よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「糸島 小富士梅園観賞」(福岡県糸島市)

2024-02-24 10:10:03 | ふくおかウォーキング協会

2/21(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「糸島 小富士梅園観賞ウォーク」でした。

今週、福岡地方は、雨ばかり。今日も大雨の予報です。

事前参加予定者は、30人超でしたが、雨のせいか、実際の参加者は21人でした。

集合場所は、筑肥線JR加布里駅でしたが、雨の為加布里コミセンの駐車場をお借りしました。

9:30 雨の中、加布里コミセンをスタート。

明治の初め、加布里を「かむり」と言い、「かふり」とは言いませんでした。

昔々、天平勝宝のころ、大宰大弐であった吉備真備が領内巡視の途中、姫越海岸(現 加布里公園から箱島の海岸)休息したそうです。
そのときに、そばにあった岩の上に冠を置いたことから、この付近の地域を「かんむり」・・「かむり」と呼ぶようになったと伝えられています。

明治七年に、加布里に開校された小学校は「冠小学校」でした。(加布里コミセンHPより)

 

加布里神社は、古い文書には菅原神社とも記されていますが,その歴史は古く,1340年(後村上天皇興国元年)少弐政家が太宰府天満宮の分霊をこの地に勧請したのが始めであると

いわれています。藤原北家秀郷を祖にする少弐氏は,鎌倉幕府の開府以来,初代資頼より東国から九州に派遣されて大宰府の次官である大宰少弐を歴任し,大友氏,島津氏らとともに

九州三人衆に数えられた名門です。旧加布里村の産土神です。

 

加布里神社には、「芭蕉の句碑」があります。

建立は安政6年(1859年)。 碑の高さは2.4m、幅1.75mで、九州に建てられている200基あまりの芭蕉句碑の中で最大のものだそうです。

松尾芭蕉は九州へは旅していませんが、九州への旅を望んでいた芭蕉の意志を継いで、 多くの高弟たちが九州各地を訪れ、その中で九州俳壇が芭蕉の追善供養として各地に芭蕉歌碑を

建立したたものの一つです。

加布里神社から加布里漁港へ。

 

天気のいい日には、カキ小屋が賑わうのですが、あいにく今日は雨、訪れたのは私たちウォーカーだけでした。

ここで昼食にと「カキ飯」を購入。(@350)

 

舞鶴橋を渡ると、旧志摩町(現:糸島市志摩町)小富士。

小富士という地名の由来は、糸島のシンボル「可也山(かやさん)」が富士山に似ているので「糸島富士」とか「小富士」と呼ばれていました。

小富士集落は、可也山の麓にあり登山口もあります。

 

小富士は、梅林で有名です。 2年前、コロナで自粛中、アグリに車を止め家内と二人で歩いたことがあります。

民家にも梅の木が植えてあります。

小富士梅林は、天満神社の横から登っていくのですが、今日は、雨。坂道ですので滑りそうなのでパスします。

 

 

一部写真は、2年前に行った小富士梅園の分も掲載しています。

 

 

今日は、雨の為、民家の梅を楽しむことにしました。

 

 

民家の方が家の前の畑に植えてある「大根」を持って帰っていいよと言われ、畑を見るとみんな巨大の大根です。

抜いてみると2~3kgありそうです。おでんにしたら美味しいかな?などと思いながらこの大根を肩に担いで歩きますが、ずっしりと肩にきます。

 

愛菜でお買い物休憩。

愛菜でビニール袋をもらいリュックの中に入れます。肩に担ぐよりも楽ですが、それでも重たいです。

雨も舞鶴橋を越えたあたりから止んできました。

 

愛菜から再スタート。

右側を見ると「小富士海軍航空隊跡」の石碑があります。

碑文を見ると、「風雲急なる大東亜戦下 祖国防衛の念に燃え決死報国の覚悟を秘めた若人を集め 消耗する航空戦力の補充を目的に若鷲練成の基地として 昭和十九年五月小富士海軍航空隊を解隊終戦まで甲十三期乃至十六期の各期予科練約五千名を育成した 当時十有余才の学徒は国難に殉ずる我を惜いて他無しとの悲壮の決意で奮躍予科練に入隊し 青春の情熱を傾けて訓練に

励んだ 然るに戦局愈々過烈となり予科練教育は中止され夫々特攻基地に派遣されたが 遂に戦運我に利なく昭和二十年八月終戦となり小富士航空隊も其の使命を終わった

思えば当隊の歴史は僅か二年にすぎなかったが我らが命をかけて鍛錬した予科練魂は 克く戦後激動の試練に耐え新日本発展の礎となった 我等は往時の予科練時代を偲び茲に同隊の碑を

