6/1(木)のふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「唐人町界隈のお寺巡り散策」でした。
福岡県は、お寺の数も全国で第10位だそうです。特にここ唐人町界隈には、八つの寺院があります。しかもその場所は福岡城の川沿い(城側)、海沿いに集中しています。
これは福岡藩が糸島の寺をわざわざ持ってくるなどして、二重三重にお寺を造らせたからです。。いざ戦いになったときには本堂と庭を、集まってきた武士たちの集会場や宿舎にしようと
していました。また、墓石を鉄砲の弾よけにするというねらいもあったという。つまり、お寺が防衛拠点と位置づけられていました。
唐人町西奥には善龍寺、浄(成)道寺、吉祥寺、妙安寺、当時の北の海辺にあたる場所には妙法寺、浄慶寺、正光寺、大円寺などがあります。
注】福岡城東の防衛拠点は、博多区蓮池、呉服町界隈です。
唐人町は、「筑前国風土記」には、「其始高麗人住せり」とあり、「筑前国続風土記捨遺」には、「往古は唐船が泊まりしゆえ如此名あるよし」と書かれています。
文献上に初めて登場するのは、1627年(寛永4)に成立した「筑前筑後肥前肥後探索書」です。
江戸時代には、唐津街道に沿って町家が立ち並び,これが後の唐人町商店街に発展したと考えられます。1784年(天明4)には、福岡藩の藩校として亀井南冥(かめいなんめい)による
西学問所「甘棠館(かんとうかん)」が設立されました。しかし、1792年(寛政4)10月、商家から出火した火災で炎上、そのまま廃校となり、
生徒は、東学問所「修猷館(しゅうゆうかん)」に編入され、その後も再建することはありませんでした。
注)亀井南冥 - Wikipediaは、志賀島で発見された金印を鑑定した人として知られる。
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集合場所は、大濠公園能楽堂。参加者35名。(当日は、リーダーでしたので写真が撮れませんでしたので下見の時の写真を計上しています)
コースは、能楽堂スタート~ふくふくプラザ~浄慶寺~妙法寺~大圓寺~正光寺~甘棠館~善龍寺~吉祥寺~浄満寺~金龍寺~鳥飼八幡宮~大濠公園能楽堂ゴールの約6km。
9:30スタート。今日は、担当グループのリーダー「F」さんが唐人町のお寺に関することをレポートにし、参加者に配りました。
ふくふくプラザで休憩。
休憩後再スタート。正面に「当仁(とうにん)小学校」が見えてきます。私、昔から疑問に思っていたのですが、唐人町にありながら「当仁」とは、どうして?
その疑問も解決しました。当仁小学校の「当仁」は、論語の一説にある「仁に当たりては師にも譲らず(當仁不譲於師)」ここから当仁と名付けたそうです。
明治25年(1892)当仁尋常小学校として開校しました。意味は、「人として恥ずかしくない生き方については、相手が師と仰ぐ人であっても人任せにしてはいけない」
当仁小学校の横には、「せせらぎがっぱ」の像があります。
お父さん河童はお酒の「徳利」を、お母さん河童は「魚」を手に持っています。子どもの河童は手に何も持っていませんが「夢」を持っていると言われています。
この「せせらぎがっぱ」は、この地域に伝わる「河童の松のものがたり」がベースになっているとのことです。あらすじは次の通りです。
昔、伊崎浦(いざきうら。現在の福岡市中央区伊崎)に嘉兵衛という酒好きの漁師がいました。漁に出たのですが魚が取れないため徳利から酒を茶碗についで飲み始め、ついには
寝てしまいました。嘉兵衛が目を覚ましたところ船は砂浜に打ち上げられいて、徳利の酒は海から現れた河童が全部飲み干してしまっていました。河童はそのお詫びに、嘉兵衛が
漁に出て魚が獲れない時は魚を捕まえてあげることを約束し、それから嘉兵衛はいつも漁に恵まれたということです。
浄慶寺:天正19年(1591)志摩郡今津村(現西区今津)に大友氏家臣王塚右京の長男宗教を開基として建立。元和7年(1621)荒戸に移転、更に慶安2年(1649)に唐人町に
移転し、貞享2年(1685)に本堂と境内が落慶、平成20年(2008)に大改修を経て現在に至る。
妙法寺:福岡藩二代藩主黒田忠之から寺領三千坪を拝領し、正保2年(1645)に龍玄院日応上人が開山し現在に至る。
大圓寺:康平3年(1060)早良郡西入部村(現早良区西入部)に天台宗として建築されたと伝えられている。2度の荒廃を経て、慶長12年(1607)黒田如水公夫人の援助で荒戸山山麓に
