よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「鳥栖市内散策」(佐賀県鳥栖市)

2023-06-29 18:26:23 | ふくおかウォーキング協会

6/28(水)

ふくおかウォーキング協会6月最後の楽しいウォークは、「鳥栖市内散策」でした。

このコース、今年1月末に組み入れましたが、雪の為中止になり、今回6月のコースに再度組み入れました。

自宅を出るころは、晴れ間もありましたので今日は、雨の心配はないかな?と思って車を走らせると、高速道基山あたりから雨が降り始めました。

然し鳥栖に入るころには雨も止んできました。

集合場所は、JR鳥栖駅。JRで事故があったせいか、電車にも遅れが出て、スタートが9:40になりました。

やはり雨の影響でしょうか、参加者は22名。

 

スタートすると、急に大雨です。近くで雷も鳴っています。

しばらく商店の軒先で雨宿りをしましたが、雨は一向に止みません。雷も近くでゴロゴロと鳴り続けています。

リーダーの判断で「中止」を選択しました。安全面を考慮すると中止が正解だと思います。

 


楽しいウォーク「大濠公園の紫陽花観賞ウォーク」(福岡市博多区~中央区)

2023-06-23 05:01:54 | ふくおかウォーキング協会

6/21(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「大濠公園の紫陽花観賞ウォーク」でした。

福岡地方は、前夜からの大雨で今日も傘をさしてのウォークかな?と思いましたが、8時ごろになると雨も小降りになり、スタートするころには雨も上がりました。

集合場所は、博多駅の明治公園。参加者は、雨のせいでしょうか、28人でした。参加者の中には、熊本から全国大会常連のNさん、八女から初参加のUさんが参加していただきました。

 

今日のコースは、明治公園スタート~電気ビル~薬院~警固~大濠公園~城内~警固公園ゴールの約10km。

住吉神社から渡辺通りへ。渡辺通りでは、7月から始まる「博多山笠」の準備が行われていました。

 

渡辺通りから薬院へ。

王丸食堂は、私が若いころお世話になった食堂です。お店も新しくなっていました。

 

  

福岡城内のお堀では、蓮の花が満開を迎えていました。

 

福岡市美術館で休憩。福岡市美術館では、7月1日より元スナップ「香取慎吾」さんの絵画の個展が行われるそうです。芸能人って多才な方がいらっしゃいますね。

進藤一馬は、第25代福岡市長。昭和62年に福岡市美術館長に就任されました。

進藤市長というと、「桜並木の逸話」があります。こちらです 進藤一馬 - 桜並木の逸話 - わかりやすく解説 Weblio辞書

現在も「桧原桜」として福岡の桜の名所になっています。

 

大濠公園から福岡城潮見櫓へ。ここには種類はあまりありませんが、たくさんの紫陽花が植えられています。

 

 

潮見櫓から芍薬・牡丹園へ。

 

芍薬・牡丹園の所は、福岡藩祖「黒田如水」の隠居跡「三ノ丸御鷹屋敷」です。

黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は,戦国時代の武将で,筑前黒田藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが,のちに羽柴秀吉に従い,竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ,同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって

福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。
 福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かり

しかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は現在のここ

「ボタン・シャクヤク園」にあった。(福岡市教育委員会)

 

福岡城址のハスも綺麗です。

 

福岡城址から赤坂~大名を通りゴールの警固公園へ。

 

12:00 警固公園にゴールしました。今日は、雨が心配されましたが、ウォーキング中雨には遭いませんでした。

誰か、晴男晴女がいたのかな?

 

 


健康さわやかウォーク「玄界島一周」(福岡市西区)

2023-06-19 10:26:08 | ウォーキング

6/18(日)は、社保協主催の健康さわやかウォーク「玄界島一周ウォーク」に引率として参加しました。

参加者は、50名。

玄界島へは、震災後(2008年)3回ほど来ています。

ここで玄界島を紹介します。玄界島は、福岡市中心地から北西約20k沖に位置し、博多湾の入り口に浮かぶ周囲4,4k、面積1,14㎢の島で主に漁業が盛んです。

標高218mの遠見山を中心にお椀を伏せた形をしています。2005年(平成17年)の福岡西方沖地震では、大きな被害を被りました。

その後、3年間で復興し、島には、近代的な建物が多くなりました。

福岡市 玄界島震災復興記録誌 (fukuoka.lg.jp)

 

