回も隋に渡った小野妹子、平安初期にあの世とこの世を行き来し閻魔大王に仕えたとの逸話が残る公卿の小野篁、同じく平安時代前期に

和様書道の基礎を築いたといわれる小野道風などを輩出した孝昭天皇の皇子であった天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする一族です。

この山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山「随心院」は、小野一族の中でも最も世に知られている小野小町ゆかりの寺といわれています。

小野小町は、小野篁の孫にあたり、出羽の国司を勤めた小野良実の娘であるとされています。また、当時の書家小野道風は、小町のいとこにあたる人となります。

美貌の誉れ高い小野小町は、仕えていた仁明天皇が嘉祥3年(850)び崩御され、その翌年に三十歳を過ぎたころ宮仕えを辞め、小野郷へ戻り、朝夕この水で化粧をこらしたと

伝えられています。

  

小町文塚

 

隋心院から街道に戻ります。

勧修寺(かしゅうじ)は、昌泰3年(900)、醍醐天皇の勅願により、天皇の母・藤原胤子の追善の為に創建された寺です。

街道は、勧修寺から名神高速沿いに歩いていきます。

 

 

深草谷口町には、仁明天皇陵があります。街道は、JR奈良線の高架を歩きます。

  

  

墨染(すみそめ)には来ました。墨染の地名は、平安時代、上野岑雄かむつけのみねが友人である藤原基経の死を悼み、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と歌ったところ、

この地の桜が墨染色に咲いたという伝説が由来とも言われる。この地は京街道奈良街道大津街道が交差し、宿場町として栄えた事もあり、1699年元禄12年)、茶屋株(お茶屋の営業権)が墨染の南部(現在の関西電力墨染発電所の西側)で許可される。そこから、撞木町(しゅもくちょう)の花街が生まれ、忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助もここのでも遊んだ伝説が語り継がれている

花街としての墨染は明治以降も存続するが衰退し1910年(明治43年)、京阪電気鉄道が開通した翌1911年(明治44年)頃、消滅した。(Wikipediaより)

 

料亭「清和荘」の敷地に「近藤勇遭難の地」という石碑が建っています。

慶応3年(1867)12月16日、朝廷に政権が移ったことに伴い王政復古の大号令が発せられ、新選組は伏見奉行所へ追われた。隊長の近藤勇は18日、二条城での会議からの帰りに随行者らと

伏見奉行所へ向かっていた。一行は伏見の城下町に入る直前で襲撃され、近藤は右肩に銃弾を受けた。現場は伏見街道が大和街道へと名前を変える辺り、現在の京都市伏見区・藤森(ふじのもり)、墨染から丹波橋までの間と伝えられる。大坂にいた徳川慶喜はこれを聞き、医師を伏見まで差し向けたという。

襲撃したのは、近藤暗殺を企て、前月、油小路の変で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派。彼らは薩摩藩伏見屋敷(現在の月桂冠大賞蔵、関連会社・松山酒造の場所、京都市伏見区東堺町)に

かくまわれ、屋敷から持ち出した鉄砲で近藤を返り討ちにしようとした。もともと伊東は新選組の参謀だったが、次第に同調できなくなり組を離れた。坂本龍馬とも親交があり、龍馬暗殺の危険を

内通していたとも言われる。この事件で傷を負った近藤は、年が明けて鳥羽伏見の戦いが始まった1月3日には、大坂城に移り治療を受けていたので、戦の指揮を執ることができなかった。

土方歳三が指揮した。(月桂冠HPより)

  

撞木町京町通沿いにある「撞木町遊郭跡」、今は昔の面影はなく、撞木町遊郭入口の石碑が建っています。通りの中には、大石良雄(大石内蔵助)が山科の閑居から遊興に浸った

よろづや石碑があります。大石良雄(大石内蔵助)(1641~1702)は、播磨赤穂藩主浅野家家老で、元禄14年(1701)主君浅野長矩(1665~1701)が吉良義夫(1641~1702)に

江戸城中で刃傷に及び、切腹を命じられ、領地は没収された。大石良雄は、赤穂藩再興を図りましたが、受け入れられず山科に閑居し、伏見撞木町で遊興に耽るとみせて、吉良邸討入りを

画策したと伝えられています。

  

墨染地区あたりは、お寺が多く点在しています。墨染寺は、墨染の地名に由来します。桜の名所だそうです。

 

勝念寺は、安養山 往生院 勝念寺と号する浄土宗知恩院末の寺院です。織田信長公が深く帰依した聖誉貞安上人によって天正15年(1587)に開創されました。

天正10年織田信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃しました。正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠刃の地である御池御所を賜り、