建立する

昭和四十八年五月二十七日  小富士海軍航空隊出身者有志外一同」

あと、この特攻隊訓練基地は、西区元岡(現:元岡中学校)にもありました。

 

加布羅(がぶら)が旧志摩町と旧前原市の境です。

加布羅(がぶら)という地名も難解地名です。意味は、田畑・道路の片側が山や堤防で押し出している所です。

志摩町在住の「松尾紘一郎氏」の写真集「伽耶から倭国へ」を見てみると、

「加」は、韓国語で「大きい」の意味、「邑・村」を意味するフル・フレ・フリから来たもので「カフリ」とは、ガブラも同様であるが、「大きい村」「大きい港」という意味だそうです。

そういえば、玄界灘から糸島水道がこの地域まできており、古代では、この水道を通ってたくさんの渡来人がここにきていました。

「加也山」も韓国の「伽耶(かや)」から名付けられたそうです。このように糸島には韓国語の地名が多く残っています。

 

12:00 筑前前原駅前の丸田池にゴールしました。

 

 

 

 


楽しいウォーク「奈多海岸と三苫海岸を歩く」(福岡市東区~糟屋郡新宮町)

2024-02-18 17:00:00 | ふくおかウォーキング協会

2/14(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「奈多海岸と三苫海岸を歩く」でした。

今日はバレンタインデー。女性の会員の方からチョコの差し入れがありました。

集合場所は、和白駅。この駅は、西鉄とJRの「和白駅」が隣同志です。

参加者は、40人。

 

 

9:30 ストレッチの後スタート。

 

下の写真、真ん中にあるのは、地元ラジオ局のアンテナ塔です。

 

このあたりが「和白地区」です。上和白・下和白・三苫・奈多・塩浜が含まれます。

和白」の地名の由来は、昔、豪族達が集まって熊襲征伐や神功皇后の三韓征伐の大軍議をしたことから起こり、いつしか地名として定着しました。(諸説あり)

和白→議会という意味です。

塩浜海岸では、昔、塩田があったそうです。

 

奈多は、市の北端、海の中道の付け根に位置し、北の日本海側には砂丘をもつ奈多海岸が広がり、南は博多湾に面する。奈多の地は、江戸時代には奈多落雁(なたらくがん)

(空から舞い降りる雁)として博多八景の一つに数えられていました。この土地の形状である崖地、砂丘から「長処(ながた)」、あるいは、「灘(なだ)」れることから荒海を

呼んだことに由来する説もあります。

福工大野球部グラウンド・・・・今年の自主トレでは、ホークス中村 晃選手がここで自主トレを行いました。

うどん屋さんでトイレ休憩。

 

休憩後再スタート。

 

 

綿積見神社(東区三苫)

御祭神は、志賀三神・豊玉姫命。神社の由緒を見ると、「鎮座由来 香椎宮旧記に神功皇后征韓御渡航の際、対馬を発船された時、俄かに大雷雨大風涛起こり、御船危殆(きたい)に瀕す。

此の時、御船の「笘(とま)」三枚を海中に投入し、何れの時、何れの処にあれ、此笘の流れ寄らん地に社を建て拝祭せんと海神に祈られし処、立処に風涛治まり、征韓の大業を易く終え

給い、凱旋後、笘の漂着せし地に三枚の笘を神体とし、社を建て海神を拝祭された。此神社なり、又此の所縁により、地名を三笘という。

古来香椎宮神輿渡御報〇の儀あり、中古より神使の神祭となり現在に至る。

ちょっと読みづらいですが、神功皇后対馬を出られたとき、雷雨に遭い、海が鎮まるよう三枚の「笘」を投げた。その笘がこの地に流れ着いてここにお宮を建てた、それが「綿積見神社」と

いうことでしょう。ここで疑問に思うことが、「笘」は、竹を折って作った札・ムチ、「苫」は、家屋を覆うための編んだカヤ・とまのこと。※「我は海の子」に出てくる「とまや」は

この「苫」です。となるとここ「三苫地区」は、「三笘地区」にならなければいけないのですが・・・・

苗字にも「三苫」姓があります。ここ三苫地区に多いのかな?と思いましたら、西区周船寺・田尻周辺に多いです。東区から集団で西区に移住したのかな????

