4/11(水) 昨日とは打って変わって雨の朝です。特に風が強い為、ポンチョと傘をさしてのウォーキングです。また、風車は強風の為お休みします。
9:30ウォーキング開始。入生田駅の手前の山崎には、「山崎ノ古戦場跡」があります。
戊辰戦争の時、新政府軍が伊庭八郎らの率いる遊撃隊と戦い、これを破った場所です。この戦いで伊庭は、左腕を失いました。
入生田駅の所から街道は、小田原市に入ります。
歩いていると、「紹太寺」の看板が見えてきました。
江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第二代稲葉美濃守正則が寛文九年(1669)、幽邃境として知られた現在地に移建し、
山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母春日の局(三代将軍徳川家光の乳母)の霊をとむらいました。
開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもと修行に励んでいた名僧鉄牛和尚で、当時は、東西十四町七十間、南北十町十六間という広大な寺域に、七堂伽藍が配置され、
黄檗宗では関東一の寺院でした。元禄四年(1691)、江戸への旅の途中、ここを通過したドイツの医師ケンペルは、旧東海道に面した長興山の総門の壮麗な姿を、
『江戸参府旅行日記』に書きとめています。しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。(紹太寺HPより)
このあたりに一里塚があるのですが、見つけられません。近くの人に聞いてやっとわかりました。「風祭の一里塚」は、道祖神の碑の所にありました。江戸から21番目の一里塚です。
風祭の踏切の所には、「日蓮聖人霊跡象ヶ鼻」があります。かつてここには、象の鼻に似た巨石があったそうです。
風祭踏切を渡ります。しばらく歩くと右側に「小田原用水(早川上水)取入口」があります。小田原用水は、箱根芦ノ湖を源とする早川の水をこの地で取入れ、旧東海道に沿って城下内へ
流した上水道です。後北条時代に造られたもので、徳川家康が江戸城築城の際に手本としました、形態は変わりましたが、現在でも用水の取入口が残っています。
上板橋の信号から旧道に入ります。雨は、まだ降り続いています。時々突風が吹き、さしていた傘が飛ばされそうになります。大事なマップも濡れて見にくくなりました。
宗福院に「板橋の地蔵尊」があります。永禄12年(1569)香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移転しました。新仏の供養に3年間続けて参拝するという
風習があり、毎年1月と8月の23・24日の縁日には大勢の参拝客で賑わいます。
歩いていると、左側に旧家があります。「内野邸」があります。明治36年(1903)に建てられ、3代に渡って醤油醸造業を営んでいました。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、
「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物です。
板橋には、古い建物が現存しています。豆腐屋さんの所に「街かど博物館」という幟が立っています。小田原には古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあります。
かまぼこ、漬け物、菓子、ひもの、塩辛、そして木工などの地場産業がその代表的なものです。工夫を凝らした展示、店主との会話、さらには体験を通して、
小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。
ここの豆腐屋さんは、関東大震災のあと建てられ、出桁造りの建物です。
祇園精舎の守護神として知られる牛頭(こず)天王は、疫病除けの神として京都東山の八坂神社(もと祇園社)をはじめ全国で信仰されています。この信仰は、もと中国にある牛頭の形をした山が、
熱病に効果のある薬草を産出したところから、この山を疫病にご利益のある山として崇められたことに始まり、その後インドの密教などと結合してわが国に伝えられました。わが国での牛頭天王は、
疫病、農作物の害虫や、その他邪気を払い流して去ってしまう疫神の信仰と調和して、薬師如来や素盞鳴命と同体と信じられるようになりました。
居神(いがみ)神社は、板橋と山角町の氏神。戦国時代初期の名族三浦荒次郎義意と木花咲耶姫命を祭神としています。境内には鎌倉時代末期の念仏供養碑の古墳群があります。
雨は容赦なく降りつづけ、マップ、ガイドブックなどがボロボロになりました。今日はもうここまでとし、最後に小田原城を見ておこうと小田原城に向かいました。
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、
15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。
小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、
稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。(小田原城HPより)
小田原市のマンホールは、箱根越しの富士山,小田原城,酒匂川の渡し,が描かれています。11月に行われる「小田原ツーデーマーチ」は、ここが会場になっています。
丁度お昼の時間になり、食事をしようと小田原駅に行きました。今日の飛行機の時間は、19:30.まだまだ時間があります。このあとの予定は食事を終えてから考えようと思います。
小田原駅構内のレストランには、湯本の富士屋ホテルが入居しています。今日は平日ですのでそんなに混んでなくすぐ入れました。ランチ@1300円ぐらいだったかな?