信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創しました。同時に、時の天下人である豊臣秀吉の城下町である此処伏見丹波橋に、布教の拠点とするべく一寺を開創して勝念寺と号しました。

貞安上人が織田信長公より安土で賜った仏像が伝わります。釜敷地蔵尊は、地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり自ら釜の中で苦を受ける身代地蔵尊です。

「かましきさん」として江戸時代より信仰を集めています。

 

  

  

天平勝宝2年(750)創建の金礼宮(きんさつぐう)は、伏見において最も古い神社の一つであり、旧久米村の産土神として崇敬されていました。金札宮の祭神は、天照大神、

天太玉命(白菊大明神)、倉稲魂命ですが、御香宮神社の縁起によると、白菊大明神は御鎮座に先立ってこの地に住んでいたと伝えています。
清和天皇が天太玉命の化身白菊翁の名を金礼に記し奉納したことが、「金礼」の由来と言われてます。

 

伏見大手筋商店街にやってきました。商店街には酒にかかわるものが展示されています。伏見は、灘、西条とともに日本三大酒どころと呼ばれています。(残念ながら福岡は入っていません)

豊かな自然風土に恵まれ、京文化に磨きあげられた伏見の清酒。その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。

以来、脈々と受け継がれてきた酒づくりの伝統が花開いたのは、安土桃山時代のこと。太閤秀吉の伏見城築城とともに伏見は大きく栄え、需要が高まる中で一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに江戸時代には、水陸交通の要衡として、伏見はますます発展。酒造家も急増し、銘醸地の基盤が形成されています。そして明治の後半には、天下の酒どころとして全国に

その名とどろかせるようになったのです。まちとともに、人とともに、息づく名酒の歴史がここにあります。

 

伏見宿:伏見城の城下町として発展した伏見宿(東海道五十四次)は、本陣4,脇本陣2,旅籠39軒、人口24,227人、家数6245軒を備えていました。参勤交代の大名たちは、

洛中を通ることが許されなかったため、街道は、ここから山科を抜けて追分を通り、大津へと向かっていきました。

時刻も17時を回ってきました。今日は、京阪伏見桃山駅までとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第30回若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目10kコース(福井県三方中郡若狭町)

2022-05-28 18:56:26 | オールジャパンウオーキングカップ

第30回若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目

本来は、20kmコースにエントリーしていたのですが、家内が疲れているようなので、10kmコースに変更しました。

敦賀駅発6時50分発の電車で三方駅へ。三方駅から会場まで歩いているともう20㎞コースがスタートしていました。

会場で敦賀の〇本さんご夫妻、東京の〇田さん、大阪の〇橋さんと一緒に歩きます。この〇田さん、〇橋さんウォーキング界のレジェンドです。

8:45  6人でスタート。

 

 

コースは、国道27号線と並行している旧丹後街道を歩きます。

 

歩いていると、先日NHKBSで放送があった京都ウォーキング協会に所属されてる〇井さんが歩かれていました。

 

国道27号線と合流

 

若狭牛は、いままでいただいたことがありませんが、おいしいでしょうね。

 

みそみ小学校です。三十三と書いて「みそみ」と呼ぶそうです。難読地名ですね。調べてみると若狭町と京都府の境界の三十三間(さんじゅうさんけん)山が地名の由来だそうです。

三十三間山は、京都の三十三間堂に使われた材木を切り出したところだそうです。

小学校近くの三十三(みそみ)公民館が10kmのチェックポイントです。

 

少し休憩して再スタートします。

畑では、梨の剪定が行われています。この梨は、「幸水」。8月ごろの収穫になるそうです。

  

円成寺手前の所が30k・20k、と10kの分岐点。30k・20kは、ここから熊川宿に向かいます。

「みかえりの松」は、円成寺入口にあり、江戸時代の宝暦元年(1751)、第十一世淳長大和尚の手植えと伝えられています。樹齢が270年を超えています。

通る人が思わず見帰りたくなるほど美しい姿は、「みかえりの松」と呼ばれています。幹回り4m、樹高12m、枝張りが東西28m、南北30mです。

  

十村駅は、JR小浜線で最も古い木造駅舎です。2019年にJRから撤去の申し入れがありましたが、貴重な木造駅舎を残したいと住民4人で一般社団法人「とむら」を発足し

存続が決まりました。グラウドファンティングなどで集まった122万円を元手に21年冬に改修工事に着工し、22年3月に完成しました。

駅舎には、「ポッポ茶屋ほっとむら」というコーヒー、うどんのお店も完成しました。

  

