よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第21回久留米つつじマーチ1日目20km(福岡県久留米市)

2018-04-24 21:35:55 | オールジャパンウオーキングカップ

4/21~22は、地元福岡県久留米市で行われる「第21回久留米つつじマーチ」に参加しました。

我が家(福岡市内)から、久留米の会場まで高速道を使うと40分で着きます。今年で9回目(1回は熊本地震で中止)の参加です。

今日の天気は快晴、日中は暑くなりそうです。

 

今回も40kmと一緒にフライングスタートです。7:30スタート。

  

高良内小学校では、名物おじさんがハイタッチで応援されています。

  

高良内小学校が給水所。水分を補給し、これからこのコースの難所の上り坂です。

  

満開のツツジが迎えてくれます。

  

  

 

最後の上り坂です。

  

ツツジ公園がチェックポイント。

  

少し休憩して再びスタート。降りて行った所が20k、40kの分岐点。

  

分岐点を過ぎて、民家の庭先を歩き、果樹園畑に来ました。

果樹園畑を見ていたのでしょうね。気が付くと自分がバターンと倒れています。見ると木の根っこが・・・・・・・これに引っかかって転びました。

家内に見てもらうと鼻の所と鼻の下を切っていました。すぐ救急絆創膏で傷の手当をしましたが、どうも見かけが悪くなっています。

そこでマスクを着け歩き出しました。

  

山川小学校が2回目のチェックポイント。ここでは、味噌汁が振る舞われました。

  

筑後国府跡・・・7世紀末当時、久留米市は“筑後国”と呼ばれており、現在の合川町一帯はその国府が置かれていたことで知られています。「筑後国府跡」と呼ばれるこの遺構は、

発掘調査の結果、第1期から4期まで3回も移転していたこと、約500年間にわたって続いたこと、そして、出土品などからそれぞれの特徴も少しずつ分かってきています。現在は、

埋め戻された一部の発掘現場が残されているのみですが、当時の政治・経済・文化・交通などの拠点として栄えた国府の歴史を知る上で貴重な遺跡として、平成8年には国指定の史跡になっています!

  

川沿いの道にやってきました。ここで今日の各コースと合流します。このあと、百年公園を経てゴールの中央公園へ。

12:10 無事(?)ゴールしました。

 

 

  

17:00からは、久留米つつじマーチウェルカムパーティです。会場は、六つ門の「くるめりあ六つ門」。

  

   

この席で私が「オールジャパン」(47都道府県の大会に参加そして完歩)達成の表彰を受けました。

副賞は、久留米の富有柿です。秋になって送ってくるのが楽しみです。

  


東海道道草ウォーク№39「箱根湯本~小田原宿」(神奈川県箱根町~小田原市)

2018-04-23 16:52:53 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/11(水) 昨日とは打って変わって雨の朝です。特に風が強い為、ポンチョと傘をさしてのウォーキングです。また、風車は強風の為お休みします。

9:30ウォーキング開始。入生田駅の手前の山崎には、「山崎ノ古戦場跡」があります。

戊辰戦争の時、新政府軍が伊庭八郎らの率いる遊撃隊と戦い、これを破った場所です。この戦いで伊庭は、左腕を失いました。

入生田駅の所から街道は、小田原市に入ります。

 

  

歩いていると、「紹太寺」の看板が見えてきました。

江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第二代稲葉美濃守正則が寛文九年(1669)、幽邃境として知られた現在地に移建し、

山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母春日の局(三代将軍徳川家光の乳母)の霊をとむらいました。

 開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもと修行に励んでいた名僧鉄牛和尚で、当時は、東西十四町七十間、南北十町十六間という広大な寺域に、七堂伽藍が配置され、

黄檗宗では関東一の寺院でした。元禄四年(1691)、江戸への旅の途中、ここを通過したドイツの医師ケンペルは、旧東海道に面した長興山の総門の壮麗な姿を、

『江戸参府旅行日記』に書きとめています。しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。(紹太寺HPより)

 

  

このあたりに一里塚があるのですが、見つけられません。近くの人に聞いてやっとわかりました。「風祭の一里塚」は、道祖神の碑の所にありました。江戸から21番目の一里塚です。

風祭の踏切の所には、「日蓮聖人霊跡象ヶ鼻」があります。かつてここには、象の鼻に似た巨石があったそうです。

  

風祭踏切を渡ります。しばらく歩くと右側に「小田原用水(早川上水)取入口」があります。小田原用水は、箱根芦ノ湖を源とする早川の水をこの地で取入れ、旧東海道に沿って城下内へ

流した上水道です。後北条時代に造られたもので、徳川家康が江戸城築城の際に手本としました、形態は変わりましたが、現在でも用水の取入口が残っています。

   

上板橋の信号から旧道に入ります。雨は、まだ降り続いています。時々突風が吹き、さしていた傘が飛ばされそうになります。大事なマップも濡れて見にくくなりました。

宗福院に「板橋の地蔵尊」があります。永禄12年(1569)香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移転しました。新仏の供養に3年間続けて参拝するという

風習があり、毎年1月と8月の23・24日の縁日には大勢の参拝客で賑わいます。

歩いていると、左側に旧家があります。「内野邸」があります。明治36年(1903)に建てられ、3代に渡って醤油醸造業を営んでいました。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、

「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物です。

  

板橋には、古い建物が現存しています。豆腐屋さんの所に「街かど博物館」という幟が立っています。小田原には古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあります。

かまぼこ、漬け物、菓子、ひもの、塩辛、そして木工などの地場産業がその代表的なものです。工夫を凝らした展示、店主との会話、さらには体験を通して、

小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。

ここの豆腐屋さんは、関東大震災のあと建てられ、出桁造りの建物です。

祇園精舎の守護神として知られる牛頭(こず)天王は、疫病除けの神として京都東山の八坂神社(もと祇園社)をはじめ全国で信仰されています。この信仰は、もと中国にある牛頭の形をした山が、

熱病に効果のある薬草を産出したところから、この山を疫病にご利益のある山として崇められたことに始まり、その後インドの密教などと結合してわが国に伝えられました。わが国での牛頭天王は、

疫病、農作物の害虫や、その他邪気を払い流して去ってしまう疫神の信仰と調和して、薬師如来や素盞鳴命と同体と信じられるようになりました。

居神(いがみ)神社は、板橋と山角町の氏神。戦国時代初期の名族三浦荒次郎義意と木花咲耶姫命を祭神としています。境内には鎌倉時代末期の念仏供養碑の古墳群があります。

  

