よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

青春18きっぷを使って宮島「あなご飯」

2016-07-22 17:36:25 | 食いしん坊

先週の「ケンミンショー」で宮島の「あなご飯」が紹介されましたので、青春18きっぷを使って宮島まで行ってきました。

 

  博多駅発 6:00 ~ 小倉着   7:29

  小倉発   7:36 ~  下関着  7:51

  下関発   8:12 ~  新山口着 9:22

  新山口発  9:47 ~ 岩国着  11:49

  岩国発   11:56 ~ 宮島口着 12:19

博多駅から乗換4回、約6時間で宮島口駅到着。

  

宮島口駅前にある「うえの」に寄って「あなご飯」を食べて宮島に行こうかと店内に入りましたが、約1時間待ちだそうで、予約して先に宮島に行きました。

  

 

  

約30分ぐらい宮島を散策し、またフェリーで宮島口へ。

   

「うえの」では、古民家を喫茶店に改修し、そこでお弁当を食べることができます。出来上がったあなご飯を持ってその喫茶店へ。

この喫茶店は、結構落ち着いた雰囲気でコーヒーも美味しかった。

さて、2年ぶりにいただく「あなご飯」です。

  

ご飯の中まで味がしみていて美味しかった・・・・・・  

食べ終わり、14:49発の電車で、また来たコースで帰りました。博多到着は、20:41。

正味12時間電車に乗っていたことになります。正規の運賃は、片道、博多から宮島まで5080円(フェリー代込)。

それが、一日2360円で行けますのでありがたい切符です。座りっぱなしでしたので少々お尻が痛いですが・・・・・・(笑)

残りは、次回日光に行くときに使おうと思っています。

  

 

 

 

 

 

 

 

 


愛宕神社~百道(ももち)をウオーキング(福岡市西区~早良区)

2016-07-20 19:33:43 | ウォーキング

7/16は福岡ウオーキング協会主催の「愛宕神社~百道(ももち)」10kmに参加しました。

9:30地下鉄姪浜駅出発。

先ずは、日本三大愛宕の一つ、「鷲尾愛宕神社」に行きます。

    

最後の階段を登ります。

愛宕神社は、江戸時代福岡藩二代藩主黒田忠之が黒田騒動を愛宕神社に霊験により乗り切ったことに感謝して、寛永11年(1634年)、京都の愛宕山白雲寺(現在の愛宕神社)より

愛宕権現(伊耶那美尊・火産霊神)を勧請し、鷲尾権現のある鷲尾山に祀り、20余石4人扶持、山林1万坪、預かり山4万坪の社領が藩より奉祀されたという。

これにより鷲尾権現は愛宕権現の境内末社とされた。ともに真言宗円満寺によって管理され、宝暦年間(1751年 - 1764年)には東林寺も廃止された。山自体も愛宕山と呼ばれるようになった。

明治34年(1901年)9月27日、「鷲尾神社は末社となすべき神社にあらざる」を以って両社を合併して鷲尾愛宕神社とした。大正2年(1913年)3月19日に村社に定められ、

昭和6年(1931年)7月10日には郷社となる。戦後は神社本庁の別表神社に加列した。現在でも火徳の神、願掛け(断事)の神として遠近の参詣多く、正月3ヶ日には70万人もの参拝があるなど、

福岡県内随一の参拝者数の神社である。(ウィキペディアより)

 

  

本殿前では、茅の輪くぐりがありました。茅の輪くぐりは、まず、一礼し、左から8の字を書くように3回廻ります。

  

境内では、ほおずき祭りも行われていました。

カラタチには、実がなっています。※カラタチの実は、食べられません。

  

愛宕神社からの眺望です。

愛宕神社を下り、百道に向かいます。

  

まだ梅雨明けはしていませんが、人工海浜には、泳いでいる方もいました。(福岡地方7/18梅雨明け)

ゴールは。大濠公園能楽堂。

さて、お昼も近かったので、近くにパスタの有名店がありましたのでそこでランチをすることにします。

店の前に着くと、もう30人ぐらいの人が並んでいます。旅行バックを持った方もいらっしゃいましたので遠方からの人でしょうか???

約1時間待って店内へ。ここは、ソフトバンク王会長など野球関係者も来られるそうで壁面には、元ホークス「ムネリン」こと川崎選手のジャパンのユニフォームも展示されていました。

注文したのは、「アスパラ、オクラ、ベーコンのパスタ」です。

値段は、少々高めでしたが、美味しくいただきました。並ばなくてよかったらまた来たいですね。

   


東海道脇街道「佐屋街道」へ その1(桑名市~愛知県弥富市)

2016-07-14 19:12:23 | 佐屋街道

東海道を桑名宿まで歩きましたが、江戸時代、七里の渡しから船を使って名古屋の宮宿まで行っていました。

然し、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もありました。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、

七里の渡しの迂回路として盛んに利用されたのが、この佐屋街道です。

佐屋街道(佐屋路)は、尾張初代藩主である徳川義直が開いた道だといわれています。宮宿から佐屋宿まで陸路で6里(約24km)を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれ、

宮から桑名まで9里(36km)あり、七里の渡しよりも2里(8km)ほど長くなりました。宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかありませんでした。

折角東海道を歩いているのですので、私達もこの佐屋街道を歩いて宮宿へ行きたいと思います。

 

6/25 七里の渡しを12:30に出発。

揖斐川の堤防の所に「住吉神社」があります。

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。

住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されました。

神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。なお、近年は太一丸堤の上にあった神明社が合祀されています。

ここから、伊勢大橋・多度山方面の眺めは水郷桑名ならではの趣があり、水郷巡りの発着点として利用されています。(桑名市観光HPより)

また、初日の出は、鳥居の下からおがめるということで人気スポットです。

 

  

木曽三川公園に来ました。このあたりは、揖斐川、長良川、木曽川が合流し伊勢湾に流れる所です。

公園事務所では、「桑名の折鶴」が展示されていました。一枚の紙でたくさんの折鶴を折ることは、前回のNHK朝ドラ「あさが来た」で風吹じゅんさんが折っていましたね。

  

公園事務所から紹介され公園の向かい側にある「六華苑」に行きました。

  

六華苑」(旧諸戸清六邸)は、山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913)に竣工しました。特にその洋館部分は、鹿鳴館などを設計し、

「日本近代建築の父」と呼ばれた、ジョサイア・コンドルが手がけ、地方に唯一残る作品として注目されています。揖斐・長良川を望む約1800㎡余の広大な敷地に、洋館と和館、蔵などの