 

田んぼでは、イモリ、アオガエルを見つけました。

  

向陽寺は、明徳2年(1391)の創建で若狭で最も古い禅寺です。

 

 

民家では、ドクダミ草を収穫されていました。どくだみは日本古来から生薬として利用されており、江戸時代の書物にも記載されています。どくだみ茶は十薬という名で薬局でも販売されて

います。毒を抑えるという意味から名付けられたどくだみは、あらゆる病気に対応することができるとして重宝されています。ドクダミを天日で乾燥させ、細かく切ってお茶として飲むそうです。

他の畑では、山椒の収穫をされていました。

 

ゴールのさとうみパークが見えてきました。

 

11:15 ゴールしました。2日間の参加者は、約3050人ぐらいです。コロナ禍全国からのウォーカーが集まりました。開催されて頂き感謝です!

  

会場では、北朝鮮の拉致問題解決の署名活動が行われていましたので署名させていただきました。

 

これから敦賀に戻り、敦賀から新大阪へ、新大阪から新幹線で博多に戻ります。

三方駅では、12:29の電車で20k、30kのウォーカーが帰ってきていました。速いですね。

敦賀駅では、北陸新幹線の延伸工事が行われています。2024年春に金沢~敦賀間が開通予定だそうです。

  

 

 

 

 


楽しいウォーク「スマイルウォークIN福岡舞鶴公園」下見(福岡市中央区~早良区)

2022-05-27 13:07:30 | ふくおかウォーキング協会

5/25(水)のふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、6/12(日)に行われる「スマイルウォークIN福岡舞鶴公園」の下見でした。

今回のスマイルウォークの当番は、ふくおかウォーキング協会です。集合場所は会場になる舞鶴公園三の丸広場。参加者45名。

  

諸説明のあと、9:38 ウォーキング開始。

 

 

国道202号から港町の方に向かいます。

 

港町の信号から西公園へ。

 

 

要所では、担当者を配置します。

 

福浜団地の所が5k、10kの分岐点。5っコースは、ここから黒門橋を通って大濠公園~舞鶴公園三の丸広場ゴールです。

 

10kコースは黒門川を渡り、地行浜に向かいます。左側は福岡PayPayドームです。

 

PayPayドーム浦の浜では、世界水泳福岡大会に向けて工事が進められています。世界水泳は、本来今年の5月に開催予定でしたが、コロナの影響で来年(2023年)7/14~7/30に変更されました。

 

  

人工海浜では、日光浴を楽しまれている方がいました。

 

福岡タワーからサザエさん通りを行きます。

サザエさんというと、東京世田谷区桜新町を思い浮かべる人が多いでしょうが、実は、サザエさんの原作者である長谷川町子先生は、幼少期と戦時中を福岡で過ごしています。
東京で漫画家として活動していましたが、24歳の時に空襲を逃れるために福岡に疎開しています。自宅から近いももち浜を散歩した際に、海にまつわる登場人物の漫画を思いついて、

サザエさんが登場したということ。

終戦後に東京に戻った時の引っ越し先が東京都世田谷区の桜新町だったため、桜新町がサザエさんのシンボルになっています。

サザエさんが初めて掲載されたのは、1946年の福岡の地方紙「夕刊フクニチ」です。4コマ漫画としてサザエさんの連載第1回目が掲載、話数は6000話以上書かれ、1974年に一旦連載を終了

しました。その後長谷川町子先生は東京に引っ越して、サザエさんの連載を再開したというのが起源なんです。また、西新町には、サザエさん商店街もあります。

  

コースはサザエさん通りを通って西新町へ。

 

西新から唐人町~黒門を通り大濠公園へ。

 

12:23 舞鶴公園三の丸広場へゴールしました。この日福岡地方は気温が29度を超えました。これからのウォーキングは暑くなりますので水分補給が大事です。

 

この日のGPSです。

 

 

 

 


第30回若狭・三方五湖ツーデーマーチ1日目30km「三方五湖」(福井県三方上中郡若狭町)

2022-05-26 17:40:32 | ウォーキング

5/21~22まで福井県若狭町で行われた「第30回若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に参加しました。

今回は、30回の記念大会でレインボーラインを通るコースが設定されています。

30kのコースは、さとうみパークをスタートし三方湖、菅湖を通り浦見川から久々子湖(くぐしこ)~北西郷公民館から日向湖(ひるがこ)~レインボーライン~梅丈岳頂上~水月湖~