8時50分のフェリー「みどり丸」で一路玄界島へ。

フェリーの名前「みどり丸」は、玄界島の百合若伝説に由来します。

時代は、平安時代、百合若という武将が部下(別府兄弟)に企てられ、玄界島に置き去りにされます。百合若は、愛鷹「緑丸」により故郷の妻(春日姫)と連絡をとりながら

一人玄界島で生き延びます。事を知った百合若は、壱岐の船を掴まえ帰還し、最後は別府兄弟に復讐を果たし、妻と幸せに暮らしたそうです。

フェリーの名前は、愛鷹「緑丸」です。

 

玄界島漁港の前には、私たちのために臨時の即売所が設けられています。

復興公園前には、平成19年平成天皇皇后陛下がお越しになられたとき詠まれた歌碑が建っています。

  

出発式のあと、9:45ウォーキングスタート。

 

 

 

 

 

 

立神岩:ここは、監視小屋があった所。

しばらく歩くと、志賀島が見えてきます。

 

玄界島を一周してきました。時間にして約1時間です。(4km)

 

 

玄界島復興記念公園へ。ここで記念写真を撮ります。

  

11時玄界港にゴール。ここから流れ解散になります。

今日は、私たちのために臨時の販売所が設けられました。アナゴ焼きが人気です。

 

島には、猫が多いです。人懐っこいのか、逃げません。

 

玄界島発12:10 のフェリーで博多港へ。

 

久しぶりの玄界島ウォークでした。

 

 


楽しいウォーク「赤間宿と正助ふるさと村を訪ねて」(福岡県宗像市)

2023-06-17 15:17:52 | ふくおかウォーキング協会

6/14(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「赤間宿と正助ふるさと村を訪ねて」でした。

唐津街道「赤間宿」は、出光興産の創始者「出光佐三」ゆかりの地、生家がそのまま残っています。また、映画「海賊と呼ばれた男」のモデルです。

「正助ふるさと村」は、自然を愛し、親孝行で有名な「武丸の正助さん」をモチーフにした施設。

集合場所は、JR教育大前駅から5分ぐらいの「熊越池」。参加者28名。

  

コースは、熊越池スタート~伊豆本店~八所宮~ふるさと正助村~明天寺公園~赤間宿~教育大前駅ゴールの約10km。

9:30スタート

 

 

伊豆本店に来ました。伊豆本店は、1717年(享保2)の創業ということで約300年以上の歴史があります。

また、現宗像市長の実家でもあります。

  

伊豆本店から「八所宮」に向かいます。八所宮は、名のごとく八つの神様をお祀りしています。

  

 

   

「赤間」の地名の由来もこの神社によるものです。

神武天皇が東征の折、岡湊に着いた時、吉武地区の吉留にある八所宮の神が赤馬に乗って神武天皇を迎えた事から「赤馬」と名付けられ、それが転じて「赤間」となったとされています。

「絵馬」は、もともとは神々に祈願する際に、生きた馬を献上していました。その後これに代わる方法として土や木などで作られた駒形が奉納されるようになり、更にかわって馬や板に

描いた絵馬が奉納されるようになりました。浜松市の伊場遺跡から絵馬が出土しているように、絵馬を神に奉納する風習は、奈良・平安時代にはすでにあったことが確認されています。

 

ここの唐津街道は、支線で長崎街道木屋瀬に向かう街道です。

 

吉武小学校の所には、紫陽花がたくさん植えられています。「紫陽花ロード」と名付けられています。

 

吉武小学校の校門の所には、「孝子正助の碑」が建っています。

宗像市史などによると、正助(しょうすけ)は江戸初期、現在の宗像市東部に広がる農村地帯の武丸地区に、貧しい農民の子として生まれた。父には田畑がなく、農業の手伝いなどをしながら親子3人で暮らし、正助は、左党の父のため酒を買うのを楽しみにしていたという。その父が「中風」で倒れて半身不随になったため介抱しながら、母親にも孝行を尽くしたと伝わる。

疫病がはやった際には、わが身の危険を顧みず病人の看護に努めた。正助の博愛は、牛馬に及び、数々の逸話が伝承されている。

正助の評判は郡奉行、福岡藩に伝わり、藩は正助を呼び出して「孝子」であることを確認。年貢を免除したほか「武丸」の姓を授けたという。

正助が亡くなった後も、幕府が全国の「孝子」を集めて編集した「孝義録」で詳しく紹介したため、正助の墓には全国から多くの人が参拝し、観光地のようになったという。

 

