よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

2022年プロ野球開幕戦「ソフトバンクホークスVS日本ハムファイターズ」(福岡PAYPAYドーム)

2022-03-26 08:33:54 | 日記

3/25(金)待ちに待ったプロ野球の開幕です。開幕戦のソフトバンクVS日ハム戦を見に行きました。

今年から観客数の制限が取り外され、球場内は、人、人、人です。

開幕戦の日ハムは、監督がBIGBOSSこと福岡市出身の新庄剛志監督になり、福岡は盛り上がっています。

対するソフトバンクの藤本新監督は、BIGFACEとして対抗します。

試合は、ホークスは、エースの千賀投手、日ハムは、新人の北山投手の先発で開始。

ホークスは、初回1アウト2,3塁のチャンスを迎えるが後続が凡退し無得点。

3回日ハム、石井選手のホームランで先制。0-1

その後日ハムは、小刻みな継投で逃げ切りを図る。ホークスチャンスはあるがあと1本が出ない。

このまま終わるのかな?と思った8回、ヒットと四球で1アウト満塁のチャンスに新外国人選手ガルビスの逆転満塁本塁打で4-1。

9回は、抑えの森が3人で抑え、開幕戦勝利しました。

勝ったのはいいですが、BIGBOSSの采配に今後も苦戦するのではないだろうか?

 

 

 

 


楽しいウォーク「飯塚ウォークin鳥羽池、近畿大学」(福岡県飯塚市)

2022-03-25 05:30:28 | ふくおかウォーキング協会

3/23(水)のふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「飯塚ウォークin鳥羽池、近畿大学」でした。

集合場所は、JR浦田駅から徒歩8分の市民公園。参加者は、33名。

浦田駅から歩いて市民公園に向かいます。

 

市民公園の横には、体育館が新築工事中。

 

9:30ウォーキングスタート。

歩いていると、左側に飯塚オートレース場が見えてきます。

 

元SMAPオートレーサーの森且行さんが昨年1月飯塚オートでレース中、事故に遭い、骨盤骨折の重傷を負いました。

 

飯塚オートから国道201号線に向かいます。

 

有井の信号付近には車のディーラーが多いです。トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、・・・・・ 

 

仁保信号から鳥羽池に向かいます。ホームセンターグッディで最初の休憩。

 

休憩後再スタート。

鳥羽公園は、飯塚市の花見のスポットです。

 

 

ソメイヨシノや陽光桜などの桜が楽しめます。

 

鳥羽公園から有井の交差点に進みます。

こちらにある「近畿大学」は、産業理工学部と近大付属福岡高校です。高校は、以前近畿大学付属女子高校でしたが、約20年前男女共学になり、校名が近大付属福岡高校になりました。

 

近畿大学から柏の森(かやのもり)に入ります。

 

  

麻生大浦荘」は筑豊御三家のひとつに数えられた麻生家の初代、太吉の長男、太右衛門の住宅として建築された麻生一族の住宅のひとつです。大正末期に建てられたといわれており、

数寄を凝らした和風入母屋書院造りが美しい邸宅です。現在は麻生グループの迎賓館として利用されています。

以前は、JR九州ウォーキングのコース春編、秋編に入っていました。

 

  

11:45 JR新飯塚にゴールしました。

 

この日のGPS

ゴール後、姉夫妻が飯塚に住んでいますので、連絡し、一緒にランチをしました。

年寄りも時には、お肉を食べないといけませんね。

 

 

 

 


JR九州ウォーク「花見の名所大濠公園散策と生まれ変わった六本松エリアへ」(福岡市博多区~中央区)

2022-03-21 18:14:47 | ウォーキング

3/19(土)は、JR九州ウォーク「花見の名所大濠公園散策と生まれ変わった六本松エリア」に参加しました。

集合場所は、博多駅博多口。福岡市は、3月17日全国で一番早くソメイヨシノの開花宣言がありました。

8:52 ウォーキング開始

 

