今年も我が家の庭に梅の実がなりました。
昨年、初めて「梅干作り」に挑戦し、何とか食べられるくらいにできましたので、今年もチャレンジしました。
梅3k弱。ホワイトリカー、伯方の塩を用意し、梅干作りを開始します。
梅は、ヘタをとり、よく洗います。水切りして、ホワイトリカーに漬け、それから塩をまぶします。
まぶしてから、樽に詰め込みます。その時に荒塩を振りかけます。
樽に入れ終わったら」、重しをします。
うまい具合に梅酢があがってくるでしょうか?1か月後が楽しみです。
今年も我が家の庭に梅の実がなりました。
昨年、初めて「梅干作り」に挑戦し、何とか食べられるくらいにできましたので、今年もチャレンジしました。
梅3k弱。ホワイトリカー、伯方の塩を用意し、梅干作りを開始します。
梅は、ヘタをとり、よく洗います。水切りして、ホワイトリカーに漬け、それから塩をまぶします。
まぶしてから、樽に詰め込みます。その時に荒塩を振りかけます。
樽に入れ終わったら」、重しをします。
うまい具合に梅酢があがってくるでしょうか?1か月後が楽しみです。
5/24(日)JR九州ウオーキングで「川崎パン博ウオーキング」に参加しました。
集合場所は、日田彦山線「西添田駅」。8:30到着の列車は、満員状態。皆さん、この西添田駅で下車されます。
中元寺川沿いの田園地帯を眺めながら、魚楽園までの「雪舟ロード」を歩きます。室町時代に僧侶であり水墨画家として活躍した雪舟が、田川郡に一時滞在していた際に「魚楽園」を築庭したといわれており、
国の名勝にも指定されています。雪舟ロードは、1988年(昭和63年)9月に廃止になったJR上山田線の跡地を歩行者道にしたものです。
※「旧上山田線」・・・・・・石炭輸送を主な業務とし、その合間で旅客輸送を行っていた。明治28年に飯塚駅から臼井駅までが開業、同36年に上山田駅まで繋がった。
その後昭和41年に、周防灘沿岸の苅田(かんだ)港まで延伸させる計画の一環として、現在のJR日田彦山線・豊前川崎駅まで延ばされ、全長25.9kmとなったが、
その頃には石炭需要は衰退し、苅田港までの延伸は不要となって、結局、豊前川崎駅が終点となってしまった。
その後は他のローカル線の例と同じく赤字が続き、昭和63年、とうとう廃止された。
約1時間ほどで、「魚楽園」に到着。この庭園は、僧雪舟が、天然の山を利用し、池を掘り石を畳み水を引き、枯淡愛すべき庭園です。
「魚楽園」という名は、詩経の「魚楽しければ人又楽し、人楽しければ魚又楽し」というのから命名したそうです。
この魚楽園には、周りにモミジが植えられており、秋の紅葉シーズンは、素晴らしい光景でしょうね。
魚楽園を後に、再び雪舟ロードを戻って行きます。途中、旧上山田線「真崎駅」跡の碑がありました。その隣には、川崎町産直販売店「De・愛」があります。
これから今日のメインイベント「パン博」に向かいます。10:00オープンですので今から行けば、11時前には、着きそうです。
自然と急ぎ足になりました。11時川崎町役場にある「パン博」会場に着きました。見ると、入場制限が行われており、私たちの前には、約200人の方が並ばれています。
係りの方にどのくらい待てば入れるかと尋ねますが、「わからない」とのこと。おまけに今日はいい天気で気温も30度近くありそうです。
10分ぐらい並んでいましたが、一向に進まず、あきらめてゴールの豊前川崎駅に向かいました。
折角美味しいパンが食べられるなと期待してましたが、残念です。当日は、25,000人ぐらいの方が詰めかけたそうです。
なお、このパン博、6/1~3まで規模は小さくなりますが、博多駅9階でも行われるそうです。そちらの方に行ってみるつもりです。
今日のGPSです。帰り際、道の駅に立ち寄り、「石炭ソフト」をいただきました。チョコと竹炭で石炭の「黒」を現しています。
5/17(日)若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目。
今朝は、昨日の雨も止み、朝から晴天です。今日も車さんにホテルまでお迎えに来ていただきました。
2日目は、「五湖一周ふれあいの道」と称し、三方五湖を歩きます。三方五湖は、三方湖、菅湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖、水月(すいげつ)湖の五つの湖です。国指定の名勝で若狭国定公園に属しています。
また、2005年(平成17年)11月にラムサール条約指定湿地に登録されています。
今回20kmコースで歩くのは、三方湖、菅湖、水月湖の3つです。
出発式では、9月に行われる、若狭のお祭り「若祭」が紹介されていました。「若祭」のスタッフの方の「激」、若狭町コロッコ少年少女合唱団の「さんぽ」の合唱でスタート。
今日も車さんご夫妻、Kiyoさんご夫妻と歩きます。
会場をスタートした後、舞鶴若狭自動車道に向かって歩きます。この自動車道昨年開通し、1年目を迎えます。昨年は、このコース開通前の自動車道を歩いたそうです。
三方湖を通り、菅湖へ 。菅湖は、周囲4,2km、水深14mの淡水湖でコハクチョウや鴨、オジロワシなどの野鳥も飛来するそうです。(中央の山が梅丈岳でしょうか?)
