よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

冬の北海道温泉三昧(定山渓温泉・湯の川温泉・洞爺湖温泉)最終回

2024-12-21 07:45:02 | 旅行

12/15 冬の北海道温泉三昧の旅もいよいよ最終日になりました。

宿泊した洞爺湖の宿は、大浴場もありますが、「昭和の湯」と言って、昔の銭湯をイメージしています。ならば、入らなくては・・・と思い、5時ごろから入りました。

入口には、アイスキャンディ屋さんの自転車、更衣室には、昔の映画のポスターが張られています。

まだ他の人が入っておらず一番風呂です。お風呂には、富士山が描かれています。まさに昔の銭湯です。(撮影禁止の為写真はありません)

宿のロビーは、洞爺湖に面しています。昨晩も雪が降り、あたりは白くなっています。

しばらく外を眺めていると、羊蹄山(ようていざん)が姿を現してきました。

 

私、実は、洞爺湖は2回目です。毎年9月に洞爺湖を中心に「北海道ツーデーマーチ」といって洞爺一周コースやあぶた噴火湾コースなどがあり有珠山・昭和新山などを歩いて

きました。機会があればまた参加したいと思っていましたが、残念ながら今年の大会を以て『中止』になりました。

その時のブログがこれです。 第32回北海道ツーデーマーチ(北海道虻田郡洞爺湖町)1日目20km - よっちゃんのおててつないで

 

8:00 ホテルを出発  白老町のカニ御殿へ

40分ほどで白老町(しらおいちょう)のカニ御殿に到着。

カニ御殿の屋根には、巨大なクマと鮭のオブジェが・・・・

このオブジェ、クマが全長15m、高さ10m、横幅8m、重さ30トン。鮭が全長12m、高さ3m、横幅1,5m、重さ8トン 約1億円かかったそうです。

クマの姿は、迫力があります。

 

また、入口には、クマの剝製でしょうか、これもリアルで怖いです!。こんなクマが襲ってきたらと考えるとホント怖いです。

 

店内に入るとおいしそうなカニなどが並んでいます。

10年ぐらい前でしょうか、韓国機張市場で腹いっぱいカニを食べたことがあります。いまは、歳もとりましたし、もうそんなに食べることができません。

 

 

タラコの詰め放題のサービスがありました。瓶の中にタラコを詰めるだけ詰めていいそうです。但し、瓶のふたが閉まらないとアウトです。

私は、5腹でしたが、多い人は7腹も入れたそうです。

カニ御殿から苫小牧のノーザンホースパークへ。

「馬と大地と人との絆」をテーマにしたパークです。

引退した競走馬などサラブレッド種の地に約80頭の馬が生活しているそうです。

 

ポニーのショーが行われていました。

   

 

ノーザンホースパークから約15分で新千歳空港に到着。

時刻は、12時少しまわっています。これで4日間の冬の北海道温泉三昧の旅が終了しました。4日間のバスの走行距離は、約750kmだそうです。

最初は、4日間なんて長いな~と思ってましたが、あっという間の4日間でした。

新千歳から福岡行の飛行機は、14:20ですので空港内で札幌ラーメンでも食べようかとラーメン道場に行きましたが、御昼どきだったかもしれませんが、どこも満員です。

外国の方も多くおられます。あまり人込みは好きではありませんのでラーメンは諦めました。

ANA290便14:20発で福岡に帰りました。福岡着は17:00

これで冬の北海道温泉三昧の旅を終了します。

 

 


冬の北海道温泉三昧(定山渓温泉・湯の川温泉・洞爺湖温泉)その3

2024-12-19 18:44:52 | 旅行

12/14 湯の川温泉宿の朝食を終え、ロビーに行くと窓から津軽海峡が見えます。

中央の少しぼんやりした所が下北半島です。

   

8:00 函館朝市に向かいます。

見えてきたのは、「青函連絡船記念摩周丸」、1988年(昭和63)3/13青函連絡船最後の日まで運行していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第2岸壁に係留・保存・公開されています。

現在の青函連絡船フェリーは、ここより少し離れたところにあります。今は、青森~函館間を約5時間で運行するそうです。

そういえば、2016年(平成28)青森のウォーキング大会に参加した時、青森の会場が八甲田丸でした。(写真は平成28年のものです)

 

函館朝市は、戦後間もない1945年(昭和20年)、函館前で農家が野菜の立ち売りをしたのが始まりです。現在は、250店舗、年間来場者数150万人、年間売上高130億円だそうです。

 