博多駅前通りをキャナルシティの方に進みます。

  

ここで茨城の歩友さんより福岡市のマンホールカードをもらってほしいといわれていましたので少しコースアウトします。

然し、下水道ポンプラザは10時開店でしたのでもらえずコースに戻りました。

 

櫛田神社から川端通商店街へ。

 

 

 

アクロス福岡から福岡市役所へコースアウトします。ここでホークスのマンホールカードをいただきます。

市役所横の桜の名所、天神中央公園に寄ってみました。まだまだ全部の桜が開花というわけにはいきませんが、それでも何本かの桜が開花していました。

  

9:30を過ぎましたので先ほどの下水道ポンプラザにもう一回行ってみます。

途中迎賓館では、ウクライナ侵攻に抗議するため、ウクライナの国旗青と黄色にライトアップされています。

  

10:00下水道ポンプラザで福岡市のマンホールカードをゲットしました。

下水道ポンプラザからコースに合流します。

  

天神から大濠公園に向かいます。福岡城址の桜も何輪か咲いています。25~26日ぐらいが見ごろかな?

 

大濠公園です。大濠公園は、黒田長政が福岡城築城の際、当時博多湾の入江の一部だったこの地域(草ヶ江と呼ばれていた)を埋め、福岡城の外濠(大堀)として城の護りとしたのがその名の由来。

その後、福岡県が造園を着工し、昭和4年に開園したのが現在の大濠公園です。日本でも有数の水景公園で、県民の憩いの場として広く親しまれている公園です。

 

  

大濠公園には日本庭園があります。

日本庭園は、桜はあまり植えられてなく、秋のモミジの方が綺麗かもしれません。

 

NHK福岡放送局、福大付属大濠高校を通りゴールの六本松へ向かいます。

 

  

今日のGPSです。寄り道をしましたので距離もその分多くなっています。

 

 


楽しいウォーク「春の今津干潟鑑賞と史跡探勝」(福岡市西区)

2022-03-17 13:46:20 | ふくおかウォーキング協会

3/16(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「春の今津干潟鑑賞と史跡探勝」でした。

このコース、私の地元でいつも散歩している所です。

今津」という地名は、博多津(博多港)に対して新しく開かれた湊(今津)です。

平安時代の仁平3年(1153)、大宰府官人層の政治腐敗を重視し、世情不安定の為、宋(現中国)からの船が博多津(博多港)を避けて今津に入るようになりました。

今津と呼ばれる前は、「登志(とし)郷」でした。「登志」というのは、可也山から見て朝日の昇る所という意味です。

集合場所は、JR九大学研都市駅、参加者は42名。

 

9:30 スタート。

 

 

今津橋から「今津」の町です。橋を渡ると右側に漁港があります。今は、レジャーボートが停泊していますが、ここが江戸時代、筑前五ヶ浦廻船「浜崎浦」があった所です。

筑前五ヶ浦廻船の説明は、下記をクリックしてください。

No.384 筑前五ヶ浦廻船展2 | アーカイブズ | 福岡市博物館 (city.fukuoka.jp)

  

四所神社の前が、カブトガニ産卵場です。

 

先の玄海サイクリングロードで休憩します。

 

ここは、野鳥の宝庫です。この日は、満潮でしたので絶滅危惧種「クロツラヘラサギ」は見れませんでしたが、1週間前の下見の日には、3羽いました。

筑前五ヶ浦廻船「今津浦」は、埋め立てられてはっきりとした地は、わからなくなっていますが、だいたいこのあたりだったと思われます。

 

三角池  ここに野鳥が集まってきます。

 

下記写真は、この近くで以前撮った分です。

  

子供の村福岡、これは親の病気や離婚、育児放棄などさまざまな社会問題を背景に、家庭的環境を失った子供たちの救済および社会的養護、自立支援を目的としたもので、

国内では初の支援事業となりました。

 

 

