よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅番外編(その3)「百濟寺(ひゃくさいじ)の紅葉」(滋賀県東近江市)

2023-12-13 06:32:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

湖東三山最後は、東近江市の「百濟寺」です。金剛輪寺から坂道を登っていき、約30分で着きました。百済寺のパンフを見ると、

百濟寺は、近江最古級の寺院。西暦606年(推古14年)に聖徳太子が「近江の仏教拠点」の一つとして建立されたと伝わる。仏教が半島の百済国経由で伝来したことから山号を

「釈迦山」、寺号を「百濟寺(ひゃくさいじ)」と称する。平安中期以後天台寺院として発展し、一千坊を擁したが、1573年4月、信長の焼討ちで壊滅的打撃を受けた。

1650年に広大な石垣遺構の中に本堂以下数棟が再建された。とくに寺社庭園として県下最大の「天下遠望の名園」内の散策と近江歴史舞台の眺望は、絶景です。

 

先ず庭園の方に向かいます。

 

 

素晴らしい紅葉です!

 

ハナノキ・・・・「その昔、聖徳太子が百済寺を建立したとき、仏教が繁栄していくなら、この木も栄えて花をつけるであろう、と誓って自ら食事の箸を各々の花沢村(北花沢村・南花沢村)に1本ずつ突き刺したところ、誓いの通り立派な木となった。」といわれています。百濟寺のハナノキは、その子孫です。

 

庭園から遠望台に向かいます。今日は山の方が少し霞んでいますので三上山がぼんやりしか見えません。

  

 

 

ルイス・フロイスが地上の天国と称した百濟寺ですが、戦国時代、織田信長によって焼打ちされました。百濟寺のHPを見ると、

織田信長おだのぶながの所業と聞けば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名であるが、釈迦山百済寺しゃかざんひゃくさいじも天正元年(1573年)、信長に全域を焼き討ちされている。なぜ信長は百済寺を焼き討ちしたのか、そこには戦国乱世における武将たちとの因縁とも言える物語があった。
 近江源氏と呼ばれた名門、佐々木一族の流れを組む六角氏は、百済寺を含む近江国南部の守護職として長く支配していた。百済寺では常々、六角氏を御館様おやかたさまと呼んで安泰祈願を行っている。百済寺の城塞化には、六角氏から重臣を派遣されるなど、六角氏と百済寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
 一方、天下統一に向かう信長は、永禄十一年(1568年)に六角氏の居城、観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢ろっかくよしかた義治よしはる父子はすんでのところで脱出、逃げ延びることができた。この時、信長は百済寺に禁制を送っている。以下、現代訳。
一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない。
一、 百済寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。
   また、武士は山林の竹木を伐ってはならない。
一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない。
 信長の“祈願所”にするという一文は、明らかに百済寺を他の寺院とは別格に扱っている表れである。これは信長が全国を制した後、この地方に本拠地をつくり、百済寺を信仰の中心とする思いがあったと考えられ、経済力や文化力など、信長が注目する最も大きな力を持つ寺院が百済寺であったのである。
 しかし、百済寺の側になると、今まで六角氏を御館様と呼んでいた事から信長の祈願所にされることには相当の抵抗があった。さらに寺中の長老や高僧には六角氏に属する豪族や地侍の子弟が数多くいる。
 逃げ延びた六角氏は信長に反抗する浅井長政あざいながまさや本願寺一揆とも通じて徹底抗戦していた。信長は六角氏が籠城ろうじょうする城を佐久間盛信さくまもりのぶ蒲生賢秀がもうかたひで丹羽長秀にわながひで柴田勝家しばたかついえの四将によって包囲させ、この戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入り、何のためらいもなく宿坊その他に宿泊して戦況を眺めている。しかし数日後、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれていることを知った。さらに百済寺が六角氏に食糧を支援していた事実をも発見したのである。
 信長の怒りは頂点に達した。
 「全山ことごとく焼け山にしてしまえ。石垣は崩して安土に持ち帰るのだ」
 そして、信長の軍勢により、中枢部300坊を加え総計1000坊とも言われる百済寺は全山焼土と化し、石垣は安土城の建造のために持ち去られたのであった。同じく麓で寺領鎮護する十禅師社(現日吉神社)も焼失した。

 

仁王門から本堂に向かいます。

  

 

 

 

 