歩いていると、何か釜山のチャガルチ市場に雰囲気が似ています。チャガルチ市場も店頭で蟹を選び中で調理してくれます。

お正月に向け、海産物も欲しいですが、値段がちょっと高めです。庶民には、手が出ません。

 

 

函館朝市から、五稜郭タワーへ。五稜郭は、戊辰戦争のいわゆる箱館戦争の中心となった西洋式の城郭です。

五稜郭という名前がついたように,稜堡(りょうほ)と呼ばれる5つの角があり,星形の五角形となっています。この上には土塁が造られ,また石垣も積まれ,五角形となる土塁と石垣の周りには,

水堀があります。さらに,この星形の土塁の南西側には,半月堡(はんげつほ)または馬出塁と呼ばれる三角形状の土塁があり,その周りもまた水堀となっています。
 五稜郭のような珍しい形は,約500年前の16世紀頃のヨーロッパで考えられ,その後,ヨーロッパの各地に造られた「城塞都市(じょうさいとし)」をヒントにしたものです。そこから,

この形を「西洋式土塁」と言っています。また,このような形の五稜郭は,日本では, 函館市の五稜郭と長野県佐久(さく)市の龍岡城の2か所だけとなっています。(函館市HPより)

五稜郭の歴史 | 函館・五稜郭タワー | 公式ウェブサイト - Goryokaku Tower

   

 

1階に下りてみると、当時使われた大砲が展示されています。

 

 

 

五稜郭から七飯(ななえ)町「道の駅なないろ・ななえ」に向かいます。七飯町(ななえちょう)とは、読みにくい地名ですね。

1879年(明治12年)七重村と飯田村が合併して出来た地名です。

「道の駅なないろ・ななえ」に到着します。今までの旅で雪ばっかり見ていましたが、ここは、北海道内でも温暖な地方で雪が少ないです。

道の駅内に入るとトイレが綺麗です。道の駅ランキングでは北海道内で第1位、全国でも第4位だそうです。

 

七飯町(ななえちょう)は、日本で初めて西洋りんごが栽培(さいばい)された場所です。
   道の駅なないろ・ななえにあるモニュメントには、1869年にR・ガルトネルというドイツ人が、この地で西洋りんごの栽培(さいばい)を始めたことが記(しる)されています。

  

道の駅の先には、男爵イモのモニュメントがあり、横にはDannsyaku  Lounge」があります。

 

川田龍吉は江戸時代の終わり、1856年に北海道とは縁もゆかりもない土佐郷士の家に生まれました。
青年期には造船技術を学ぶためにスコットランド・グラスゴーへ留学。
帰国後は学んだ技術を生かして横浜ドックの初代社長に就任、明治期の日本造船工業に貢献しました。
40歳の時には日銀総裁を務めた父・小一郎が爵位「男爵」を授与されますが翌年に急死。長男の龍吉が男爵を受け継ぎます。
その後、渋沢栄一より経営が傾いていた函館ドックの再建を託され、いよいよ北海道の地へと移り住みました。

龍吉は専務取締役として会社の再建に奮闘、同時にかねてから興味があった農業を本格的に始めます。
留学先のスコットランドで先進の農業技術を目の当たりにし、日本との差を痛感した龍吉は、積極的に海外の技術を取り入れました。
その際、特に進んで栽培したじゃがいもが後の「男爵いも」となります。
また、男爵という高い地位にも関わらず、農場では積極的に農民と交わろうとした姿勢も後世に伝わっています。

函館ドックの経営も軌道に乗り勇退した龍吉は、晩年まで北海道農業の近代化に努めました。
92歳の時にはトラピスト修道院で洗礼を受けカトリック教徒となり、3年後にその生涯を終えます。(男爵倶楽部より引用)

今まで何気なく食べていた「男爵イモ」、男爵って誰だろうと思ってましたが、やっとわかりました。

 

大沼国定公園に来ました。

大沼国定公園は渡島半島の中央部、七飯町、鹿部町、森町の3町にまたがって広がる、面積およそ9,000haの自然公園です。
公園区域は、活火山である駒ヶ岳(1,131m)と、その山麓に点在する大沼、小沼、蓴菜(じゅんさい)沼の大沼三湖に代表される湖沼群の地域で、山と水の変化に富んだ景観を一体的に

含んでいます。
公園の中心である南大沼地区は、道南の玄関口である函館市の中心部から北へ20km程のところにあります。(北海道HPより)

記念写真を撮りますが、バックに駒ケ岳が見えません。

大沼は、少し氷が張りだしました。最高は、厚さが40~50cmぐらいになるそうです。

  

