7月19日からの3連休で山陽道を歩きました。山陽道も今回が最終日。張り切って歩こうと思っています。
博多発6:05の新幹線で新神戸へ。新神戸からは地下鉄で三宮に行けるのですが、街道の前に北野異人館に立ち寄りました。北野異人館は、幕末・明治以降の日本において欧米人が居住するために住宅として建設した西洋館です。
時々小雨が降る中、オランダ坂を上り、「うろこ館」」へ。朝が早いのかまだ開門になってなく外から写真におさめました。
異人館から三宮に降りていくとスタバコーヒーやコンビニなどのお店が地域に合ったように作られています。
更に下っていくとダルビッシュのポスターが掲げられています。ここは、「ダルビッシュ記念館」で昨年11月に開館しました。
ダルビッシュの背番号から11月11日11時11分にオープンしたそうです。
その反対側には、おしゃれな「コーヒー館」が建っています。ここは「にしむら珈琲店」。
入ってみようと店の近くまで来ましたがまだ開店準備中でした。また歩道には、きれいな花が植えられていました。
三宮駅前の山陽道(西国街道)にやってきました。前回ゴール地、雲井通6丁目に行きGPSをセットし歩き始めます。
神戸市内の街道は、生田筋から芦屋打出まで、内陸部を進む大名行列に利用された「本街道」と海岸沿いを進む庶民の生活道路として利用された「浜街道」がありますが、私は、本街道の方を歩きます。
歩いていると各所に「西国街道」の案内板が立っていて、とてもわかりやすいです。
新生田川の雲井橋を渡ると、吾妻地区に、「大安亭市場」があります。
大安亭と言う変わった名称は本来、三宮のセンター街の東の続きとして戦前にあった「小野中道商店街」に大安亭と言う名前の浪花節寄席小屋がありここにちなんで名付けられました。
「小野中道商店街」は戦前には三宮の表通として存在し、そごうをはじめ、呉服、時計、履物などの老舗が軒を競い、付近では、映画館「大黒館」や、浪花節寄席「大安亭」で、映画や漫才などが気軽に楽しめるとあって、神戸の中心として連日大変なにぎわいでした。
その大安亭の付近にあったのが大安亭市場でしたが太平洋戦争末期の空襲でほとんどの店舗が焼失してしまいました。戦後しばらくGHQがこの地域一帯を接収したために再建できなくなってしまい幾人かの店主はあたらしい場所を求め現在 大安亭市場がある場所に三々五々新しく出店することとなりました。
ですから当時は新しくできたと言う意味で新大安亭市場と言う名前で呼ばれていました。そして、いつしかこの新も取れて元の大安亭市場と言う名前に戻りました。 (大安亭HPより)
大安亭には、狸の「ロダン」にまつわる民話「ロダンのたぬき」があります。ここでは省略しますが、若し民話を知りたい方がいらっしゃいましたら「ロダンのたぬき」で検索してください。
街道を進みます。この街道は三宮からまっすぐな道ですが、西国街道の案内板が随所に立っています。
街道を歩く者としては大変助かります。
都賀川の大石橋にやってきました。川幅はそんなに広くなく穏やかに流れていますが、2008年(平成20年)には、都賀川水難事故が発生しています。7月28日突如の集中豪雨で水遊びなどで都賀川や河川敷に居た16人が急激な水位上昇によって流され、うち11人は救助されましたが、小学生2人、保育園児1人を含む5人が犠牲になりました。 その教訓か、急激な水位上昇には、回転灯で警告するようになっています。
街道は、新在家駅を通り「御影」に入ってきました。御影は、花崗岩の別名御影石の語源となった場所です。
海岸部は、江戸以降栄えた灘の酒(注1)「灘五郷」の一つの御影郷で白鶴、菊正宗、剣菱の造り酒屋があります。
また、御影は澤之井という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映しだしたことから御影の名の起こりだそうです。
(注1)灘五郷:今津郷(西宮市)、魚崎郷(東灘区)、御影郷(東灘区)、西郷(灘区)、下灘郷(中央区)
新神戸に着いたときは、小雨が降っていましたが、いつの間にか夏の太陽が顔をのぞかせていました。
とにかく暑いです。御影の信号の所にコンビニがありましたのですごそこへ入りました。昔の人はお茶屋さんで休憩していましたが、現代ではコンビニがお茶屋さんになっています。飲み物、アイスを買いしばらく休憩します。
ふと、コンビニの前を見ると「処女塚」の碑が建っています。興味津々でその「処女塚」へ。
処女塚(おとめづか)古墳は、4世紀前半に築かれたと思われる前方後方墳で全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mで昭和60年に遺跡公園として整備された。平成5年(1993)には、魏から卑弥呼に贈ったとされる三角神獣鏡が7面発掘されています。
また、平安時代中期の「大和物語」の中に「処女塚伝説」が記されています。
それによると、昔々この辺りに一人の美しい乙女、菟原処女(うないおとめ)が住んでおり、二人の若者が求婚し、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げた。それを知った二人の若者も後を追ったという悲しい話である。若く儚い三人の死を憐れんだ親族が菟原処女の墓を造った。それが「処女塚」でその墓を挟むように東西2kmの地点に2つの求女塚(もとめづか)を造った。それが西求女塚古墳と東求女塚古墳である。
その後の調査でこの3つの古墳の中では、西求女古墳が3世紀中期で一番古い古墳で実際には、同じ時期ではなかったそうです。
古墳の際には、湊川の戦で敗れた新田義貞を逃がすためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑も建っています。
石屋川の西国橋を渡ります。この辺りが「東灘区」でしょうか、付近には、高いマンションが立ち並んでいます。