サッカー選手に「三笘 薫」さんがいますが、この方は、「三」です。ルーツは大分県日田市だそうです。日田にも三笘姓が多いそうです。

 

 

綿積見神社からゴールを目指します。

 

 

ひとまるの里で休憩。ここで私は、郵便局に行くため先に進みます。

 

12:06 JR新宮中央駅にゴールしました。

 

この日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


サタデーウォーク「旧唐津街道歴史ウォーク(福岡市街地編)」(福岡市博多区~早良区)

2024-02-17 17:48:33 | ふくおかウォーキング協会

2/10(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「旧唐津街道歴史ウォーク(福岡市街地編)」でした。

集合場所は、博多駅横の音羽公園。

巷では、今日から3連休。博多駅には、スーツケースを持った外国の方や観光客で溢れていました。

中国・韓国・台湾などでは、今日から「春節」、長崎ではランタンフェスティバルが行われます。皆さんそちらに向かわれるのかな??

参加者は、40人。

9:30 音羽公園スタート。

本日のウォーキングのタイトルは「旧唐津街道・・・」と書いてますが、唐津街道の史跡等は殆ど残っていません。

 

人気ラーメン店の本店では、もう大行列です。

 

「西大橋」を渡ると「福岡部」です。(ここも旧唐津街道です)

昔は、この橋(那珂川)で商人の町「博多」と城下町「福岡」が分かれていました。明治時代、市制をするため「福岡市」か「博多市」かを投票した結果、1票差で「福岡市」になりました。

博多の地名は、「博多駅」として残りました。

 

大名ガーデンシティに到着。ここで休憩します。

大名ガーデンシティは、昨年6月オープンしました。当協会で来るのは、初めてです。

大名ガーデンシティは、市立大名小学校跡地に建設されました。上の階には、「ザ・リッツカールトン」が入っています。

一番高い部屋は、1泊250万するそうです。(車が買えますね(笑))

 

中庭には、芝生広場もあります。ここで寝転んでお弁当食べたら気持ちいいでしょうね。

また、旧大名小学校の「校章」も残ったままです。

 

15分の休憩の後、再スタート。

区役所の所では、誰かが「おしっこ」をしているので注意しました。

 

福岡城址舞鶴公園では、今日から明日まで「梅まつり」が行われています。

 

舞鶴公園には、約250万本の梅の木があります。今年は梅の花が早かったですね・・・・

 

 

 

舞鶴公園から大濠公園を通ります。三ノ丸広場は、先月合同三社詣りを行ったところです。

 

 

鳥飼八幡宮から樋井川へ。この川が中央区と早良区の区境です。渡って早良区へ。

 

 

旧唐津街道は、西新商店街の中を通ります。

 

今日は、予定では室見駅まででしたが、大名ガーデンシティで時間を食いましたのでゴールを「藤崎駅」に変更しました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「筑前木屋瀬(こやのせ)宿と旧長崎街道を訪ねて」(福岡県直方市~北九州市八幡西区)

2024-02-15 20:48:29 | ふくおかウォーキング協会

2/7(水) ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「筑前木屋瀬(木屋瀬)宿と旧長崎街道を訪ねて」でした。

集合場所は、JR筑前植木駅。今日もここに来るまでは雨模様。参加者は30名。

副理事Kさんの話では、その昔、新幹線「筑豊駅」設置の為、筑前植木駅を新幹線側に移して小倉~博多間に「筑豊駅」を作ろうという計画があったそうです。

資金面などで頓挫し現在に至っているとのこと。

 

9:30 スタート。スタートするころは、雨も止んでいました。

 

遠賀川中島橋の所が、直方市と北九州市八幡西区の市境。

 

雨は、あがりました。橋を渡ると「木屋瀬宿」です。

木屋瀬宿は、長崎街道小倉から2つ目の宿場。街道と遠賀川の水運で栄えました。今でも当時を偲ぶ町屋が残っています。

 

   

こやのせ座で休憩。

 

  

休憩後再スタート

 

鏝絵のある旧家。「象」の絵は、は江戸時代長崎街道を歩いたからか?