さて、食事も終わり、これから帰りの飛行機の時間までどうしようか?と考えていた時、外を見ると、雨が上がり少し碑も射してきました。
今日は、大磯ぐらいまでを予定していましたが、とにかく行けるところまで行ってみようと思い、早川口に戻りました。
「人車鉄道、軽便鉄道 小田原駅跡」は、かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。
明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。
当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、
駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。
豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。
豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したという
のどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。
しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。(小田原市HPより)
柳屋ベーカリーは、薄皮アンパンが名物です。然し僕らが行ったときには売り切れでした。このあと同じように薄皮アンパンを作っている駅前の守谷パンに行って薄皮アンパンを購入しました。
小田原市には、各町名や、その町の歴史を書いた石碑が建てられています。ここは、山角町です。
お城のような建物が見えてきました。「外郎(ういろう)博物館」です。中に入ろうかと思いましたが、今日水曜日は定休日でした。
「ういろう」というと、名古屋のお菓子「ういろう」を思い浮かべますが、もともと「ういろう」は、ここ小田原で造られた「お薬」だったそうです。
中国の元朝に仕えていた陣延祐という人が日本に帰化して中国での官職名「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」の外郎をとって官職名とまちがえないように読み方を変えて「ういろう」と名乗りました。
京都で朝廷に仕えた2代目が、家伝薬の処方を持ち帰って丸薬「透頂香(とうちんこう)」を作り、さらに外国使節団を接待するための菓子も考案した。これが現在の和菓子「ういろう」です。
つまり、お薬と和菓子の両方の「ういろう」を作っていました。外郎家は今日まで650年25代に渡り歴史をかさねています。
外郎博物館の向かえにも古い薬局(済西堂薬局小西本店)があります。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、
薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。木造・平屋建、瓦葺きの建物は、国の登録有形文化財に指定されています。
関東大震災で倒壊した明治時代の旧店舗の材料を一部用いて1925年(大正14年)頃に完成したと伝えられ、軒出しも大きく、柱など主要部材に欅材を用いており、小田原の歴史を物語ります 。
東海道小田原宿は、品川から数えて9番目の宿場町。本陣は4軒、脇本陣4軒、旅籠90軒。東は徒歩渡りの酒匂川、西は、箱根越えが控えていましたので、小田原で宿泊する人が多く、
土産物、や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾、梅干し、ういろう、提灯などが小田原名物として広く知れ渡りました。
脇本陣古清水屋には、昭和20年(1945)8月15日の空襲の説明看板が建てられています。8月15日というと、終戦記念日。その日の12時に玉音放送で日本の敗戦が決まりました。
その日の深夜1時、2時ごろの空襲だったそうです。焼失した家屋は400軒、死者12名。あと半日で終戦だったのに何とも痛ましいです。
時間は3時を過ぎました。今回は、このあたり迄とします。今回は、難所の箱根越えも無事終了したしました。江戸まであと、85kmになりました。ゴールが見えてきそうです。
駅に戻る途中、「だるま料理店」という古い貫録のあるお店がありました。お昼のランチもあるらしく、次回は行ってみたいですね。
駅前の守谷パン屋さんで薄皮アンパンをゲットしました。