建造物群と「池泉回遊式」日本庭園で構成されたこの邸宅は、創建時の姿をほぼそのままにとどめている貴重な遺構です。桑名市は、平成3年に土地を取得し、建物は諸戸家からの

寄贈を受け、整備工事の後、平成5年に「六華苑」という名称で一般公開しました。その構造物のうち、洋館及び和館は、平成9年に国の重要文化財に指定され、他に6棟が、

三重県有形文化財、離れ屋は桑名市の有形文化財に指定され、大切に保存されています。また、庭園は一部を除き平成13年に国の名勝に指定されました。(六華苑パンフより)

諸戸家は戦国時代、一向宗門徒として織田信長に抗した丹羽定直に発するといわれています。定直は織田軍との戦闘の際、城中の戸坂を集め、これによって矢や石を防ぎつつ

縦横無尽の働きをしたため、証意上人より「諸戸」の姓と違鷹の羽紋とを賜わり、これが諸戸家の始まりとされています。一向宗徒が信長によって駆逐された後は郷里の

西外面村(現三重県長島町)で、後には自ら開墾した加路戸新田(現三重県木曽岬町)で代々庄屋を勤め、幕末に至りました。

しかし、その諸戸家も江戸時代末期の清九郎の代に塩の売買が不調に終わり、2000両もの負債を抱えてしまいます。そのような時期、清九郎の長子として

弘化3年(1846年)正月に生まれた清六は、一家で移住した桑名で、父の死後文久3年(1863年)18歳の頃から資金80両をもって米穀業を営み、わずか3年で負債を完済しました。

明治維新の後も新政府高官の知遇を得、また西南の役や米相場で利潤を上げるなど30万円を蓄財、明治19年には海防費2万円を政府に献上し、翌年には特旨をもって

従6位に叙せられました。また一方で田畑、山林を購入、経営し、日本一の大地主となりました。

 その当時まで桑名は、東海道の宿場町として、また海運を利用して米を伊勢神宮や大阪、関東へ輸送するための港湾、商業都市として栄えていました。清六はこの地の利を生かし、

時流にもうまく乗ったのです。

清六は晩年の明治37年、桑名の飲料水不良を解消するため15万円を投じ、独力で小野山に貯水池(煉瓦造、市指定文化財)を設け、上水道を完成させ、これを無料で町民に開放しました。

清六の死後、水道設備は遺志により桑名町に寄附されました。(桑名市HPより)

桑名の民謡で「桑名の殿様」というのがありますが、(ここでいう殿様とは、大旦那衆のこと)このモデルになった方でしょうか?????

 

 

 

六華苑を後に再び街道歩きへ出発。

 

伊勢大橋の袂には、木曽川下流三川事務所(揖斐川、長良川、木曽川)があります。

伊勢大橋は、昭和9年(1934)に完成、全長1105,8m。橋の途中で揖斐川と長良川に分かれます。

  

  

伊勢大橋を渡ると長島町です。今は、桑名市に合併していますが、合併前は、桑名郡長島町でした。

右側に「富士山」が見えます。何だろうと思って調べると、なばなの里「アイランド富士」です。

  

長島町に入りました。長島町は、木曽三川の河口部に位置し、長島温泉やなばなの里で有名です。

又木茶屋」は、郷土の画家佐藤昌胤画伯の生前の屋敷を長島町が譲り受け、情報交流施設として完成した又木茶屋。敷地内には画伯の愛した多種の椿や、

旧長島城の庭園の石で組んだ枯れ山水の庭園が整備され、立ち寄った人の目を楽しませています。施設内には画伯のギャラリー、道路案内、まちの特産やまちの人が

作成した手工芸品を紹介・販売しているほか、交流のひろばや庭園で抹茶をいただくことができ、憩いの場としても利用されています

   

歩いていると「伊勢湾台風の時の水位」がありました。概算で7~8mぐらいあるでしょうか?

伊勢湾台風は私が小学生低学年の時でしたが、この台風は、覚えています。

   

「尾張大橋」が見えてきました。この橋の中間部から愛知県になります。

尾張大橋は、木曽川に架かり、全長878,8m。昭和8年に完成しました。

  

橋を渡ると愛知県弥富市です。

  

今日は、名古屋発17時ぐらいの新幹線で帰る予定ですので、今回はここまでとします。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№15(朝日~桑名宿)三重郡朝日町~桑名市

2016-07-13 17:45:54 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/25 午前7:40 四日市のホテルを出発し前日のゴールJR朝日駅に向かいます。朝日駅8:15到着。

天気は、曇っていますが、雨は大丈夫みたいです。

朝日町は、天武天皇が壬申の乱の際、付近で朝日を拝んだということから町名になりました。

    

朝日町にも大きな寺院があります。

 

 浄土宗本願寺派の寺院浄泉坊。徳川家にゆかりのある桑名藩士の奥方の菩提寺になって いたこともあり、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。

参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられています。

   

  

橘 守部(もりべ)(1781~1849)生誕地の碑があります。

守部は、江戸時代の国学者です。国学とは、古典を研究することにより、日本固有の生活や精神を理解しようとする学問で、その代表として、松阪の本居宣長がよく知られています。

守部は、天明元年(1781)小向に生まれました。守部の父飯田長十郎元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者、谷川士清の門人であったといわれています。

17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志すという、当時としては晩学でした。その後、武州幸手(現在の埼玉県幸手市)に居を移し学問に励み、

49歳の時、再び江戸に戻りました。当時の国学界が本居宣長を中心とした学説が主流であったのに対し、守部は宣長の学説を批判し、古事記よりも日本書紀を重んじるという

独自の学説を展開しました。 『稜威道別』『稜威言別』など多数の著作があり、その業績は、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられています。

すぐ近くの「小向(おぶけ)神社」には、この橘 守部が祀られています。

    

朝日町役場の横に「朝日町資料館というのがあるので見学していこうかと思いましたが、開館が10時からでまだ開いてなくパスしました。建物は大正年間の建築です。

  

江戸時代、東海道小向・柿、富田村周辺には茶店が並び、焼蛤が提供さ れていました。この焼蛤は浮世絵などの出版物をとおして「桑名=焼きはまぐり」として広く知られるようになりました。

ことわざで「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があります。「うまいこといってもだまされない、その手は食わない」という意味ですが、朝日町は江戸時代に大部分が桑名藩に属し、

縄生(なお)村(現朝日町縄生)から富田村(現四日市市富田)にかけて、東海道沿いの茶店や酒屋で旅人に提供されていました。ベストセラーになった十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも、

縄生(なお)村で女性がハマグリを焼く挿絵が掲載されています。

  