もう少しいたかったのですが、帰りの新幹線の時間も迫っており、下山します。

参道入口には、露店があり、「松茸のフライ」「松茸ご飯」などがあります。特に松茸のフライは食べてみたかったです。

 

このあと、車を米原のレンタカー屋さんに返却し、米原から新快速で新大阪へ、新大阪から「のぞみ」で博多に帰ってきました。

琵琶湖徒歩の旅もあと1/3です。次回は桜が綺麗な頃に行ってみたいな~

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅番外編(その2)「金剛輪寺(こんごうりんじ)」の紅葉(滋賀県愛知郡愛荘町)

2023-12-12 06:17:47 | 琵琶湖一周徒歩の旅

西明寺から車で約10分ほどで「金剛輪寺」に着きました。

金剛輪寺」は、湖東三山の真ん中のお寺で奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝えられます。また、源義経

(みなもとのよしつね)が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。 山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭であったころの趣を今なお残しています。石段を登りつめたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き打ちによる焼失の難を免れた本堂大悲閣、三重塔、二天門が

あります。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表とされ、国宝に指定されています。本堂前にある二天門は室町時代の建立で、最初、八脚門と呼ばれる楼門でしたが、江戸時代に

二階部分が取り壊され現在の形になりました。三重塔は大悲閣(だいひかく)より古いものですが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元されました。 

ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵(じょうしょうあん)が草むらに埋もれ残っていて、寺宝にも見るべきものが多いです。また、厄除けのかぶら汁が

接侍される初観音や、大きな数珠(じゅず)を回して念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もあります。(滋賀県琵琶湖観光情報)

 

入山料800円を支払い黒門から寺内へ。

 

受付から参道を上がっていきます。

 

まるで寺院全体が真っ赤に燃えています。

 

庭園の方に回ってみます。

 

 

 

 

 

 

庭園から二天門を通り本堂へ

 

 

 

三重塔

  

 

西明寺も金剛輪寺もホント綺麗な紅葉でした。車を走らせ次の「百濟寺」に向かいます。

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「湖東三山の紅葉」その1「西明寺(さいみょうじ)」(滋賀県犬上郡甲良町)

2023-12-11 06:08:46 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/27(月)せっかく琵琶湖に来たのだから、滋賀県の紅葉の名所を訪ねようと思い、長浜でレンタカーを借り、湖東三山に行ってきました。

先ずは、西明寺へ。

今日は、平日ですが、お寺の前の駐車場は、貸し切りバスが何台も駐車しています。この時期福岡の旅行会社のパンフにも湖東三山の紅葉巡りツアーが出て居ます。

 

西明寺は、平安時代初期の承和元年(834)、三修上人が仁明天皇の勅願により開創され、「日本100の古寺」「近江水の宝」アメリアのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集において

厳島神社、金閣寺とならび「日本のもっとも美しい場所31選(Japan's 31 most beautiful places)の中に選ばれた天台の古刹です。
本堂は鎌倉時代の代表的な建造物で、国宝第一号に指定されています。
本堂内には秘仏本尊薬師如来(重文)、釈迦如来(重文)、不動明王(重文)などが安置され、なかでも頭に十二支の動物の頭を乗せた十二神将はユーモラスな親しみやすきが特徴で、

自分の生まれ年の干支(えと)の十二神将に願いを託す参拝者も多く、「えと寺」として有名です。
三重塔は総桧造りの優美な塔として国宝に指定され、初層内部に極彩色で描かれた法華経の極楽世界の壁画はまさに圧巻です。
国指定の名勝庭園「蓬莱庭」は四季折々の変化が見られ秋には境内一円に1,000本を数える楓が紅葉し、11月になると天然記念物の「不断桜」とのコントラストが楽しめます。

ゆっくり歩いて紅葉観賞です。

 

 

見事な紅葉です。

 

 

  

 

 

 

 

西明寺のフダンザクラ(不断桜)は、9月上旬から翌年4月頃まで開花する。花はソメイヨシノなどと比べるとやや小振りで、赤みが弱く、白い小花である。紅葉の11月に満開となる

このサクラは、西明寺境内の樹木と調和して独特の風情を醸しだす。
現在指定されているものは、樹齢250年といわれる古木であるが、母樹の主幹は枯死し、萌芽再生によって維持されてきた個体であり、江戸時代以降の西明寺を象徴する存在となっている。