「正助ふるさと村」は、自然を愛し、親孝行で有名な「武丸の正助さん」をモチーフにした施設です。

 

以前は、正助茶屋があり新そばなどを食べさせてくれましたが、コロナの影響で閉店しています。

現在は、年間収穫体験、そば打ち体験、貸農園は営業を続けているそうです。

 

正助ふるさと村からゴールを目指します。

 

11:50 教育大前の熊越駅にゴールしました。

 

 

 

 


サタデーウォーク「「天拝湖散策と天拝公園の紫陽花観賞」(福岡県筑紫野市)

2023-06-13 20:28:06 | ふくおかウォーキング協会

6/10(土)ふくおかウォーキング協会のサタデーウォークは、「天拝湖散策と天拝公園の紫陽花観賞」でした。

天拝湖」は、天拝湖は福岡市内およびその周辺への飲料水の安定的な供給を目指して築造された、飲料用の調整池。筑後川からの導水の一部をここに導き、取水制限が行われたときの

不足分をまかなう役目を担う。このことから、通常のダムと違い湖面は常に満水状態だ。平成11年に完成しました。周囲は、2,5kmあり、ランニングやウォーキングをする人で

賑わっています。また、遊戯施設もあり子供さんにも人気があります。

集合場所は、JR天拝湖駅。参加者31名。天拝山駅には、武蔵寺縁起絵馬が描かれたモニュメントがあります。

 

コースは、天拝山駅スタート~山口コミセン~天拝湖~月形仙蔵幽閉地~天拝公園~JR二日市駅ゴールの約12km。

9:30スタート。

 

高速道の側道には、紫陽花が満開です。

山口コミセン(山口コミュニティセンター)で休憩。

  

休憩後再スタート

 

息を切らしながら天拝湖へ向かいます。

 

 

天拝湖で休憩後再スタート

 

古賀という地区に「月形洗蔵幽門の地」があります。月形洗蔵は、月形半平太のモデルになった人です。(月形洗蔵と武市半平太をモデル)

説明文が見えにくいのでネットから引用します。

月形洗蔵は筑前勤王党の志士です。藩主・黒田長溥(ながひろ)に尊皇論の立場から述べた建白書を提出したため、捕縛され、この地【御笠郡古賀村佐伯五三郎宅(現・筑紫野市古賀)】に約1年間幽閉されました。

「禁門の変」で敗れた長州藩が匿っていた五卿(三条実朝他)を福岡藩に移すため、幽閉中の月形洗蔵は罪を許され、1865年に五卿を太宰府天満宮の延寿王院(現在の西高辻家邸宅)に迎える働きをします。

五卿がここに滞在中、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬など勤王派の志士が訪ねて来て,維新の相談をします。

福岡藩は犬鳴山に福岡城の代替の城(犬鳴山別館)を築こうとした事や、五卿の元に集まる志士や筑前勤王党の行動が幕府にとがめられます。

このため、1865年、福岡藩は筑前勤王党の藩士を捕縛拘束し、家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首など処罰します【乙丑(いちゅう)の獄】。

福岡藩の筑前勤王党は壊滅します。

月形洗蔵は薩長同盟の基礎となる建白書を作り、その後、坂本龍馬が実行へ移したと云われています。

また、戯曲の主人公の月形半平太は、月形洗蔵と武市半平太(土佐勤王党)をモデルにしたと云われています。

明治になって、月形洗蔵は贈正四位とされ名誉を回復します。

  

この古賀という地区には、大きな家が立ち並んでいます。

三条西季知卿の歌碑があります。

三条西季知は尊皇攘夷派公家の一人。新政府の参与。明治天皇の侍従となり、歌道の指導をしました。この歌碑は、武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を詠みました。

  

天拝公園にやってきました。ここには、3000㎡の中に900本の紫陽花が咲いています。

  

 

天拝公園から二日市温泉を過ぎゴールのJR二日市駅へ

 

12:30 JR二日市駅にゴールしました。

 

 

 

 

 


元気!スマイルウォークIN北九州「若松紫陽花&史跡巡りウォーク」(北九州市若松区)

2023-06-09 19:45:26 | ふくおかウォーキング協会

5/28(日)は、福岡県ウォーキング協会主催の第63回元気!スマイルウォークIN北九州「若松紫陽花&史跡巡りウォーク」に参加しました。

会場は、JR戸畑駅近くの戸畑汐井町公園。福岡県内のウォーキング団体が参加されます。

車を若松駅に止め、若松渡船場から船に乗り、戸畑渡船場から会場まで歩いていきます。

歩く途中に戸畑恵比寿神社がありました。寿永の昔(1182)平家の一門が壇ノ浦合戦に敗れ、落ち延びた平家の残党が飛幡(昔は、戸畑でなく飛幡と呼ばれていた)の浦に隠れ住み