4,4km地点の「浦見川赤橋」が1回目のチェックポイント。このあたりから、水月湖になります。
水月湖と久々子湖は、この浦見川でつながっています。水月湖では、水上スキーを楽しんでいる人がいました。
この湖畔の道路は、日本の道百選にも選ばれています。ムカデも歓迎してくれました。
水月湖周辺には、梅の木がたくさん植えられています。そういえば、昨日参加記念品として「梅干」をいただきました。
11:15 2回目のチェックポイント「海山屋内ゲートボール場」に到着。ここまで12km あと10kmです。(この20kコースは、22,8kmあります)
昼食会場になっており、今朝、車さんから頂いた「焼サバ寿司」をいただきます。
30分ぐらい休憩の後、再び出発。
【世界の歴史の物差し】
水月湖の底には、「年縞(ねんこう)」と呼ばれる縞模様が過去7万年にわたり途切れることなく堆積しています。この水月湖の年縞は、地質学や考古学で年代を特定するための
世界水準の物差しとして使われています。2013年9月に公表された水月湖のデータを新たに組み込んだ物差しは、化石や遺物などの年代測定の精度を従来より飛躍的に高めました。
年縞が出来るためには、地形や周辺環境が大きく影響します。水月湖で年縞ができたのは、直接流れ込む大きな河川がなく、山々に囲まれた地形の為、水や風の影響をうけないことや
湖底に酸素がないため、生物により年縞がかき乱されないこと、更に沈降を続けているため、湖が埋まらないことなどの条件が揃ったからです。
このような湖は、世界的にも珍しく、まさに水月湖は、「奇跡の湖」と言えます。
水月湖の年縞は、1年で平均0,7mmの薄さで、そして7万年という非常に長い年月をかけて堆積したものです。(案内板より抜粋)
恥ずかしい話ですが、私自身、この「年縞」という言葉は、初めて聞きました。水月湖は、水深38m。この湖底に、「宝」が埋まっているのですね。
観光船乗り場の先には、直売所があります。ここでは、「梅干」と「梅ジュース」のサービスがありました。
若狭の梅干を初めて試食しましたが、酸っぱくもなく、塩辛苦も無くおいしい梅干です。
私は、昨年自宅の梅で、初めて「梅干」を漬けましたが、ちょっと塩が強かったのか、あるいは、焼酎を入れすぎたのか、あまりうまくできませんでした。
また、今年も漬けますが、今年こそこの「若狭の梅干」に負けない梅干を漬けたいと思ってますが、果たしてどうでしょうか?
水月湖のビューポイントがありました。ここでみんなで記念写真を撮りました。
水月湖の河畔には、梅の木が続きます。ここで事件?
歩道に転々と血痕が・・・・・・最初は、梅干の汁かな?と思いましたが、どうも血痕みたいです。
「犯人?を探そう!」 車さんをキャップに私達は、刑事ドラマの「刑事」になりました。 Kiyoさんが、テーピングや救急絆創膏の入った救急袋を持って先に行きます。
その結果は・・・・・・・シューズの破れた方を発見! その破れたシューズの踵のマメがつぶれていました。本人は、痛くないということでしたが、Kiyoさんがテーピングで応急処置をされました。
あとゴールまで6kmぐらいですが、無事ゴールされたでしょうか???
このあたりから、三方湖になります。湖面には、年縞に使う「イカダ」があります。人が乗ってる様子でしたが、よく見ると人形でした。
湖面には、釣竿が並んでいます。その中で人集りができています。見ると、大きな「鯉」です。体長1mを超す大物です。
釣り上げる時は、重たかったでしょうね。この鯉、計測してリリースするそうです。
三方湖には、江戸初期から伝わる伝統的な漁法「たたき網漁」というのがあります。竹ざおで水面をたたくと、水温の低下で動きが鈍くなっている湖底の魚は、驚き徐々に網に追い込まれていきます。
11月下旬から3月末頃まで続けられ、鯉や鮒が獲れるそうです。
湖畔には、萱葺き屋根の「舟小屋」が建っています。これは、田井地区の人が、湖を渡り、対岸の畑に農作業に行くときや、獲れた梅を集荷し、周辺地域へ販売するために若狭街道まで
運搬するのに使われた小舟の小屋です。
湖畔道路の国道162号線は、バイクでツーリングされている方を見かけます。それも大型バイクです。今日は、天気もいいのでツーリングも最高でしょうね。
また、目につくのは、梅の販売所。伊良積が福井梅の発祥地だそうです。
梅の里会館の「梅ソフトクリーム」が美味しいということで、入ってみました。1個250円。
丁度喉も渇いていたので美味しかった・・・・・・
先を歩いていると、皆さん立ち止まって山の方を見ています。何事だろうとみてみると、「猿」がいます。あわててカメラを取り出して写そうと思いましたが、すぐ山の方に帰って行きました。
お猿さんもこの大会に各地から来られたウオーカーさんに声援を送っていたのでしょうか?