しかし近年,衰退が著しく、その後継木の育成が課題であった。
こうしたことから約30年前に、母樹となる指定木から取り木がなされ、後継木の育成が試みられた結果、3本が育成に成功し、現在の指定木の東側に1本、現本坊の西庭に2本が植えられて

いる。場所により成長等の差異はあるが、おおむね幹径20センチメートル以上、樹高5メートル以上の安定した成木となり、秋には開花し、西明寺の風景の一部として親しまれている。
また、10年前には母樹となる指定木の萌芽から若木を育てることに3本が成功し、本坊庭園上段、仁王門西側平坦面、および三重塔西側斜面の3箇所において一本づつ育成されている。

現在では、幹径10センチメートル以上、樹高最大5メートル程度であるが、いずれも安定した状態で、秋の開花も見られるようになっている。
これら6本の後継木は、西明寺における複数回のヒアリング調査によって250年前に西明寺に植えられたとされる母樹(指定木)の由来樹木と認められる。そこで今回、これらの6本を

後継木として認定し、追加指定することによって、江戸時代より継承されるフダンザクラの保全をはかるものである。(滋賀県西明寺HPより)

 

 

一番先に行った西明寺の紅葉がこんなにきれいでしたので、金剛輪寺、百濟寺の紅葉も楽しみです。

次は、金剛輪寺に向かいます。

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅9日目「長浜~彦根」(滋賀県長浜市~彦根市)

2023-12-08 15:02:27 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/26(日)ビワイチ9日目、今日は、長浜から彦根まで約16kmを予定。

昨日まで宿泊した今津のホテルをチェックアウトし、荷物を持って湖西線近江今津駅から長浜駅まで移動します。

北陸本線の乗換駅の近江塩津駅では、長い階段を荷物を持って移動しました。ホント、エレベーターの設置が望まれます。

今日宿泊する長浜のホテルに荷物を預け、ビワイチスタート。

長浜港近くには、長浜鉄道スクエア、慶雲館があり、まずそこを見学。

長浜鉄道スクエアは、「旧長浜駅舎」、「長浜鉄道文化館」、「北陸線電化記念館」の3施設からなる鉄道資料館です。

<旧長浜駅舎>
 1882年(明治15年)に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅。現存する駅舎としては日本最古のもので、第1回の鉄道記念物に指定されています。施設内は、駅長室や待合室など、当時の面影をそのまま残しています。また、敷地内には、旧北陸本線のトンネルに掲げられていた扁額(石額)や旧長浜駅29号分岐器ポイント部などの明治の鉄道遺産も展示しています。

<長浜鉄道文化館>
 2000年(平成12年)10月14日の「鉄道の日」に、旧長浜駅舎に隣接して開館。長浜の鉄道史を紹介するほか、琵琶湖水運に関する資料、北陸線を走った鉄道の模型車両などを展示しています。

<北陸線電化記念館>
 北陸線で活躍した歴史的車両「ED70形1号機交流電気機関車」と「D51形793号機蒸気機関車」を展示しています。また、交流電化と直流電化の違い、全国の交流電車などについてパネルなどでわかりやすく展示しています。

  

扁額(石額)

  

 

 

長浜鉄道スクエアの向かい側が、「慶雲館」です。

明治19年(1886年)秋、明治天皇皇后両陛下が翌年京都行幸啓の帰路に大津から船を利用し、長浜に上陸されるとの報が入りました。

長浜に上陸をされてから鉄道へ乗り換える時間に滞留するための適当な施設が無かったことから、当時太湖汽船頭取を務めていた長浜の実業家・浅見又蔵氏は早速私財を投じ、天皇陛下の誕生日である11月3日に行在所建設を着工しました。 行幸啓は翌年2月21日ですから、3ヶ月余りの突貫工事。行幸啓当日の朝に完成する慌ただしさだったと伝えられています。天皇皇后両陛下は同日の13時前に長浜に到着され、慶雲館で休憩し13時45分の列車で名古屋へ向かわれました。

 

 

 

慶雲館からビワイチに戻ります。さざなみ街道の県道2号線を歩きます。

長浜港・・・ここからも竹生島観光船が就航しています。対岸は、昨日まで宿泊した高島市今津、琵琶湖の中で長浜と今津間の幅が約22kmと最大です。

琵琶湖周航の歌にも♪今日は今津か 長浜か…♪と歌われています。

 

琵琶湖沿いの歩道を歩きます。右側のガードフェンスの所に「赤とんぼ」の歌碑が・・・・ガードフェンスのパイプを叩くとメロディが流れるようになっています。

   