漁業を営んでいました。地付きの人々と相談して出雲国美保関の美保神社より事代主命(恵比寿様)を勧請し奉祀したお社です。

御乗船地碑は、明治33年(1900)10月、のちの大正天皇が、陸軍第十二師団の演習をご覧になったあと、戸畑の渡船場から船に乗り開業間近の八幡製鉄所を視察されました。

その時の乗船地を記念して記念碑が建立されました。

  

受付時間がまだありましたので会場横の「ウェルとばた」に行ってきました。ここには、戸畑祇園山笠が飾られています。

コロナで4年間中止されていましたが、今年は、7月22日開催されそうです。

  

会場に到着し受付をします。

 

 

県ウォーキング協会会長の挨拶後、スタート。

 

 

  

 

若松までは、約3分の船旅。(料金100円)

 

若松駅を通り、高塔山へ。

 

高塔山には、JRウォークで何回も来ているのですが、山登りは苦手です。汗をかきながら高塔山公園に着きました。

 

紫陽花は、まだまだという所か。

 

 

 

 

紫陽花観賞後、高塔山を下りていきます。下りていく途中「白山神社」に立ち寄ります。

 

白山神社(しらやまじんじゃ)は北九州に鎮座する神社。霊峰白山を神体山として、白山大神を奉斎する加賀国(石川県鶴来町)白山比咩神社のから勧請。旧県社。

  

若松区役所~若松恵比寿神社~若築資料館を通りゴールの若松駅へ

 

 

12:46若松駅へゴール

 

 

 

 


やさしいウォーク「唐人町界隈のお寺巡り散策」(福岡市中央区)

2023-06-08 18:08:43 | ふくおかウォーキング協会

6/1(木)のふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「唐人町界隈のお寺巡り散策」でした。

福岡県は、お寺の数も全国で第10位だそうです。特にここ唐人町界隈には、八つの寺院があります。しかもその場所は福岡城の川沿い(城側)、海沿いに集中しています。

これは福岡藩が糸島の寺をわざわざ持ってくるなどして、二重三重にお寺を造らせたからです。。いざ戦いになったときには本堂と庭を、集まってきた武士たちの集会場や宿舎にしようと

していました。また、墓石を鉄砲の弾よけにするというねらいもあったという。つまり、お寺が防衛拠点と位置づけられていました。

唐人町西奥には善龍寺、浄(成)道寺、吉祥寺、妙安寺、当時の北の海辺にあたる場所には妙法寺、浄慶寺、正光寺、大円寺などがあります。

注】福岡城東の防衛拠点は、博多区蓮池、呉服町界隈です。

唐人町は、「筑前国風土記」には、「其始高麗人住せり」とあり、「筑前国続風土記捨遺」には、「往古は唐船が泊まりしゆえ如此名あるよし」と書かれています。

文献上に初めて登場するのは、1627年(寛永4)に成立した「筑前筑後肥前肥後探索書」です。

江戸時代には、唐津街道に沿って町家が立ち並び,これが後の唐人町商店街に発展したと考えられます。1784年(天明4)には、福岡藩の藩校として亀井南冥(かめいなんめい)による

西学問所「甘棠館(かんとうかん)」が設立されました。しかし、1792年(寛政4)10月、商家から出火した火災で炎上、そのまま廃校となり、

生徒は、東学問所「修猷館(しゅうゆうかん)」に編入され、その後も再建することはありませんでした。

注)亀井南冥 - Wikipediaは、志賀島で発見された金印を鑑定した人として知られる。

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集合場所は、大濠公園能楽堂。参加者35名。(当日は、リーダーでしたので写真が撮れませんでしたので下見の時の写真を計上しています)

コースは、能楽堂スタート~ふくふくプラザ~浄慶寺~妙法寺~大圓寺~正光寺~甘棠館~善龍寺~吉祥寺~浄満寺~金龍寺~鳥飼八幡宮~大濠公園能楽堂ゴールの約6km。

9:30スタート。今日は、担当グループのリーダー「F」さんが唐人町のお寺に関することをレポートにし、参加者に配りました。

  

 

ふくふくプラザで休憩。

休憩後再スタート。正面に「当仁(とうにん)小学校」が見えてきます。私、昔から疑問に思っていたのですが、唐人町にありながら「当仁」とは、どうして?