 

 

 

常夜灯の横の白壁に「宿場踊り」のイラストが描かれています。

木屋瀬の宿場踊りは、享保年間(1716~1736)木屋瀬の人が伊勢参りをした時、その土産にと習ってきた伊勢音頭に、大名行列の供奴のしぐさや掛け声を取り入れて作ったものであると

いう説があり、“宿場踊”と称している。踊手は道中姿を連想させる扮装で、囃子は太鼓と三味線である。踊りの種類は並手(思案橋ともいう)、次郎左(みやこともいう)、

本手(本手は座敷踊りのため通常は踊らない)の3種類である。(博多祝いめでたという歌も原曲はこの伊勢音頭です)

男性には七つの形があり、これを鼻どり(掛け声えを掛ける者)がランダムに声を掛け踊るのが最大の特徴で、男性が主になった踊りで全国的にも珍しい踊りです。
女性は一つの形を優雅に踊ります。

1,お天気・・・お天気の様子を伺う表現、2,ひめじょ・・・女性の歩く姿を真似た姿を表現、3,三番叟・・・能や歌舞伎の三番叟を真似た姿を表現、

4,やじろべい・・・その鍛冶屋が大名行列の奴の仕草を真似た姿を表現、5,水棹・・・船頭が棹を使って船を漕ぐ様子を真似た姿、6,投網・・・網を巻き魚を捕る姿を表現、

7,うしろ・・・踊りの際に観客の女性を見るためおどけて後ろを振り向く姿を表現。

毎年11月に宿場祭りが行われ、そこでこの宿場踊りが披露されます。

 

船庄屋跡(梅本家)

江戸時代、木屋瀬には年貢米の積み出し所や渡し場がありました。遠賀川では「川ひらた」と呼ばれる川船がさかんに運航していましたが、年貢米を運ぶ権利を持つ川船を管理していたのが船庄屋です。梅本家は江戸末期24艘の預かり船庄屋で、当時は油屋(ヤマシモ)と号し、酒醸造業を営んでいました。明治に入って醤油醸造業に代わり、昭和10年代まで続いた家です。

 

 

旧高崎家(伊馬春部生家)

伊馬 春部(いま はるべ)… 1908-1984

劇作家・放送作家。本名高崎英雄[たかさきひでお]。木屋瀬(現八幡西区)生まれ。
旧制鞍手中学校から國學院大學に進み、折口信夫に師事。伊馬鵜平の名で新宿「ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家となる。戦後、NHK連続ラジオドラマ「向う三軒両隣り」が好評を

博し脚本家として活躍、放送作家の指南番的存在となった。一方でユーモア小説も手がけ、歌人でもあった。木屋瀬の生家は「旧高崎家住宅」として一般公開。

高崎家は屋号を柏屋▢(カネタマ)といい、本家柏屋▢(カネシメ)の7代目高崎四郎八(1795年~1865年)が分家して創立した家です。本家のカネシメは詩人、歴史学者として有名な

頼山陽(らいさんよう)が立ち寄ったこともある土地の豪商です。分家の創立時期や家督相続の時期は明確ではありませんが、少なくとも天保7年(1836年)よりは遅くない時期です。

四郎八は文政8年(1825年)から町年寄役を務め、翌年には大庄屋格に任ぜられています。カネタマは嘉永(1848年~1854年)の頃には板場(絞蝋業)を経営し、明治6年(1873年)頃には

醤油醸造業を営んでいました。

 

旧高崎家では、もう「雛飾り」が公開されていました。

 

 

 

 

旧高崎家から再スタート

村庄屋跡(松尾家) 木屋瀬には村庄屋、宿庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は村全体の統括をしました。松尾家は屋号を灰屋と称し、問屋役・人馬支配役・村庄屋などを務めました。当家には江戸時代後期から明治初期にかけての木屋瀬宿駅、郡方、村方に関する貴重な資料が多数伝えられています。
この建物は江戸時代末期の建築で、木屋瀬を代表する町屋のひとつです。妻入りの入母屋つくり、漆喰を軒裏まで塗りこめた大壁つくりで、かつて二階に鉄格子付きの窓を設け、外側に防火戸を建てていました。居室部にはすり上げ戸が残っています。

  

長崎街道道標・・・「従是右赤間道、左飯塚道」と刻まれた道標です。西構口の外、道の分岐点に建っていました。
 赤間道とは博多方面に向かう道、飯塚道とは飯塚宿を通り長崎に至る道です。旅人が間違えないようにと建てられたのでしょう。二つの街道が枝分かれする木屋瀬ならではの史跡です。

直方藩・・・元和9(1623)年8月4日、福岡藩初代藩主、黒田長政は訪れていた京都で病没しました。その際、長男の忠之が本藩を継承し、三男の長興に秋月、四男の高政に鷹取を分知する

ことを遺言しました。すでに戦国の世は去り、鷹取城は不便な山城で城下も手狭であったため、重臣達は近隣を巡検し、当時「東蓮寺村」と呼ばれていた、現在の直方市街地に支藩の中心地を置くこと決めました。令和5(2023)年は、東蓮寺藩(のちの直方藩)が成立してから、400年の記念すべき年に当たります。