梅の里~道の駅「三方五湖」~さとうみパークまでの約32km。

三方五湖(みかたごこ)とは、福井県三方郡美浜町と同県三方上中郡若狭町にまたがって位置する5つのの総称で、周囲には梅畑が広がる。国指定の名勝で、若狭湾国定公園に属する。

2005年11月8日付でラムサール条約指定湿地に登録されている。2015年(平成27年)4月24日、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定される。(Wikipediaより)

1 三方湖 みかたこ 富栄養湖 淡水 3.58 km2  5.8 m 9.60 km 南北約1.5km、東西約3km、湖面の海抜0m
2 水月湖  すいげつこ 富栄養湖 汽水 4.18 km2  34 m 10.80 km 五湖中最大の面積
3 菅湖 すがこ 富栄養湖 汽水 0.91 km2 13.0 m 4.20 km  
4 久々子湖 くぐしこ 富栄養湖 汽水 1.40 km2  2.5 m 7.10 km  
5 日向湖 ひるがこ 貧栄養湖 海水 0.92 km2 38.5 m 4.00 km

 

7:30から受付開始になり受付終了後順次スタートしていきます。僕らは会場まで来る電車の都合上、8:00ごろスタートしました。

 

 

菅湖野鳥観察舎の手前が30,20kと10kの分岐点です。10kコースは、ここから気山公民館~三方石観世音~さとうみパークゴールです。

 

 

歩いていると右側に猿の一団がいます。柵があるので大丈夫と思いますが、びっくりしました。

猿のいた先に民間の方がボランティアでアイスキャンディの接待がありました。今日は、曇ってはいますが、蒸し暑いです。ちょっと一息入れました。

 

ヤギもいます。

 

 

浦見川の所が、20k、30kの分岐点です。20kは、ここから水月湖を経由してゴールに向かいます。浦見川は水月湖と久々子湖を繋ぐ運河で、行方久兵衛により江戸時代に、2年の歳月と

22万人の人夫を使って開削されました。

 

 

 

 

北西郷公民館から日向(ひるが)漁港に入ります。

 

日向漁港は、釣り堀が多いです。今日は土曜日でたくさんの釣り堀利用の車が停車しています。

たいこ橋(日向橋)は、日本海と日向湖を両方望めるポイントです。橋の袂には、福井名産「へしこの里」の石碑が建っています。

昔から冬を越すための保存食として親しまれてきた「へしこ」は、福井県若狭地方の伝統料理です。青魚に塩をふり、塩漬けにしたあと更にヌカ漬けにし、一年以上にわたり本漬け熟成します。

樽に漬け込むことを「へし込む」と言っていたことから、「へしこ」の名前がついたとも言われています。漬け込む魚の種類は家庭により様々ですが、若狭湾で獲れる新鮮な鯖(さば)を使った

「鯖のへしこ」は若狭美浜の特産品です。若狭美浜で作られるへしこの特徴は、唐辛子と酒かすを使った味わい深いへしこで、様々な料理との相性がよく、そのまま食べる以外にも和洋さまざまな

料理にアレンジしやすく、美浜町内のお店ではオリジナリティのあるへしこ料理をいただくことができます。(若狭美浜観光協会HPより)

  

日向湖に入ります。

 

空や民家の屋根には、「トンビ」が何羽かいます。ここでは、小魚空を狙っているのでしょうか?

 

  

レインボーライン日向料金所にやってきました。30回記念大会ということで今日は、12:30まで車を通行止めにしてウォーカーに解放されています。

ここからレインボーラインの梅丈岳(ばいじょうだけ)まで約4km、標高約400mを歩いていきます。入口には、福井梅の紹介があります。

 

 

 

 

駐車場で休憩します。

 

 

梅丈岳の頂上が見えてきました。

 

ここから最後の急カーブ。

  

急カーブを登りきると急な階段です。

 

階段の先がチェックポイント。料金所から1時間15分かかりました。ここから頂上へは、坂道を登ってもいいし、ケーブルやリフトに乗ってもいいとのこと。(但し別途500円)

勿論、ケーブルを利用しました。

  

頂上に着きました。ここからの三方五湖のロケーションは、最高です。天気が良ければもっときれいに見えたのですが・・・・

 

頂上には、「メヴィウスの輪」や「恋人の聖地の鐘」などが設置されています。

メヴィウスの輪は、無限に続くメヴィウスの輪のように二人の愛が永遠につづくようにという意味があります。

  

高浜町出身の歌手「五木ひろし」さんの「幸せ探して」の歌碑もあります。

 