その疑問も解決しました。当仁小学校の「当仁」は、論語の一説にある「仁に当たりては師にも譲らず(當仁不譲於師)」ここから当仁と名付けたそうです。

明治25年(1892)当仁尋常小学校として開校しました。意味は、「人として恥ずかしくない生き方については、相手が師と仰ぐ人であっても人任せにしてはいけない」

 

当仁小学校の横には、「せせらぎがっぱ」の像があります。

お父さん河童はお酒の「徳利」を、お母さん河童は「魚」を手に持っています。子どもの河童は手に何も持っていませんが「夢」を持っていると言われています。

この「せせらぎがっぱ」は、この地域に伝わる「河童の松のものがたり」がベースになっているとのことです。あらすじは次の通りです。

昔、伊崎浦(いざきうら。現在の福岡市中央区伊崎)に嘉兵衛という酒好きの漁師がいました。漁に出たのですが魚が取れないため徳利から酒を茶碗についで飲み始め、ついには

寝てしまいました。嘉兵衛が目を覚ましたところ船は砂浜に打ち上げられいて、徳利の酒は海から現れた河童が全部飲み干してしまっていました。河童はそのお詫びに、嘉兵衛が

漁に出て魚が獲れない時は魚を捕まえてあげることを約束し、それから嘉兵衛はいつも漁に恵まれたということです。

 

浄慶寺:天正19年(1591)志摩郡今津村(現西区今津)に大友氏家臣王塚右京の長男宗教を開基として建立。元和7年(1621)荒戸に移転、更に慶安2年(1649)に唐人町に

移転し、貞享2年(1685)に本堂と境内が落慶、平成20年(2008)に大改修を経て現在に至る。

 

妙法寺:福岡藩二代藩主黒田忠之から寺領三千坪を拝領し、正保2年(1645)に龍玄院日応上人が開山し現在に至る。

 

大圓寺:康平3年(1060)早良郡西入部村(現早良区西入部)に天台宗として建築されたと伝えられている。2度の荒廃を経て、慶長12年(1607)黒田如水公夫人の援助で荒戸山山麓に

浄土宗として再建され、慶安2年(1649)現在地に移転される。本尊の大仏様は、安永5年(1776)、7年の歳月を費やして建立され、九州では稀有な樟の阿弥陀仏座像です。

五重塔は平成7年(19959福岡県初の木造五重塔として建立。高さ26,518m。 

 

正光寺:1607年往蓮社正誉上人見貞により開山され、1687年現在地に移転し現在に至る。境内にあるインド仏跡・浄砂利蓮台石は、インドのクシナガラの十二霊場の浄砂利を埋納した

ものです。この蓮台石を踏むことによって、2500年前のお釈迦様恵を偲ぶことができます。

  

成道寺:元和2年(1616)呑益上人により創建。寛永18年(1641)現在地に移転。境内左手に「八兵衛地蔵尊」が」ありますが、これは、元禄時代、二つの町の消防組の間で

喧嘩になりその裁きを受ける際、大病の看護に感謝した、森八兵衛が身代わりとなり罪の裁きを受け、その供養のため建てられたものです。

  

唐人町商店街に入ります。この商店街は、唐津街道です。また、現在では、ソフトバンクホークスの本拠地「福岡ペイペイドーム」に一番近い商店街で野球があるときには

賑わっています。

 

商店街の中央には、「甘棠館(かんとうかん)」という福岡藩西学問所がありました。館長は、亀井南冥。冒頭でも述べましたが、火災によって廃校になりました。

現在では、地元の演劇グループの活動拠点になっています。「甘棠」という意味は、果樹の名です。花梨(かりん)、棠梨(ずみ)の異名。

  

善龍寺:山門には、甘棠館の館長だった亀井南冥が書いたとされる「瑞雲」という扁額があります。

 

善龍寺の裏側(ペイペイドームに向かう道路)には、「ヤクルト発祥地の碑」があります。福岡県民でもあまり知られていません。

ヤクルトの創業者である代田稔は1930年、京都帝大教授時代にヤクルト菌を発見し、貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」の理念の元に

研究開発を行いました。

そして、1935年に初代社長の永松昇が代田の想いに賛同して唐人町に「代田保護菌普及会」を作り、ヤクルトの販売を開始しました。

発祥の地にはヤクルトの形をした石碑が建てられ、歴史を今に伝えています。ヤクルトの形の下には「健腸長寿」と書かれています。

 