直方市教育委員会では、この機会に、直方にかつて「城下町」が存在し、様々な文化の中心地であったことと、現在もその時代の文化が継承されていることを多くの方々に知っていただき、

生涯学習の糧としていただくため、関連団体とともに9月から11月にかけて、さまざまな事業を実施します。

なお、事業の実施にあたっては、同時に成立した「兄弟藩」である「秋月藩」を抱える朝倉市と協力して、相互の「城下町」を紹介し、江戸時代の「東蓮寺藩」から「筑前国」の実像に

迫ります。

  

柴田丹兵衛の墓・・・参勤交代の帰路、木屋瀬宿の一行は、折からの大雨で遠賀川を渡ることができませんでした。日が経てばそれだけ経費が嵩むので、家臣の柴田丹兵衛が

渡れる浅瀬を見つけようと下境まで行って瀬踏みをしているうち深みにはまり、遺体が感田に流れ着きました。それを悼んだ土地に人は、墓を建て「大道勇信士霊位」と刻んで

弔いました。

  

筑豊電鉄感田駅の横には「阿高神社」があります。

  

この神社の由来は、「まんが」で書かれています。

コースは、日ノ出橋を渡りゴールの直方駅の方に向かいます。

 

12:00 ゴールの直方駅へ。

 

 


第65回元気!スマイルウォークjn福岡「博多港ベイサイドプレイスを歩く」(福岡市博多区~東区)

2024-02-12 05:32:07 | ふくおかウォーキング協会

2/4(日)は、NPO法人福岡県ウォーキング協会主催の「第65回元気!スマイルウォークin福岡」に参加しました。

(※NPO法人福岡県ウォーキング協会は、福岡県下、ふくおか・北九州・久留米・小竹町・みやま市・筑後市のW協会を掌握しています)

今回も先月の合同三社詣りウォークと同様にふくおかウォーキング協会が担当。(私もスタッフの一人です)

先月の三社詣りウォークでは、慣れないせいか、ミスが何か所もあり、今回は、ミスのないように臨みました。

  

コースは、10kmと5kmです。

マップの裏面には、今日の見どころを掲載しました。

9:30から出発式。事前申し込みでは、約120名でしたが、実際は、113名の参加。(県職員互助会も参加)

 

9:55  10kmコースからスタートです。そのあと5kmコースがスタート。

 

ここから先は、1/24下見に行った時の写真を掲載します。

 

 

 

 

  

浜口公園が10k、5kの分岐点。10kは、直進、5kmは陸橋を通りゴールへ。(写真は10kコースです)

 

 

九州大学病院へ

 

東公園。ここに福岡県庁があります。

 

 

ちょっと一段落したので隣の「櫛田神社」へ

昨日は、節分祭りで歌舞伎俳優の「松本幸四郎さん」「市川染五郎さん」などが豆まきをしました。

 

  

11:30  5kmコースが戻ってきました。  12:10には、10kmコースのウォーカーが戻ってきました。

 

12:20には、全てのウォーカーがゴールしました。

 

何事もなく無事終わることができました。次回ふくおかウォーキング協会の担当は、秋口の「ねんりんウォーク」です。

終わった後、川端商店街を散策しました。

今週は、4回のウォーキング、 疲れました。

 

 

 


2月例会「久留米・大善寺周辺を歩く」(福岡県久留米市)

2024-02-11 06:48:30 | ふくおかウォーキング協会

2/3(土)ふくおかウォーキング協会2月例会は「久留米・大善寺周辺を歩く」でした。

集合場所は、西鉄大善寺駅。参加者40名。今日のリーダーは、Tさん。今日は雨の心配はなさそうです。

今週は、これで3日目、明日日曜日も大会が組まれています。

9:30西鉄大善寺駅スタート。

 

傘橋(からかさばし)

  

久留米藩主有馬氏により、天明元年(一七八一年)社前の霰側に架けられた神幸橋は、一本の石柱に支えられ、川が氾濫すると両岸に曳き寄せ流失に備えたという奇功を極めた造りで、

「拔河曳橋(ばつかのひきはし)」と呼ばれた天下の名橋でした。その姿が一本の唐傘を開いた姿に似ていたので「傘橋」と名づけられましたが、惜しくも嘉永四年(一八五一年)の