今津運動公園に来ました。ここで休憩します。園内では、ルピナスがたくさん咲いていました。

 

休憩後再スタート。松林に入ります。松林から長浜海岸へ。

 

博多湾

 

この博多湾ですが、

13世紀の初め、チンギス・ハンは、アジアからヨーロッパにまたがる「モンゴル帝国」を打ち立てました。その後五代皇帝フビライは、国名を「元」と改め、日本に使者を送り

通交を求めました。然し、鎌倉幕府はこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻め込み、西部に上陸して九州の御家人たちと激しい戦いを繰り広げました。(文永の役

今津地区の石塁の構造は、底部幅3m、天端幅2m、高さ3mに石を積み上げ、内部は石や砂で充填するものです。石材には、花崗岩や玄武岩が用いられています。

今津地区の工事は、大隅藩、日向藩が行いました。

 幕府は、元の再度の来襲に備えて九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で西は、今津から東は香椎迄博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石塁地(元寇防塁)を

築かせ、その場所を警備させました。防塁は、各国の分担地区によってその構造が違いますが、石材は、近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの

工法が採用されています。防塁の高さは、2,5~3,0mほどと考えられます。

この今津地区は、大隅・日向国が分担して柑子岳(こうしだけ)の麓から毘沙門山の麓まで約3kmにわたり築きました。約3mの高さまで石を台形に積み上げています。

石は、西が花崗岩、東が玄武岩、中央は二つの石材が交互に用いられています。

 弘安4年(1281)元は再び日本を攻めてきましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃に阻まれ、博多の地には、上陸できませんでした。(弘安の役

昭和6年(1931)元寇防塁は、国の史跡に指定されました。

昭和43年(1968)より復元工事が行われましたが、この時私もバイトで3日間工事をお手伝いしました。

 

 

 

野の花学園の敷地内には、「蒙古塚(もうこづか)」があります。

 

野の花学園から「勝福寺」に来ました。

  

 

勝福寺より来た道を引き返します。

 

12:10 JR今宿駅にゴールしました。

 

 


楽しいウォーク「旧唐津街道を往く」(福岡県粕屋郡新宮町)

2022-03-11 09:47:30 | ふくおかウォーキング協会

福岡県は、コロナの感染者はまだ高止まりの状態ですが、3/6(日)やっとまん延防止重点措置が解除されました。

まだまだ油断できない状況ですが、少しは明るい材料になったと思います。

3/9(水)まん防解除最初の楽しいウォークは、「旧唐津街道を往く」です。

集合場所は、JR新宮中央駅。参加者は40名。コースは、新宮中央駅~三代公民館~旧唐津街道~大神神社~JR福工大前駅ゴールの約10kmです。

 

9:30 スタート

 

最初の休憩は、「そぴあしんぐう」

「そぴあしんぐう」では、5/14 講談師「神田伯山」さんの独演会が予定されています。

 

旧唐津街道に入りました。

夜泣き観音」は、元禄11年(1568)立花城が落城した時、城主鑑載の妻子は城を脱出し、この橋の下に隠れた。しかし子供が泣きやまず、もはやこれまでとあきらめて観音経を唱えた

ところ、子供は泣きやみ、追っ手から逃れることができたという。以後子供の夜泣きを治してくれる観音様と呼ばれているという。

 

原上から山道(旧道)に入ります。この道は、殿様道と呼ばれ、緑のトンネルの中を歩きます。

 

下記右の写真辺りに「駕籠立場」がありました。

 

  

山道を下ると「福岡市」に入ります。ここからゴールの福工大前駅に向かいます。

大神(おおみわ)神社 祭神:大物主神(おおものぬしのかみ)

神功皇后、三韓御渡航の節、大和の将兵この地に駐屯、その折勧請し渡航の無事を祈願したと伝う。立花城の守護神として城主の篤い崇敬をうける。元亀二年、立花城主より■明田の寄進あり、立花城家臣の一族、安河内延昌(安河内家祖)が下和白を領し、この地に移住し、大神大明神を分祀する。