歩いていると左側に大きな仏像が建っています。これは、滋賀県長浜市にある臨済宗妙心寺派の平安山良疇寺(りょうちゅうじ)。

こちらの境内には、琵琶湖を背にして大きな大仏さまが立っておられます。その名も「長浜びわこ大仏」です。高さ28m。

 

長浜バイオ大学が左側にあります。その横には長浜ドームです。

 

道の駅近江母の郷で休憩。1997年(平成9年)開設。駅名となっている「母の郷」とは、この地域の特産品である近江真綿が女性の手によって製造されていたことに由来している。

 

休憩後再スタート。ここからは伊吹山が綺麗に見えます。

天野川(あまのかわ)にやってきました。あまのかわというと、「天の川」を連想しますが、調べてみるとありました。

この地に残る七夕伝説は、雄略天皇の皇子「星川稚宮皇子」と仁賢天皇の皇女「朝嬬皇女」の悲恋により伝わるものです。5世紀後半頃の話と言われています。互いに米原の天野川により

隔てた地におり、2人は仏道の修行に励まれていました。会うこともままならず、叶わぬ恋に終わってしまったのです。

全国には、いろいろな七夕伝説があります。ここもその一つでしょう。

  

朝妻湊は古代から東海・北陸地方の人の行き来や荷物の運搬など、湖上交通の要港として発展してきました。歴史上でも秀吉が京の大仏殿建立の際、尾張や美濃から木材を運搬し、木曽義仲の後続部隊の出陣時にも朝妻湊を経て戦地に向かうなど、重要な役割を果たしてきました。しかし江戸時代に入り彦根藩主、井伊氏が米原湊を御用港として保護するのを境に、それまで

行われていた湖上交通は制限され、港のにぎやかさは影をひそめました。今では朝妻湊跡の石碑、港内に敷き詰められた石畳が、当時を偲ぶものとして残っています。(長浜・米原を楽しむ)

朝妻千軒と呼ばれていたので結構発展した湊だったのでしょう。

 

なべかまの里 筑摩」という看板があります。この地でなべ・かまを生産していたのかな?と思い、調べると、何と「鍋冠祭り」でした。

毎年5月3日、滋賀県米原市の筑摩神社(ちくまじんじゃ)で『鍋冠まつり』(なべかぶりまつり)が行なわれます。筑摩地区は桓武天皇の時代に内裏大膳職の御厨(みくりや=神饌を調進するための領地)が置かれた地。筑摩神社の春の例祭『鍋冠まつり』は、近江を代表する奇祭で、米原市無形民俗文化財に指定。

数え年8つの少女8人が、狩衣(かりぎぬ)姿に張子の鍋をかぶって、約300名の行列とともにお旅所から神社まで1kmほどを渡御します。
例年14:00頃に筑摩の御旅所を行列が出発し、15:30頃〜16:00頃に筑摩神社の本殿に参進します。

『鍋冠まつり』の起こりついては諸説ありますが、筑摩神社の祭神が食物の神・御食津神(うかもみたま)であること、当地の御厨から神前に作物、魚介類などを供えるとともに、

特産であった鍋を贖物(罪のあがないとして出す物)としたことが、原初の姿ではないかと推測されています。

当初は、過去には鍋冠りは数え年8つの少女ではなく15歳未満の少女で、それまでに交際(関係)した男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり(貞操を守らせるため)、『伊勢物語』にも

「近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋の数見む」(第120段)と詠われるほど有名でした。
さらに「若しその中に犯淫の輩在るときは、必ずその鍋落ちて発覚す」(筑摩神社『筑摩大神之紀』)とも。
江戸時代に、少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ笑いものにされたことで自殺するという事件が生まれ、藩主の井伊家が断絶を通告。
その後、数え年8歳ならという事で継承したという歴史を有しているのです。(ニッポン旅マガジンより)

今でいうならば「セクハラ」にあたるでしょうね。

  

  

琵琶湖の沖に「多景島(たけしま)」が見えてきます。昔は、竹島と呼ばれたそうです。

見る方向によってさまざまな景色を見せることからその名が付いたといわれる多景島は、彦根市街より沖合約6.5kmに浮かぶ周囲600mの小さな島です。彦根港から遊覧船で行くことが