道の駅三方五湖に着きました。ゴールまであと2,4km。
若狭町は、縄文時代の遺跡があります。縄文時代というと、今から約15000年前。使う道具が石器から土器に代わったころです。
三方湖のほとりにある「鳥浜貝塚」は、縄文人のカプセルとも呼ばれ、数多くの縄文時代の遺物が発掘されています。
出土した遺物の中には、丸太舟もあることから、縄文人は、この舟に乗って漁をしていたのではないでしょうか?
こういった縄文時代の遺物を「若狭三方縄文博物館」に展示されています。
鳥浜貝塚跡を過ぎ、鰣(はす)川沿いに歩くとゴールの「さとうみパーク」が見えてきます。
14:00 20kmゴール (実際は、22,8kmでした)
ゴールでは、マグロのお刺身が振る舞われました。
ゴールした後は、昨日同様、みかた温泉「きららの湯」へ。
入ると人がいっぱいです。そのほとんどがウオーカー。私もそうですが、皆さん汗を流して帰られるのですね。
今日の20kコースのGPSです。
平均時速は、5,2k/h。途中休憩が1時間以上ありました。
2日間、初めて若狭町を歩きましたが、初日の雨は、残念でしたが、若狭町を挙げての「お・も・て・な・し」に大感激しました。
また、「御食の国」ということで食べ物もおいしかった。
次回は、40kmの方にも参加してみたいです。出発時間をあと15分遅らせていただくとよろしいんですが・・・・・・・・
2日間、私達をエスコートしていただきました「車さんご夫妻」本当にお世話になりました。
楽しくて大満足のウオーキングでした。本当に有難うございました。また来ます!
【追記】
第24回若狭.三方五湖ツーデーマーチ」参加者
2日間で4646人。昨年が6097人でしたから、やはり初日の雨が響いたのでしょうか?
若狭・三方五湖ツーデーマーチ1日目ゴールの後、ブログ友達の車さん、kiyoさんと一緒に三方五湖の方にドライブに行きました。
レインボーラインからの三方五湖の眺めがすばらしいのですが、今日は雨。車さんに電話で確認してもらうと展望台は視界0とのこと。
レインボーラインは次の楽しみにとっておくことにしました。
三方五湖 廻りに変更して連れて行って下さいました。
三方五湖は、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の五湖です。
先ずは、三方湖。
日向(ひるが)湖
映画「釣りバカ日誌」や「夜叉」のロケ地になった所です。日向漁港は、若狭湾に面し、福井の料理「へしこの里」でもあります。※「へしこ」とは、魚の糠漬け。
この橋の下では、毎年1月15日に水中綱引きhttp://www.wakasamihama.jp/kankou/legend9.htmlが行われます。
湖ですが潮のにおいがします。
今夜は、車さんのお宅で夕食をいただくという楽しみが待っています。
車さんの奥様は、20kゴールの後、準備のため先に帰られました。(本当にありがとうがざいました)
食卓には、奥様の手料理がたくさん並んでいます。
ナマス、煮物・・・・・本当においしかった。
また、私のたっての希望の「鯖寿司」「焼サバ寿司」「おろし蕎麦」も用意されていました。
福井のおろし蕎麦は、先週のテレビ「ケンミンショー」でも紹介されていました。
私は、昨年、福井ウオーキングに行ったときにこの「おろし蕎麦」に出会い、すぐファンになってしまいました。
また、焼き鯖寿司は、福井でも嶺南地方が本場ですので本場ものを食べられ、もう幸せいっぱいです。
えんがわ寿司も初めていただきました。 美味しかったです。
美味しいお料理を前に話は やっぱり ”ウオーキング” 大盛り上がりで時の経つのを忘れるほどでしたが、
明日のウオーキングの為に大人の時間前に解散しました。
今日は朝は車さんに迎えに来ていただき 帰りは奥様に送って頂くという贅沢な1日でした。
2015年5月16~17日に行われた「第24回若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に参加しました。
16日は、「若狭鯖街道」。私たちがエントリーしたのは、20kmコース。
今年4月に文化庁が発表した日本遺産最初の18件の一つとして「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食(みけつ)国若狭と鯖街道」を選びました。
「御食国」(みけつくに)とは、古来、朝廷に「御贄(みにえ)」(「御食」:天皇の御食料を指す)を納めた国のことです。 万葉集においては、伊勢・志摩・淡路などが御食国として詠われるとともに、
若狭については、平安時代に編集された「延喜式」に、天皇の御食料である「御贄(みにえ)」を納める国として、志摩なとどと共に記されています。
また、奈良時代の平城京跡から出土した木簡の中に「御贄(みにえ)」を送る際につけた荷札が発見されていることなどからも、御食国であったことがうかがい知られます。
若狭は、古くから塩や海産物等を納める「御食国」として、歴史的に重要な役割を果たしてきました。
その御食国として、若狭国などの小浜藩領内の魚介類を京都へ運搬する街道で、主に鯖が多かったことから「鯖街道」と呼ばれています。
会場は、若狭町役場三方庁舎横にある「若狭さとうみパーク」。
この大会2日間の内どちらかに雨が降るというジンクスがあるようで、初日の今日は、朝から小雨。ジンクスは当たっていますね。(笑)
今回、ブログ友達敦賀の車さんご夫妻、埼玉のkiyoさんご夫妻と同行させていただきました。
