11/9(火)歩き旅6日目
今日は、昨日日没で終了した宇都宮市SUBARUから宇都宮宿、できれば日光道中も歩きたいと思ってましたが、朝から雨です。
天気予報を見ても終日雨の予報です。従って予定を変更し雨の中SUBARUから宇都宮宿まで歩きます。ポンチョを着て傘をさしてのウォーキングです。
バスでSUBARUまで移動しウォーキング開始。
JR日光線の跨線橋を渡ります。
不動前交差点のほぼ中央に「不動堂」があります。宇都宮朝綱が造立した不動明王が安置されています。傍らの昭和3年(1928)建立の道標には、「正面東京に至る 右奥州街道及び
日光街道 左裁判所前に至る」と刻まれています。
江戸時代初めの頃、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道を付け替えました。その時、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが不動明王を祀った不動堂です。
江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。不動堂は、初めこの場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。
今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。
東武宇都宮線のガードを潜ります。この辺りが宇都宮宿の江戸口(南口)で木戸、土塁、番所があり、明六つから暮六つ迄通行が許可されました。
東武宇都宮線を渡るとすぐ右側に「蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑」があります。勅旌碑には、「勅旌忠節蒲生君平里」と刻まれています。
明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物や行いが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して、庶民に知らせるように」と
勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は、明和5年~文化10年(1768-1813)名は秀実(ひでざね)通称は伊三郎 号は修静庵 字は君平・君臧
宇都宮の新石町(現・小幡1丁目)の燈油商に生まれました。父の名は福田正栄(又右衛門)父の死後、兄が家業を継ぎました。
6歳のとき、延命院で住職の良快和尚から読み書きを教わり、その後、鹿沼の儒学者鈴木石橋(せっきょう)や黒羽藩家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)に師事しました。幼いころ、
祖母より先祖が会津城主蒲生氏郷(うじさと)であることを教えられ、成長してから自ら姓を蒲生と改めました。
足利学校が興廃していると聞き、寛政5年(1793)に当時の庠主・青郊を助けて、その復興にも尽力しました。
藤田幽谷、林子平、高山彦九郎と交友があり、享和元年(1801)に吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開き、文筆活動に励みました。
寛政8年(1796)から同9年と、寛政12年(1800)の2回、荒廃した天皇陵を調査して享和元年(1801)には『山陵志』を完成させ、文化5年(1808)にそれを出版しました。
その中で、はじめて「前方後円」墳という名称が使われたのです。
宇都宮藩の藩校・修道館の設立に参画していたとみられ、昌平坂学問所主宰・林述斎にも師事しています。
文化10年7月5日、江戸で没しました。46歳でした。谷中(現・東京都台東区)の臨江寺(りんこうじ)に葬られましたが、後に宇都宮の桂林寺に分葬されています。
著書に『不恤緯(ふじゅつい)』、『山陵志(さんりょうし)』、『職官志(しょっかんし)』、『今書(きんしょ)』、『皇和表忠録(こうわひょうちゅうろく)』があります。
蒲生君平、林子平、高山彦九郎の三人は「寛政の三奇人」と呼ばれています。(宇都宮の歴史と文化財より引用)
私たちが古墳を見て「前方後円墳」「円墳」などと区別していますが、蒲生君平は、二度にわたる近畿地方(きんきちほう)・四国地方(しこくちほう)への古墳調査を行い、
数多くの天皇陵を調査し、その調査結果を『山陵志(さんりょうし)』にまとめました。君平は、古墳を訪ね歩き、地元での聞き取り調査を丹念に行いました。
特に地名について念入りに調査した結果、「車塚(くるまづか)」の名が多いことがわかり、古墳は死者を運ぶ車をかたどったものと考えるようになりました。
そのため、前方部を車を引く取っ手の部分、後円部を柩(ひつぎ)を乗せる台座の部分、中間の左右にせり出した部分を車輪と想定し、「前方後円墳」とする考えに至ったそうです。
新町の大ケヤキ・・・樹齢八百年で県天然記念物でしたが、平成25年(2013)の台風で半倒壊し、伐採されました。九州では巨大な楠が多いのですが、関東はケヤキなんですね。
台陽寺:曹洞宗西原山。慶長10年(1605)の創建。墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓があります。参道の「子安地蔵尊」は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊でした。
熱木(ねぎ)不動尊:康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して掘った不動尊を祀っています。宇都宮城乾の守護仏でした。
歌橋町:昔、この辺りに住まいした者の歌が万葉集に載ったのが地名の由来です。ここには、宇都宮城の木戸口があり番所が置かれました。
一向寺:応永12年(1405)宇都宮十二代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像は、「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異変が起こる前に汗をかいたといわれています。
街道の途中には、旧町名の説明版が置かれています。
茂破町:この付近は、宇都宮城主本多正純が日光街道を開くまでは、竹藪や雑草の生い茂る原野であった所を「茂を破って」町づくりをしたことから「茂破町」と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいました。明治時代初めになって茂登町と改められました。
挽路町:元和5年(1619)宇都宮城主本多正純が日光街道の付け替えを行った時、付近の道を西側に引いて町をつくったので挽路町という名が付いたといわれています。
江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいをみせていました。
材木町:この付近は、宇都宮城の北西に位置する町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが町名の起こりだといわれています。町の中ほどから東の城内へ通じる道には
不明門と呼ばれた木戸番所がありました。
街道は、宇都宮の中心部にやってきました。
宇都宮宿は、二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野国「一の宮」や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来としています。
その後、宇都宮藩の城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中一番の賑わいでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、
宇都宮宿の家数は、1219軒、うち、本陣2,脇本陣1,旅籠42軒で宿内人口は、6457人でした。
本陣は、上野本陣。建坪191坪余で門構え玄関付でした。問屋を兼ね、貫目改所が置かれていました。現在は、大イチョウだけが残っています。
もう一つの本陣の「石塚本陣」は、池上町のみずほ銀行あたりにあったといわれています。
本陣の少し先が日光街道、奥州街道の追分です。
日光街道を少し入った所に蔵造りの商家があります。㈱上野で油を扱い、副産物の油粕を肥料として農家に販売していました。上野本陣と同じ名前ですので何か関係があるのかな?
本来なら、ここから日光を目指す予定でしたが、この雨でもうシューズにも水が入りつつあります。
もう日光は、止めてここから奥州街道を歩こうと思います。
二荒山(ふたあらやま)神社:祭神は、豊城入彦命、相殿が大物主命、事代主命。
二荒山は県都宇都宮市のほぼ中央にあります。昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う
学者もいます。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っています。
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって
古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。
この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
延長5 年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載があります。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」
「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきました。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」と
よばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。
宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。 北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、
お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れます。
また、 宇都宮市の多くの祭りが二荒山神社に由来しており、 神輿が担がれる盛大なお祭りに地域は賑わい活気に満ちています。(宇都宮二荒山神社HPより)
日光にも「二荒山(ふたらさん)神社」があります。私は、同じ系統と思ってましたが、全然別の神社なんですね。
日光二荒山神社は、霊峰二荒山(ふたらさん・男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。
宝蔵寺:本尊の普賢菩薩坐像は、文和3年(1354)の造立。鐘楼門の「およりの鐘」は、宇都宮八代城主貞綱が寄進したものです。
篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んでいました。嘉永4年(1851)築の石蔵や明治28年(1895)築の店蔵は国指定重要文化財です。
雨の中、どうにかJR宇都宮駅まで歩いてきました。
次回は、いつになるかわかりませんが、奥州街道としてとりあえず白河宿まで歩いてみたいと思ってます。