雨は容赦なく降りつづけ、マップ、ガイドブックなどがボロボロになりました。今日はもうここまでとし、最後に小田原城を見ておこうと小田原城に向かいました。

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、

15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。

小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。

しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。

北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、

稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。(小田原城HPより)

小田原市のマンホールは、箱根越しの富士山,小田原城,酒匂川の渡し,が描かれています。11月に行われる「小田原ツーデーマーチ」は、ここが会場になっています。

 

    

丁度お昼の時間になり、食事をしようと小田原駅に行きました。今日の飛行機の時間は、19:30.まだまだ時間があります。このあとの予定は食事を終えてから考えようと思います。

小田原駅構内のレストランには、湯本の富士屋ホテルが入居しています。今日は平日ですのでそんなに混んでなくすぐ入れました。ランチ@1300円ぐらいだったかな?

   

さて、食事も終わり、これから帰りの飛行機の時間までどうしようか?と考えていた時、外を見ると、雨が上がり少し碑も射してきました。

今日は、大磯ぐらいまでを予定していましたが、とにかく行けるところまで行ってみようと思い、早川口に戻りました。

人車鉄道、軽便鉄道 小田原駅跡」は、かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。

明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。

当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、

駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。

豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。 

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したという

のどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。

しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。(小田原市HPより)

柳屋ベーカリーは、薄皮アンパンが名物です。然し僕らが行ったときには売り切れでした。このあと同じように薄皮アンパンを作っている駅前の守谷パンに行って薄皮アンパンを購入しました。

小田原市には、各町名や、その町の歴史を書いた石碑が建てられています。ここは、山角町です。

 

   

お城のような建物が見えてきました。「外郎(ういろう)博物館」です。中に入ろうかと思いましたが、今日水曜日は定休日でした。

「ういろう」というと、名古屋のお菓子「ういろう」を思い浮かべますが、もともと「ういろう」は、ここ小田原で造られた「お薬」だったそうです。

中国の元朝に仕えていた陣延祐という人が日本に帰化して中国での官職名「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」の外郎をとって官職名とまちがえないように読み方を変えて「ういろう」と名乗りました。

京都で朝廷に仕えた2代目が、家伝薬の処方を持ち帰って丸薬「透頂香(とうちんこう)」を作り、さらに外国使節団を接待するための菓子も考案した。これが現在の和菓子「ういろう」です。

つまり、お薬と和菓子の両方の「ういろう」を作っていました。外郎家は今日まで650年25代に渡り歴史をかさねています。

外郎博物館の向かえにも古い薬局(済西堂薬局小西本店)があります。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、

薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。木造・平屋建、瓦葺きの建物は、国の登録有形文化財に指定されています。

関東大震災で倒壊した明治時代の旧店舗の材料を一部用いて1925年(大正14年)頃に完成したと伝えられ、軒出しも大きく、柱など主要部材に欅材を用いており、小田原の歴史を物語ります

 

   

東海道小田原宿は、品川から数えて9番目の宿場町。本陣は4軒、脇本陣4軒、旅籠90軒。東は徒歩渡りの酒匂川、西は、箱根越えが控えていましたので、小田原で宿泊する人が多く、

土産物、や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾、梅干し、ういろう、提灯などが小田原名物として広く知れ渡りました。

  

  

脇本陣古清水屋には、昭和20年(1945)8月15日の空襲の説明看板が建てられています。8月15日というと、終戦記念日。その日の12時に玉音放送で日本の敗戦が決まりました。

その日の深夜1時、2時ごろの空襲だったそうです。焼失した家屋は400軒、死者12名。あと半日で終戦だったのに何とも痛ましいです。

  

 時間は3時を過ぎました今回は、このあたり迄とします。今回は、難所の箱根越えも無事終了したしました。江戸まであと、85kmになりました。ゴールが見えてきそうです。

駅に戻る途中、「だるま料理店」という古い貫録のあるお店がありました。お昼のランチもあるらしく、次回は行ってみたいですね。

駅前の守谷パン屋さんで薄皮アンパンをゲットしました。

    

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウォーク№38「箱根関所~箱根湯本」(神奈川県箱根町)

2018-04-20 07:05:35 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/10(火) 箱根関所資料館を出ると恩賜箱根公園の所に「箱根八里」の歌碑があります。この歌1番が昔の箱根、2番が今の箱根をうたっています。尤も明治34年(1901)の作品です。

そもそも「箱根」の地名の由来というのが気になって調べてみると、箱根の由来には、いろいろな説があります。例えば。。。

・ハコは「神仙」、ネは「山」という意味で、ハコネとは神の住む山である

・火山により、カルデラと外輪山ができ、地形が凹んだ箱のようなことから  など。由来として正しい解釈は、未だ判明していません。

 

  

箱根~三島間が西坂に対し、箱根~湯本間を東坂とよんでいます箱根~権現坂ー天ヶ石坂ー白水坂ー於玉坂(甘酒茶屋)-追込坂ー猿滑坂(見晴茶屋)-橿木坂ー西海子坂ー(畑宿)-

大澤坂ー割石坂ー女転し坂ー葛原坂ー観音坂になります。

恩賜箱根公園から旧街道に入ります。このあたりは、「箱根八里」の歌詞「昼猶闇き杉の並木」に出てくる箱根杉並木。恩賜箱根公園から元箱根まで約500m続きます。1618年(元和4)、

幕命によって川越城主・松平正綱が植林したと伝えられています。400本を越える樹齢400年近くの杉が連なり、夏の強い日差しや冬の寒風から旅人を守っていました。

なかには幹回り4mの大木もあります。

    

 箱根神社は箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出日尊)をお祀りしています。

身替わり地蔵は、宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある時、箱根を通りがかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで度々人を陥れた平景時と間違えられたそうです。

幸いにも傍らにあった地蔵が身替わりになって、命が助かりました。それ以来この地蔵を身替わり地蔵と呼ぶようになったそうです。

   

賽の河原は、芦ノ湖畔や元箱根にあった石仏、石塔をここに集めたものです。

ケンペルとバーニーの碑は、およそ300年前、ドイツ人医師であり博物学者のケンペルが来日。箱根の山を越えて、江戸に参府した。その時の印象を記したのが『日本誌』。箱根の美しさを称え