車さん、kiyoさんは、オールジャパンあと1県で達成とのこと。今年中には達成されるそうです。それに比べ私たちは、ようやく30県を達成したところです。
9:00 曾我廼家福助さんの「激」と三方中学吹奏楽部の「妖怪ウオッチ」の伴奏で出発。
若狭町(旧三方町)のマンホールは、魚の部分は、三方五湖、右側に梅の花、左に梨、下は、三方富士と呼ばれる梅丈岳をイメージしています。
若狭牛は、神戸ビーフや松坂牛などの名称で販売されている但馬牛の系統です。若狭は、お魚もおいしいですが、お肉も絶品だそうです。
4,4km地点のB&G海洋センターが最初の給水所です。
円成寺の「みかえり松」は、宝暦元年(1751)淳長和尚手植えの松と伝えられ、樹齢が約260年余りのクロマツです。
幹周り7,4m、樹高12m、枝張が東西28m、南北30m、。どの方向から眺めても美しい枝張の名木であることからこの名がついたそうです。昭和49年、福井県の天然記念物に指定されています。(案内板より)
円成寺を境内を抜ける所に「地蔵尊」があります。糗麨(はったい)地蔵尊と書いてあります。はったいというと、大麦で作るはったい粉のことでしょうか?
この「はったい地蔵」ネットで調べてみました。若狭和田観光協会HPにこのお地蔵さまが載っていました。
西の方から和田区に入ってまもないところ県道(昔は若狭街道と呼んだ)沿いに、高さおよそ四尺(一・二〇メートル)ばかりの石碑が立っている。この石碑を村人は″はったい地蔵“という。
そういわれるようになったのは、開き違いからだった。
いつのころからか、街道沿いに石碑は立っており、石の表面には『応無所住而生其心(おおむしょじゅうにしょうごしん)』(金剛経の一句)と刻まれていた。
むかし、このあたりに一人の老婆がいて、いつも石碑をおがんでいた。そして、石碑に祈っては、病に苦しむ人を助けた。「おばばにおがんでもらうと、体がいつのまにか楽になってくる」
「わしゃ、足の痛いのを治してもらいたいので、お頼みしたら、いっしょうけんめいに石碑に祈ってくれた。お陰で、治ったよ」そんな噂を開いて、病む村人たちが老婆のもとへとやってきた。
老婆はお経を唱えているのだが、みんなの耳にはどうも「オームギ、バッタイ、ニショウゴンゴウ」(大麦ばったい二升五合)と、聞こえる。それもそのはず、みんなには石碑の表に書かれている字がむずかしくて読めなかったから、
日頃、使いなれている言葉に、聞こえてしまう。その方が覚えやすいのだ。
そうこうするうちに、村人たちはこの石碑を“はったい地蔵”というようになってしまった。また、この″はったい地蔵“には乳の出を必ずよくしてくれるご利益があるといって、乳の出が悪い人が願をかけにきた。
そして、願いがかなって乳のでがよくなると、そのお礼に”はったい″(麦の新穀を炒って、ひいて粉にしたもの)を供えるのが、ならわしとなった。このならわしは今も続いているという。
若狭町白屋地区に入ってきました。歩道には、お花がプランターに植えられています。「白屋フラワーロード」と呼ばれているそうです。
歩いていると、田んぼには、もう田植えが終わっています。これは、「コシヒカリ」でしょうか?美味しいお米の「コシヒカリ」は、この福井県で誕生しました。
田んぼの廻りには、古い旧家が建っています。正に日本の田園風景ですね。私の子供のころは、こんな景色でした。この風景を見ると心が落ち着きます。
10km地点の「かみなか農楽舎」がチェックポイントです。 かみなか農楽舎は平成14年に福井県若狭町役場、地元農家、民間企業が共同出資して、福井県若狭町に誕生した農業生産法人です。
設立当初から、都市からの若者の就農・定住を促進し地域集落を活性化する『就農・定住事業』に着手、この就農・定住事業を主軸に、農業生産(米・野菜)や加工だけでなく、
農業体験事業など、多角的な農業経営に取り組んでいます。(かみなか農楽舎HPより)
かみなか農楽舎を過ぎると緩やかな上り坂に差し掛かります。右側は「わかさカントリー倶楽部ゴルフ場」です。
ここで7:15にスタートした40kコースの方とすれ違います。40kコースは、今、私たちが歩いてきた道を歩かれます。福岡から参加されたAさんとここですれ違いました。
坂を下りてくると「熊川」に入ります。
若狭では、いつのころからか、小浜を中心に「京は遠ても18里」と言われていました。
若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には、本来それぞれ固有の呼び名がありますが、近年、運ばれた物資の中で「鯖」が特に注目され有名になったことから、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになりました。
その内、最も盛んに利用された道は、小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り、京都の出町柳に至る「若狭街道」です。
若狭から運ばれた鯖が京の都に着く頃には、ちょうどよい塩加減になったと言われ、京都の食文化の中に今も若狭の魚が生きています。なお、若狭の鯖は遠く兵庫県の篠山までも運ばれていました。(熊川宿HPより)
町の中を歩くと昔の街道そのままです。街道好きの私には、たまらない町です。
松木神社は若狭の義民松木庄左衛門を祀っている神社。松木庄左衛門は1648年(慶安元年)領民救済の直訴を行い5年の入牢の後直訴の目的を達し、見せしめのため処刑された若狭の庄屋総代です。