大洪水で流失しました。境内には当時の石柱が記念塔として残されています。

玉垂宮(たまたれぐう)本日のリーダーTさんの説明。

久留米市大善寺町宮本に鎮座する玉垂宮は、古来、筑後国三潴庄鎮守、高良御廟院大善寺玉垂宮と称し、盛時には衆徒四五坊社領三〇〇〇町を有した朝野の崇敬あつい古社であります。

祭神は、玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良玉垂大菩薩とも称した)八幡大神・住吉大神で創建は古く、凡そ一九〇〇年前の創祀と伝えられています。
神宮寺の高法寺(弘仁五年(八一四年)大善寺と改称)は、天武天皇ごろの白鳳元年(六七二)法相宗の僧、安泰和尚によって開基されました。
このように、大善寺の玉垂宮は長い間、寺院と神社が一体的に祀られた典型的な神仏習合の神社でしたが、明治二年(一八六九年)の廃仏毀釈により大善寺は廃され玉垂宮のみ残り、

現在に至っています。しかし往時の大善寺の遺構である鐘楼をはじめ阿弥陀堂(鬼堂)や旧庫裡が現存し、神仏習合時代の面影を色濃く残しています。  

 

 

紅梅のとなりにあるのが、傘橋記念塔です。

 

玉垂宮から先へ進みます。

 

途中、保育園の園児から見送られます。歩いていると、いい匂いが・・・・・「うなぎ屋」さんです。思わずお腹がなります。

 

前方は、「天建寺橋」です。天建寺橋の中央が福岡県と佐賀県の県境です。Tさんの説明では、

天建寺橋が建設される前までは、「天建寺渡し」という渡し舟が運行され、筑後川改修工事で陸の孤島となった土井外地区と他の地区への移動手段となっており、小学生なども通学時に

渡船を利用していた。しかし1950年(昭和25年)2月13日、強風の影響で小中学生や教諭など45人が乗船していた渡船が沈没し、6人の小学生が亡くなった。

このため、この区間に天建寺橋が建設されることになった

 

この天建寺橋では、毎年5月にみやき町と福岡県久留米市を結ぶ「天建寺橋」(426メートル)の上で、両県対抗の大綱引き大会が開かれます。。

みやき町と久留米南部の商工会青年部でつくる実行委員会が2009年から開いている「県境フェスティバル」のメイン行事。両県各150人が、長さ約200メートル、重さ約2トンの
綱を引き合い、先に自陣へ1メートル引き込んだ方が勝ちで、3本勝負で勝敗を決めます。
コロナ禍でしばらく中断していましたが、今年あたりまた再開されるのでは????
 
西部防災公園で休憩。
 
 
 
休憩後再スタート。歩いているとウナギの焼いたいい匂いが・・・・ここは、久留米でも有名なうなぎ屋さん。休日には行列ができます。
 
 
大己貴(おおなむち)神社 ・・・八王子宮
  
八王子宮から「ポッポ汽車通り」に来ました。
ポッポ汽車通りは、1966年(昭和41年)に廃線となった大川鉄道を実際に走っていたドイツ製の4輪連結タンク機関車。1911年(明治44年)製。1995年(平成7年)軌道跡に設置され、
親しまれています。当時の大川鉄道軌道跡は現在、早津崎信号から城島までポッポ汽車プロムナードとして続いています。
 
 
 
 
 
みずまの駅で休憩
 
 
 
休憩後再スタート。ここからゴールの西鉄大善寺駅まであと2km。
 
 
11:55 西鉄大善寺駅にゴール!
 
 
 
この日のGPS
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


優しいウォーク「穂波川沿いとお菓子の道を歩く」(福岡県嘉穂郡桂川町~飯塚市)

2024-02-09 10:34:30 | ふくおかウォーキング協会

2/1(木)  ふくおかウォーキング協会2月最初のウォークは、やさしいウォーク「穂波川沿いとお菓子の道を歩く」でした。

集合場所は、JR桂川(けいせん)駅。今日も朝から雨模様です。雨の予報からか参加者は20名。

  

9:30 小雨の中スタート

 

先ずは、「王塚古墳」へ。

 王塚古墳は、6世紀に造られた前方後円墳で、復元全長約86メートル、そのまわりには濠と周堤が巡ります。石室は、2室に分かれており、腰石や石棚には巨石を使用するほか、

阿蘇泥溶岩で造られた石屋形や燈明台石・石枕が配置されています。
最大の特徴は、石室全面に赤・黄・白・黒・緑の5色で描かれた文様で、騎馬像をはじめとする絵画的な文様や円文・三角文などの抽象的なものなど多くの文様が所狭しと