できます。島全体が断崖絶壁で、岩の上に松や竹が生い茂り風致(ふうち)に富んでいます。
島内には日蓮宗の見塔寺や桜田門外の変で井伊直弼(いいなおすけ)が水戸(みと)藩士に暗殺された時、鮮血を滲ませたという題目(だいもく)岩などの名所があります。島の西4kmに

浮かぶ白石はここから眺めるのが一番美しいといいます。彦根港より、オーミマリンの観光船が運行しています。(びわ湖観光情報より)

 

磯崎神社 伊吹山の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。
崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。日本武尊を祭神として祀るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」が行われ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

 

 

彦根市に入りました。入るとすぐ右側に「ミシガン州立大学連合日本センター」があります。

滋賀県とミシガン州の姉妹提携20周年を記念して、1989年に設立された施設で、日米両国、特に滋賀県とミシガン州のさらなる友好関係に寄与することなどを目的に、日本語・日本文化

プログラム、英語プログラム、JCMU学生と滋賀県民との交流など、これまでに例のない画期的な事業に取り組んでいます。当センターの運営は、ミシガン州の15の州立大学の連合体が

あたり、滋賀県の委託により、公益財団法人滋賀県国際協会が施設の維持管理、各種プログラムの運営支援を行っています。

  

ミシガン州立大学連合日本センターの横には、ジュブリルタン クラブハリエ」があります。バームクーヘンで有名なクラブハリエですが、ここはパン専門店です。

お腹も減ってきましたのでここでお昼にします。テラスからの琵琶湖の眺めは最高です。

  

多景島(たけしま)が近くに見えてきました。

 

 

歩いていると「彦根城」が見えてきました。お堀の紅葉が綺麗です。

 

 

  

姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。

佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた

彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が

安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。

 

 

 

彦根駅から電車で長浜駅へ。

朝、見逃した「長浜スクエア」を見に行きます。

 

黒壁スクエア

北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれています。古くから長浜の中心だったこの辻に、

明治33年(1900)第百三十国立銀行長浜支店(6年後に明治銀行となる)が建てられ、壁が黒塗りだったことから「黒壁銀行」の愛称で親しまれました。
和洋折衷の重厚な建物は、その後さまざまな変遷を遂げ、平成元年(1989)、「黒壁一號館・黒壁ガラス館」としてオープンしました。低い鉄柵で囲まれた黒漆喰に白い窓枠のモダンな

外観、内部は玄関上部が吹抜けになっています。1階はガラス製のアクセサリーや生活用品など、2階では、世界中からスタッフが直接買い付けたガラス製品を展示販売しています。

この一號館を取り囲むように、約30店が軒を連ね、二號館 スタジオクロカベはオリジナルガラスを集めた工房併設型のショップであり、ガラス職人による制作の実演をご覧いただけます。

また、黒壁体験教室では、7種類の体験メニューをご用意。初心者の方でも気軽にガラス制作の体験をしていただけます。

 

 

  

今日のGPS

今回4日間で今津~長浜迄約82km歩きました。ビワイチ完歩まであと1/3になりました。

明日は、湖東三山の紅葉を見学に行きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅8日目「塩津~長浜」(滋賀県長浜市)

2023-12-04 18:52:31 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/25 ビワイチ徒歩の旅8日目 今日の予定は、前日ゴールした塩津の道の駅あぢさとの里から長浜市長浜城を目指して歩きます。距離で約30km、最近は20km以上歩いていないので

歩けるかな?宿泊した近江今津駅発8:13で近江塩津駅へ。8:32着、ここから道の駅まで歩きます。今日も朝から細かい雨が降っています。

近江塩津駅のホームから改札口までは長い階段があります。この駅は、湖西線と北陸本線の乗換駅ですが、エレベーターもなければエスカレーターもありません。

思い荷物を持っての乗り換えは大変でしょうね。

  

この道国道303号線なんですが、歩道がありません。このまま国道を歩くと危ないので旧道を通ります。

旧道に「塩津海道」という石碑が建っています。塩津海道は、福井県(越前国)の敦賀と滋賀県(近江国)の塩津を結ぶ街道(道路)五里半越、塩津越とも呼ばれています。

「塩津」という地名には、「塩のない近江に塩が入ってくる港」という意味が込められています。塩津を北の港、大津を南の港にして、北陸から京都・大阪までを結んだ道が、

塩津海道と呼ばれる道です。江戸時代には、物流の拠点として賑わい、塩津は大きな宿場町でした。

 