近鉄名古屋線の踏切を越えると、右側に「縄生(なお)の一里塚」があります。江戸から97里。

   

員弁川にかかる「町屋橋」です。この川を渡ると「桑名市」に入ります。江戸時代には、中州を利用して2つの木橋が架かっていたそうです。

   

町屋橋を渡ると「桑名市」に入ります。桑名市は、人口約14万人。

町屋橋北詰には、伊勢両宮常夜燈があります。この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の道標として、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名。岐阜の材木商によって寄進されました。 

  

「安永餅」は、つぶ餡(あん)の入った細長く平らな焼餅で、四日市の「なが餅」に似ている所があります。江戸時代は、こういった餅が街道周辺で売られていたのでしょう。

  

城南神社」:由緒を見ると、当神社は元神明宮にて、第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大御神を永遠におまつり申し上げるべき宮地を求めて、 御神慮のまにまに南勢へ御巡幸されたとき暫時御停座の御旧地と伝承されております。故に古来、神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっております。

   

「江場松原跡」 江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていました。眺望がよく、西には、鈴鹿の山脈が遠望され、東は、伊勢の津が見られました。

昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは、松並木も残っていましたが、現在では、家が建ち並び、一本の松も残っていません。

  

矢田立場  立場とは、宿場と宿場の間にある、旅人が休憩する茶店などが集まっている所です。この近くには、現在でも馬を繋ぎとめた鉄環のある家や、連子格子のある家が見られます。

  

立坂神社:桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けました。もともと矢田八幡社と称していますが、明治以後は式内立坂神社と称しました。

中川梵鐘店は、江戸末期創業の鋳造会社です。全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺、それに故岡本太郎のデザインによる名古屋久国寺の角がたくさん突き出た「歓喜の梵鐘」もここで創られました。

     

一目連神社は、多度大社の別宮として鎮座。御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。

  

天武天皇社は、天武天皇を主祭神として祀る日本で唯一の神社です。

  

桑名は、鋳鉄業が盛んです。現在では、マンホール、格子蓋、グレーチング、ルーフドレン、鋳鉄管などの建築・土木製品がこの桑名で造られています。

慶長六年(1601年)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝公が、 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となりました。「くわな鋳物」は忠勝公からの 鉄砲の製造の命をうけ、

鋳物師の広瀬氏を招き、藩の奨励策のもとで、本格的な、生産が始まったと 言われています。写真は、広瀬鋳物工場跡。

  

日進小学校の所から斜左に入ります。このあたりは、慶長年間の町割りの際、城下の外郭を固めるために計画的に寺院が集められました。

長円寺

桑名の特産品として「桑名の千羽鶴」があります。今から200余年前の寛政9年(1797)に『千羽鶴折形』という本が刊行されました。ここには、一枚の紙から、2羽から最高97羽までの

連続した鶴を作る方法が49種類紹介されています。横に繋ぐだけの簡単なものから、五層に積み上げて折る立体的なものまで、実に驚異的な内容で、当時も話題をさらったらしく、

『千羽鶴折形』は寛政12年(1800)に再販されています。この驚くべき連鶴を考案した魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)は、桑名(現在の三重県桑名市)の長円寺の住職でした。

僧侶がなぜ鶴を?という疑問はありますが、彼は変化に富んだ鶴を考案する決意のもと、18年という歳月をかけてこの折形を完成させています。義道は49種類だけではなく、

もっと多くの種類を考案し、その中の一部を選んで刊行したと思われますが、残念ながら、考案の原本は残されていません。(桑名千羽鶴を広める会より抜粋)

桑名市のマンホールにもこの千羽鶴がデザインされています。

 

   

寿量寺】 江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬りました。

入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔があります。境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」があります。(桑名観光ナビより)

十念寺】 十念寺の創建は天平宝字元年(757)、行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられています。当初は現在の菰野町にありましたが、慶長年間(1596~1615)、

桑名城築城の際、新たに城下町が町割され現在地に移ってきました。十念寺に埋葬されている森陳明は幕末の桑名藩士で幕府側に付いた藩主松平定敬に随行し

函館戦争に参戦しました。函館戦争が終結すると桑名藩が窮地に立たされた為、自らが切腹することで全責任を負い十念寺に葬られました。

墓には松平定敬の書によって「森陳明之墓」と刻み込まれ昭和41年に桑名市指定史跡に指定されています。 (桑名観光ナビより)

  

光徳寺】 浄土宗。古くは泡州崎念仏道場と称していました。明治7年(1874)、進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれました。境内墓地には、桑名船場町の商人で

萬古焼の創始者である沼波弄山(1718~77)の墓、大坂の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、萬古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓があります。(桑名観光ナビより)

 

泡洲崎八幡宮】 本多忠勝が町割りをして城下を整備する以前、このあたりは町屋川の流れで、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の三洲に

分かれていて、この一帯を泡洲崎と称していました。神社の名前はそこから来ています。
   

吉津屋(よつや)通りを過ぎると、京町の信号の所に「石取会館」があります。

  

石取会館内に入ると、「石取祭」に使う祭車が展示されています。

石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に

執り行われています。町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 全国的に見ても単一の神社、一神事でこれほどの山車が一堂に会する祭りは非常に珍しく鉦や太鼓を打ち鳴らし、「日本一やかましい祭り」と言われ、平成19年3月には「桑名石取祭の祭車行事」の名称で、「国指定重要無形民俗文化財」に指定されました。

試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。

本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。

浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、

午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。(石取祭りHPより)

  

  

石取会館を出て左折すると「桑名宿」です。

桑名は、木曽三川の河口部に位置し、古くから港町として栄えてきました。美濃方面から川船で運ばれた物資は、ここで大船に積み替えられ、江戸、大坂方面に送られたことで

この地域屈指の港町・商業都市になりました。江戸日本橋から42番目の宿場町で、江戸時代には、松平氏11万石の城下町でもありました。

江戸時代の資料によると、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠数120、家数2544、人口8848人で旅籠の数は、東海道の中で宮宿に次ぐ2番目の規模だったそうです。

 

歴史をかたる公園」は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。

  

桑名城は徳川四天王のひとり、本多忠勝の居城として知られています。本多氏が姫路城に移ってからは松平氏が桑名藩主を務めました。忠勝の孫である忠刻と徳川家康

孫娘である千姫はこの城で結婚しています。現在は本丸・二之丸一帯を九華公園として整備されており、蟠龍櫓が外観復元されています。他に三之丸の城壁が一部残っており、

市内にある了順寺の山門は桑名城の城門を移築したものと伝えられています。

   