白石神社は、熊川地区の氏神様です。祭神は、彦火々出見尊と白髭明神、小浜藩主酒井忠勝公、山ノ神が合祀されている。
チェックポイントは、宿場館。熊川児童館では、松木長操の名を残そうと大豆の入った豚汁「長操鍋」が振る舞われました。葛餅も本場ですね。美味しかった・・・・・。
豚汁をいただき、帰ろうとすると、私のDバックに鯉のぼりが付けられていたからでしょうか、出発式で「激」をされた曾我廼家福助さんから呼び止められ、少しお話をしました。
廻りは、テレビカメラ、カメラマンが一斉に近寄り、何か「時の人」になったようでした。(笑)
20kmコースは、上中駅から小浜線を利用して会場近くの三方駅まで乗ります。熊川宿から上中駅までは約6km。
チェックポイントで電車の時間を聞くと、13:36、14:08があるそうです。現在12:30を過ぎた所。ちょっと急ぎ足で歩きます。
13:30上中駅に着きました。13:36の電車に辛うじて間に合いました。
三方駅からゴールのさとうみパークまでは、約700m。14:15無事ゴールしました。
ゴールでは、大会参加賞としてコシヒカリ300g、梅干をいただきました。
雨は、小雨ですが、まだ降り続いています。体も冷えてきましたので会場近くのみかた温泉「きららの湯」に入りました。歩いた後の温泉は、格別ですね。
今日のGPSです。上中駅から三方駅までは、電車を利用しています。
先日テレビで紹介していた熊本県菊池市七城にある「道の駅七城(しちじょう)メロンドーム」に行ってきました。
七城町の由来は、肥後国菊池氏の外城十八のうち、七つの城がこの町にあったから七城町と名づけられたそうです。
それまでは、菊池郡でしたが、2005年(平成17年)菊池市と合併しました。
道の駅「七城メロンドーム」は、町の特産品メロンを模った建物です。
中に入ると、七城町のメロンの果汁を使った「メロンパン」が並んでします。
七城町のメロンは、糖度の高さで有名です。メロンコーナーには、たくさんのメロンが並べられています。これも午前中には、すべて売り切れするそうです。
近くを通るとメロンの甘い香りが漂ってきます。七城町は、植木町にも近く、スイカも並べられています。今が、シーズンだそうです。
メロンのロールケーキを見つけました。美味しそうですね。
あと、メロンのソフトクリームです。@380と少々高いですが、メロンの果肉が入っており、たまりません。
七城町は、おいしいお米の生産地です。「七城米」といえば、今やブランド化しています。
菊池川流域で取れた米は「肥後米・菊池米」ともてはやされ、玉名の菊池川から大阪に出荷されていました。その美味しさは、大阪の米商人に大変重宝されました。
江戸時代からうまい米の代名詞といわれた幻の菊池米、それが七城のお米です。
東京で行われた料理新聞社のコンテストでは、おいしいお米日本一に輝きました。
私も七城米5kgを買ってみました。食べるのが楽しみですね。
七城町には、赤塚不二夫さんのまんが「天才バカボンのパパの出身地」の碑があると、歩友のMちゃんに教えてもらい、七城町の中を探すと、ありました。
七城中学の校門からは行った所にありました。中に入って写真を撮りたかったのですが、あいにく休みの為、校門は、閉錠されていました。写真は、望遠で撮りました。
調べてみますと、バカボンのパパの出身校を作成するにあたり、赤塚不二夫さんのアシスタントの中から、東京から一番遠い人の出身校をすることしたそうです。
結果、アシスタントで現在漫画家として活躍中の「近藤洋助氏」が熊本県・七城町出身ということで「七城中学」になったそうです。
碑は、2010年3月、卒業記念として造られました。
七城町は、美味しい水があります。その水を汲みに「前川水源」へ。
前川水源は、七城の一つ「亀尾城跡」の所にありました。私たちが行ったときには、すでに2組の方が汲まれていました。この水で七城米を炊いたら美味しいでしょうね。
水路には、カエルの卵がありました。私の子供のころは、よく見かけたのですが、ホント久しぶりに見ました。
アマガエルも顔を出してくれました。
水を汲んだ後は、温泉です。
「七城町温泉ドーム」といって、ドームとお城のような建物が建っており、すぐ見つけられます。料金は@330。
やはり、日本人には、温泉が一番ですね。温泉から上がった後は、「だご汁定食」です。これも熊本の味ですね。
七城町には、サラリーマン時代に何度かきましたが、こんなにいい町だとは、知りませんでした。また機会があれば行ってみたいです。
山鹿市菊鹿町にある「鞠智(くくち)城跡」に行ってきました。※熊本では、「きくちじょう」と呼んでいます。
7世紀の東アジアでは、朝鮮半島で唐の高句麗遠征などをきっかけに、高句麗・百済は、唐と敵対するようになります。その一方、新羅は、唐の制度を積極的に導入し、唐と親密になって行きます。
同じころ、日本では、中大兄皇子を中心とした「大化の改新」の最中で国内の政治体制を整備し始めたばかりでした。然しながら、日本は、百済と友好関係にあったため、まだ国内が十分に整わないうちに
この動乱に巻き込まれていきます。660年、百済が唐・新羅に滅ぼされると、日本は積極的にこの動きにかかわっていきます。663年、中大兄皇子は、百済遺臣の求めに応じ、百済復興のための軍勢を派遣します。
この日本軍と唐軍が、今の韓国忠清南道の錦江河口に遭った「白村江(はくすきのえ)」で激戦を繰り広げ、日本は、大敗を喫し、百済復興の道は閉ざされます。※「白村江の戦い」