慶長五年、下和白村となり、古宮(生水)より現境内地に社殿建立し御遷座する。

寛文十年、御社殿奉再建さる。

 明暦元年(1655)の石灯籠や正徳四年七月に安河内善六他氏子から寄進した鳥居(和白地区最古)等がある。

 

大神神社の横には、「宮前古墳群」があります。

高美台地区には猿の塚古墳、高見古墳群、宮前古墳群の9基の古墳が知られていましたが、団地の造成で消滅し、現存するのは3基の円墳からなる宮前古墳群だけになっています。

6世紀の終り頃(古墳時代)に造られた3号墳は、とくに築造当時に近い姿をとどめています。墳丘の径は約10m、埋葬施設は長さ7.3mの横穴式石室です。昭和45年の調査で石室内から須恵器、

土師器、ガラス玉が出土しました。また、中国製の白磁碗も出土していることから、中世にも墓として使われたようです。

2号墳は調査後埋め戻し保存されていますが、大神神社西側の1号墳は石室を見学することが出来ます。

これらは、東区内に残っている数少ない古墳群のひとつです。大切に保存して後世に伝えていきましょう。

 

正面に「令和健康科学大学」があります。隣にある「和白病院」が経営する大学で今年4月開校します。

 

福岡工業大学の横を通り、ゴールの福工大前駅へ。

 

11:40  福工大前駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 


天領日田お雛祭りを訪ねて(大分県日田市)

2022-03-08 13:39:14 | ウォーキング

3/5(土)は、JR九州ウォーキングで「天領日田お雛祭りウォーク」に参加しました。

江戸幕府の西国筋郡代の役所が置かれ、九州随一といわれるほどの繁栄を極めた天領日田

掛屋を中心とする豪商たちが活躍し、町人文化が花開いた日田の旧家には、京や大阪で買い求めた絢爛豪華なひな人形やひな道具の数々が今も残されており、おひなまつりの期間中、

豆田町や隈町の旧家や資料館でひな人形やひな道具を、一斉に展示・公開しています。(日田市HPより)

 

スタートは、JR日田駅。 日田駅から隈地区にある三隈川に向けて歩きます。

日田は、昨年日田街道を歩いた時以来1年ぶりです。

  

明治32年(1899)創業の原次郎左衛門味噌・醤油店。ここの雛飾りを見せてもらいました。

   

黎明館・・・元大分銀行日田支店その後押し花会館になりましたが、3年ほど前閉館しました。

 

山田氏宅は、日田の天領時代の御用や掛屋並びに町年寄を務めた旧家で屋号を京屋。家屋は文化13年(1815)の建築です。

※掛屋とは、江戸時代、幕府・諸藩の公金出納を扱った商人。諸藩の掛屋は、蔵物の売却代金を江戸屋敷や国元に送金したり、金融を引き受けました。

三隈川に架かる銭渕橋を渡ります。

  

三隈川といえば、鵜飼も有名です。毎年5月20日〜10月31日、大分県日田市の日田温泉で『三隈川の鵜飼』が行なわれます。文禄3年(1594年)、日田を治めた豊臣秀吉の家臣・宮木長次郎が、

岐阜城下から鵜匠を招いて三隈川で鵜飼をさせたことが始まりといわれています。幕府直轄の天領となった江戸時代に着任した代官が始めたともいわれる歴史ある鵜飼です。

 

 

河畔にある「亀山公園」は、桜の名所です。

 

 

白壁の町を歩いていると「毬」を作っているお店がありました。中を見せてもらいます。

  

日田祇園山鉾会館・・・日田市では、日田祇園の歴史的伝統文化の保存と祭りの振興をはかるために、日田祇園山鉾会館を建設し、昭和63年7月31日にオープンいたしました。
館内には、6基の山鉾ととラシャ地に金糸銀糸の刺繍を施した「見送り」や「水引き」などの祇園祭に関係あるものを展示しております。