春日神社の銅鳥居: 「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居で、神社境内から東方25mの所、片町通に面して立っている。

寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重が寄進、慶長金250両を費し鋳物師 辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。(桑名宗社HPより))

しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度神社の鳥居の横にもあります。自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしぬるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。

   

桑名神社(春日神社)と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、

「春日さん」の名で親しまれています。前述の「石取祭」は、この春日神社のお祭りです。

   

舟会所」:桑名港は東海道の渡し場であったため、宿駅制度の一つである船会所が設けられ、渡船の手配・旅人の受付を行ないました。また入港船から入港料を徴集していました。

ここは町衆のなか船年寄が責任者となり、数人の職員がいた。また桑名藩の役人が常駐する船番所が設けられていて、渡船を乗り降りする旅人を監視していました。

 

七里の渡し跡: 東海道における唯一の海上路。七里とは、桑名宿と宮宿(名古屋市熱田神宮近く)の距離(約28km)で当時3~4時間かけて渡ったと言われています。

ここは、伊勢国の東入口に当たるため、天明年間(1781~1789)に伊勢国の「一の鳥居」が建てられ、今では、伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられています。

明治になり、東海道制度は廃止されましたが、揖斐(いび)川上流の大垣との間の客船や荷物船の発着場になっていました。

昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事の為、渡船場と道路の間に防波堤が築かれ、景観は変化しましたが、往時の名残を感じることができます。(東海道三重道中案内より)

   

広重の東海道の浮世絵「桑名宿」は、この七里の渡しを描いています。

同じ場所とみられる所をパノラマで写しました。

 

   

  

桑名宿の本陣は、大塚本陣(現 船津屋)、丹羽本陣がありました。

  

時間もお昼近くになってきました。せっかく桑名に来ましたので「蛤料理」を食べてみたいと思います。

このハマグリの味・・・・・・・懐かしいですね。ハマグリ丼は、初めてでした。

  

 

 


2016年 博多山笠飾り山ウオーク

2016-07-10 07:48:10 | ウォーキング

7/09(土)は、ふくおかウオーキング協会の「博多山笠飾り山ウオーク」に参加しました。

例年、飾り山は、7/1から公開するのですが、今年は、ライオンズクラブの国際大会が福岡市で行われましたので、6/24から公開されています。

山笠のコース

ウオーキング集合場所の天神警固公園です。

博多山笠の飾り山は、櫛田神社を向いている方が、「表」、その裏、博多では、「見返り」と言います。

【新天町】

  

【天神ソラリア】

【天神一丁目】

【渡辺通一丁目】

【キャナルシティ】

【櫛田神社】博多の総鎮守です。山笠期間中、祇園饅頭が売られています。

  

 

   

【上川端通】 この山笠は、「走る飾り山」といって、本番には、この山が町を走ります。

【中洲流】

 

川端通】

  

【上川端通】

【博多リバレン】

【千代流】

【博多駅商店街連合会】

【東流舁き山】                                       【土居流舁き山】

   

約2時間半で終了。ゴールは博多駅でした。

≪今日のランチ≫

新しく出来た「KITTE]の地下で「ゴマ鯖定食」をいただきました。@950(税別)

博多にいると、「ごま鯖」は、子供のころから食べています。もう少し鯖の量があった方がいいのですが・・・・・・

  

 

 

 


東海道道草ウオーキング№14(四日市宿~朝日)三重県四日市市~三重郡朝日町

2016-07-08 13:05:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/24 三滝橋には、七夕祭りの山車が描かれていました。

   

三滝橋から約700mで海蔵橋に到着。

 

海蔵橋から右に行くと、「三ツ谷一里塚跡」があります。かつての一里塚は、昭和20年(1945)に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまいました。

現在の一里塚跡は、平成13年、東海道宿場・伝馬制度制定400周年を記念して建てられました。日本橋から99番目です。

三ツ谷一里塚跡の海蔵川沿いには、昭和28年海蔵川改修工事により、取り払われた昭六橋の鉄材売却資金で植樹された桜が約1,5kmに渡って続いています。

桜の季節には、海蔵桜祭りが行われています。

  

多度神社:桑名の多度大社の分霊を祀っています。明治40年に海蔵神社に合祀され、昭和20年には、戦災により焼失しましたが、昭和25年に再建され、正式に

三ツ谷の「多度神社」として承認を受けました。その後老朽化により、平成26年に拝殿が再建されました。

多度神社から再び1号線に合流します。

  

時計は12時半を示しています。今日はまだお昼を食べていません。近くのコンビニに立ち寄りパンを買い、そこでいただきましたが、雨がポツリポツリと降ってきました。

リュックよりカッパを出しそれを着てからウオーキングを再開しました。

1号線富士町信号の手前を左折。東海道は、案内板が多く、旅人には非常に助かります。

  

志氐(しで)神社:難しい名前の神社ですが、延喜式神名帳に名がある古社で、垂仁天皇の頃に創祀されたそうです。「しで」とは、御幣のことで、大海人皇子の天照大神遥拝伝説に

因んで名づけられました。万葉の歌枕である四泥の碕の地です。享保10年(1725)の鳥居や文政元年(1818)、天保10年(1840)の常夜燈があります。

この神社の狛犬には、神様が留守を守るように言いつけたにも関わらず、遊びに出かけてしまった為にそれぞれ左右の前足を折られてしまったという伝説が残っています。

街道沿いの鳥居近くには、撫でると良縁が成就するという夫婦石もあります。

  

雨は、小降りになってきました。東海道の地図も濡れてきましたのでビニールをかけ保護します。

米洗(よない)川にやってきました。米洗川の由来は、壬申の乱で大海人皇子が神事に使うお神酒を造るためにこの川で麹の米を洗ったことに起因します。

ここにも常夜燈がありました。

  

茂福神社:茂福(もちふく)神社は元禄16年(1703年)の東海道分間絵図に天王社と記されており、現社名に改称されたのは明治28年(1895年)のこと。

明治42年(1909年)鳥出神社に合祀されたが、地元住民の懇願あってのことか、昭和25年(1950年)鳥出神社から祭神を分祀し、茂福神社は再興された。(富田町HPより)

茂福神社の石碑の先を左折したところに「力石」があります。明治時代、常照寺が再建される際、各所から土台石の奉納がありました。その節、土台石の中よりこの石を選び、

休憩時に持ち上げて力比べで競い合ったと言われています。重さ32貫(約120kg)と子供用5貫(約19kg)のがあります。

また、力石の横には、「新設用水道碑」が建っています。

 

  

薬師寺は、大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々は苦しんでいました。旅の途中の弘法大師が薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平穏したので