世界に初めて箱根の植物(ハコネグサ)を紹介したことでも知られます。イギリス人貿易商バーニーはケンペルの書いた『日本誌』に感激し、箱根の自然保護を訴えました。

この2人の功績を称える石碑です。ここから権現坂に入ります。

   

 お玉観音堂」は元禄15年(1702)、お玉という10代の少女が江戸の奉公先の家から伊豆の実家に逃げ帰ろうとしたが、関所手形を持っていなかったため箱根関を通ることができませんでした。

そこで、関を通らずに周囲の山にあった柵を通って関所破りをしましたが、関所の番人に捕まり2か月後に処刑されました。その後、「那津奈可池」(なずながいけ、お玉ヶ池の旧名)で

お玉の首を洗ったという伝説ができたことから「お玉ヶ池」と呼ばれるようになりました。お玉の霊を供養するための観音堂です。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 という箱根馬子唄の碑がここに建っていました。

   

ゆっくり坂を下っていると、後ろから大きな足音が聞こえます。僕らはゆっくり下っていますので道を譲りました。外人のカップルでした。外人にもこの石畳は人気なんでしょうか?

この外人のカップルは、この先の甘酒茶屋まで歩かれていました。

    

恩賜箱根公園から約1時間10分で「甘酒茶屋」に到着。説明文によると、湯本~箱根関所間は、道が大変険しく、当時の旅人が普通1日10里(約40km)を費やすところ、箱根地区では、

8里(約32km)しか歩けなかったそうです。 ※僕らは、写真を撮ったり、寄り道をしたりで1日20kmぐらいしか歩けません。

江戸時代この地には4軒の茶屋がありましたが、明治13年(1880)国道1号線も開通などから街道を歩く人が減少し、現在ではこの地に1軒のみとなっています。

因みに、この店の店主は13代目だそうです。店内は、観光客それも半数は外国の方が多かったです。

中に入ってみると、ちょっと薄暗い感じですが、甘酒ではなく、力餅を注文しました。餅は暖かくそんなに甘くもなく大変おいしかったです。

また、この店には、赤穂浪士の一人神崎与五郎の詫状伝説が残っています。赤穂浪士神崎与五郎が、同志と江戸へ下る途中、箱根の山中で馬子の丑五郎から馬をすすめられたが断った。

そこで丑五郎は悪態の限りをついたので、与五郎は思わず刀に手をかけ切り捨てようとした。しかし大事の前の小事と涙を飲んで我慢をし、甘酒茶屋にて詫証文を書き土下座して謝った。

月日が経ち、丑五郎の耳にも仇討ちの話が入り、あの時の浪人がかの神崎与五郎と知り悔い改めたという

  

笈ノ平は、坂道が一旦途切れて道が平坦になっています。そのため茶屋などが設けられていたそうです。

ここには、親鸞上人が、関東での布教を終えて西国に帰る時、関東に残る弟子たちと別れる時、笈を渡したことから親鸞上人御舊蹟の碑があります。

この時、「病む子をば預けて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ」と詠んでいます。

   

猿滑坂、橿木坂を通ります。猿滑坂は、新相模国風土記には、殊に危険、猿猴といえどもたやすく登り得ずよって名とす。と書かれています。

旧街道は一旦広い道に出ます。ここが、箱根駅伝コースかな?と思いましたが違うようです。ここからヘアピンカーブが連続します。ここが箱根七曲がりです。

  

再び旧道へ。

  

畑宿一里塚です。一里塚の横には、芹沢光治良の箱根八里歌碑「箱根路や往時をもとめ登りしに未来の展けてたのしかりけり」が建っています。

  

間宿畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。

小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、

郷土の伝統工芸「箱根細工(箱根寄木細工)」が生まれ育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。

江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。

ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と

検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。

ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。(説明文より)

  

大澤坂を通り、須雲川自然探勝歩道に入ります。ここは、一部が旧東海道です。途中に東坂の接待茶屋跡がありました。

  

割石坂は、曽我五郎(曽我兄弟の弟)が富士の裾野に仇討に向かう途中、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の石を真っ二つに切割った所と伝えられています。

江戸時代の石畳は、石全体が丸くなっており、雨が降った時など、滑りやすくなっています。

   

歩いていると「丸太橋」を渡ると書いてます。そろりそろりと下りていくと、丸太橋でなく木橋が2つ架かっています。何となく江戸時代に返ったようで渡りました。

  

女転し坂は、寛永年間(1624~1644)に女の人が馬に乗って坂を越えようとしましたが、傾斜のあまりにも厳しさに落馬して亡くなったことから坂の名前がついたそうです。

鎖雲寺には、初花・勝五郎の墓があります。浄瑠璃(じょうるり)歌舞伎の登場人物。「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」の主人公夫婦。飯沼勝五郎は妻の初花とともに 

父の敵(かたき)をもとめて旅をするが,病から両足が不自由となる。箱根で初花は返り討ちにあうが,亡霊となって滝にうたれて祈願すると,勝五郎の足がなおり敵討ちをはたす。

享和元年(1801)司馬芝叟(しそう)が実録を浄瑠璃に脚色。

    

ホテルの名前にも「初花」が使われています。

葛原坂、昔、観音堂があったとされる観音坂・・・・・これで箱根東坂を越えてきました。

  

旧湯本茶屋村の村境には、「男女双体道祖神」があります。男女が手をつなぎ、寄り添う姿から仲睦ましい道祖神と呼ばれています。

   

正眼寺は鎌倉時代に地蔵信仰から生まれたお寺。仇討で有名な曽我兄弟に関係するお寺です。

裏山にある曽我堂には県、および町の重要文化財指定の曽我兄弟木造地蔵菩薩立像が祀られており、境内には供養塔、槍突石など、曽我兄弟ゆかりのものが多く残っています。

  

三枚橋を渡り、今日のゴール「箱根湯本駅」に向かいます。

17:25 小田急箱根湯本駅に到着しました。今日は、8:45にスタートし、約9時間歩きました。石畳が多く疲れました。

  

 


東海道道草ウォーク№37「山中城址~箱根関所」(静岡県三島市~神奈川県箱根町)