 

さきいかが売られていました。試食するとおいしいです。お酒のお供に一袋買いました。@1500です。

 

昼食は、大沼プリンスホテルのハンバーグランチです。

 

窓側の席に座り、じっと駒ケ岳の方を見ていると、駒ケ岳の槍が峯が見えてきました。

大沼国定公園には、千の風になって 誕生の地だそうです。

新井満さんは、友人の勧めで大沼公園に別荘を購入、夏・秋には家族で大沼を訪れ、大沼は静かだから気に入っている「大沼の森の中を自由自在に吹き渡る風を思い出して

作者不詳の英詩『A THOUSAND WINDS』を作詞作曲の新井満氏が日本語訳し曲をつけたもの。

新井氏は平成15年(2003) に写真詩集『千の風になって』を発表し、自らが歌った同名のCDを発表したのがこの曲の世に出た最初で、その後数人の歌手が カバー曲として歌った。

特に平成18年(2006) のNHK紅白歌合戦で秋川雅史氏が歌ったことで俄然注目され、CDの売り上げは100万枚を超えたといわれています。

新井満 千の風になって Bing 動画

 

大沼から約30分で洞爺湖サイロ展望台へ

 

 

段々と視界が良くなってきました。

  

今日の宿は、洞爺湖温泉です。

 

(つづく)

 

 


冬の北海道温泉三昧(定山渓温泉・湯の川温泉・洞爺湖温泉)その2

2024-12-17 17:58:16 | 旅行

その1からの続きです。

12/12、今夜のお宿は、定山渓温泉。実は、私、2015年6月にここ定山渓温泉に来ています。

その時のブログがこちらです。初めての北海道「定山渓温泉編」(札幌市) - よっちゃんのおててつないで

あの時は、札幌中島公園からレンタカーを借り、定山渓温泉に向かいました。今回は、日没後でまた、雪でしたのでどこを走っているのかまったくわかりません。

札幌から約40分で定山渓温泉へ到着。すぐお風呂に入ります。やっぱり温泉っていいですね。長く浸かっていたかったのですが、夕食の時間が迫っていますのでカラスの行水とはいきませんが、

夕食の時間に間に合いました。

 12/13 起きてみると、定山渓温泉も一面雪景色です。9年前泊った宿も部屋から見れました。

 

 

朝食を終え、8:00 小樽へ出発。約1時間で小樽に到着しました。

小樽も雪です。

 

 

記念写真

 

小樽の地名は、アイヌ語の「オタルナイ」(砂の中の川という意味)が由来です。運河の近くには、「小樽のひとよ」「小樽運河」「おれの小樽」など小樽がタイトルになった歌碑が

あったのですが、雪道に慣れてないので探そうという気が起こりません。ただ皆さんの近くを歩くだけです。

小樽は、

 

旧北海道拓殖銀行小樽支店には、「似鳥美術館」がありますが、開館が10:00からです。※家具大手ニトリホールディング

 

 

  

小樽から虻田郡留寿都(るすつ)村の「わかさいも」で昼食。留寿都とは、アイヌ語で道が山の麓にあるという意味だそうです。

昼食後、京極町へ。このあたりは、豪雪地帯で廻りは大雪です。

 

京極町は、羊蹄山(ようていざん)の麓にある町で、本来なら羊蹄山が近くに見えるのですが、この大雪で山は隠れています。

「名水の郷きょうごく」は、蝦夷富士「羊蹄山」に降った雨や雪解け水が濾過され、地中のミネラルを加えながら数十年の長い時間を経て流れ出る恵みの湧水。「

京極のふきだし湧水」は国内最大級のもので、1日の湧水量は8万トン、30万人の生活水に匹敵する。1985年、環境庁の「名水百選」にも選ばれ、この自然が与えてくれた、おいしい水を

求めて訪れる人が絶えません。

 

京極町から函館市に向かいます。

まだ5時を少し過ぎた頃ですが、函館は、夕やみに包まれています。

函館山ロープウェイは、インバウンドの方が多く、乗るのに30分以上かかっています。

30分待ちやっと頂上へ。函館の夜景は、初めてでしたけど綺麗ですね。

この夜景のどこかにハートマークがあるらしいのですが、見つけられませんでした。

 

花火も上がっていました。

 

函館山から市内中心部に向かいます。函館でも「はこだてクリスマスファンタジー」が開催されています。

 

 

 

 

 

19:00 今日の宿湯の川温泉に到着。 (つづく)