描かれていることです。そのようすは、まさに鮮やかで豪華絢爛であり装飾古墳の王者たるにふさわしい風格を備えています。また、馬具をはじめとする副葬品は、重要文化財に

指定されています。

 

装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、

特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳どが有名である。

令和元年に確認された情報では、5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。全国で723例ある。九州に多い理由として、九州では飾られた死者として会葬者向けに作られ、

近畿では隠されて作られる地域性と死生観の改革が仮説として指摘されている。(wikipediaより)

王塚古墳から先へ進みます。「寿命(じゅめい)」と読みます。桂川町では、「桂川(けいせん)」もそうですが、難解地名が多いですね。

地名の由来を調べてみましたが、わかりませんでした。

穂波川は、冷水峠を源にして飯塚市中心部で遠賀川に合流します。

 

 

天道神社 (komainu.org)

 

穂波交流センターで休憩。

2006年(平成18年)穂波町は、飯塚市・筑穂町・庄内町・頴田(かいた)町と合併し「飯塚市」になりました。

オブジェは、旧穂波町時代のものです。

 

穂波交流センターから再スタート。雨も上がったようです。

 

石窯パン工房「森のこぐま」で買い物タイム。

 

飯塚のお菓子屋「さかえ屋本店」でも買い物タイム。

なるほど、今日のコースは、「御菓子の道」だからか・・・・(笑)

買い物をして随分リュックが重くなった方もおられます。

11:40 ゴールのJR飯塚駅へ。

 

今日のGPS

 

 

 


楽しいウォーク「唐津の風景(2)」(佐賀県唐津市)

2024-02-08 19:20:17 | ふくおかウォーキング協会

1/31(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「唐津の風景(2)」でした。

昨年11月に唐津散策ウォークを行い、今回はその続編です。

集合場所は、JR唐津駅。今日は、朝から雨模様です。雨の予報からか、参加者は19人と少なめ。

 

今日のリーダーは、唐津の情報に詳しいSさん。

9:30 唐津駅スタート。スタートの時は、雨は小降りになっていました。

 

 

九州電力唐津火力発電所の前に「唐津プレシジョン」という会社があります。

リーダーSさんの説明によると、明治42年、創業者竹内明太郎は、「工業は富国の基」という理念のもと、日本の工業発展を願い、自身が所有する炭坑の付属鉄工所として唐津鐵工所、

現「唐津プレシジョン」を立ち上げました。大正5年の独立後、初代社長竹尾年助率いる東京高等工業学校卒(現東京工大)の俊英達を核として、我社は工作機械の製造技術を蓄積して

いきました。創業から110年を超えた現在も、「こだわりのものづくり」精神は脈々と受け継がれています。

創業者の竹内明太郎(1860~1928)は、現在の高知県宿毛市出身。鉱山業、鉄工業を営む佐賀県芳谷炭鉱を経営した。

1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した

唐津鉄工所の創立者でもあり、日産自動車の前身の快進社等を設立する。早稲田大学理工科創立に関与し、また私立高知工業学校(現・高知県立高知工業高等学校)を創立経営する

工業立国に尽力した。ちなみに国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字である。

※プレシジョンとは、正確さ、精密さという意味です。

 

ホームセンターグッディで休憩。また雨が降ってきました。

休憩後再スタート。

 

正面は大島です。雲がかかって見えません。大島からは天気が良ければ下記のような光景が見れます。

唐津港ターミナルへ。ここからは、壱岐行のフェリーが就航しています。壱岐まで1時間45分です。

 

 

フェリーターミナルから再スタート

 

明太子製造「ととや」へ。

ここで今夜のお酒のおつまみを買います。

 

「ととや」から佐賀県重要文化財に指定されている「旧三菱合資会社唐津支店跡社屋」へ。

ここでもリーダーのSさんの説明。

旧三菱合資会社唐津支店本館は、明治41年(1908)に唐津における三菱の石炭販売の拠点として、唐津炭田の石炭積出港であった唐津港に面した埋め立て地に建設されました。

建物の設計は三菱丸ノ内建築所の所長であった保岡勝也(やすおかかつや)です。当時の三菱の建築顧問は唐津藩出身の曽禰達蔵(そねたつぞう)であり、曽禰の関与も考えられています。

建物は、木造二階建ての洋館ですが、屋根は日本を含む東アジアに特徴的な入母屋(いりもや)造りになっています。海に面した北面と東面にはベランダが造られています。また、レンガの基礎や一階廊下のテラゾー(人造大理石)など非常に特徴的であり、県内でも貴重な明治時代の大型木造洋館であることから、昭和55年(1980)に佐賀県重要文化財に指定されました。