然し近くの塩津神社の由来を見てみると、

祭神は塩土老翁神(しおつちおじのかみ)で、かつては志波谷に塩池があって23戸が製塩を行なっていたと伝えられ、その人々が遠租である塩土老翁神を祀ったのが始まりだと伝えられて

います。まさに製塩をする津(港)という地名 、果たしてどちらが正しいのか?いずれにしろ北陸から来る海産物などが京・大阪に届けられる港町だったので「塩」の「津(港)」と

呼ばれたのだろうと推測します。

  

先に進みます。国道8号線を横断し県道336号線で琵琶湖に向かいます。ここは、横断歩道もなくまた、トンネルを出た車がスピードを上げてくる所ですので安全確認が必要です。

 

 

飯浦から8号線を離れ、賤ケ岳の方向へ。

 

 

賤ケ岳トンネルを出ると、「千手堂」があります。「伊香33番」と書かれていますが、ここ木之本町、高月町、余呉町、西浅井町は、平成22年長浜市に合併する前は、「伊香郡」でした。

 

「賤ケ岳古戦場」という看板が見えてきます。賤ケ岳の頂上にこの遺跡があるそうです。リフトで登れます。先を急ぎますのでパスします。

賤ケ岳古戦場は、安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な実権を握っていた「羽柴秀吉」と、織田家の旧臣中、第一の家柄を誇る「柴田勝家」との間に

権力争いが生じ、ついに武力を持って決着を付けようとしました。これが、「賤ケ岳の合戦」です。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が

築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれました。歴史で習いましたね。

 

粉かけ地蔵」というのがあります。説明文を見ると、この地蔵さまは粉かけ地蔵またの名は乳呉れ地蔵とも昔から呼ばれています。粉(はったい粉を供えて、お乳がよくでますように、

また乳離れをお願いすると共に、次の子供が生まれるまで乳を預かって下さると言われています。

その昔、大音の峠越えで山梨子の港へ向かう子連れの旅人が、お地蔵様の前まできたとき背中におぶっていた子が急に泣き出し、お地蔵様の前の大きな石に腰をおろしお乳を飲ませようと

したが、お乳が出なかったので、お地蔵様に供えてあった粉を乳首に付けて含ませたところ、不思議なことにお乳が出るようになり、子供は空腹を満たしすやすやと眠ったと言われています。
大音では昔から、はったい粉を作るたびにお地蔵さまに供える風習があり、子供に供えに参らせたところ、うまく供えられなくお地蔵さまにぶっかけたことから粉かけ地蔵と呼ばれるように

なり広く親しまれています。

 

遠くに「伊吹山」が見えてきました。昨晩の冷え込みからか、山頂には白いものがありました。8号線をそのまま進むと木之本駅です。

2011年だったか、NHK大河ドラマで「江姫」が放映されたとき、長浜ツーデーマーチで余呉湖から長浜城まで40k歩きました。山の中をずーっと歩いた記憶が蘇りました。

まだまだ、若かった??から40kも歩けたと思いますが、今でも若いとは思ってますが、膝痛を抱えていますし、もう歩けないかな~

8号線から県道44号線に入ります。長浜まであと18km。長いな~

 

ここは、サイクリングロードですが、トイレも休憩スペースもありません。ひたすら歩き続けます。

右側に「西野水道」という看板が見えます。水道工事屋さんの看板かな?と思ってましたが、調べると、「滋賀県指定文化財。西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。能登、伊勢から石工を招き、6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。(長浜・米原を楽しむ)」

 

トンネルを通り、再び琵琶湖に。トンネルを出ると琵琶湖からの風が強くなりました。寒いです。空からは冷たいものも降ってきました。

 

 

道の駅みずとりステーションが見えてきました。ここで休憩と遅い昼食。軽い昼食と思ってうどんを注文しましようとしましたが、どれも1000円近い値段。

福岡だったら普通500円前後です。やはり道の駅だからかな???