2018-04-18 08:37:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/10(火)今日は天気も良く、富士山がはっきり見えています。三島駅発8:15の東海バスで前日ゴールの山中へ向かいます。今日は、峠道ですのでポールを持って歩きます。

途中、富士山が綺麗でしたのでバスの車窓から写真を撮りました。写真を撮って気付いたのですが、三島~箱根間の富士山は、宝永火口が正面に見えます。

静岡県由比周辺で見た富士山は、右側に宝永火口でした。

  

約30分で山中に到着。今日はここからスタートし、箱根湯本まで歩こうと思っています。

箱根旧街道西坂に入ると「雲助徳利の墓」があります。

この墓の主は、久助という人で、なかなか立派な家の出であったといいます。一説には武家の生まれともいわれ、なかなかの器量人であった様です。

しかし、どのような理由からか一生を人の卑しむ雲助で終わりました。日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。

これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたといいます。

したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。

その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。

石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。(三島市HPより)

   

  

念仏石」この先にある宗閑寺の僧侶が箱根峠越えの途中、行き倒れた人たちを供養するため石に「南無阿弥陀仏」の念仏を刻んだといわれています。

   

兜石」は、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城に北条氏を攻めた時、箱根を越える途中で兜をこの上に置いて休憩した石だとか、秀吉の兜に形が似た石だとも言われています。

  

接待茶屋」の看板があります。箱根峠に程近い、施行平【せぎょうだいら】に接待小屋が設けられたのは今から約180年前、文政7年(1824)のこと。

公的機関ではなく、江戸の商人加勢屋與兵衛という義人が運営したのです。私財50両を投じこれを基金として、馬に飼葉を与え、冬には旅人に粥【かゆ】と焚き火【たきび】を接待(サービス)しました。

茶店も姿を消す冬には寒さをしのぎ体を暖める安らぎの場だったです。 しかし、基金は底を尽き、三十年後に茶屋は閉じられます。(写真は大正中ごろの接待茶屋)

明治に入り、下総(千葉県)性理【しょうり】教会二代目会長の遠藤亮規は箱根峠に接待所の必要性を感じ、その遺志を継いだ門人達が明治12年(1879)接待茶屋を再開します。

その後、門人の鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、一年を通し無料で旅人達にお茶をサービスし、病人や山で疲れた人々の避難場所となっていました。

鈴木家の人々は教会からの援助が途絶えたため、箱根竹を出荷したり鶏を飼うなどして、接待を維持します。その心意気に感じた人々が、全国からお茶や茶碗を送ってきました。

時代は徒歩の旅から車へ、石畳道から舗装道路へ変化し、利用者も減ったため、昭和45年(1970)店が閉じられ、平成5年(1992)国道拡幅工事のため建物も取り壊されてしまいます。(三島市HP)

接待茶屋の向かいには、「徳川有徳公の碑」があります。徳川有徳とは、徳川吉宗のことで享保元年(1716)紀州藩主から将軍になる為、江戸に向かう途中、石割坂にあるこの茶店で休憩を

とりました。その間に店主が馬の世話をよくした所、吉宗はその心遣いに大層喜び、自ら永楽銭を与えたそうです。それからというもの代々の紀州公は、参勤交代の際には、この店で休み、

永楽銭を支払うようになったそうです。

  

街道は一旦国道に出て100mぐらいでまた旧街道に入ります。

  

兜石跡」があります。これは、国道拡張工事に伴って移転するまでここにありました。

八ツ手観音」(馬頭観音)八本の手を持つ馬頭観音は、高さが50cmほどの石像で冠には、馬頭が刻まれています。当時、馬が交通機関であり、労働力であったことから、大きな財産として

大切にされていました。道中の安全を祈願して祀られたとされます。

  

ここには、箱根八里の碑「井上 靖」さんの碑がありました。道標には、江戸へ25里、京へ100里の標示があります。

  

道標を過ぎると国道1号線に合流します。先に進むと、箱根エコパーキング。ここには、箱根八里の碑(峠の地蔵)があります。知っている人の歌碑がありましたので書いてみます。

箱根路を我が越え来れば 伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ  源実朝、杉本苑子、細心大胆 橋本聖子、おしん辛抱 橋田寿賀子、道は段々険しく  穐吉敏子

花見る人は皆きれい 黒柳徹子、夢に向かってもう一度 向井千秋、 花は色なり勇気なり 桜井よし子、

私は彼等と共に泣き、また共に笑った。彼等はただ私と共にあり、私はただ彼等と共にあった  宮城まり子

  

更に先へ進むと、「箱根峠」の信号が見えてきました。ここから「神奈川県」です。標高が846m。大分登ってきましたね。

やっと静岡県を抜けました。静岡県は、三角形の形をしており、東海道沿いが長いです。

この街道にしても西は、湖西市、東は、函南町。新幹線の駅にしても6つあります。西と東では文化圏も違うでしょうね。

私達を歓迎してか、富士山も顔を出してくれました。

   

   

1号線箱根峠から1号線を横断して旧街道に行くのですが、このあたり車の通行が多く、道の駅箱根峠の方まで行ってそこで横断歩道を渡ります。

道の駅の眼下には、「芦ノ湖」が見えます。

   

挟石坂を下りるのですが、ここは、急勾配(45度ぐらいかな?)です。また階段の段差も大きく手摺を使ってゆっくりゆっくり下りていきます。

  

途中には、倒壊した木があります。

 

芦川石仏群は、とは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた

多くの巡礼供養塔などがあります。石仏・石搭の大半は巡礼塔で、箱根宿の宿民が巡礼成就の記念や供養として建立したものもあるそうです。

  

石畳を下りてくると右側に「駒形神社」があります。駒ヶ岳を仰ぎ見る芦ノ湖南岸に鎮座する駒形神社は、駒ヶ岳の地主神 駒形大神を祀る古社であります。

御祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、素戔鳴尊、大山袛神。古くは「駒形権現(こまがたごんげん)」「荒湯駒形権現(あらゆこまがたごんげん)」と呼ばれ、

その淵源は遙か悠久の昔、駒ヶ岳の山岳信仰に遡ると云われ、関東総鎮守として武門の崇敬を集めた箱根神社の社外の末社として尊崇されてきた町内の鎮守様。地元の住民には、

古くから「駒形さん」と親しまれています。境内には、「犬神明神」があり、元和4年(1618)箱根宿が創設された時、付近には狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませました。