昭和54年(1979)からは、唐津市歴史民俗資料館として一般公開を行ってきましたが、老朽化により現在は休館しています。

 

 

雨も一向に止む気配がありません。きょうは、唐津駅がゴールでしたが、急遽JR西唐津駅に仮ゴールとします。

 

今日みたいに その地域の名所、旧跡を説明などをするウォーキングもいいですね。

今日のGPSです。

 

 

 


「第32回(2024年)いぶすき菜の花マーチ2日目 魚見岳コース10km」(鹿児島県指宿市)

2024-02-02 18:44:07 | ウォーキング

第32回いぶすき菜の花マーチ2日目、魚見岳コース10km。

昨日の快晴と違い今日は雨の予報。風も強くなるそうです。

ふくおかW協会のNさん、Rさんと一緒に 8:10 フライングスタート。

実は、この4人で昨日のウォーキングの後、農家の方を訪ね、スナップエンドウ・ソラマメを安く分けていただきました。

その時の殺し文句が「スナップエンドウを油炒めで食べると焼酎がうまい」とか、「ソラマメを焼いて食べると焼酎がうまい」と全部焼酎がらみです。

今日のコースは、魚見岳を登るコース。

  

魚見岳は、ハワイのダイヤモンドヘッドそっくりの、岩肌荒々しい標高215メートルの山で、指宿が「東洋のハワイ」と呼ばれるゆえんのひとつでもあります。春には約600本もの桜の名所で、

山頂まで車で行くことができます。

かつて漁師が、その山頂から錦江湾の魚群を見つけて漁に出たといわれることから「魚見岳」の名がつけられたといわれ、その眺望の良さは抜群。指宿市街地をはじめ知林ヶ島や

3月~10月の大潮・中潮の干潮時に出現する砂州、晴天時には開聞岳、遠くは桜島まで眺望できます。夜は街の夜景が一望でき、満天の星空の眺めも抜群です。(かごしまの旅より)

 

700mぐらい歩いたサンテヴィラージュ交差点が22kと10kの分岐点。22kは直進、10kは右折します。

 

このあたり、ソラマメとスナップエンドウの畑が並んでいます。また、分けてもらおうかと畑周辺を見ましたが、今日は日曜日ですので農家の方もお休みかな???

 

魚見公民館がチェックポイント。焼いたソラマメが振舞われました。

 

これから魚見岳登山です。

 

鉄塔の所が魚見岳頂上です。

 

 

与謝野寛・晶子夫妻は、昭和4年(1929)8月、指宿農林試験場を訪れています。その時に詠んだ歌かな?

 

2回目のチェックポイントは、魚見岳頂上近くの魚見岳自然公園。

 

休憩後再スタート。

 

魚見岳ビューポイント。

知林ヶ島と菜の花のコラボです。天気が良ければ絶好のロケーションでしょうね。

知林ヶ島は、鹿児島湾(錦江湾)に浮かぶ美しい無人島です。3月から10月にかけての大潮又は中潮の干潮時には、長さ約800mの砂の道(砂州)が出現し、知林ヶ島に歩いて渡ることができます。
陸と繋がる島であることから、縁結びの島とも言われ、島には周遊道路や展望台、「チリンズベル」と名づけられた鐘などが整備されています。

 

 

 

下りていると雨風が強くなってきました。傘は吹き飛ばされそうです。

 

 

指宿市東方にある『田良浜』には,かつて指宿海軍航空基地がありました。昭和18年から実際に飛行機の発着が行われ,特攻隊の出撃基地にもなりました。それらの英霊を慰霊するため,特攻隊として飛び立っていった若者が82名であったこと,敵機迎撃によって亡くなった基地隊員が100名以上であったことなどを記した「指宿海軍航空基地哀惜の碑」を遺族や旧海軍出身者でつくる指宿かもめ会が昭和46年6月8日に建立し,毎年5月27日(旧海軍記念日)には慰霊祭が執り行われています

休暇村指宿の敷地も海軍航空基地の一角でした。

 

 

指宿球場には、韓国の野球チームがキャンプ中でした。

 

帰っていると、スタートしたばかりの5kmコースリーダーに会いました。

10:40 ゴールしました!

 

10kmコースのGPSです。

この後、隣の温泉で汗を流し、約5時間かけて車で帰りました。歳をとると長距離運転が苦になってきました。