 

 

 

 


冬の北海道温泉三昧「定山渓温泉・湯の川温泉・洞爺湖温泉)その1

2024-12-16 17:35:23 | 旅行

私、北海道には、ウォーキングで過去5回ほど訪れていますが、冬の北海道を旅したことがありません。

たまたま新聞に「北海道温泉三昧」旅行会社のツアーがありましたので申込し、12/12~12/15まで冬の北海道を旅してきました。

12/12福岡空港10:10発新千歳空港着12:30。

到着後、団体のバスで日本ハムファイターズの本拠地「北海道ボールパークエスコンフィールド」へ。

一面雪景色です。こんな雪景色をみたのは、15年前雲仙に行った時ぐらいです。

エスコンフィールドは、昨年(2023年)春、福岡ドームに次ぎ、日本2番目の開閉式ドーム球場として開業しました。

 

約40分でエスコンフィールドに到着しました。シューズに滑り止めを付け雪道を歩きます。

北海道の雪は、パウダー状ですのでサラサラしています。それでも雪道は慣れていないのでゆっくりゆっくり歩きます。

 

コカ・コーラゲートより中へ

今日は平日で野球もなく、空いている店舗も少なかったが、なかなか面白い店もありました。また、通路が広く造られておりゆっくり歩けます。

  

「しゃけまる」は、球団のマスコットキャラクター。鮭は、母川に帰る習性があるので、鮭のように選手が塁に出たらホームに還ってくることを祈って誕生したそうです。

日ハムがチャンスの時にこれを振って応援するそうです。

  

いつか、エスコンフィールドで福岡ソフトバンクホークスが対戦するときに応援に来たいですね。(勿論ホークスの応援です)

エスコンフィールドから札幌市中心部へ。北海道は、夕暮れが早いです。まだ4時過ぎなのにもう薄暗くなっていました。福岡と比べ1時間半ぐらい違うかな?

大通りでは、さっぽろホワイトイルミネーションが午後4時半から行われます。

 

 

気温を見ると、-3度です。あわててフードを被り、手袋をします。ここ数十年マイナスの気温を感じたことがありませんので寒いです。

4時半になりました。イルミネーションの点灯です。

 

大通りのイルミネーションは、1981年(昭和56年)から始まり、今年で44回目だそうです。

福岡でも博多駅・舞鶴公園などでイルミがありますが、私、もう歳なので夜間はめったに外出しません。

イルミ見学も久しぶりです。ホント綺麗です。

 

 

 

 

 

無料で写真を撮ってもらいました。

 

このあと、今日の宿、定山渓温泉に向かいました。 (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


台湾旅行「花蓮」

2024-04-05 16:03:47 | 旅行

台湾の地震の被害はすごいですね。

今回の地震の被害の大きかった「花蓮」には、2011年12月、仕事をリタイアした記念に行きました。

その時のブログです。

台湾旅行(その7)花蓮太魯閣渓谷へ - よっちゃんのおててつないで (goo.ne.jp)

明日にでも役所に行って少額ですが、台湾地震の復興のため寄付したいと思います。


世界文化遺産軍艦島(端島)に上陸(長崎市)

2022-08-06 15:31:53 | 旅行

8/4(木)旅行会社の日帰りツアーで長崎軍艦島(端島炭鉱)に行きました。

軍艦島(端島)は、長崎半島(野母半島)から西へ約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18kmの沖合に位置します。

軍艦島(端島)は、南北に約480ん、東西に約160m、周囲約1,200m、面積65,000㎡という小さな海底炭鉱の島で岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に

似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。

炭鉱閉山後、長い眠りについていた「端島炭鉱」ですが、2015年(平成27)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に

登録されました。(長崎さるくより)

 

午後2時長崎港元船桟橋から出港。乗客の方は約100人ぐらい。

昨日(8/3)まで先月末の台風の影響で上陸禁止でしたが、今日から上陸できるようになりました。但し、1.風速5メートルを超える場合、2.波の高さが0.5メートルを超える場合
3.現場海域の視界距離が500メートル以下の場合は上陸が禁止となります。

クルーズ船は、三菱重工長崎造船所を通っていきます。長崎造船所でも世界遺産のものがあります。その一つがジャイアント・カンチレバークレーン。

高さ62m、アームの長さ75mで今でも現役です。

 

伊王島は昭和40年代まで炭鉱で栄え活気に満ちていたしたが、時代とともに石炭の需要が減り炭鉱は閉山、人口も激減し衰退の一途を辿ってきました。

平成の時代になり海水浴場やホテルなど観光化が進められるようになりました。

 