日田祇園山鉾は、平成28年(2016)ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」に登録されました。

  

 

日田祇園山鉾の舞台になる「八坂神社

 

この神社には、「叢雲(むらくも)の松」があります。樹齢約300年、幹の最大周は、約2m、地上約1mの高さから東西左右に横に分かれて這い、東股の枝先は延長約20m、

西股は延長約15m、その形状は臥竜のように社殿を半周して樹高は3mに及んでいます。

 

寺町を通ります。

 

久大本線のガードを潜ります。

日田養育館は、明治元年に日田県知事として着任した松方正義は、明治二年(1869)この地に棄児・孤児・貧児収容所として養育館を創設し360余名を養育しました。

この養育館は、我が国の孤児院発祥の地ともいわれています。

 

咸宜園(かんぎえん)江戸時代、天領の日田が生んだ学者、教育者、そして詩人でもある広瀬淡窓が開いた私塾が咸宜園。広かった敷地のうち、東塾の跡に現在、秋風庵、遠思楼などが残され、1932(昭和7)年に大分県で最初の国史跡に指定された。
淡窓は1782(天明2)年に日田の豪商・広瀬家の長男として生まれたが、病弱だったため家督を弟の久兵衛に継がせ、生涯を学問と教育にささげた。福岡藩の亀井南冥の塾で儒学を学んだあと、

日田に帰り闘病生活のなかで独学を続け、1805(文化2)年に私塾を開く。
塾は成章舎、桂林荘と続いて十余年後に咸宜園となる。「咸宜」は中国の古典「詩経」からとられた言葉で「ことごとくよろしい」の意味。言葉通り、塾に学ぶ者は平等。入学に際しては名簿に

必要事項を記入すれば、身分、年齢、学歴に関係なく横一線で学習を始めた。
ただ、平等主義に加えての実力主義で、勉強は厳しかった。毎月の試験成績によって無級から九級にまで位置づけられた。さらに講義はもちろん、会計や食事、清掃など塾の運営から

図書の管理まで、塾生の分担で規律正しく進められた。学力だけでなく、社会性や人間性を育む教育システムだったと言える。
淡窓に「休道の詩」がある。「道うことを休めよ他郷苦辛多しと。同袍友あり自ずから相親しむ…」。学問と塾生活の苦楽を「諸生ニ示ス」ものだった。
全国六十余州から塾生が集まり、時には200人を超え寮制を敷いた。日本最大級の私塾で、閉塾までの80年間に入門者は女性も含めて4800人といわれる。高野長英、大村益次郎、上野彦馬、

中島子玉、長三州などなど。1856(安政3)年、淡窓没。墓地は近くの長生園にある。(おおいた遺産より)

 

 

 

豆田町に入りました。

江戸時代からの町並みが残る豆田町は、観光スポットとしても大変人気があります。当時の商家や土蔵が多く残る古い町並みが大切に保存され、国土交通省の「美しいまちなみ大賞」を

受賞するとともに、重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。

 

日田草野氏は古くは古代筑後国の領主であり(白雉年間=7世紀)その子孫が12世紀筑後国在国司、押領司に任じられ竹井城主となり、その後発心城主となりました。

天正16年豊臣秀吉の九州征伐の折落城し、当主草野家清は熊本県南関にて謀殺されたと久留米市史に記載されています。落城に伴い一族は九州各地に離散し、その一部が日田の草場に逃れて

移り住み、徳川治世となった寛永18年(1641年)豆田町に屋敷を構え、元禄9年(1696年~元禄元年との説もある)現在地に新居を建て現在に至っています。

屋号は「枡屋」と称し、荷印(今でいうトレードマーク)を(かくじゅう)と定め、精蝋業を行い大いに繁栄しました。

江戸後期には郡代(幕府直轄地の代官)御用達の掛屋を務めるほか、窮民の救済や治水等の公益事業にも力を尽くしたことから、市内港町に石碑が建立されており、日田市先哲にも公益事業化と