この時、日本は、国家史上初めて、外敵からの脅威にさらされることになります。
そこで大和朝廷は、西日本を中心に防衛体制を形成します。対馬には、最前線基地として金田城を築城、太宰府の防衛には、大野城、基肄(きい)城、水城が築かれます。
その背後にあったのが、この「鞠智城」でした。九州南部に位置し、防衛施設であったと同時に、食料や武器を前線に供給する為の、兵站基地であると考えられます。
然し、唐・新羅による日本侵攻はありませんでした。鞠智城は、その後役所的な役割を持つ施設や食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。(鞠智城跡パンフより抜粋)
平成6年(1994)「歴史公園鞠智城 温故創生館」として整備が開始され、米蔵や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元公開されています。
平成16年(2004)に国の史跡に指定されています。その規模は、東西1,6k、南北1,3k、外郭線の総延長5,3k、総面積120haです。
「鼓楼」 八角形という特別な形であることと、柱が多く配置されていることから、三層目に置かれた太鼓で合図したり、時を知らせたり、見張りをしたりするためのものでした。
韓国の二聖(イーソン)山城でも同じ建物跡が見つかっています。
「米蔵」 校倉造りの高床式の建物で米などの穀物を保管した所です。
「兵舎」 土間の床で大きな建物であったことから鞠智城の守りについた防人たちが暮らすための「兵舎」として復元しました。1棟あたり50人の防人たちが寝泊まりしていました。
「板蔵」 兵舎の近くにあったことから、武器や武具を置くための「武器庫」です。
5月5日までは、鼓楼の一般見学が行われていましたが、今日は、中に入ることができませんでした。
温故創生之碑は、中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に城づくりを指導したといわれる百済の貴族「憶礼福留」、東側に八方ヶ岳に祈りをささげる巫女、北側には伝説上の鳥「鳳凰」1対が立っています。
碑には、防人の歌が刻まれています。
父母が 頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ 忘れがねつる
意味 父母が頭を撫でながら達者でいなさいと言った言葉が忘れられない。
わが妻も畫にかきとらむ 暇もが旅行く吾は 見つつしのはむ
意味 私の妻を絵に描く暇があったらなあ 旅に出ていく私は、それを持って行っても思い慕うものを
防人に行くは誰が夫と問う人を見るが 羨しさ物見もせず
意味 防人に行くのは誰の夫ですかと聞いている人を見ると、羨ましくなりますよ 何の心配もしていないのだから
防人は、諸国から「難波津」に集められ、船で太宰府に送られ、防人司の統率下に置かれました。そして各地に配され、軍務に従事しつつ空き地を開墾し食料を自給していました。
一般に3年で交代されましたが、年限を過ぎても帰郷できない人もいたと言われます。(帰りの旅費などは、自腹だったそうです)
上の表を見ると、大和朝廷の古代山城は、九州北部から瀬戸内にかけて分布していることがわかります。これは、当時の都であった「難波津」や「「近江大津宮」に至るルートです。
大和朝廷が唐・新羅の連合軍による侵攻を想定し、防衛を固めようとしました。
7~8世紀頃に築城された西日本の山城を総称して「古代山城」といいます。尚、古代山城の中でも日本書紀や続日本紀などの歴史書に記載のある城を「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石式山城」と呼びます。
日本書紀の中で日本に亡命してきた百済の達率である「憶礼福留」と「四比福夫」を派遣して築かせたとの記述があります。朝鮮式山城は、朝鮮半島の最新の土木技術が使用されていました。
短時間では、ありましたが、「鞠智城」の概略がだいたいわかりました。
今から、約1300年前のことです。唐・新羅の連合軍による日本侵攻はありませんでしたが、若し、攻めてきていれば日本はどうなったのでしょうね。
鞠智城跡がある山鹿市では、「鞠智城跡」を国営公園にしようという運動があります。国営公園になればいいですね。
尚、南北朝時代に活躍した、菊池一族の「菊池城」は、菊池市隈府(わいふ)にあり、この「鞠智城」とは、関係ありません。
5/9(土)、5年ぶりに熊本・八代で行われた「第21回九州国際スリーデーマーチ」に参加しました。
私が、参加したのは、「い草の里フードバレーコース20km」です。
福岡から車を走らせ、2時間で会場の八代・球磨川河川緑地に到着しました。
八代のゆるキャラ「とまピン」。八代の特産品「トマト」からイメージしたそうです。
八代の河童渡来伝説: 中国の黄河に住んでいた九千匹の河童がはるばると海を渡って八代にやってきました。この八代から日本全国津々浦々へ河童が移住していったそうです。
因みに「八代(やっちろ、やつしろ)」という地名は、①社(やしろ)説、②八つの城説、③八を谷、代を田と解して、谷あいの水田説、④八を数多くと解してたくさんの田んぼ説・・・・などがあります。
今日は、雨の予報です。出発式前までは、雨は降っていなかったのですが、「エイエイオー」の激の後、雨が降ってきました。雨もこの激を待っていたのかな?