30分ほどで「高島」に到着。

高島の石炭の発見・採炭の始まりは、18世紀初めころとされています。記録では、天明7年(1787)深堀鍋島家が高島炭の長崎での販売を許可しており、この頃には、すでに高島での

採炭が事業として成立していたことがわかります。江戸時代の高島における最短の方法は、「たぬき堀り」と呼ばれる石炭の露頭部から炭層に沿って掘り進んでいく原始的な方法でしたが、

慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との間で高島炭鉱共同経営契約が成立し蒸気機関を使った国内初の立坑(北渓井坑)を開坑し、採炭を行いました。

明治14年(1881年)土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始されました。

以来近郊伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けました。

その後、国の石炭政策の変更等により、1986年(昭和61)11月閉山しました。

島に入ると、三菱財閥創始者「岩崎弥太郎」の像が島全体を見渡しています。

  

高島石炭資料館に入ります。ここには、高島炭鉱の支山であった端島(軍艦島)の概要を説明しています。

 

高島町へは、長崎港から連絡船が一日に8便出港しています。(高島港からも8便)

 

15:05高島を出港。南西方向に「軍艦島(端島)」が見えてきました。クルーズ船は、ここから軍艦島を周回します。

遠くから見ると、軍艦に見えます。

軍艦島(端島)では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始されました。

出炭量が増加するにつれ、人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正6)には、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約5300人もの

人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。

エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで出炭量も人口も徐々に減少し、1974年(昭和49)1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。

 

 

 

 

 

 

軍艦島(端島)に上陸します。上陸の際には、日傘を含む傘が禁止になっています。(雨の日は、カッパを着るそうです)

 

 

見学する場所は、限られており、下記の赤い印の所です。

 

 

 

 

30号棟の前で説明を聞きます。

 

1916年(大正5)に建てられた30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートと言われています。

鉱員住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。31号棟鉱員住宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店も

設置されていました。

30号棟は、崩壊が進んでおり、昨年11月の診断では、あと半年ぐらいで崩壊するとのことです。パンフの写真と比較するとだいぶん崩壊が進んでいますね。

 

島での生活

軍艦島(端島)では、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていましたが、木々を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を

運び、花や野菜を育てていました。これが日本初の屋上庭園だったといわれています。

電気や水道の確保は島では切実な問題でした。電気は当初、島の自家発電で供給されていましたが、人口の増加などに伴い、電力不足となったため、1918年(大正7)に高島から海底ケーブルが

敷かれ、送電されるようになりました。

飲料水も当初は海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数か所の共同水栓から配給されるようになりました。

風呂の水は、海水を沸かしたもので上がり湯だけしか真水を利用できませんでした。1957年(昭和32)には対岸の三和町から6500mもの海底送水管が敷かれ、送水されるようになりました。

これにより、軍艦島(端島)での給水制限はなくなりましたが、高級職員用のアパートであった3号棟以外のアパートには、室内風呂は設置されず、公衆浴場が利用されていました。

昭和30年代からプロパンガスが利用されましたが、それまでは、かまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。

   

  

  

30棟での説明が終わり、クルーズ船に戻ります。

 

  

軍艦島から約40分で長崎港に戻りました。

短い滞在でしたが、昔の炭鉱での生活が少しではありますが、わかったような気がします。

この遺産後世にも長く残したいものです。

文中の説明文は、「長崎さるく軍艦島」から引用しました。

 

 

 


田沢湖へ(秋田県仙北市)

2017-10-04 18:14:19 | 旅行

9/29(金)

9/30~10/1に行われる「瑠璃色ロマン神秘第19回田沢湖ツーデーマーチ」に参加するため、秋田県仙北市に行ってきました。

福岡から秋田へは飛行機の直行便がなく、福岡から羽田まで飛行機、東京駅から秋田新幹線で田沢湖に入りました。

朝、福岡は、快晴でしたが、田沢湖は小雨が降っていました。この雨、明日も続くそうです。日本列島も長いですね。

田沢湖駅前にある田沢湖市の中を見学すると「月の輪熊の缶詰」が売られていました。

  

  

田沢湖駅でレンタカーを借り、事前受付が行われている「田沢湖レストハウス」に向かいました。

田沢湖では、もう木々が紅くなりかけています。

 

 田沢湖は、秋田県の中東部に位置する。直径は約6kmの円形、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である

(世界で最も深い湖はバイカル湖)。湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。

そして、深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。(ウィキペディアより)