また、頂上は、バラ園にもなっていて何種類かのバラが咲いていました。

 

 

ここから下っていくのですが、急坂です。5~6年前新潟の山古志村のウォークで急な階段を走って下りたので膝を痛めたことがありますのでそろりそろりと下りていきます。

 

 

下りたところが20kmのチェックポイント。もう大部分の方が通過されたのか、片付け作業中でした。ここからゴールまであと11km。

 

ここからは、水月湖。水月湖は、「年稿」で有名です。年稿とは、長い年月の間、湖沼などの底に堆積した土などの層が描く縞模様の湖底堆積物のことであり、年稿堆積物とも称されます。

水月湖は、福井県三方上中郡若狭町にある三方五湖の一つで、面積4.06km2(五湖中最大)、周囲9.85km、最大水深38.0m汽水湖である。水月湖は水深が深く湖内に直接流れ込む大きな河川がなく、その流入などで湖底の堆積物がかき乱されることがないため、年縞が1枚ずつきれいに積み重なっている状態が保たれている。年縞の厚さは1年で約0.7ミリメートルである。また、湖底に酸素が乏しく生物がほとんど生息しないことで、年縞がありのまま残っていたこと。さらに好条件となった背景には湖周辺の断層の影響で、湖の底面が低下する沈降象が続いており、湖底に毎年堆積物が積もっても、湖が埋まらないという特異な条件が揃っており、水月湖の年縞は「奇跡の堆積物」と呼ばれている。福井県年縞博物館では、年縞をステンドグラスにしたものが展示されている。

 

 

  

福井梅の栽培の歴史は古く、江戸時代の天保年間(1830~1844年)に若狭町(旧三方町伊良積)で発祥したと言い伝えられています。 梅栽培が本格的に定着したのは明治15年頃からで、

普及した地域をさして、「西田梅」と呼ばれ、親しまれてきました。明治・大正初期時代の西田地区の交通の便が悪く、梅の実の販売も苦労そのものでした。
早朝に、小船を漕いでとなり村に上陸し、若狭街道を肩荷・荷車をおして港町敦賀に至りました。今もこの頃に里人が唄った俗謡「梅売り唄」が伝えられています。

大正10年(1921)敦賀線が開通し、関西を中心に広く西田梅が流通するようになりました。

 

この辺りは、梅干しの直販店が多いです。休憩がてら立ち寄ったのが「梅の里会館」。ここで梅ソフトクリームをいただきました。生き返ったようです。

梅の花開館からゴールまであと5,4kmです。20kのチェックポイントから時速6,3kmでここまでやってきました。

  

三方湖で獲れるウナギは、別名口細青鰻と呼ばれ、とがった口と丸い尾が特徴です。店ごとに受け継がれている秘伝のタレと焼き方がさらに旨みを引き立てます(大会案内紙より)

 

三方縄文博物館や年稿博物館は、今日は入場料は無料ですが、もうくたくたですのでスルーしました。でもいつか行ってみたいです。

  

 

15:15 やっとゴールしました。久しぶりの長距離でしたので疲れました。

 

今日の参加数。

5kコース 297人、10kコース 629人、20kコース 430人、30kコース 419人、計1775人でした。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「茶畑と古墳群ウォーク」(福岡県八女郡広川町)

2022-05-17 04:08:18 | ウォーキング

5/15(日)は、くるめウォーキング協会の5月度例会「茶畑と古墳群ウォーク」に参加しました。

八女は、筑後川と矢部川に挟まれた所にあり、水がたくさんある土地なのでお茶の栽培が盛んです。山間部なので雨も多く、昼夜の寒暖差もあるため、お茶の栽培に適しています。

八女丘陵には4世紀から7世紀にかけて築造された古墳数が300基存在します。これらは、古代の北部九州に勢力を持っていた豪族「磐井」とその一族の墳墓と考えられています。

筑紫君磐井は、527年に「磐井の乱」を起こしました。日本はまだ統一国家ではなく、有力豪族が各地を治めていました。ヤマト(大王 継体天皇)と地方豪族は対等の関係でありながら上下関係にあり、九州の豪族たちは、朝鮮半島への進出をめざすヤマト王権から、人や食料を提供させられ、不満が高まっていきました。軍事・外交・内政すべてに自立し、財力も持つ磐井は、

ついに火の国、豊の国と力を合わせ、立ち上がりました(磐井の乱)。然し磐井は敗れ、この後に急速にヤマトの国家統一が進みました。

 

集合場所は、岩戸山歴史文化交流館。ここは、岩戸山古墳がある所です。参加者は、約30名。

 