吉祥寺:遠賀郡若松村(現北九州市若松区)吉祥寺の末寺で、寛永元年(1624)開基、元禄9年(1694)寺後の地を賜るとの証文があります。

妙安寺:妙安寺の初祖は、日延(朝鮮国の人)で三代藩主黒田光之公から寺地を賜り享保4年(1719)当寺を建立しました。

 

唐人町から少し離れますが、今川の所に「浄満寺」があります。

浄満寺:糟屋郡に初代「浄心」が元亀4年(1573)建立して小庵を結ぶ。寛永12年(1635)本願寺より「木仏寺号御札」が下付され正式に本願寺派寺院になりました。

その後春吉村に移り、承応3年(1654)大工町(大手門)に移転、更に寛文11年(1671)に黒田藩から現在地を与えられ今日に至っています。

寺院には、儒学者亀井南冥とその一族の墓があります。

 

金龍寺:永正5年(1508)怡土(いと)郡高祖村に領主原田氏の菩提寺として創建。慶長16年(1611)に一時荒戸山に移転し、慶安2年(1649)二代福岡藩主黒田忠之によって

この地に移されました。境内には、「養生訓」「筑前国続風土記」などで知られる貝原益軒の墓と座像があります。

また、「出家とその弟子」「俊寛」で有名な倉田百三が執筆活動をした場所としても有名で境内に歌碑が建っています。

 

 

山門には、一般的には寺を守るために外向きの仁王像が、金龍寺では、内向きに立っており、にらみを利かせて先ずは内を治め、その徳が外に照り返ることで家庭や国が良くなるという

「回向返照」の教えから山門にも「返照」の額が掲げられています。

   

鳥飼八幡宮にやってきました。目を奪われるのは、本殿の壁、茅葺になっています。デザインも一新し、これからの神社の姿でしょうか?

神功皇后が三韓征伐からの帰途、姪浜(福岡市西区)に上陸し鳥飼村平山にて宴を開いた。このとき、人々が膳を用意しもてなしたところ皇后はたいへん喜び、胎内の皇子

(後の応神天皇)の将来を祝し、近臣等に自らお酒を勧め、この地に泊り、後に村長になった人物の子孫が神功皇后ゆかりの地に社殿を建てて、「若八幡」と名付けて祀ったのが

鳥飼八幡宮の発祥と伝えられています。

 

やな橋は、菰川に架かっていた橋です。菰川を地下水路化して作った道路と唐津街道が交わる場所に、かつて橋があったことを示す石碑が建っています。江戸時代、魚を捕るための

「簗(やな)」が仕掛けられていたことからその名がつきました。

12:00大濠公園を通り大濠公園能楽堂にゴールしました。

 

 


6月度例会「潮風と松風に吹かれて」(福岡県福津市~古賀市)

2023-06-06 17:52:48 | ふくおかウォーキング協会

ふくおかウォーキング協会6月度の例会は、「潮風と松風に吹かれて」でした。

集合場所は、JR福間駅。参加者は、36名。このうち初めて参加される方が7名でした。

コースは、福間駅スタート~海浜公園~花見が丘~古賀海岸~花鶴が丘公園~JR古賀駅ゴールの約10km。

 

9:30スタート。

 

簑生ヶ浦は、筑前藩主黒田長政が慶長5年(1600)防風林として松を植樹しました。

 

今日は、天気が良く日差しも強いです。松林で小休止。

 

休憩後再スタート。福間海岸を通ります。

 

花見ヶ丘を通り、古賀海岸へ。

 

松林の途中に、古賀市と福津市の境界があります。

海岸に出てきました。泳いでいる人はいませんが、今月末ごろから海水浴客でにぎわうことでしょう。

 

 

 

花鶴の所にある「最澄の像」

天台宗の創始者最澄は、遣唐使の一員として空海と一緒に博多から海を渡りました。唐からの帰国時、古賀の浜に上陸し独鈷寺を建立し、しばらく滞在したといわれています。

12時丁度に古賀駅にゴールしました。

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「琵琶湖周航の歌資料館」(滋賀県高島市今津)

2023-06-05 17:48:16 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/23(火)竹生島から戻り、今津の町中を散策します。

「琵琶湖周航の歌」が誕生したのは、今津です。この歌は、大正6年(1917)、京都にある旧制の第三高等学校水上部(現在の京都大学ボート部)小口太郎が今津の宿でクルーに