して7代前の当主が加えられています。

ここ八代は忠右衛門を襲名しており、親交のあった広瀬淡窓が当家の家憲(仏教篤信と親孝行)を書したものがあり、家宝として大切に保管されています。(草野家HPより)

 

 

日田醤油の雛御殿に入りました。

天皇献上の栄誉を賜った高級味噌醤油醸造元日田醤油。その歴史は古く、文久二年、天領日田の城下町に中山永太郎が、麹屋として甘酒・味噌醤油の醸造を開始したところから始まります。

その後百七十年の長きにわたり「自然の素材を自然に扱う」というモットーに従い時代の波に流されることなく、昔ながらの製法により伝統を守り続けています。(おいでませひた.comより)

  

入場料を払い館内へ。入ってみるとお雛様がいっぱい。江戸時代(享保、天保)のひな人形などが約4000体飾られています。

         

   

 

 

  

  

 

 

  

  

いろいろなお雛さんに感動し、先へ進みます。

薫長(くんちょう)酒造では、男はつらいよ「お帰り寅さん」シリーズを記念し、オリジナルラベルを貼った日本酒を発売していました。

  

上町通りを通りゴールの日田駅に向かいます。12:12日田駅にゴールしました。

  

今日のGPS

 


九州オルレ筑豊・香春(かわら)コース(福岡県田川郡香春町)

2022-03-01 07:15:01 | 九州オルレ

2/26(土)車をJR香春駅に置き、香春駅からJRで九州オルレ筑豊・香春コースのスタートの「採銅所駅」に移動します。

採銅所駅には、桜の木が植えられています。桜の頃はきれいでしょうね。

この採銅所駅には、私、2015年(平成27)JR九州ウォーク採銅所開業100周年ウォークで一度訪れています。

  

採銅所」という地名は、周辺の香春岳で銅の採掘をしていたことに起因します。この鉱山の銅は、東大寺大仏の建立や宇佐八幡宮の神鏡にも用いられました。

8世紀ごろから採掘されていたのではないでしょうか?駅舎は、大正4年(1915)に建築された建物です。(今年で107年)

 

九州オルレ筑豊・香春コーススタートです。

  

 

だんだん山道に入ってきます。

  

倒木の所には「青春の門」と書いてます。青春の門というと、作家五木寛之さんが書かれた小説なんですが・・・・どういう意味だろう?などと考えていると

この倒木が青春の門なんですね。勿論、私の青春を思い出し無事潜れました。  この看板、見方によっては、「香春の門」とも読めますね。

  

山道が竹林から杉林に変わっていきました。

スタートから約45分で1,8km地点の「矢山の丘304m)」に到着しました。頂上には、「幸せの鐘」があります。

  

  

休憩後再スタート。2,4km地点が御長生(おちょうず)金山跡です。

然し、山の中の鉱山で掘った鉱物をどうやって運んでいたのでしょうか?この時代だと人力かな??

 

御長生の滝

  

やっと山を下りてきました。

 

神間歩(かみまぶ)公園に着きました。

  

 

説明文によると、香春町採銅所は、金、銅、鉛鉱などの採掘や製錬地で、官営の機関「採銅使」が置かれた所である。

奈良時代、清祀殿(せいしでん)と「神間歩(蟹間覆ともいう)」は、銅を精錬し宇佐八幡宮へ御神鏡鋳造、奉納した所縁の地であると「古宮八幡宮御鎮座伝記」などに記されている。