この大会、「世界ウオーキングデー日本大会」も兼ねています。オーストラリア、オランダ、アメリカ、ベルギー、イギリス、ドイツなどの国からの参加されています。
そういえば、5年前のこの大会で、オランダの人に木靴のストラップと私の鯉のぼりを交換しました。あの鯉のぼり、まだオランダの川を元気よく泳いでいればいいのですが・・・・・・・
4km地点が、九州新幹線「新八代駅」。ここまで約1時間かかってしまいました。
新八代駅すぐ近くには、福岡ソフトバンクホークス松中信彦選手の「松中信彦スポーツミュージアム」があります。
松中選手は、八代第一高校(現:秀岳館高校)出身で、2004年三冠王(本塁打、打点、首位打者)を達成しました。
また、福岡ソフトバンク前監督「秋山幸二氏」は、八代市の隣町「宮原町(現 氷川町)」出身です。
コースは、「千丁町」に入ってきました。千丁町は、「イ草の里」として有名です。
今から500年前(1505年)、八代市千丁町太牟田の上土(あげつち)城主 岩崎主馬(しゅめ)忠久公は、村の人々の生活が豊かに栄えるようにと初めてい草を植え、育てることを教えました。
その後、全国で天候が悪く人々が苦しむ中、太牟田の村人はい草からむしろを作り、この窮地を乗り越えました。
今では、全国生産の8割を占め、畳表、花ござの材料として使われています。
7,6kmの「千丁い草の里公園」が最初のチェックポイントです。時間は、10:00丁度。 ここでは、ぜんざいや八代特産のトマト、梅干、お漬物の接待がありました。
雨は、一向にやむ気配がありません。防水の帽子を被っていたのですが、その帽子から雨のしずくが落ちてきています。傘をさせばいいのですが、写真を撮ると傘をさしたり、すぼめたりしなくてはいけませんので
傘はさしていませんでした。
タバコの栽培をしている所がありました。私が子供のころは、このタバコの栽培は、よく見かけていたのですが、最近は少なくなりました。
緑色の鳥居が見えてきました。珍しいなと思っていると「岩崎神社」です。い草の里、千丁では、岩崎公をい草の神様としてお奉りしてあります。
毎年い草の豊年を願って、年2回春と秋に祭りが開催されます。
龍峯町に入ってきました。13,4km地点、龍峯農業研修所が給水ポイント。時間は、11:00 スタートしてから2時間半が経過しました。
先に進むと、「明言院」があります。
奈良~平安時代の八代郡寺興善寺跡であり、現在の明言院は江戸時代に再興されたものです。境内の収蔵庫に安置されている「木造毘沙門天立像」は国指定重要文化財で、平安時代前期の作といわれ、
県下の仏像中最も古い作品です。
今日は、案内ガイドさんも待機されていましたが、この雨です。やむなくパスしました。
16km地点ぐらいから、10kmコースの方と合流します。
最終チェックポイントは、八代神社(妙見宮)です。
文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅願によって建立され、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)そして北斗七星(ほくとしちせい)を祀っています。
現在の社殿は下宮とよばれ、元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に改築されたものです。
祭礼は九州三大祭の一つとして、神輿・神馬・獅子舞・花奴・笠鉾・亀蛇・飾馬などの神幸行列があり、人出も10万人を超える賑やかさです。
祭礼日はお下り11月22日、お上り11月23日です。
八代神社で、5kmコースの方と合流し、細い川沿いの道を歩きます。途中、未舗装分があり、そこには水たまりができており、私のシューズに水が入ってきました。
下着は、汗と雨で湿ってきました。
12:23 やっとゴールしました。距離は、21kmあったそうです。GPSを見ると平均時速5,7k/hです。平坦な所が多く、結構速く歩けました。
ゴール後は、冷えた体を雄たためるため、八代の「日奈久温泉」に直行しました。温泉に入っていると生き返ってきます。
天気がよければ、ゆっくり見て歩きたかったのですが、雨もまた自然です。
本日のGPSです。またスタートの時にスタートボタンを押すのを忘れました。
5/4 (祝)は、JR九州ウオーキングで大分県杵築(きつき)市「お城まつり」に行ってきました。
7:36博多発特急「にちりん」で杵築駅へ。杵築着9:36.