 

休憩後再スタート。琵琶湖に沿って歩きます。

 

 

 

姉川を渡ります。この姉川も歴史で習いましたね。俗にいう「姉川の戦い

元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。

これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は

朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,

徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。

浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。

 

ここからは伊吹山が綺麗に見えます。

 

 

ヤンマーの工場を過ぎ、遠くに長浜の街が見えてきました。

 

 

長浜城から長浜駅へ。16:20長浜駅に到着。

 

歩行時間7時間30分、距離は30kmでした。

   

 


ビワイチ徒歩の旅7日目「マキノ~塩津」(高島市マキノ町~長浜市西浅井町)

2023-12-01 11:26:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/24(土)天気予報では滋賀県は曇りですが、琵琶湖北部は、朝から細かい雨が降っています。

ビワイチ7日目は、マキノ~塩津まで予定しています。塩津は、湖西線と北陸本線の交差する駅です。

マキノ駅8:25スタート

 

 

歩いていると石積みが見えてきます。案内板には、「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」としてこの石積みが説明されています。

海津は古くから湖上交通の要衝として栄えた宿場町です。湖岸には、風波から家宅を守るために江戸時代に代官西与一左ェ門によって作られた、城壁を思わせる古い石積が延々約1.2kmにわたり残っており、往時の繁栄を偲ばせる雰囲気をかもしだしています。また別の記録によると、海津の石積みはこのころにはすでに築かれていたとされ、江戸時代中期には、ほぼ現在に残る海津・西浜の石積みの景観が完成していたものと思われます。この湖岸の石積みをはじめ、河川や内湖、共同井戸、知内川で続けられている伝統的なヤナ漁など、多様な水文化が存在するマキノ町海津・西浜・知内地区の水辺景観が、平成20年全国で5番目の重要文化的景観に選定されました。重要文化的景観「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」では、その景観を構成する重要な要素として、この海津・西浜の石積みのほか、海津漁業協同組合旧倉庫、知内川漁業者組合旧倉庫のほか、江戸時代に建造された町家5軒を定めています。

  

 

 

 

町の中に金色の建物があります。見てみると「海津迎賓館」と書かれています。

もともとは、幕末から明治の実業家「井花伊兵衛」の家で、彼は、肥料用石灰の製造で財をなした方です。後年磯野源兵衛と共同で汽船を製造し、琵琶湖の南北を結ぶ「大津~海津」を

就航させました。現在は、別の方が所有されているそうです。

 

 

歩いていると鮒ずし「魚治」という鮒ずしのお店があります。創業は天明4年(1784年)。

何と、この店、コミック誌「美味しんぼ」に出てきた鮒ずし屋さんです。鮒ずしは、私、苦手ですが、小魚の佃煮とごりのお茶漬けを買いました。※美味しんぼは全巻持っています。

 

海津の町を歩いていると他にも旧家が目につきます。

吉田酒造は、大正15年(1926年)創業。「竹生島」という銘柄のお酒の製造。中村商店は、「角二醤油」の製造元。創業400年の歴史があるそうです。

 

海津の町を離れ、大崎へ向かいます。

 

「日本のさくら名所100選」にも選ばれている海津大崎の桜。樹齢80年を優に超える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。

近年見頃は4月上旬頃(気候等により前後します)となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。また、海津大崎は、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎の岩礁」としても知られる

景勝地で、びわ湖随一の岩礁と、湖の碧、遠くに望む竹生島、その景色の絶妙なコントラストは何度見ても美しく、毎年多くの花見客で賑わいます。この美しい景観を後世に継承して

いくため、地元「美しいマキノ・桜守の会」が中心となり保全活動にも取り組んでいます。(高島観光ガイドより)

 

 

 

大崎寺は、真言宗智山派の寺院です。近江西国9番の札所で、俗に「大崎観音」の名で親しまれています。
奈良時代に泰澄によって開基され、尊像は聖徳太子の作といわれています。境内の千貫松(せんかんまつ)・弁天松(べんてんまつ)と呼ばれる老松、春には美しい桜が見事な景観を

作り出します。

 

海津大崎には、トンネルがあります。ビワイチウォーキングのガイドブックを見ているとトンネル内は暗くて歩道がないということでしたので、ヘッドライト後ろには、工事に使う

赤の保安灯また、熊が出るかもしれないので熊よけのスズもつけて歩きます。

  

 

ここからは、竹生島が近くに見えます。

 

大崎の中間ぐらいが、高島市と長浜市の境界です。長浜市西浅井(にしあざい)に入ります。浅井というと、戦国大名「浅井長政」からとった地名でしょうか?