そこで唐犬2匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと宿場が完成しました。然し2匹の唐犬も傷ついて死んでしまいました。人々は、宿場を完成させてくれた2匹の唐犬をここに埋め、

「犬神明神」と崇め祀りました。(説明文より)

  

箱根町に入りました。この光景は、お正月の箱根駅伝でよく見かけます。信号を曲がった所には、駅伝広場、箱根駅伝往路ゴールなどの碑が建っています。

  

箱根宿は、元和4年(1618)徳川幕府によって宿場が開かれました。時の松平政綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿と相模国小田原宿から各50戸づつ移住願いせし(約600名)

人為的に箱根宿を創設。またこの系統に依って支配されていました。現在も箱根宿主要部は、字箕島町、字小田原町と名付けられています。

箱根宿は、本陣6軒、脇本陣0、旅籠36軒の規模でした。

箱根駅伝は、東京箱根往復大学駅伝競走(現在217,9km)、大正9年(1920)第1回大会に4校で争われ、以後第2次世界大戦により5回中断しましたが、昭和、平成と三世代に渡り、

シード権獲得した大学と予選を勝ち抜いた大学20校(200名)のみが、毎年1月2日~3日の決戦に母校の名誉と栄光の為に勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い熾烈な戦いを行っています。

   

  

箱根関所・・・元和5年(1619)に関所と宿場が設置され、標高が725m、東海道の中で一番高い場所にあったことから「山の関所」と言われていました。明治2年(1869)に廃止されましたが、

平成7年(1995)に復元されています。

 

  

関所の裏手には、「遠見番所」があります。芦ノ湖を行く船の監視を行っていました。ここからは芦ノ湖がよく見えます。

   

箱根関所から100mぐらい行った所には、「箱根関所資料館」があります。ここは、撮影禁止でした。

  

                                                                                       

                                                                                               <つづく>

 


東海道道草ウォーク№36「三島宿~山中城址」(静岡県三島市)

2018-04-17 05:18:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/9(月) ランチの後、三嶋大社に行ってきました。三嶋大社は、三島の地名の由来となった、伊豆国の一宮です。祭神は、「三嶋大明神」。

創建の時代は、不明ですが、延喜式神名帳(927年)にその名が記載されています。源頼朝が挙兵の時、祈願して以来、多くの武家、庶民の信仰を集めています。

「三嶋暦」を発行し、全国に名を知られていました。

     

三嶋大社は、桜は盛りを過ぎ、つつじが咲き始めていました。広重の三島宿は、朝霧の中、三嶋大社の前を行く旅人の姿が描かれています。

三嶋大社の縁起餅として知られる「福太郎餅」。生命力を宿すという餅と、邪気を払うとされるヨモギを使用した縁起物。カルシウム含有量や滋養に富むことでも知られるヨモギを含んだ草餅を、

烏帽子の形にした甘さ控えめのこしあんで包み、一口でも食べられる丁度良い大きさになっています。これで200円です。広重の描いた旅人も福太郎餅を食べたのでしょうか?

    

さあ、箱根峠に向かって出発です。新町橋があります。ガイドマップには、富士山のビューポイントと書かれていますが、生憎富士山は雲の中でした。

  

箱根旧街道に入ります。

   

箱根旧街道は、1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。この旧街道は、急な坂道なので人も馬も滑って大変な所でした。そこで幕府は、1680年、

それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷き詰めて「石畳の道」に改修したものです。その石畳を1769年に改修した記録によると「愛宕坂では長さ140m、幅3,6mを修理した」とあります。

箱根旧街道には、三島側から、今井坂ー愛宕坂ー臼転坂ー題目坂ー大時雨坂ー小時雨坂ーこわめし坂(下長坂)ーかみなり坂(上長坂)-小枯木坂ー大枯木坂ー石原坂ー

石荒坂ー兜石坂ー挟石坂ー風越坂ー釜石坂ー赤石坂ー向坂の18の坂があります。

  

途中で「大根の碑」があります。「箱根八里の馬子唄消えて 今は大根を造る歌  源水 」。1889(明治22)年、東海道線が開通すると、箱根旧街道を通る人の数は激減して、

今まで街道に生活の糧を求めていた箱根西坂の人びとも農家に転業をせざるを得なくなりました。ここでは、大根、牛蒡、人参などの根野菜を造っていました。

この碑は農業生産の向上に寄与した平井源太郎を記念して建てられたものです。源水は平井源太郎の歌号です。また、平井源太郎は農兵節に歌をつけた人でもあります。

初音ヶ原も富士山のビュースポットですが、まだ富士山は雲の中です。

  

錦田一里塚は江戸日本橋から28番目の一里塚です。街道の両側に一対で残っています。

一里塚の横には、鈴木宗忠氏の「日さらさら歩々道場の一里塚」の歌碑が建っています。

  

街道は、塚原の所で一旦1号線と合流します。1号線を渡るとすぐ左折。向かい側には、伊豆フルーツパークが見えてきます。これから臼転坂です。

  

臼転坂・・・牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたことなどからこの坂の名がついたそうです。

法善寺の所に六地蔵があります。数えてみると12~13体あります。

  

階段を登っていくと、題目坂です。ここには、征夷大将軍足利尊氏建立の「七面堂跡」があります。七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂のことです。

  

坂公民館の所も富士山のビューポイントですが、まだ富士山は雲の中です。

歩いていると前方に「スカイウォーク」が見えてきました。

  

松雲寺は、江戸時代東海道を通行する尾張徳川家や紀伊徳川家が休息所として用い、「寺本陣」と呼ばれました。明治11年(1878)明治天皇は、東海道行幸の節、ここで休憩されました。

 

下長坂(こわめし坂)・・・急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになることからこわめし坂と呼ばれました。

  

  

スカイウォークに着きました。スカイウォークは、2015年(平成27年)12月に完成し、全長400mの歩行者専用吊橋としては日本最高吊橋です。

  

  

  

階段を登って一旦国道に出ます。富士見平ドライブインの所に芭蕉の句碑が建っています。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

意味は、今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめたあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くというのも一興であるよ。

箱根旧街道は、富士見平から入るのですが、ここから先は、工事の為通行止。1号線を迂回します。

 

  

富士山がようやく顔を出してきました。やはり富士山は、素晴らしいですね。 

   