薬師堂を建てて薬師如来を祀ったと言われています。

 

富田の町に入ってきました。十四川の手前にも常夜燈があります。

 

十四川は、桜の名所でもあります。大正12年(1923)アミカジ製網を営んでいた伊藤勘介氏他有志により植樹されたのが始まりです。

昭和53年(1978)には、開花ぶりが良いということで日本さくらの会より全国表彰を受けています。十四川堤の両岸1,2kmに渡ってソメイヨシノが約800本植えられています。

  

明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡

  

道標と道路元標:

富田市民センターの所には、道標があります。富田一色(現四日市市富田一色)、川越村(現三重郡川越町)、東洋紡績と書いてあります。

富田3丁目には、三重郡富田(現四日市市富田)の元標。津市元標まで10里、四日市まで1里8町。

  

  

御厨神明神社は、祭神は豊宇気毘売神、応神天皇、天児屋根命、大山祇命です。創建年代は不明ですが、伊勢神宮の御厨の地に建てられました。以来、蒔田村の氏神として信仰されました。

「松寺の石取祭り」でも有名です。

   

朝明橋の所にやってきました。この橋を渡ると三重郡朝日町です。

橋の袂には、「いこいの広場」があります。ここにも「力石」がありました。

この力石は、江戸末期から明治初期にかけ、東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南のつる」の主、大久保つるが後世に残したものです。

石には、「二十七〆」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100kg)と想像されます。

東海道を往来した旅人や駕籠かき衆等が休んだ折に余力を誇示するが如く自慢げにこの石を持ち上げていたのでしょう。

  

朝明橋を渡ると正面に伊勢湾岸自動車道が見えてきます。そのガード下を越えて行きます。

雨はとうとう本降りになってきました。カッパは着ていますが、もう下着まで滲みてきました。今日、桑名まではちょっと無理です。

地図を見ると、2km先ぐらいにJR朝日駅があります。とにかく今日はここまでとします。

  

 14:50 JR朝日駅到着。

  

6/24のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№13(石薬師宿~四日市宿)三重県四日市市

2016-07-06 16:47:34 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/24 東海道ウオーク2日目。今日は石薬師~四日市~桑名まで歩こうかと思っていますが、今は曇っていますが、天気が心配です。

近鉄四日市駅前の三重交通バス 7:35に乗車し、前日ゴールの鈴鹿市自由が丘バス停に8:15到着。

スーパーの横から旧道に入ります。このあたり閑静な住宅街です。

 

  

1号線と合流する手前に「延命地蔵」がありました。一旦1号線小谷に出てすぐ旧道に入ります。小谷から四日市市です。

四日市市は、人口約30万人。三重県の中で一番人口の多い都市です。

 

豊富神社があります。万延2年(1861)京都山城国伏見稲荷神社の祭神を分霊・勧請して創建されました。もとは、杖衝稲荷大明神とも称しましたが、後に豊富稲荷神社よ改称されました。

1号線の向こう側に「采女(うねめ)一里塚跡」が見えます。道路を横断する所がなく、カメラの望遠で撮影しました。

このあたり「采女(うねめ)」と呼ばれています。采女の原義は、宮中で炊事を司った女官です。(大和朝廷に地方豪族から献上された) 古事記には、雄略天皇に仕えた「三重の采女」の

話が出てきます。雄略天皇の酒宴で盃に落ち葉が浮かんでいるのを知らずに采女が献上、天皇の怒りをかった。この時、采女は一首の歌を献上し許され、お褒めに預かったという

逸話があります。そこからこの地に采女という地名がついたとされています。

  

伊吹山での戦いで傷を負った日本武尊(倭建命)が、剣を杖代わりに越えたと伝わるのが、「杖衝坂」。坂の途中にある井戸で渇きを癒して、坂を越えたと言われています。

坂の頂上付近にある「血塚(ちづか)社」は、傷による出血を封じた所。日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられています。

日本武尊は、「吾が足は、三重の勾(ま)がりの如く、甚(いと)疲れたり」と、いったと伝わり、この言葉が「三重」の語源となりました。

  

ここから「杖衝坂」に入ります。比高20mながら東海道の道筋の中でも急坂の一つ。昭和初期まで唯一の幹線道路でした。江戸時代に作られた「東海道名所図会」にも紹介されています。

貞享4年(1687)江戸から伊賀に向かった松尾芭蕉が、馬に乗って杖衝坂にさしかかったが、坂が急なため、落馬したことを詠んだ「歩行(かち)ならば 杖衝坂を 落馬かな」は、

季語のない有名な句です。

私達は、京からでしたので下りでしたのでそんなに苦はなかったですが、江戸からでしたら、急な上りで大変でしたでしょうね。

 

   

坂の下り口には、「うつべ町かど博物館」がありました。まだ朝が早いので開いていませんでした。

   

1号線、内部川に架かる内部橋を渡ります。渡るとすぐ左折し、20~30m行った所から右折。

  

内部駅の所で1号線を横切ります。ここには、東海道400周年記念の石碑が建っています。

   

しばらく歩くと、民家の所に「いわひば処」という看板を目にしました。民家の方に許可をもらって見せてもらいました。

いわひばは、「巻柏」と書き、冬は、冬眠して枯れていますが、春に目をさまし、夏には青々と成長し、秋には紅葉し、また冬眠するそうです。不思議な植物ですね。

  

このあたり、神社仏閣が建ち並んでいます。

願誓寺は、浄土真宗高田派に属しています。現本堂は、寛政4年(1792)再興のものです。

小許曽(おごそ)神社は、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されています。伊勢の国には、253の大社、中社、小社があり、そのうちの小社として選ばれました。

約1100年の歴史があります。

 

観音寺は、寺の縁起に寄れば、織田信長の北伊勢侵攻により兵火にあいましたが、村民が本尊観世音菩薩を守護して災禍を逃れ、村仏として維持されました。

安永8年(1779)黄檗宗(おうばくしゅう)黄檗山万福寺の末寺となりました。

大連寺は、俗称米田の森にあったことから米田山法鎮寺といい、真言宗の寺でした。後に現大連寺の西北に俗称大連の地に堂を建立し、米田山大連寺となりました。

布教にこの地に逗留された浄土真宗高田派第10世真慧上人に帰依し、浄土真宗に転宗、現本堂は、文化10年(1813)再建のものです。

街道歩きの先輩、ランドセルさんは、お寺の格言が好きです。この言葉なんか私も好きですね。(笑)

  

四日市あすなろう鉄道「追分駅」に着きました。この電車は、公共交通として走っている電車の中では、最も線路幅の狭い、特殊狭軌線「ナローゲージ」(762mm)の鉄道で

全国でも3路線しか残っていない貴重な路線です。

  

追分駅の先、東海道と伊勢街道が交差する所に「日永の追分」があります。道路が拡幅される前は、伊勢街道の道を跨いで伊勢神宮の鳥居が建てられていたそうです。

この鳥居は、安永3年(1774)、久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛という人が、江戸から京へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って建てたものです。

また、追分は、四日市宿と石薬師宿の間にあって「間の宿」と言われ、伊勢神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして間の宿は、本宿に比して

割安に宿泊することができ、旅人からは、歓迎されていました。

そういえば、この近くに「泊町」という地名がありますが、この間の宿の旅籠があったからでしょうか?