  

今日は、雨のためか、瑠璃色の田沢湖が見れませんでした。

田沢湖レストハウスには、秋田犬、比内鶏がいます。

   

また、田沢湖のシンボル「辰子姫」を祀っ「辰子姫明神」もあります。

 

雨も止みましたので、このあとレンタカーで「秋田駒ヶ岳」の方に向かいます。

秋田駒ヶ岳は、十和田八幡平国立公園の南端にある秋田県第一の高峰である(最高地点は鳥海山山腹)。山頂部には北東-南西方向に2つのカルデラが並び、

本峰の男岳(おだけ、1,623m)や火口丘の女岳(めだけ、1,512m)、寄生火山の男女岳(おなめだけ、女目岳とも書く、1,637m)からなる。

各地の駒ヶ岳と区別するために秋田駒ヶ岳と呼ばれ、地元では「秋田駒(あきたこま)」とも呼ばれる。昔は女人禁制の信仰の山であった。(ウィキペディアより)

秋田駒ヶ岳は、土曜、日曜、祭日には、マイカー規制が行われており、(バスが運行)この日には、マイカーで行くことはできません。今日は、金曜日ですので車で行けます。

 

狭い登山道を登っていくと廻りの木立が色づき始めています。

  

秋田駒ヶ岳8合目に着きました。周りは、ガスが出て何にも見えません。散策道を歩きたかったけどこれでは無理ですね。天気のいい日でしたら鳥海山も見えるのですが・・・・・

   

今回、田沢湖ツーデーマーチの宿舎は、休暇村乳頭温泉です。ここの横のブナの森がきれいでしたので夕食までの間、散歩してみることにしました。

 

ブナの森は、上の方が少し黄色くなりかけています。10月半ばになるとこのようになるそうです。(休暇村HPより抜粋)

   

歩いていると温泉の硫黄の匂いがしてきました。

  

  

途中、「熊出没注意」の看板が立っていましたので休暇村周辺の散策だけにしました。

乳頭温泉のお湯は、乳色で硫黄の香りが漂っていました。(写真は、休暇村HPより抜粋)

気持ちのいいお湯でした。

 

 

 

 

 

 


酒田さんぽ「山居倉庫」(山形県酒田市)

2017-09-06 15:38:17 | 旅行

9/1(金) 山形県遊佐(ゆざ)町で行われる「第25回奥の細道鳥海山ツーデーマーチ」に参加するため、山形県酒田市に行ってきました。

福岡から山形には飛行機の直行便がなく、福岡空港から新潟空港へ行き、新潟から羽越本線で酒田に入るルートです。

    

2年ぐらい前、新潟・長岡に行ったとき初めて食べた「へぎそば」の味が忘れられなく、新潟駅で「へぎそば」をいただきました。

へぎそばとは、新潟県魚沼地方発祥のつなぎに布海苔という海藻を使った蕎麦をヘギといわれる器に盛り付けた切そばです。

    

新潟駅からは、12:33発「いなほ5号」で酒田に向かいました。(ウオーキング大会は、遊佐町で行われますが、ホテルは、酒田に予約していて、また、「山居倉庫」にもいってみたいので)

新潟・山形県境を超えるあたりから、電車は、日本海沿いを走ります。この海岸線を見ようと思ってましたが、いつの間にか眠ってしまいました。

電車は約2時間で酒田駅に到着。酒田駅の裏には、「鳥海山」が見えます。

   

     

酒田市は、 江戸時代、大阪と蝦夷地(現在の北海道)を結び、米やニシンなどを各地に運んだ北前船。酒田では「ベザイ船(べざいせん)」と呼ばれたこの回船は、中継港となった酒田に大きな繁栄をもたらしました。

酒田の湊は、蝦夷や上方に向かう北前船だけでなく、最上川を行き来する川船も多数集まり、大きな賑わいをみせ「西の堺、東の酒田」と言われるほどの賑わいだったといいます。

このように各地との交易が盛んだった酒田。「~さけ(接続詞)」という酒田の方言は、大阪の方言「~やさかい」に由来するといわれるなど、日本各地の言葉が方言として使われており、

方言からも各地との交流の濃さを感じられます。  (酒田市観光案内より)

マンホールにも千石船が描かれていました。

        

酒田で一番行きたかった所は、「山居(さんきょ)倉庫」。

酒田駅から山居倉庫までは、約2km。ホテルでバス路線を聞きましたが、1時間に1本ぐらいしかないそうで、私たちもウオーカーの端くれ。山居倉庫まで歩くことにしました。