歩いていると、左側に「菊池千本槍の碑」があります。菊池というと、熊本の菊池?と思いながら説明文を見ると、

建武2年(1335)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命をうけた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括りつけた武器で足利勢に大勝利しました。

九州に帰国したのち、武重は刀工延寿に槍を造らせ後にこれが菊池千本槍と呼ばれました。

  

再び箱根旧街道に入ります。途中、司馬遼太郎の歌碑があります。幾億の跫音が坂に積もり吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ

  

山中城址に着きました。山中城は永禄年間(1558~1570)に小田原の北条氏康により築城され、天正17年(1589)豊臣秀吉によって落城しました。

碁盤型に掘った「障子堀」や土塁が連なっている「畝堀」が遺構として残っていることで有名です。国指定史跡。

 

  

お城跡にに行ってみようかと思いましたが、城址まで約15分ぐらいかかるそうです。時間がありませんのでここはパスします。

芝切地蔵尊」には、こんな話が残っています。ある夜、巡礼の旅人が宗閑寺(そうかんじ)に一夜の宿を頼みますが、突然腹痛に襲われ亡くなりました。

旅人は亡くなる直前に「私をこの地で地蔵尊として祀(まつ)ってください。そして芝を積んで芝塚をつくり、故郷の常陸国〈ひたちのくに(茨城県)〉が見えるようにしてください。そ

うすれば村の人や世の中の人々の難病を救いましょう」と言い残したそうです。

 こうして旅人は芝切地蔵尊として葬(ほうむ)られ、今でも毎年7月中旬にお祭りが催されています。そこで 売られる「お札」や「腹掛け」は、お腹の病に効くと評判です。

また、戦前は伊豆一円や富士・沼津など遠方からもこの日に多くの信者が集まり、参拝者の列が三島まで続いたといわれています。

 

 山中のバス停で時刻表を見ると、5分ぐらい待てば「三島駅」行のバスが来ます。今日の街道歩きは、ここ迄とします。

バスは、三島まで約30分ぐらいで着きました。何時間もかけて歩いたのに・・・・・・  

三島に着いて「楽寿園」に行こうと思いましたが、今日月曜日は定休日でした。

 

 


東海道道草ウォーク№35「沼津宿~三島宿」(静岡県沼津市~三島市)

2018-04-15 15:00:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/9(月)晴れ。前日福島から移動し、今日から3日間東海道を歩きます。今回の最大のテーマは、この東海道最大の難所「箱根峠」を越えることです。

三島発8:15の電車で前回のゴール地、沼津に向かいます。

  

 三枚橋城は、「北条氏政書状」によると天正7年(1579)、武田勝頼が築城したとされる。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松井忠次(松平康親)が城主となり、

天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟中村一栄が城主となっている。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が城主となるが、同19年(1614)、

忠佐の死後跡継ぎがないため三枚橋城は廃城となり、以後160余年間沼津に城はなかった。

安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城する。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、

大手門は静岡銀行の西向い側に造られ、本丸は中央公園辺りにあった。歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続くが、

忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(千葉県市原市)に移り、明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用された。(沼津市HPより)

広重の東海道浮世絵の「沼津」は、夕刻、狩野川を渡る親子連れ、天狗の面を背負った人が描かれています。また、広重の東海道浮世絵の中で唯一「満月」が描かれています。 

  

  

前回2月に沼津を歩いた時は、風が強く、私の相棒の風車が飛んでいきましたが、今回も風が強く、二代目の風車も勢いよく廻っています。

沼津の一里塚の所に「玉砥石」が」二つ置かれています。奈良・平安時代に玉を研ぐために使ったもので日枝神社の参道脇に江戸時代から置かれていたそうです。

  

 

日枝神社に行くため県道に出ると、沼津警察署の前に「友情の碑」が建てられています。何だろう?と見てみると、

昭和29年 5月5日 こどもの日
こどもの日という事で、町内会の催し物があったのですが、中学生の少年は、家の手伝いで、木材をリヤカーで、運ぼうとしていました。

そんな彼を、みんなで運べば速く終わって、みんなで催し物に参加出来ると3人の友だちが(中学生1人、小学生2人)手伝っていました。

しかし、そこに 飲酒運転のトラックが突っ込み、彼らを畑に突き落としました。2人の少年が即死、1人が重体という、悲しい事故が起こったのです。

少年達の友情と、彼らの命を奪った、飲酒運転事故を、忘れてはいけない。そうして、この≪友情の像≫がたてられました

この日からもう60数年経ち、飲酒運転には厳罰が科せられるようになりましたが、変わらず飲酒運転での事故が絶えません。「飲んだら乗るな」を守ってほしいものです。

  

平作地蔵尊」があります。

歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして

「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。

この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。(沼津市HPより)

  

大岡の町に入りました。しばらく歩くと「沼津藩領東榜示杭」があります。

榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、

天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた。

安永6年(1777)、水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。沼津の地は韮山代官支配領であったので、

代官江川太郎左衛門から城地を正式に請け取っている。翌7年(1778)、沼津藩の領域を示す榜示(ぼうじ)を設けたと考えられる。これは、沼津藩の東限を示すもので、沼津市西間門の

八幡神社前に残る榜示杭に対応している。碑の西側を除く3面に「従是西沼津領」と刻まれている。破損もなく、保存状態は非常によい。藩の領域を示す貴重な史料である。(沼津市HPより)

  

潮音寺に亀鶴姫の碑があります。説明文によると、黄瀬川村に小野善司左エ門政なる長者あり、子なきを悲しみ、祈願。一子を授る。亀鶴姫と名付く。七歳の春、両親に死別、

十八歳の時、源頼朝公富士の牧狩も宴に再度召されたが、応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の滝の畔に立ち、「み仏の深き恵みぞ頼みなる。身は滝きつ瀬の

あわと消ゆとも」と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。この時建久四年(1193年)5月27日なり。姫は駿河の三美人と言われ賢女にて亀鶴草紙を残す。(説明文より)

また、一説では、曽我兄弟の仇「工藤祐経」の愛人が亀鶴とも言われています。調べてみると、仇討と身を投じた日が一緒ですね。

  

 智方神社: ご祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王です。倒幕に貢献したものの謀反の容疑をかけられた護良親王は鎌倉に幽閉され殺害された。寵姫、南の方は親王の首を密かに持ち出し、