披露しました。3番の歌詞には、波のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か と歌われています。

今津港の前には、お花がいっぱいです。その中に「ヒツジ草」があります。ヒツジ草は、スイレン科で夏、池や沼で水面すれすれに白い清楚な花を咲かせます。

昔の時刻の数え方のひとつである「未の刻(14:00ごろ)」頃に花が咲くからこの名前になりました。実際は、午前11時ごろから咲き始め夕方4時ごろしぼんでいきます。

「琵琶湖周航の歌」の原曲は、「ひつじぐさ」です。

『ひつじぐさ』は、1915年に雑誌「音楽界」8月号 に掲載された日本の歌曲。作詞(訳詞)および作曲は吉田千秋。『琵琶湖周航の歌』のメロディのルーツ・原曲とされます。

原詩は、19世紀イギリスの詩「Water Lilies ウォーター・リリーズ」。『ひつじぐさ』の歌詞はこの詩をほぼ忠実に翻訳した内容となっています。

 

 

 

この花壇は、近くに住む方が毎日手入れをされているそうです。

「ユリノキの花が咲いています」という手作りの看板の先を見ると、ユリノキの花が咲いていました。

 

琵琶湖周航の歌資料館までには、琵琶湖周航の歌の歌詞六番が掲げられています。

     

「琵琶湖周航の歌資料館」は、今津東コミュニティセンターの中にあります。

 

中に入ると、琵琶湖周航の歌に関する資料が展示されています。

作曲 吉田千秋略歴

作詞 小口太郎略歴

館内では、いろいろな歌手の方が歌っている「琵琶湖周航の歌」が試聴できます。

「ひつじぐさ」と「琵琶湖周航の歌」の聞き比べ。

ヒツジグサ - YouTube

琵琶湖周航の歌 加藤登紀子 Song of Biwako Shuukou Tokiko Kato - Bing video

 

琵琶湖周航の歌資料館から「ヴォーリズ通り」に行きました。

辻川通りの中で、「旧今津郵便局」「日本基督教団今津教会」「今津ヴォーリズ資料館」という三つのヴォーリズ建築が並んでいるところを「ヴォーリズ通り」と呼んでいます。

建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズは1880年に米国カンザス州で生まれました。日本で多くの西洋建築を設計した建築家として知られるだけでなく、キリスト教を基本理念とした社会事業家であり、また近江兄弟社の創立者として実業家の側面もあります。讃美歌の作詞作曲も行なっており、音楽にも造詣が深く多才な人です。

明治38年(1905)英語教師として来日したヴォーリズは、大正3年(1914)モーターボート「ガリラヤ丸」を進水させ、布教の為今津にやってきました。その後、キリスト教会の

なかった今津では、ヴォーリズの命を受けた鎌田漢三牧師によって、積極的な布教活動が行われました。仏教徒の多い今津の地ですが、人々は鎌田牧師のもとに集まり、聖書や讃美歌を

習ったといいます。今津地区には、ヴォーリズ建築事務所の設計による今津教会、旧百三十三銀行(現滋賀銀行、現在の今津ヴォーリズ資料館)、旧今津郵便局などが建てられたほか、

ヴォーリズの理念に基づく病院、農繁期託児所、保育所等が造られました。ヴォーリズの思いは、今津の地で様々な形で実現化され、現在にまで生き続けています。

1910年には、メンソレータム社の創業者であったハイドと出会い、これがのちの近江兄弟社の設立につながります。

  

 

 

 

ヴォーリズ通りの「辻川通り」は、九里半街道(若狭街道)の起点から西へ延びる辻川通りは、琵琶湖岸を北上してきた北国海道(西近江路)の一部でもあり、明治時代初期の頃から

沿道に集落が形成されていったといわれます。現在の今津ヴォーリズ資料館の場所には、金沢藩今津役所がおかれ、明治時代になるとその跡地に町内で最も早い金沢藩今津小学所が

おかれました。また、通り沿いには、多くの商店が並び、今の今津の繁華街の一つとして知られていました。

  

今回のビワイチはここまでにします。また、秋口でも再開しようかと思っております。

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「竹生島」へ(滋賀県長浜市)

2023-06-04 15:19:48 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/22(火)

西日本グリーンパス最終日のこの日、念願の「竹生島」(ちくぶじま)に行ってきました。

竹生島は、長浜市の沖合にある周囲2km、面積0.14㎢の琵琶湖で沖島に次ぐ2番目に大きな島です。島の名前は、「(神を)斎(いつ)く島」に由来し、その中の「いつくしま」が