山居倉庫は、米どころ庄内のシンボル、山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられた米保管倉庫です。

米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。

白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、

自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も農業倉庫として使用されています。敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設されています。(酒田市観光HPより)

※写真家の土門拳さんの土門家は、代々この地で染物業を営んでいました。

   

  

強風や直射日光を避けるために植えられたケヤキ。現在は41本残っているそうです。

  

山居倉庫には、庄内米歴史資料館があります。入場料を払い中に入ります。

  

   

 

  

昭和58年(1983)のNHK朝ドラは、「おしん」でした。

おしんは、少女時代酒田の米問屋「加賀屋」に奉公に上がります。テレビでは、山居倉庫も映っていました。少女時代を演じた小林綾子さんの演技がよかったですね。

  

  

  

小鵜飼舟」・・・・・・・荷物を積んで最上川を上り下りする船には、ひらた船と小鵜飼舟の2種類がありました。どちらも舵は無く、櫂や帆で進み、急流を上る時には網で挽きました。

多く利用されたのは建造費の安かった小鵜飼舟です。3人乗りで、長さが15m、幅が1.7m。一度に30~50俵(2~3t)ものお米を運ぶことができました。

江戸時代には左沢より上流でしか使用できませんでしたが、明治時代になって制限がなくなると、下流でも小鵜飼舟が多く利用されるようになりました。

  

酒田市のゆるキャラは、黒獅子の「もしぇのん」と赤獅子の「あののん」です。

     

山居倉庫から駅に戻ります。途中、「本間家旧本家」という看板を見つけましたのでそちらに向かいます。

本間家旧本家の前で写真を撮っておられる方がいらっしゃいました。どこかで見たことのある方なんですが・・・・・・

埼玉の歩友Iさんの奥様の「お龍さん」でした。(写真左の方に写っています)

本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された豪商。

「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇りました。

本間家には、初代・原光(もとみつ) 以来、「弱者救済」、「地域貢献」の精神が受け継がれていました。特に三代目・ 光丘(みつおか)は、千石船(せんごくぶね) による商いを始める一方で、

農業振興のための土地改良や、長年にわたる海沿いの飛砂の害から人々を守るための砂防林の植林に心血を注いでいます。また、藩主のために建てた別荘や庭園には、

本間家の家族ですら立ち入らせなかったことや、庭園の造成は農民の仕事を確保するため行ったものであることなど、控え目で、常に地域の人々のことを考えていた姿が伝えられています。

地域と共に歩み発展に尽くした本間家は、現在でもその業績をたたえられており、酒田市には、松林や寄進した寺社仏閣など、本間家ゆかりの場所が数多く存在します。(山形県HPより)

酒田市には、本間家旧邸の他にも「本間美術館」もあります。残念ながらもう閉店時間を過ぎており、邸内には入ることができませんでした。

  

時間は、6時半を過ぎています。酒田でおいしいものをと探していると、タクシーの運転手の方から、紹介してもらったのが「さわぐち」。

高級料亭とはいきませんが、おいしい料理をリーズナブルな料金で食べさせてくれました。

酒田の地酒「初孫大吟醸」は、辛口でしたが、おいしくてお酒がどんどん進みます。明日は、ウオーキング大会、ある程度セーブしていただきました。

   

明日は、酒田発6時33分の電車でウオーキング会場の遊佐(ゆざ)町に行きます。今夜は早く寝ます。

 


本部(本部)リゾートホテルへ(沖縄県国頭郡)

2016-12-18 16:01:15 | 旅行

12/11 名護やんばるツーデーマーチゴール後、下関・Mさんご夫妻と合流するため、本部のリゾートホテルに向かいました。

Mさんご夫妻とは、翌日ご一緒に「美ら海水族館」へ行くことになっています。

21世紀森公園から国道429号線を北上。

途中コンビニでお金を引き出したところ、2千円札が出てきました。もうここ数年見かけませんが、沖縄ではまだ出回っていたのですね。

2千円札は、2000年の沖縄サミットの時に発行されました。沖縄首里城の守礼門がデザインされています。

 

本部(もとぶ)港では、伊江島行のフェリーが停泊していました。また、この少し先の渡久地港では、水納(みーな)島行の船が出ています。

  

明日行く美ら海水族館を通りすぎると今夜の宿の「オリオンモトブリゾートホテル」です。部屋は最上階ですのでここからのロケーションは最高です。

  

  

夕方Mさんご夫婦と合流し、ホテル1階のレストランで食事します。

 

   

  