東海道を西へ逃れたものの黄瀬川の氾濫で断念、この地に首を葬り、クスノキを植えて標としたと伝わっています。境内にはそのクスノキの大木がそびえています。

 

 清水町には、八幡神社に対面石があります。治承四年(1180)十月、陛下の軍勢が富士川辺りまで押し寄せた時、鎌倉にあった源頼朝は、この地に出陣した。たまたま奥州から駆け付けた

弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い懐旧の涙にくれたという。この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。また、この時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、

渋柿だったので傍らに捨てた。すると、後に芽をだし二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹を絡ませねじりあっていたのでいつしか、ねじり柿と呼ぶようになった。(説明文より)

  

八幡の信号の先の玉井寺、また道の反対側の宝池寺に一里塚があります。このようなお寺の両側に一里塚があるのは、初めて見ました。

玉井寺の一里塚は、江戸時代のものがそのまま現存、宝池寺の一里塚は、昭和60年(1985)に改修されたものです。

  

境川にかかる所に「千貫樋」があります。この川で駿河国と伊豆国の境です。

千貫樋(せんがんどい)は、三島の楽寿園に湧水を清水町まで灌漑用水として利用する為にかけられた疎水(樋)です。千貫樋の名前は、架樋の技術が素晴らしく、金千貫に値することから

その名がつけられた、との話が残っています。初めは、木樋でしたが、関東大震災で崩落し現在のコンクリート製になりました。

  

三島市に入ってきました。三島広小路には、伊豆箱根鉄道駿豆線(三島~修善寺)の駅があります。このあたりが三島市の中心部です。

  

踏切を渡ると鰻屋さんの所に「時の鐘」があります。江戸時代に朝と夕、時刻を知らせるため鳴らされていました。大戦の時に供出されましたが、昭和25年(1950)市民の有志により

平和の鐘として復興しました。時の鐘の裏手には、「三石神社」があります。三石神社は、元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷の神を祀ったそうです。

  

時の鐘の横には、源兵衛橋があります。源兵衛川は、楽寿園・小浜池を起点として1,5kmの農業用水路です。きれいな水「三島」の元にもなっています。

   

本町交差点の所に三島宿の本陣「樋口伝左衛門本陣」、その向かいには、「世古六太夫本陣」があります。

江戸時代の三島宿は、家数1025軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒)、人口4084人でした。

   

長圓寺の山門には、世古本陣の門が移設されていました。

  

本町郵便局の角には、「問屋場跡」があります。先に進むと、築後140年の丸平商店です。昔は、金物店だったそうですが、現在は、食べ物屋さんになっています。

時間も11時半を回りましたのでここでランチをいただくことにしました。

  

丸平のランチ「源兵衛膳」。

  

 

 

 

 

 

 


第20回(2018年)ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ2日目23km荒川コース(福島市)

2018-04-14 22:09:57 | オールジャパンウオーキングカップ

4/8(日)朝から時々霧雨が降るような天気です。予報では雨は降らないそうですが、念のためポンチョを持っていきます

今日も31kmと一緒にフライングスタートです。福島県庁の所には、河野広中氏の銅像がありました。

河野広中氏は、幕末の戊辰戦争で三春藩を官軍支持にまとめ官軍参謀の板垣退助を知った。維新後、若松県官吏。明治8年福島に政治結社・石陽社を結成、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる

その後、自由党結成に参加し幹部として活躍。13年国会開設の請願書を政府に提出。一方、14年福島県会議長となり、翌年着任した県令三島通庸と対立、福島事件に連座、下獄。

22年出獄、翌年第1回衆院議員選に出馬、以後14回当選。30年自由党を脱党、憲政本党入り。35年衆院議長。38年日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄され

、翌年釈放。大正4年第2次大隈内閣の農商務相となる。(コトバンクより)

 

   

コースは、荒川に出てきました。このころから細かい雨が降ってきました。風もちょっと強くなってきました。

 

荒川の桜並木にやってきました。荒川の桜並木は、福島市中心部を流れる清流、荒川沿いに広がる、河川敷の約1キロにわたり、ソメイヨシノ約220本が連なっています。

晴天時は背景にそびえる吾妻連峰を眺めながら花見を楽しめる絶景スポットです。

 

見事な桜並木です。

  

 

  

荒川橋の所が23k、31kの分岐点です。23kは、橋を渡り福島市民家園の方に向かいます。

  

福島市民家園は、敷地110,000㎡の園内に江戸時代から明治時代にかけての県北地方の民家を中心に梁川村(現伊達市)の芝居小屋、福島市内商人宿、料亭、板倉、

会津地方の民家等を移築復元し、庭や畑とともに当時の環境を再現しています。

 

 

  

この民家園が最初のチェックポイント。中通りで獲れたリンゴやキュウイの接待がありました。

このあたりは、福島でも高地にあるのでしょうか、少し肌寒いです。

 

2回目のチェックポイントは、吾妻学習センターです。ここでは、豚汁をいただきました。ここまで18,2km、ゴールまであと5km。現在11時半。ゴールは12:30ごろかな?

  

豚汁をいただき再び出発します。野田中央公園を通ります。

  

高湯街道の道標がありました。

高湯街道(たかゆかいどう)は、福島市都心部から高湯温泉に至る温泉街道です。 福島駅西口の数十メートルを除いて福島県道70号福島吾妻裏磐梯線大半の区間が該当します。

高湯ゲート(有料時代の高湯料金所)以西から「磐梯吾妻道路(磐梯吾妻スカイライン)」と路線名が変わります。

  

福島駅西口から地下道を通り東口へ。東口では、何かイベントが行われていました。

 

12:35無事ゴールしました。発表された参加人数は、計算が間違っているようです。10人プラスの計1202人です。

  

福島市の町中を歩くと、朝ドラに古関裕而さんをと、要望する幟がありました。

   

このあと福島駅から新幹線で三嶋に移動しました。明日から3日間東海道を歩いてきます。


第20回(2018年)ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ1日目23km花見山コース(福島市)

2018-04-13 17:13:02 | オールジャパンウオーキングカップ

4/7~8 ふくしま吾妻荒川花見山ツーデーマーチに参加するため、4/6(金)福岡空港から飛行機で羽田へ。品川からは、青春18きっぷで福島に向かいました。

青春18きっぷで福島までは約5時間かかりますので、途中、宇都宮で下車し、宇都宮みんみんで宇都宮餃子をいただきました。宇都宮みんみんは、駅前のホテルにも支店ができているのですね。