「東海道中膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんが参宮の為、伊勢に向かいましたが、日永の茶店で金比羅詣りの男と名物饅頭の食べ合いの賭けをすることになったそうです。

結局、食べ合いに敗け大金を巻き上げられてしまいますが、男は、手品師で餅を懐に入れ込んだそうです。

   

  

日永郷土資料館は、休館日でした。「日永足袋」「日永団扇」などをはじめ、地域に残る歴史、文化、街道に関するものなどが展示されているそうです。

  

泊町の信号から旧道に入りますが、この道路、1号線の抜け道になっていて、歩道もなく、車が通行するたびに止まって、車が通過するのを待って歩きます。

名残の一本松」があります。当時は、泊の集落まで、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んでいました。その間には、家は一軒もなく、

縄手(畷)と呼ばれていましたが、この松はその縄手に植えられたものが残った貴重なものです。

 

   

「日永の一里塚跡」 もとは、5m四方で高さ2,5mの塚が、東海道の両側に築かれており、西側の塚には、榎が残っていましたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消しました。

日本橋から100番目の一里塚です。江戸から百里。

   

日永神社」 伊勢の神宮で祀られる天照大御神を祀っています。神社本殿右側に東海道最古の道標があります。道標の右側に「京」、表に「大神宮」、左側に「山田」、

裏に「明暦2年(1656)3月吉日南無阿弥陀仏 恵心」と彫られており、もとは、日永の追分にあったそうです。

  

つんつくおどり」は日永地区に伝わる郷土色豊かな踊りです。その起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を

取り入れた踊りであるという伝承があり、もう一つは滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承です。

なお、元和6年(1620)の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には

現在のような「つんつくおどり」があったことがうかがわれます。踊りには3種類あって太鼓・笛などを用いた囃子と歌い手に合わせて、櫓を中心に二重三重に円陣を作って踊ります。

司馬江漢の「西遊旅譚(さいゆうりょたん)」にも「つんつくおどり」が挿絵入りで紹介されています。現在では8月第2土曜日・日曜日に両聖寺(りょうしょうじ)境内で保存会を中心に行われています。

  

街道は、天白川に架かる天白橋を渡ります。この日永地区にも神社仏閣が多いです。

   

大聖院 松井親蔵法印が一族の守り本尊を奉じ、永禄8年(1565)氏寺として再興されました。本尊不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、大正4年(1945)

国宝に指定されています。醍醐三宝院直末、神戸藩主御祈願寺。

   

水沢道標:約200年前、大阪の河村羽積という人が、東海道から水沢道に分かれる角に建てたのがこの道標です。水沢の楓谷は紅葉の名所であり、昔は菰野藩主の土方公が

必ずこの紅葉を愛でられたそうです。この碑の表は「水沢は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」、裏面は、「猿丸大夫名歌古跡すい沢へ是より三里」と彫られています。

  

大宮神明社は、永宮さんとも呼ばれ、天照大御神を祀っています。ちょうど神社では、「輪くぐり神事」が行われていました。

  

鹿化橋を渡ると赤堀の町に入ります。

   

赤堀の町に入ると、街道沿いに「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」という旧家があります。

案内板によると、

鈴木薬局(旧鈴木製薬所) 竹の切り口を示す「丸二つの組み合わせ」の登録商法に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた

古い看板を掲げる鈴木薬局は、200年以上も製薬業を営む旧家である。 

当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延三年(1750)二月に蘭学勃興の地、

長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。

 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。 これは、第六代勘三郎高光が、嘉永五年(1852)に建てたものであることが、家系図によってわかる。

玄関には、約60kgの重い木製の上げ下げ戸があり、東海道に面した表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、

厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある。また、土蔵とともに膏薬をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。

無二膏、赤万膏は、吸出し薬です。

  

近鉄名古屋線を渡ると「浜田」の町です。

文明2年(1470)田原美作守忠秀が築城した浜田城は、天正3年(1575)に織田信長の軍勢に攻められて落城。今は、鵜森神社に土塁を残すばかりになりましたが、

城下町だった旧浜田町には、当時千鰯屋や材木屋、紙屋などの店が軒を連ね、多くの人で賑わっていました。今もこの界隈には、連子格子の古い民家が残り当時の風情を伝えています。

 作家の丹羽文雄さんは、浜田町崇顕寺(現浜田保育園)が生誕地です

 

四日市市の中心部にやってきました。

四日市市は三重県の北部に位置し、西は鈴鹿山系、東は伊勢湾に面した温暖な地域です。太古より市内各所に古墳が築かれ、なかでも志氏神社古墳は市内唯一の前方後円墳として

知られています。文明5年の外宮庁宣案には「四ヶ市庭浦」の地名が記されており、この頃にはすでに定期市「四日市」が成り立っていたともいわれています。 

江戸時代になると、市場町・湊町の四日市に「宿場町」「陣屋・代官所の町」が加わり、北勢の行政・商業の中心地として知られるようになり、幕末から明治にかけては、

菜種油や肥料の生産や取り引きの盛んな町として栄え、四日市港の修築で勢い生糸、紡績を中心として繊維工業へ、さらに、機械工業や化学工業の進出が相次ぎ、

日本の近代工業化への歩みを模したかのような形で四日市地域が商工業の都市に進展しました。

明治30年に市制を施行し、昭和5年に塩浜、海蔵の両村を合併して以来、昭和32年まで周辺の町村を併合、さらに、平成17年2月7日に楠町と合併し、現在の市域となりました。                                                                                                            (四日市市公式ページより抜粋)

街道は、表参道スワ栄という商店街に入って行きます。街道が商店街の中を歩くのは、山陽道で岡山市内を歩いた時以来です。

この商店街は、諏訪神社に通じています。もうすぐ七夕、商店街には、七夕飾りが飾られています。四日市市のゆるキャラ「ごにゅうどうくん」も展示されていました。

  