「つくぶしま」と変じ、「竹生島」になりました。また、竹生島という漢字は、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙に似ていることから名付けられたという説などがあります。

琵琶湖八景の一つに数えられ、平家物語「竹生島詣」や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島として登場し、千年を経た今日でも、その姿は人々の心をひきつけて

やみません。(竹生島パンフより)

竹生島へは、長浜港、彦根港それと今津港からの航路があります。今回は今津港から。往復の乗車券は、2700円。

出港まで時間があるので港の周りを散策します。

  

琵琶湖周航の歌の誕生の地は、ここ「今津」だそうです。(詳細は、琵琶湖周航資料館の時に紹介します)「今津」という地名は、3番の歌詞に出てきますね。

そういえば、私には記憶がありませんが、姉たちに言わせると、母がよくこの歌を口ずさんでいたそうです。福岡にも「今津」や「長浜」がありますので懐かしがっていたのかな?

 

 

9:30今津港を出港。

 

約25分で竹生島に到着。竹生島に住んでいる人はいません。お寺や神社、売店などに関わっている方は、皆さん船で通勤されています。

 

竹生島には、琵琶湖周航の歌4番の歌詞の歌碑が建てられています。

 

この島には、神社とお寺が一つずつあります。西国三十三カ所観音巡りの三十番札所である宝厳寺(ほうごんじ)、そして竹生島神社とも呼ばれる、都須夫麻神社(つくぶすまじんじゃ)。
都須夫麻神社は、明治に発布された「神仏分離令」によって、宝厳寺から分離する形で建てられました。なので、どちらの寺社も同じ神様を祀っています。

拝観料600円を支払い島内へ。

  

先ずは、「宝厳寺」(ほうごんじ)へ。

 

 

竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、

五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を

安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や

唐門などを移築させています。

本尊の大弁才天は、江の島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一つで、その中で最も古い弁才天です。そのために当山のみ「大」の字をつけ、大弁才天と称します。

開山時(724)聖武天皇の勅命を受け、僧行基が開眼したものです。本堂は、昭和17年(1942)に再建され、現在の本尊の弁才天像を安置しています。

 

弁才天:平安時代から続けられている竹生島弁才天の祭り「蓮華会」で頭役を務めた浅井久政(長政の父)が小谷城で祀られた弁才天を奉納しています。

  

不動明王:上の牙歯で下唇をかむ忿怒の様相を示す不動尊、一木造りの構造で造像は、平安時代後期頃と考えられ竹生島現存最古の彫像です。

  

三重塔:文明19年(1487)に宮大工・阿部権守が建立。江戸時代初期に落雷で消失しましたが、図面を発見し、平成12年(2000)に350年ぶりに再建しました。

古来の工法に基づいて建築し、四本柱に32体の天部の神々を描き、四方の壁に真言宗の八人の高祖を配しています。

 

急な階段を下りていきます。

 

唐門唐門とは、唐破風を持つ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築された

ものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や

松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。

文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を

竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。

 

  

船廊下:この廊下は、観音堂移築と同時に掛けられ、秀吉の御座船「日本丸」の骨組みを利用しています。急斜面に掛けられたため、その足元は、高い舞台構造(懸造)となっています。

これも唐門・観音堂と同時期に桃山様式で作られたものです。

 

  

船廊下を渡ると、都久須麻神社(竹生島神社)です。

関白秀吉公が、時の天皇をお迎えするためにその時代の粋を集めてつくった「日暮御殿」という伏見城内最高の建物を神殿として寄進したものです。

殿内には、狩野永徳・光信筆の天井絵・襖絵などをはじめ、高台寺蒔絵の柱・長押など建物すべてが極彩色に飾られており、桃山文化の代表的な国宝建造物です。

本殿内部のいたるところに華麗な装飾をみることができます。

祭神は、市貴杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、浅井比売命、龍神です。

 

 

  

 

 

  

八大龍王拝所から突き出たところにある鳥居に向かって「かわらけ」という小さな小皿を投げます。その小皿、かわらけが見事鳥居をくぐりぬければ、龍神様が願いを叶えてくれる

そうです。(鳥居の下には、かわらけがたくさんあり、白い砂のように見えます)

 

 

竹生島神社を下り、船着き場に戻ります。ちょうど彦根港から来た船が停泊していました。井伊家の家紋などでラッピングされていました。

 

11:15 竹生島発の船で今津港へ戻りました。