9:30 ウォーキングスタート

 

 

岩戸山歴史文化交流館を出ると、一面の茶畑です。現在福岡県のお茶生産高では、全国第6位です。

 

八女はフルーツの産地でもあります。

  

九州道の高架橋を渡ると、古墳公園資料館です。ここで休憩します。

 

 

 

ここには、弘化谷古墳(こうかだにこふん)装飾古墳のレプリカが展示されています。

弘化谷(こうかだに)古墳は、昭和45(1970)年、果樹園造成の際に偶然発見された装飾古墳です。6世紀中頃に築造されました。高さ7m、直径約39mの大型円墳で、堤と濠を含めると

直径約55mにもなり、国指定史跡・八女古墳群の円墳中、最大級の大きさになります。石室の奥壁に設けられた石屋形(いしやがた)の壁画には、靫(ゆぎ)・円文(えんもん)・

連続三角文(れんぞくさんかくもん)・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)といったモチーフが、赤色や石材の地色、線刻で表現されています。現在、4月・11月の第2日曜日に

一般公開されています。

  

古墳公園資料館から石人山古墳(せきじんさんこふん)に向かいます。

石人山古墳は、5世紀前半代に造られた八女地方最古の前方後円墳です。岩戸山古墳を生前に造った磐井の祖父の頃の墓と言われています。

横穴式石室に安置された家形石棺外面には重圏文(二重丸の文様)と直弧文などが浮き彫りされており、最古期の装飾古墳としても有名です。

また、墳丘には石室入口を背にして一体の武装石人が立っています。

 

 

この中に「武装石人」があります。

 

こちらは、家形石棺

 

石人山古墳から弘化谷古墳へ

 

弘化谷古墳など装飾古墳は、日本全国に600基あり、その半数以上が九州地方にあります。

 

弘化谷古墳を出るとまた、広大な茶畑です。

 

途中、梨の花の摘花作業が行われていました。

 

 

岩戸山へ向かいます。ここからは、少し上り坂です。

 

 

岩戸山古墳   国史跡内/前方後円墳=墳丘長約135メートル/後円部の高さ約18メートル 築造=6世紀前半
4~7世紀にかけての古墳300余り基からなる八女古墳群の一つで、九州北部における最大級の前方後円墳。日本の古墳は埋葬者が不明な場合がほとんどです。そんな中、この古墳は6世紀初め頃の

有力者であり、ヤマト王権に反乱した筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓だということが分かっている珍しいケースです。さて、出土品の円筒埴輪(はにわ)や、九州で特徴的に見られた

石製品(人物・動物・器財)などがあります。

 

 

11:57 スタート地点の岩戸山歴史文化交流館にゴールしました。

くるめウォーキング協会の例会には、初めての参加でしたが、歴史好きの私にとって大変楽しいウォーキングでした。機会があればまた参加したいです。

今日のGPSです。

 

 

 

 


サタデーウォーク「室見川散策」(福岡市早良区)

2022-05-16 08:00:05 | ふくおかウォーキング協会

5/14(土)のふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「室見川散策」でした。

集合場所は、福岡市地下鉄賀茂駅。参加者21名。

コースは、賀茂駅~室住団地~室見川沿い~地下鉄藤崎駅ゴールの約10km。9:30スタート。

 

金屑川は、旧称は屑川。室見川と並行して福岡市内に入り油山川に合流、更に室見川に合流して博多湾にそそぐ室見川水系の川です。

屑川は、「葛」の生い茂る川の意味です。

歩いていると大きな犬と遭遇しました。調べてみると、グレート・ピレニーズかな?

 

金屑川の賀茂神社そばの賀茂橋は、ナマズのイラストが入った橋です。そういえば、地下鉄賀茂駅の駅のイラストは、ナマズでした。

    

賀茂神社は、京都賀茂神社の分霊社として創建されました。

享保17年(1732)~享保18年(1733)に西日本一帯で発生した「享保の大飢饉」の際、氏子が災いの鎮まるように神に祈ると、夢枕にナマズが現れて「ナマズを殺すな、金屑川を

きれいにせよ」とお告げがあり、その通りにするとやがて飢饉が収まりました。また、昔の人は、首筋やわき腹にできた皮膚病が治るようにこの神社に祈願したそうです。

この皮膚病は、「白ナマズ」と俗称されていることからナマズを祀る賀茂神社を頼ったそうです。

3日前は、福津市の大森社といい、ナマズを祀っている神社を立て続けにお詣りしました。

賀茂神社一帯は、福岡市に合併される前から、早良郡田隈町大字免でした。昔から米と養蚕が盛んな所でした。その間村民が捧げる年貢は、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)に納められていました。