それらによると、清祀殿での御神鏡鋳造に先立ち、香春岳を御神体とした「お山開き」の祭事が行われ、古宮八幡宮の神官が、山ノ神に御神酒を供え、幣帛、祝詞を捧げ、

次に摩覆の口に注連を曳き、御幣八本を立て、散米、榊葉を供え、禊を修めてそれから金銅を掘っていたということである。

「神間歩」は、その深さ、鉱壁、位置、掘り出された坑口、石塊、付近の構造等合わせて考える時、神事を行った場所と推察される。

奥壁には、祭壇らしきものがあり、千二百数十年を経た今日でも「神」をとって「神間歩」と呼称されている。

尚、神間歩の上部にも銅を掘った間歩(坑口)が数か所ある。更に三の岳周辺には、古宮、横鶴、水晶、床屋、宗丹、ズリネなど金、銅鉱山跡が多く点在している。

香春岳・三ノ岳に位置する「清祀殿跡」。
平安時代後期の天慶2年(939年)に、「小宮八幡宮」(田川郡・採銅所)が「宇佐神宮」に神鏡を奉納したという記録が残っているが、その神鏡を実際に鋳造した場所がこの「清祀殿跡」だ

と考えられている。付近には銅を採掘した坑道「間歩(まぶ)」があり、宇佐神宮にゆかりが深いこの場所は「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれている。
拝殿風の建物(写真)の屋根は板葺で、九尺間を一間とする三間四方。土間の中央には鍛冶床があった。この建物の後ろには祠と花崗岩の石柱が3基あり、この石柱に完成した神鏡を

安置していたと思われる。1956年に福岡県の文化財(史跡)に指定された。

 

先に進みます。この公園にも桜が植えられていて花見で賑わうのではないでしょうか?

日田彦山線のトンネルを潜り、甘木橋に向かいます。

  

 

金辺川あたりが宮原コスモス畑です。秋には一面コスモスが咲きだします。

金辺川沿いに歩くと前方が側溝工事中です。コースでは、ここから左折するようになっているのですが・・・・

仮の橋を通り、見晴らし展望台に向かいます。

 

先へ進みます。山道を歩いていると前方の竹林がふさがっています。イノシシ除けでしょうか?

自動ドアではないので自分で開けて入ります。

 

 

六十尺鉄橋」(正式名:第2金辺川橋梁)があります。

現在の日田彦山線、「小倉~添田」は、大部分の区間が私鉄の小倉鉄道が大正4年(1915年)に開業しました。この区間の最大の難所が金辺峠を貫く1,4kmの金辺トンネルと

金辺川を跨ぐ第2金辺川橋梁です。この鉄橋は、高さ、更には中央の橋脚の両端である空間が約18mの為、地元では通称「60尺の鉄橋」で親しまれています。

アーチ橋の曲線に対し、第2金辺川橋梁は、直線美とともに中世ヨーロッパの城壁を思わせる石積み構造が鉄道建築物として高く評価されています。

  

 

道の駅わぎえの里香春に到着しました。「わぎえ」とは、我が家のこと。

国道201号線横の「道の駅わぎえの里香春」は、「古代官道」が通り、馬家(うまや)と呼ばれる宿駅があって、食べ物や宿泊所、馬が置かれました。

太宰府から豊前国府(福岡県みやこ町)に行く「田河道」(田川)は、草野津(行橋市)から瀬戸内海を経て都に至る最短距離の道でした。役人の往来、軍隊の移動、租税や産物の都への

運搬を行い万葉歌人も訪れました。

時計を見るともう13時です。今日は朝が早かった為、お腹もすいてきました。道の駅に入り、お弁当を買って道の駅裏の万葉公園でお弁当をいただきます。

 

 

万葉公園は、平成24年(2012)5月に開催された「第63回福岡県植樹祭」にて、萩や山吹などが植樹されました。四季折々の万葉集に詠われた植物をみることができます。

 

 

お腹もいっぱいになり、再スタートをしようかとマップを見ますが、ここから先はまた坂道が続きます。

満腹状態ではとても坂道を上ることができません。道の駅から直接香春駅に向かいます。(ショートカット)

 

14:07 香春駅に到着しました。香春駅には。映画「青春の門」の看板がありました。これは、1975年製作の田中健さん、大竹しのぶさんの作品です。

 

今日のGPS 道の駅からショートカットしました。