   

今日は東京の方で風の為、架線に何か引っかかったりしてダイヤが乱れていましたが、午後6時半福島駅に到着しました。

第20回ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ

この大会、実は4年前にも参加しており、この時の会場は福島県庁前だったと記憶していますが、今回会場は福島駅東口「街なか広場」に変わっていました。

泊まったホテルからは、徒歩5分ぐらいで行けます。4年前は、他に観光もしていましたので2日間とも10kmでしたが、今回両日とも20kmのコースにエントリーしました。 

7時半、まだ膝の状態が万全ではないため、スローペースですので、30kmコースと一緒にフライングスタートします。

今日は、曇り空ですが、いつ雨が降るかわからないので雨具の準備をしました。

  

県立美術館を通り、信夫山(しのぶやま)(275m)に向かいます。

  

ここからは、吾妻連峰が見えます。吾妻小富士には、「雪うさぎ」が見えています。早春のころになると山肌に残る雪がうさぎのような形に見えることから、

この残雪は「雪うさぎ(吾妻の雪うさぎ)」と呼ばれ、福島市民に春の訪れを知らせる風物詩となっています。昔から雪うさぎが見えるようになると、農家の人々が苗代に種をまき始めたところから、

「種まきうさぎ」とも呼ばれています。

  

  

福島東稜高校から春日町緑地へ行きます。ここには側道の横に水路が流れており、鉛筆のオブジェなどが置かれております。

  

右側には、福島市音楽堂。この音楽堂の所に作曲家「古関裕而記念館」があります。古関裕而さんは、福島市大町の生まれ。戦前においては「露営の歌」「暁に祈る」、戦後では、

「とんがり帽子の歌」「長崎の鐘」「君の名は」また、昭和39年(1964)東京オリンピックでは選手の入場曲「オリンピックマーチ」を作曲されました。

福島市のマンホールは、羽黒神社の「わらじ祭り」が描かれています。

  

国道4号線鎌田交差点が31k、23kの分岐点。23kmは、阿武隈川を渡り、チェックポイントのもちずり学習センターに向かいます。

途中の大旦町では、今日桜まつりがおこなわれていました。何本もの枝垂桜が満開でホントきれいです。桜を眺めていると、地元選出衆議院議員の金子恵美先生が来られました。

金子先生とのショットです。

  

  

再び歩き出します。途中にブリキ看板がありました。この歯磨き屋さんは、知りませんでした。

「もちずり学習センター」が最初のチェックポイント。10,8km地点。

  

阿武隈川の文知摺橋を渡ります。このころから風が強く、私の相棒の風車が元気よく動いています。(今回は、風車の横に小さな鯉のぼりもつけています)

文知摺橋から川を見ると、コハクチョウがいます。確か、以前、会津の猪苗代湖でもこのコハクチョウを見たことがあります。

  

三本木橋を渡ると花見山の入り口になります。

  

花見山は、個人の所有で、梅や桜だけでなくハナモモ、レンギョウ、モクレンなどが一斉に咲き誇る花の名所。その美しさは写真家の故秋山庄太郎氏に「桃源郷」とまで言わしめるほどです。

 

 

 

今年は、福島でも桜の開花が早く、桜の一部はもう盛りを過ぎているのもありますが、山全体が花に覆われ、まさに絵を描いたような見事さです。

欲をいえば、天気も晴れだったらもっと綺麗だったでしょう。今日は、地元新聞社の「花ウォーク」も同時に開催され、花見山公園には人が一杯でした。

  

花見山が2回目のチェックポイント。16,6km地点。

  

前回参加した時は、時間の都合で花見山の上まで行かなかったので今回、行ってみることにしました。

   

 

 

花見山のきれいな花に満足し、再びウォーキングコースに合流します。

  

    

12:45無事ゴールしました。今日は、ウェルカムパーティにも参加しますので、まだ時間があるのでホテルに戻ります。

  

15:30からのウェルカムパーティは、福島テルサで行われました。

  

抽選会では、シューズを狙っていたのですが、当たったのは、僕のすぐ次の番号の人。なかなか当たりません。


うきは市流川の桜並木(福岡県うきは市)

2018-04-03 07:27:51 | JR九州ウオーキング

3/31(土)は、JR九州ウォーキングでうきは市流川の桜並木に行ってきました。

巨瀬川沿いに約2kmとつづく約1000本の桜並木はまさに圧巻。河川敷に咲く菜の花もあわせて夢のような景観となります。

流川桜会主催の「桜まつり」(午前9時〜午後9時頃)の出店にも地元の名産品が盛りだくさんです。

歩いていると桜以外にもたくさんの春の花が咲いていました。

   

桃の花も満開です。

  

流川桜並木です。

  

  

 

   

歩いていると民家の庭先には、たくさんの春の花が咲いています。

紅花常盤満作・・・・・・・・・・・・紅の満作は初めて見ました。

  

花海棠(はなかいどう)・・・・・・・・・・・・・・・・ピンクの花がとてもきれいでした。

 

  

山吹・・・・・・・・・・・・・・・山吹というと太田道灌と山吹の話が思い出されます。

太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と

声をかけると思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り

雨の中を帰って行ったのです。 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに

七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。

驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。

  

吉井町百年公園へ向かいます。ここでは、桜まつりがおこなわれていました。

 

   

下りていくと民家の庭先に花水木、馬酔木が咲いていました。花水木は、4月中旬ぐらいから咲き出すのですが、今年は早いですね。

  

もう「なんじゃもんじゃ」の花かな?と思いましたら、「常盤満作」でした。花がよく似ていますね。

   

ゴールは、吉井町白壁交流センターです。これから車で久留米市の「浅井の一本松」に行きます。

 

浅井の一本桜は、樹齢百数十年、幹廻り4,3m、幅20m、高さ20mの山桜です。

今日(3/31)から夜間ライトアップされるそうです。

昨年は、久留米つつじマーチの時でもこの桜の花がありましたが、今年のつつじマーチでは見れないでしょうね。

 

九州の桜も、もう盛りを過ぎてきました。4月上旬は、東北福島の桜を見に行こうかと思っています。

今年は、全国的に桜の開花が早いので、そのころまで桜が持ってくれればいいのですが・・・・・