御影小学校近くに「徳川道起点」の案内板がありました。
徳川道は、江戸末期(慶応3)幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や
武士との衝突を避けるために作られた迂回路です。そのコースは、西国道と分かれ当時の徳井、平野、高羽、八幡、篠原の各村を経て、杣谷を通り、杣谷峠、森林植物園、鈴蘭台、明石大蔵谷までの8里27町9間(34km)でした。
御影小学校の裏手には、一里塚橋があります。この辺りは以前、字一里塚と呼ばれていました。東西に通っていた西国街道に一里塚が設けられていたのでつけられた地名です。今は、塚もなくわずかにこの橋がその名を留めています。
御影中学の所には、「街道松」が残っています。
街道は、2号線に合流しました。2号線住吉郵便局の反対側には、「本住吉神社」があります。
境内では茅の輪くぐりがあり、私たちも矢印の通りに廻ってきました。
本住吉神社は、
社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。
延喜式神名帳には記載されていない。古くから「本住吉」と称してきたが、明治初年の『神社調査明細書』には「住吉神社」と記載された。神社側からの申請により、明治38年(1908年)に「本住吉神社」に復称した。社殿は1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、現在の社殿はその後復興したものである。(ウイキペディアより)
本住吉神社の先の交差点には、「有馬道」の碑が建てられています。
更に進むと、東灘区役所近くの歩道に何かしらモニュメントがあります。案内板を探しますが、見つけられませんでした。
東灘区役所では、「震災慰霊碑 祈りと復興」のモニュメントがありました。
阪神・淡路大震災では、東灘区の被害も大きく、倒壊家屋26000棟、死者1471名の尊い命が失われました。
今では、あの震災がうそみたいに周りには、近代的なビル、マンションが立ち並んでいます。
住吉橋を渡り、甲南町5丁目を左折すると「花松くび地蔵(くび地蔵)」があります。
案内板をみると、かつて諸大名や旅人が西国街道を往来していた頃、首から上の病気に霊験あらたかだったという「花松地蔵」と呼ばれる地蔵尊があった。大正6年地域の人々によって建立されたもので、すでにあった花松地蔵にまとめ、「花松くび地蔵」と名づけられた。
私達もここで住所と名前を言い、祈願しました。
花松くび地蔵の前をまっすぐ進み幼稚園の所を斜め左に進むと「三王神社(さんのうじんじゃ)」があります。また、摂津本山駅近くの2号線沿いに「国道地蔵尊」があります。
国道地蔵尊は、昭和7年(1931)、交通安全の守護として建立されましたが、平成7年(1995)1月17日午前5時46分突発した阪神淡路大震災で倒壊しました。東灘区は、被害が甚大で倒壊家屋2万6千棟、犠牲者1500人を数える状況でした。復興へ3年余りにして、市街地修復の兆しが現れるに及び、国道地蔵尊再建の発願が起こり、平成10年8月再建を遂行しました。偏に、国道交通安全、地域住民の安寧和平を願い、併せて交通事故、震災犠牲者万霊の供養を祈念しています。 (案内文より抜粋)
時間は、お昼を廻りました。それにしても暑いです。歩く前にコンビニで氷のペットボトルを買っていましたが、それも溶けてなくなりました。どこかで補充と思っていましたら、道路の右側にスーパーがありましたのでそこに寄り道します。店内の冷房にあたり、しばし休憩。買い物客の方が私のDバックの後ろに付けている「博多~京に向かって歩いています」のプラカードをジロジロ見ていかれます。中には「頑張って!」と声をかけてくれる方もいらっしゃいました。 三宮からここまで約10k。予定では時速5kmぐらいで歩くことにしていましたが、暑さで時速3kぐらいしか歩いていません。 ペットボトル5本ぐらい補充し再び歩き出します。
稲荷神社の赤鳥居の前を過ぎると芦屋市に入りました。2号線芦屋川にかかる「業平橋」を通り、茶屋之町北信号から 旧道に入ります。
阪神電鉄打出駅近くには、阿保(あぼ)親王廟の石碑が建っています。阿保親王は、平城天皇の皇子で在原業平の父君 です。時間も1時半を過ぎました。どこか昼食を食べる所を探しますが。芦屋というとオシャレなお店を想像するのですが、 こんな暑い時は、冷たいざるそば、冷麺などがいいのですね。(笑) とにかく食べる所を探し、駅前の商店街へ入りました。 うどん屋さんや冷麺屋などなく、喫茶店がありましたのでそこでランチをいただきました。 食べ終わり、店の方にお願いして冷たい水をペットボトル2本ほど補充していただきました。
先に進みます。打出町の阪神電鉄の踏切を超え、街道は、阪神高速に沿っていきます。高速芦屋ICの所から西宮市になります。夙川を渡り、香櫨園駅を通り、
祝 西宮神社へゴールしました!
西宮神社は、お正月の福男選びの開門神事で有名です。 私達も山陽道踏破のお礼に本殿に進みました。ゴールしたからでしょうか、歩行中は降らなかった雨がポツリポツリと降ってきました。神様からのお祝いのシャワーでしょうか?
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平成24年(2012)12月から始めたこの「旧山陽道」36日目でゴールしました。 歩いた距離は、約550km。最初は、青春18きっぷを利用しましたが、広島県近くになったら有給を使い、 3連休を取りながら歩きました。
これからは、西国街道として、京を目指します。京都ゴールは、11月を予定しています。ブログ上で応援していただいた皆様無事西宮にゴールすることができました。本当に有難うございました。
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