元来、この地は大友氏の一族である木付(きつき)氏が領していた。しかし、文禄2年(1593年)、大友義統が豊臣秀吉の勘気に触れ除封となると木付氏も同時に滅びた。後に、杉原長房、早川長政が入封し、
次いで細川忠興が慶長4年(1599年)、丹後国宮津12万石に加えこの地(6万石)を領有し、松井康之、有吉立行などを杵築城代として統治させた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功により、
豊前一国を加増された忠興は本拠を中津城に定め、木付と呼ばれたこの地も領地の一部となった。細川家は藩庁を小倉城に移し小倉藩となるが、寛永9年(1632年)、忠興の子忠利が熊本藩に転封となる。
小倉には小笠原忠真が封じられ、木付には、忠真の弟で旗本の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられ入封。ここに木付藩が成立した。
正保2年(1645年)、忠知は三河国吉田藩に転封となり、代わって松平英親が3万2千石にて豊後国高田藩より移封され、明治維新までこの地を領した。平地の少ない領地であったため、
新田開発や工芸作物、特に藺草(いぐさ)の栽培を奨励した。新田開発においては三河より100余人の農民を呼び、俗に「三河新田」と呼ばれる農地を開墾した。
3代重休の正徳2年(1712年)、幕府より与えられた朱印状において「木付」が「杵築」と書き誤っていた。そこで、幕府に伺いを立てた上、この地を杵築と表記するようになった。 (wikipediaより引用)
誤字だと気づいても幕府には逆らえなかったのでしょうね。 余談ですが、広島の安芸も昔は「阿岐」と呼ばれていたそうです。
この日は、杵築の「お城まつり」。ウオーキング受付にも着物姿のJR女性社員の方が見られました。
中野酒造は、明治7年(1874年)創業。お酒の名は、「智恵美人」。創業当時の女将さんの名前から命名したそうです。
「紅茶梅酒」というのがありましたのでそれを購入。かぼす焼酎で割ると飲みやすいということでそれも購入。駅まで配達してくれるそうです。ありがたいですね。
杵築の城下町は、サンドイッチ型城下町と呼ばれています。杵築城を中心として南北の高台に武家屋敷、その谷あいに老舗が残る商人の町。
そんな武士が商人を挟んで暮らした凸凹のあるサンドイッチ型城下町は、日本唯一と言われています。
鏝絵とは、明治、大正、昭和の初期頃まで諸負、普請の最後は、左官の仕上げで工事は、完了したものです。左官は、お礼の意を表すために白壁に鏝一本でその家が栄えるようにと願いを込めて
縁起物の絵を描いたものです。
卯建(うだつ)とは、遠くから見ると兎が立っているように見えることから卯建と呼ばれている。本来は、隣家との防火壁の役目をしているもので、家の軒先の左右に建てたもので
一種の装飾的な意味もあったと思われます。
酢屋の坂の上では、火縄銃の実演が行われていました。火打石から火をおこし、それを縄に着けていきます。
大名行列は、12時から行われますが、現在11時前、時間がありますので杵築駅まで歩いて帰ります。その時向こうから、はなまりんさんご夫妻と対面。
この少し前、はなまりんさんは、今日は、海ノ中道に行かれているのでは?と家内と話していたところでした。短い時間でしたが、来月の札幌遠征について打ち合わせをしました。
12:15杵築駅にゴール。
そのあと、昼食を食べようと4/23にオープンした大分駅アミューズプラザに行きましたが、GW期間中とあって、駅の中は、人、人、人・・・・・・・・
食事する所も行列が続いており、パニック状態です。
それにしても大分駅前は、変わりました。
GWは、JR九州ウオーキングを満喫しています。
5/2は、うきは市、筑後吉井駅~うきは駅まで歩きました。
吉井の町は、もう何度も来ていますので大体の道は、わかっています。国道沿いの川には、鯉のぼりが元気よく泳いでいます。旧家の町並みにも鯉のぼりがつけられています。
吉井小学校横の川には、小学生手作りの鯉のぼりが泳いでいます。町並みに鯉のぼりがよく似合っています。
田園地帯に入ると、出番を待っているがごとく、巨峰の小さな実が迎えてくれます。もう2カ月~3か月もすれば、甘くておいしい巨峰がいただけますね。
県道151号線から流川に入った所に、「なんじゃもんじゃ通り」があります。15年ほど前、この通りが整備された際に植えられたもので、400mの間に4~5mほどの「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)」が
52本あります。係りの方に聞きますと満開が4/29だったそうで、この日は、もう散りかけていました。
流川沿いを歩いていると右側にたくさんの鳥居が見えます。92個ぐらいあるでしょうか、「うきは稲荷神社」です。
「一の瀬焼き」では、春の陶器市が開かれていました。
今から400年前、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際、連れ帰った陶工たちによって開かれたのが始まりと言われています。近世は久留米藩の御用窯となっていましたが、明治維新の際しばらく廃窯となり、
昭和34年に再興し、現在6軒の窯元があります。