  

30度の泡盛もいただきすっかり酔ってしまいました。明日は、美ら海水族館に行きます。

下の写真は、早朝3時ごろ月の明かりが綺麗でしたので撮ってみました。

 

 

 

 

 

 


沖縄 「今帰仁城跡」

2016-12-15 10:19:19 | 旅行

12/9(金)

12/10~11の名護やんぱるツーデーマーチ参加の為福岡空港から沖縄へ向かいました。

福岡を飛び立つときは、雨模様でしたが、沖縄に近づくにつれ晴れてきて上空から沖縄の地形が見えてきました。海の色がとっても綺麗です。

約2時間のフライトで沖縄・那覇空港に到着。那覇の気温は22度。

    

那覇空港からレンタカーを借り、ウオーキング会場の名護市へ沖縄自動車道を通り向かいます。沖縄は他県ナンバーの車はほとんどなく、レンタカーが非常に多いです。

約50分で許田(きょだ)IC下車。道の駅許田がありましたのでここで「沖縄そば」「ソーキそば」をいただきます。

沖縄そばとソーキそばの違いは、トッピングの違いです。沖縄そばは、上にかまぼこや豚の三枚肉をトッピング。対しましてソーキそばは、ブタのスペアリブがトッピングされています。

また、そばといってもそば粉から作るのではなく小麦粉からです。うどんと同じですね。味は、出汁も良く(なんでとっているのかな?)美味しかったです。

  

明日からの大会に備え、今日13時から事前受付が行われます。

会場の屋内体育館の前には、「トックリキワタ」の花が向かえてくれます。見ていると桜が咲いたように見えます。

  

受付後、沖縄最初の観光として世界遺産の「今帰仁(なきじん)城跡」に行きます。途中の嵐山展望台からの光景です。素晴らしいですね。

明日のウオーキングでは、ワルミ大橋、古宇利大橋を歩いて渡ります。

 

古宇利島には、「沖縄版アダムとイブ」の神話があるそうです。 

昔、古宇利島に空から男女二人の子供が降ってきた。彼らは全くの裸であり毎日天から落ちる餅を食べて幸福に暮らしていた。最初はそれに疑問を抱かなかったがある日餅が降らなくなったらどうしようという

疑念を起こし、毎日少しずつ食べ残すようになった。ところが二人が貯えを始めたときから餅は降らなくなった。二人は天の月に向かい声を嗄らして歌ったが餅が二度と降ってくることはなかった。

そこで二人は浜で生活するようになり、魚や貝を捕って生活と労働の苦しみを知り、ジュゴンの交尾を見て男女の違いを意識し恥部をクバの葉で隠すようになった。

この二人の子孫が増え琉球人の祖となった、と云う神話である。(ウィキペディアより)

 

今帰仁城跡に着きました。今帰仁城跡は、2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の中の一つとして世界遺産に登録されました。(注:グスクとは、本土でいう「城」です)

 

  

今帰仁城跡は、14世紀琉球王国成立以前に存在した北山の国王北山王の居城でした。北山は、尚巴志に1416年滅ぼされますが、滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、

北山監守が派遣されました。1609年薩摩藩による琉球侵略の際、その攻撃の第一目標にもなりました。

   

   

 

  

  

 

沖縄本島やその周辺離島には、420か所ものグスク(城)があるそうです。今帰仁城跡などの大型のグスクとともに豪族の屋敷規模も含まれるそうです。

沖縄の城は、東南アジア、中国、日本、琉球の文化を取り入れて、独自の文化を創っていました。

今帰仁城跡を出ると、サトウキビがたくさん積まれています。サトウキビは、戦後間もなく福岡でも栽培されていました。5歳ぐらいの頃、サトウキビをおやつ代わりに食べた記憶があります。

今帰仁村歴史文化センターがあります。ここでは、今帰仁村の歴史が展示されています。残念ながら館内は撮影禁止でした。

  

今夜の宿泊地は、ウオーキング会場から近くのホテルです。ホテルの目の前は、名護球場です。プロ野球日本ハムが春のキャンプに使っています。

このホテルが日ハムの宿泊ホテルになっていて、フロントには、日ハムナインの色紙などが飾られています。

大谷選手人気でファンの方もたくさん来られるでしょうね。

  

さて、今夜の夕食は、ホテルの方から聞いた「ゆきの」。沖縄料理もありました。

先ずは、沖縄の地ビール「オリオンビール」。

  

海ブドウ、島らっきょは初めての食感です。それと本場の「ゴーヤチャンプル」。