浄土宗として再建され、慶安2年(1649)現在地に移転される。本尊の大仏様は、安永5年(1776)、7年の歳月を費やして建立され、九州では稀有な樟の阿弥陀仏座像です。
五重塔は平成7年(19959福岡県初の木造五重塔として建立。高さ26,518m。
正光寺:1607年往蓮社正誉上人見貞により開山され、1687年現在地に移転し現在に至る。境内にあるインド仏跡・浄砂利蓮台石は、インドのクシナガラの十二霊場の浄砂利を埋納した
ものです。この蓮台石を踏むことによって、2500年前のお釈迦様恵を偲ぶことができます。
成道寺:元和2年(1616)呑益上人により創建。寛永18年(1641)現在地に移転。境内左手に「八兵衛地蔵尊」が」ありますが、これは、元禄時代、二つの町の消防組の間で
喧嘩になりその裁きを受ける際、大病の看護に感謝した、森八兵衛が身代わりとなり罪の裁きを受け、その供養のため建てられたものです。
唐人町商店街に入ります。この商店街は、唐津街道です。また、現在では、ソフトバンクホークスの本拠地「福岡ペイペイドーム」に一番近い商店街で野球があるときには
賑わっています。
商店街の中央には、「甘棠館(かんとうかん)」という福岡藩西学問所がありました。館長は、亀井南冥。冒頭でも述べましたが、火災によって廃校になりました。
現在では、地元の演劇グループの活動拠点になっています。「甘棠」という意味は、果樹の名です。花梨(かりん)、棠梨(ずみ)の異名。
善龍寺:山門には、甘棠館の館長だった亀井南冥が書いたとされる「瑞雲」という扁額があります。
善龍寺の裏側(ペイペイドームに向かう道路)には、「ヤクルト発祥地の碑」があります。福岡県民でもあまり知られていません。
ヤクルトの創業者である代田稔は1930年、京都帝大教授時代にヤクルト菌を発見し、貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」の理念の元に
研究開発を行いました。
そして、1935年に初代社長の永松昇が代田の想いに賛同して唐人町に「代田保護菌普及会」を作り、ヤクルトの販売を開始しました。
発祥の地にはヤクルトの形をした石碑が建てられ、歴史を今に伝えています。ヤクルトの形の下には「健腸長寿」と書かれています。
吉祥寺:遠賀郡若松村(現北九州市若松区)吉祥寺の末寺で、寛永元年(1624)開基、元禄9年(1694)寺後の地を賜るとの証文があります。
妙安寺:妙安寺の初祖は、日延(朝鮮国の人)で三代藩主黒田光之公から寺地を賜り享保4年(1719)当寺を建立しました。
唐人町から少し離れますが、今川の所に「浄満寺」があります。
浄満寺:糟屋郡に初代「浄心」が元亀4年(1573)建立して小庵を結ぶ。寛永12年(1635)本願寺より「木仏寺号御札」が下付され正式に本願寺派寺院になりました。
その後春吉村に移り、承応3年(1654)大工町(大手門)に移転、更に寛文11年(1671)に黒田藩から現在地を与えられ今日に至っています。
寺院には、儒学者亀井南冥とその一族の墓があります。
金龍寺:永正5年(1508)怡土(いと)郡高祖村に領主原田氏の菩提寺として創建。慶長16年(1611)に一時荒戸山に移転し、慶安2年(1649)二代福岡藩主黒田忠之によって
この地に移されました。境内には、「養生訓」「筑前国続風土記」などで知られる貝原益軒の墓と座像があります。
また、「出家とその弟子」「俊寛」で有名な倉田百三が執筆活動をした場所としても有名で境内に歌碑が建っています。
山門には、一般的には寺を守るために外向きの仁王像が、金龍寺では、内向きに立っており、にらみを利かせて先ずは内を治め、その徳が外に照り返ることで家庭や国が良くなるという
「回向返照」の教えから山門にも「返照」の額が掲げられています。
鳥飼八幡宮にやってきました。目を奪われるのは、本殿の壁、茅葺になっています。デザインも一新し、これからの神社の姿でしょうか?
神功皇后が三韓征伐からの帰途、姪浜(福岡市西区)に上陸し鳥飼村平山にて宴を開いた。このとき、人々が膳を用意しもてなしたところ皇后はたいへん喜び、胎内の皇子
(後の応神天皇)の将来を祝し、近臣等に自らお酒を勧め、この地に泊り、後に村長になった人物の子孫が神功皇后ゆかりの地に社殿を建てて、「若八幡」と名付けて祀ったのが
鳥飼八幡宮の発祥と伝えられています。
やな橋は、菰川に架かっていた橋です。菰川を地下水路化して作った道路と唐津街道が交わる場所に、かつて橋があったことを示す石碑が建っています。江戸時代、魚を捕るための
「簗(やな)」が仕掛けられていたことからその名がつきました。
12:00大濠公園を通り大濠公園能楽堂にゴールしました。