  

商店街の終わりにある「諏訪神社」は、鎌倉時代の建仁2年(1202)に信州の諏訪神社の御分霊をこの地に勧請し、創祀されたと伝わっています。

毎年10月の第一土曜、第一日曜に行われる例大祭「四日市祭り」は、江戸時代初期から続いています。昭和20年の戦災で焼失したが昭和26年に再建されました。

   

四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場です。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました。宮宿との間に「十里の渡し」がありました。

宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。

本陣などは、残っていなく、黒川本陣跡が、現在の黒川農薬商会。脇本陣の「帯屋跡」が近藤建材店、問屋場跡が、福生医院だと言われています。

もう一つの「清水本陣跡」は、笹井屋さんの向かい側だと伝えられています。その辺の所を詳しく聞きたくて、和菓子の「笹井屋」さんに入りました。

 

  

笹井屋は、「なが餅」で有名です。なが餅とは、薄く伸ばした餅に餡を詰めて軽くあぶった餅です。長い餅だから「なが餅」と思っていたのですが、

このお店、天文19年(1550)、日永の地で創業。日永の「永」をとって「永(なが)餅」と命名されたという説もあるそうです。

その460年以上続く「なが餅」が食べたくなりました。1個1個のバラ売りはありませんので7個入りを買い、お店の中は食べる所はありませんでしたが、

椅子がありましたのでそこでいただきました。食べてみると甘さも抑えられており、実に美味しいお餅です。

ただ、別に強要するわけではありませんが、お店の方、店の中で食べるのでしたら、お茶の1杯ぐらい出してもいいのではないでしょうか?

老舗の店でしたら、このくらいの気配りが必要ではないでしょうか?

お店の方に、本陣の場所を聞きますが、清水本陣の場所は、パンフを持ってきて説明してくれましたが、解らないとのこと。そのパンフいただけるのかと思いましたが、

すぐ持って帰られました。店の中に私達みたいな旅人に配る東海道四日市宿のパンフを置いてもらえれば、何かと参考になるのですが・・・・・・・

 

  

広重の浮世絵、「四日市宿」は、三重川を渡る旅人が強風に遭遇している姿を描いています。

三重川は、現在、三滝川と名前が変わっています。

   

東海道チェックシート

≪追記≫ 四日市市のマンホール

1.四日市港と石油コンビナート、姉妹都市オーストラリア・シドニーのコアラ、中国・天津のパンダ

2.市の花「サルビア」

3.広重浮世絵「四日市宿」

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№12(庄野宿~石薬師宿)三重県鈴鹿市

2016-07-02 16:48:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

庄野宿から石薬師寺宿までは、約3km。東海道の中でも2番目に短い宿場です。

加佐登駅から1号線に合流します。

  

信綱かるた道:これより1,8kmの間に信綱(佐佐木信綱)かるたの短歌五十首を掲示しています。

  

石薬師の一里塚にやってきました。石薬師の一里塚は,もと蒲川の西岸に位置し,かつては東海道の両側に榎が植えられていた。

記録によると,榎は伊勢湾台風で折れ,終戦後北側にその根元だけが残っていたという。

しかしその後消滅してしまったので,昭和52年に南側に榎の若木を植え,『史跡石薬師の一里塚跡』の碑を建てて保存が図られています。

  

石薬師宿に入ります。

 

 

歩いていると「蒲冠者範頼之社」の看板が目についたのでそちらの方に向かいます。

蒲冠者範頼之社は、御曹子社ともいわれ、源頼朝の弟、蒲冠者範頼を祀っています。武道・学問に秀でていた範頼にあやかって願望成就の神と言われています。

 

説明書を読んでいると、「蒲桜」というあまり聞きなれない桜がありました。伝説によれば、寿永(1182~84)の頃、蒲冠者範頼が平家追討の為、西へ向かう途中、

石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。その為、俗に「逆桜」とも言われています。

  

宿場の名前にもなっている「石薬師寺」は、奈良時代の僧侶・泰澄が創建と伝わる古刹で、壮大な大伽藍を擁しています。然し、戦国時代の戦火によって焼失し、現在残る堂宇は、

寛永6年(1629)に神戸藩主・一柳監物直盛によって再建されました。また、本尊の薬師如来像は、弘法大師が一夜のうちに爪で彫り上げたという伝説が残されています。

 、 

広重の浮世絵には、この石薬師寺が描かれています。

「浄福寺」があります。この寺は、佐々木家の累代の菩提寺です。境内には、信綱の父、佐々木弘綱の記念碑があります。

  

  

石薬師宿は、唱歌 「夏は来ぬ」 の作詞で知られる「佐佐木信綱」(1872~1963)の生家です。

   卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて  

一家が松坂へ移住する明治10年までの幼年期をこの家で過ごしました。

  

   

佐佐木信綱記念館の横には、タイムレコーダーで有名な「アマノ」を創業した天野修一(1890~1976)記念館があります。

  

石薬師宿は、江戸から数えて44番目の宿場です。四日市宿と亀山宿の間が長かったため、この地に宿場が作られました。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、

元和2年(1616)と遅く、それまでは、高富村と呼ばれていました。

弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成を見ると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は130軒で全戸数の約7割を占めており、農村的性格の強い宿場でした。

本陣は、小沢家、問屋場は、園田家が務めていました。宿帳には、赤穂城主浅野内匠頭の名もあるそうです。

  

石薬師宿の東側には、「北町地蔵堂」があります。

   

時間も5時近くなりました。今日は、ここまでにします。

帰りは、自由が丘バス停から宿泊地四日市まで戻りました。

  

 6/23関宿~石薬師宿までのGPS

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№11(亀山宿~庄野宿)三重県鈴鹿市

2016-07-01 20:21:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/23 お昼を食べまた街道歩きスタートです。

東町の信号の先から左折すると右側に「江戸口門跡」の案内板があります。京口門から江戸口門までが亀山城下だったのですね。

水堀と土居で囲われた中に門と番所を構え通行人を監視していました。現在は案内板が残っているだけです。

  

ここでも昔の屋号を掲げている所もありました。

この東海道に「巡見道」という案内板がありました。亀山から菰野に抜ける道、現在の国道306号は本来は、菰野道と言われていましたが、江戸時代この道を巡見使が通ったことに

よって「巡見道」とされました。巡見使は、将軍の代替わり毎に諸国の政情、政道の得失、民権の風俗を査察する為に派遣された役人のことです。

  