下鴨神社に納めていたから地域に納めなくていい→免除から「免」と呼ばれたそうです。

この川には、時々ナマズが目撃されているそうです。

 

金屑川から室住団地に向かいます。途中、福岡県立講倫館高校の看板が見えてきます。人気女優の「今田美桜」さんは、この講倫館高校の卒業生です。

また、この高校の校歌は、昔「私のハートはストップモーション」を歌った桑江知子さんの作詞作曲です。桑江さんもこの学校の卒業生です。

 

室住団地が最初の休憩場所です。室住団地は、昭和45年(1970)UR都市整備によって建てられた大規模団地です。

 

休憩後再スタート。室住団地から室見川河畔に出ます。

 

 

 

早良口交差点からゴールの藤崎駅へ。11時ごろ藤崎駅に到着。今日は6,2kmのウォーキングでした。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「みずがめの郷・なまずの郷を訪ねて」(福岡県福津市)

2022-05-13 14:22:36 | ふくおかウォーキング協会

5/11(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「みずがめの郷・なまずの郷を訪ねて」でした。

集合場所は、JR東福間駅。今日は、朝から小雨が降り続いており、そのせいか、参加者は31名と普通より幾分少なめです。

コースは、東福間駅~水がめの郷~なまずの郷~JR福間駅ゴールの約10kmです。

9:30東福間駅をスタート。若木台団地は、昭和48年(1973)~昭和57年(1982)の間に開発された分譲住宅です。

 

今日は雨のせいで湿気が多くポンチョを着ていると汗が出てきます。雨も止んできましたのでこのポンチョを脱ぎます。

 

国道3号線を横断し久末へ。

  

久末ダムに着きました。福津市東部の住宅団地である若木台の東南部にある「久末ダム」は、上水道専用ダムとして昭和56年(1981)に完成したダムです。

ダム湖周辺は、遊歩道が整備され、自然を楽しみながら散策やウォーキングを楽しむことができます。

また、多目的広場には、遊具施設のほかに野球場、テニスコートなどもあります。

以前は、久末運動公園と言っていましたが、今は、「みずがめの郷・久末運動公園」と呼ばれています。

 

久末ダム湖で休憩後再スタート。

 

  

 

写真ばかり撮っていると先頭から遅れてしまいました。

 

通りの向こう側は、唐津街道「畔町(あぜまち)宿」です。

  

このナマズの形をしたものは、西郷川のポンプ場です。ナマズの郷にちなんでナマズの形にしたのかな?

 

次の休憩地は、なまずの郷公園です。

なまずの郷の名前のとおり、和風庭園の池には、20匹以上のなまずがいるとか。でも、なまずは夜行性のため、その姿はなかなか見ることができません。薄暗い曇りや雨の日は、チャンスだ

そうです。この地域では古くからなまずを大切にしてきたので、このように市の施設の名前にも登場しているわけです

  

 

大森神社は、西郷地区のナマズを祀っています。

福津市と縁の深い生物といえば、なまず。「なまずの郷」など公園名としても親しまれている「なまず」を祭っている神社が、ここ大森宮です。
 その昔、西郷出身の社職兼務の武将、興光(おきみつ)が、大内氏の命により京都で合戦の際、深手を負って、倒れてしまい、死のふちに着こうとしたとき、突然巨大ななまずが現れて、

興光の命を救った。という伝説から来ています。命拾いをした興光は、西郷の氏神、大森の神様に違いないと感謝し、以来、西郷ではなまずを神の使いとして大森宮に祭ったのです。

また「なまず禁食令」を出して、大切にしたといわれています。境内には、こま犬ならぬ、石造りのなまず像も見ることができます。

 

途中に生産者直売所がありました。ここでコースアウトして中に入ります。野菜類が安くついつい買ってしまいました。(笑)

 

 

11:36福間駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 

 


5月度例会「筑紫野散策と天拝公園を訪ねて」(福岡県筑紫野市)

2022-05-09 17:32:11 | ふくおかウォーキング協会

5/7(土)ふくおかウォーキング協会5月度例会は、「筑紫野散策と天拝公園を訪ねて」でした。

集合場所は、JR二日市駅。参加者は、47人。この中には、単身赴任で福岡に転勤されている、神奈川・藤沢ウォーキング協会に所属されているKさんも参加されました。

藤沢のウォーキング協会は、私も何人か知っている方がいますので、お話させていただきました。

二日市駅前には、詩人・野口雨情の「筑紫小唄」の歌碑があります。昭和5年(1930)の建立だそうです。二日市温泉は、明治30年代は、武蔵温泉と呼ばれていました。

歌にも武蔵温泉が出てきます。

 