亀山ローソクの工場が見えてきました。恥ずかしい話ですが、街道を歩く時、亀山という地名は知りませんでしたが、この亀山ローソクだけは。知っていました。

昭和2年(1927)谷川兵三郎氏が亀山で創業されたそうです。

  

亀山ローソクの向かいに能褒野神社(のぼのじんじゃ)があります。境内は古くから日本武尊の陵墓と伝えられ「王塚」又は「丁字塚」と呼ばれていました。

古墳は4世紀末期に築造されたもので全長約90m、後円部径54m、高さ9m、前方部長さ40m、高さ6.5mと北部伊勢では最大級の大きさを誇ります。

周囲には16基の陪塚があり、朝顔形円筒埴輪や器材埴輪などが発掘されています。奈良時代に編纂された記紀によると日本武尊が東夷東征の帰路の際、

伊勢国能褒野で死去し埋葬された事が記されている為、明治12年(1879)に内務省が日本武尊の墓に定められました。能褒野神社は明治17年に

日本武尊の陵墓を祀る神社として創建の許可を得て明治28年(1895)に社殿が竣工しました。

明治42年に近隣に鎮座していた約40社を合祀して村社となり大正14年に県社に列しました。 (亀山市観光案内より)

残念ながら写真を撮り忘れました。

栄町の信号から2~300m行った所に「和田の一里塚」があります。慶長9年(1604)幕府の命により、亀山城主であった関一政が築造しました。かつては、榎が植えられており、

昭和59年(1984)の道路拡幅までは塚の一部が遺(のこ)されていました。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものです。

石上寺は、延喜15年(796年)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人、紀真龍(きのまたつ)によって新熊野三社が勧請され、

この鎮護のため開基されたのが石上寺であると伝えられています。

 

   

   

和田の道標があります。「従是神戸白子若松道」。ここでの神戸は、鈴鹿駅前にあった神戸城下を指します。白子と若松は伊勢湾沿いの町です。

谷口法悦題目塔は、案内板を見ると、「この題目塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。

総高2,59mで塔身の正面には、「南無妙法蓮華経」、右側に「後百歳中廣宜流布」左側は「天長地久國土安穏」背面に「施主谷口法悦」。

造立者の谷口法悦(生年不詳)は、京の日蓮宗の篤信者で17世紀末ごろ、一族と共に各地の寺院、街道筋、追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている

亀山市指定有形民俗文化財に指定されています。

  

1号線の歩道橋を通ると床面に亀とローソクのイラストが描かれていました。街道はJR井田川駅前を通過します。

  

井田川駅前には「旧井田川小学校跡」の碑があります。見てみると、「大正4年2月7日小田町より移転、昭和54年3月31日まで存続した。」 二宮金次郎の銅像なんか懐かしいです。

  

関西本線の踏切を越えると鈴鹿市です。左側に「地福寺」があります。本来なら地福寺の前を通って行くのですが、案内板がなかったのでまっすぐ平和橋の方に行ってしまいました。

平和橋の所で間違いに気付き、すぐ引返しました。この間のロスは20分です。

地福寺には、小田町寺院の由来という案内板がありました。

『鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、

現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。

永禄十一年(1568)、織田信長の戦火に遭い、消失観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延宝五年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、

その両翼には後に江戸の鈴木市朗ヱ門が、東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、元禄十二年(1699)、西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、

東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、また毎月十七日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。』

 

地福寺の横には、「明治天皇御小休所」の石碑があります。「明治13年(1880)7月13日陸軍大演習御統監の際」と書かれています。

 

今日、朝方は雨でしたが、もうすっかりお天気になってきました。持ってきたペットボトルも無くなり、自販機で補充しました。

井田川小学校横の安楽川にかかる和泉橋を渡ります。丁度下校中の小学生が私の後ろに付けている「風車」を見つけ話しかけてきます。

滋賀県草津でもそうでした。この風車、小学生には人気があるのですね。(笑) 本来は、道中、後ろから来る車にわかるように付けているのですが・・・・

  

和泉橋を渡るとすぐ左折、それから2~30m行って右折すると、西富田の町に入りました。

  

福萬寺と過ぎ、中富田の川俣神社の横に「中富田一里塚」があります。ここから江戸まではおよそ百里(約400km)です。

私達の東海道歩きもまだ1/5が終ったぐらいです。まだまだ先は長いですね。

  

 一里塚の先には、道標が建っています。「従是東神戸領」。その先の汲川原町には、「女人堤防の石碑」が建っています。

女人堤防とは、非常に興味を引きましたので説明文を見てみますと、

この地、鈴鹿川と北安楽川との合流点にあって、完全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地、住宅の被害が甚だしく人命を失ったことも屡次(るじ)、

文政12年(1829)、幾度かの堤防建設の訴願も南側の城下町神戸の浸水を怖がるる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど毎年の如く

被害を蒙る民は、眼前の苦悩に堪え難く如何なる処刑も恐れず築造せんとした。

この時に当たり、菊女という乙女、打首の刑を犯す築造は、男子全部の命を失い、将来の自活に大いなる支障を来たす。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。

これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年に完成。今日の美田、安住の地を伴たるに到った。

この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今し、その第一番者菊女が断首の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諌による赦罪の早馬駆け来たり

既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ築堤の功を賞して金一封と絹五匹を贈られた。

実に女の一年、岩をも通した美挙である。(昭和33年、三重県知事田中 覚)

これを読んで感動しました。水戸黄門の題材にも取り入れられるような内容ですね。

  

旧街道は、この先1号線の高架下を通ります。

   

45番目の宿場、「庄野宿」に入りました。寛永元年(1624)に設置された庄野宿は、東海道の中でも最も新しい宿場です。

本陣1、脇本陣1、旅籠15。

  

本陣は、沢田家が務め、間口14間1尺、奥行21間1尺、面積229坪でした。

 

 

宿場内を歩いていると、庄野宿資料館がありました。ここは、油屋を営んでいた小林家の住宅です。

入るとボランティアガイドの方が親切に案内してくれました。

  

 

庄野宿の名物と言えば「焼米」です。俵に詰めて店先で売っていたそうです。食べ方としては、そのままアラレのように食べる、茶碗に入れお湯を注いで食べる、

塩茶に浸して食べる・・・・・・・

今でも通販を見てみると「焼米」を売っている所があります。昔と比べ味はよくなっているでしょうね。

  

  

  

さて、庄野と言えば、広重の「庄野の白雨」です。ここがどこで描かれたか資料館の方に聞きますと、加佐登駅付近だそうです。

坂もなく、広重の浮世絵とは想像もできませんが、このあたりだそうです。

  

 東海道チェックシート。庄野宿まで歩きました。