今日のコースは、二日市駅をスタートし武蔵寺(ぶぞうじ)を廻りイオンモール~弥生の杜公園~西鉄筑紫駅ゴールの約10kmです。

9:30二日市駅をスタート。途中、第61~63代総理の佐藤栄作さんの碑がありました。

佐藤元総理は、大正15年(1926)に25歳でこの二日市駅長を勤められました。

 

鹿児島本線の踏切を渡り二日市温泉へ。

 

県道のガード下を潜ります。民家には、もう箱根空木、オオベニウツギが咲いていました。

  

武蔵寺に到着。

武蔵寺は、『今昔(こんじゃく)物語集』や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にも登場する著名な古代寺院です。

 県指定有形文化財「紙本著色武蔵寺縁起(しほんちゃくしょくぶぞうじえんぎ)」には、創建者とされる藤原虎麿(ふじわらのとらまろ)にまつわる一連の伝説が5幅にわたって描かれています。

 裏山では11基もの経塚(きょうづか)が確認され、出土品は「武蔵寺経塚群出土品」として市の有形文化財に指定されています。「大治(だいじ)元(1126)年」の銘が入った経筒(きょうづつ)が見つかっており、平安時代後期のものと考えられます。

 境内には、市天然記念物「長者の藤」、市有形文化財「古石塔(こせきとう)」、「自然石梵字板碑(しぜんせきぼんじいたび)」、「木造十二神将(しんしょう)像」もあります。(筑紫野市HPより)

 

 

武蔵寺の「長者の藤」です。4月末ぐらいが見ごろでしたが、もう房が切られています。

 

武蔵寺縁起によると、同寺の創建者と伝えられる藤(ふじ)原(わらの)虎麿(とらまろ)が「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」と誓って植えたことから「長者の藤」といわれ、

樹齢は700年以上とされています。

慶応(けいおう)元(1865)年、太宰府に西下した東(ひがし)久世(くぜ)通禧(みちとみ)(五卿のひとり)が、咲きにおう長者の藤を題材に、祖先の華やかな時代を偲んで詠んだ
 「藤なみの はなになれつつ みやひとの むかしのいろに そてをそめけり」の歌は、歌碑として山門横に建てられています。
 この藤は、武蔵寺の歴史を伝える貴重な樹木であることから、天然記念物に指定されました。(筑紫野市HPより)

下の写真は、2013年4/29に撮った藤の花です。見事な藤の花でした。

天拝山(257m)への登山道は、境内の下の方です。

  

 

武蔵寺から県道31号線に入ります。武蔵(むさし)交差点からイオンモールに向かいます。

 

イオンモール筑紫野で休憩。10分ぐらい休憩後、再スタート。

 

日本経済大学ケンブリッジハウスとは、大学の男子寮です。名前が素晴らしいですね。

 

 

11:47西鉄筑紫駅にゴールしました。

 

この日のGPSです。

 

 


楽しいウォーク「かもめ大橋を渡る」(福岡市博多区~東区)

2022-05-05 14:43:37 | ふくおかウォーキング協会

G・W中の5/4、ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「かもめ大橋を渡る」でした。

集合場所は、貝塚駅近くの貝塚公園。参加者は34名。今朝は起きた時には少し寒かったのですが、陽が登るにつれ暖かくなってきました。五月晴れです。

貝塚公園は、福岡空港への着陸の航路になっていますので5分おきぐらいに飛行機がやってきます。

 

 

貝塚公園から国道3号線に入ります。

 

3号線から埠頭の方に向かいます。埠頭からかもめ大橋に向かいます。

 

かもめ大橋は、箱崎ふ頭と香椎パークポート間を結ぶ789mの橋で、2003年(平成15年)完成した、福岡市内で一番長い橋です。

 

 

 

最初の休憩は、「みなと100年公園」です。

みなと100年公園は、博多港開港100周年を記念して作られました。

 

 

休憩後再スタート

 

 

香椎潟です。

 

  

今日の仮ゴールは、「新浜公園」。

 

ここからJR香椎駅に向かいます。

 

博多駅で途中下車します。

昨日から博多では、3年ぶりに「博多どんたく」が開催されています。各舞台では、感染防止対策として入場制限が行われています。

並んでみようと思いましたが、行列が長いので観戦を断念しました。

  

夕方にはパレードも行われるそうです。