 

 

このあたり、リゾートホテルやキャンプ場が多くみられます。

 

 

 

先ほどから気になっていましたが、道路の中央に保安灯みたいなものがあったのですが、これって雪を解かす水だったのですね。今日、試運転されていました。

古い建物のお店があります。サイクリングの人が何人か中に入っていくので私も中に入りました。

ピーナツせんべいのお店でした。歳をとるとせんべいなんか歯に挟まるのであまり食べませんが、一口食べてみるとそんなに硬くなくピーナツの香りがして美味しかったです。

お土産に3個買いました。この近くに丸子船の館があるとお店の方に聞いて行ってみることにしました。

  

丸子船(まるこぶね)とは、かつて琵琶湖の水運を担った和船。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆船の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁財船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅い。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造と、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾をもつことなどが特徴である。

琵琶湖北岸の長浜市西浅井地区には、琵琶湖舟運を利用した塩津浜、その西の大浦(北淡海・丸子船の館の建つ地)、菅浦という3つの湊があり、塩津浜は塩津街道(現在の国道8号)で、

大浦・菅浦は西近江路(国道161号)で敦賀と結ばれていた交通の要衝。
江戸時代、日本の経済を支えたのは日本海沿いに下関を回って瀬戸内海に入る北前船(「北前」とは上方で日本海を意味した言葉)。
また寛文12年(1672年)に幕府の命を受け、出羽国で産する城米(天領で産する米)を運ぶために河村瑞賢が西廻り航路(北前船)を確立するまでは、敦賀から琵琶湖の北岸まで陸送し、

塩津浜、大浦・菅浦で丸子船に載せ替えて、京・畿内に運ぶ道がメインルートでした。
つまり鉄道網が発達するまでは、北前船の交易と琵琶湖の舟運を使った大動脈が存在していたことに。
琵琶湖の総船数は関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601年)に1200艘、近距離輸送の増大した18世紀初頭の享保年間(1716年〜1736年)には3939艘を数えています。
丸子船だけに限ると、慶安2年(1649年)に1007艘、享保19年(1734年)に1348艘となっています。

 

 

 

先に進みます。大浦腹帯観音というのがあります。観音様の腹帯をいただいて祈願すれば安産すると伝えられています。美智子上皇后様御懐妊の際も献上されたことで広く知られています。

榧(かや)の木の一木彫りで比叡山延暦寺の開祖・伝教大師の作と伝えられています。

 

ここから岩熊トンネルまでは、坂道です。

 

 

トンネルを通りしばらく歩くと「塩津」(しおつ)の交差点。塩津が琵琶湖の一番北側です。

交差点の所に紫式部の句碑があります。※塩津(しおつ)と大津(おおつ)は、濁点がありません。

長徳2年(996)紫式部は、越前守となった父藤原為時に同行して越前国に下向。塩津山(深坂峠)を越えていくときに詠んだ句。

「知りぬらむ ゆききにならす塩津山 よにふる道は からきものぞと」 意味は、「人足たちよお前たちも人生の道は、この峠のように知っているだろうに」

ここには、読人不詳の句もあります。

「あぢかまの 塩津をさして漕ぐ舟の 名を告りてしも 逢はざらめやも」意味は、「アジカモや鴨の群れ飛ぶ塩津をさして漕ぐ舟 その名を告げたのだからお逢いせずにおられましょうか」

※「あぢかま」とは、塩津地域を指す枕言葉で、琵琶湖の水辺で冬を越す鴨に由来しています。

 

今日のゴールは、「道の駅あぢかまの里」。14:15ここで遅い昼食をいただきました。

 

道の駅から路線バスで近江塩津駅に移動。距離は18kmぐらいでしたが、坂道が多く疲れました。

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅6日目「今津~マキノ」“マキノのメタセコイヤ並木”(高島市マキノ町)

2023-11-29 08:28:39 | 琵琶湖一周徒歩の旅

地元W協会の行事が一段落したので、11/23~11/27まで琵琶湖一周徒歩の旅をしました。

今回も「JR西日本グリーンパス5日間」を使います。この切符はJR西日本の区間だったら5日間乗り放題で重宝しています。

11/23 博多発6:00始発の新幹線で新大阪へ、新大阪から湖西線に乗り換え前回ゴール地「近江今津」に着いたのが10:00。

近江今津駅からスタートします。今回の日程は、今津~彦根までで、途中、マキノのメタセコイヤ並木、湖東三山の紅葉見学をコースに入れています。

23日は、今津~マキノのメタセコイヤ並木まで。

 

 

旧今津村は、往古は都と北国を結ぶ北国街道「西近江路」、若狭と繋がる九里半街道の分岐点にあたり、湖上交通の要衝として栄え、大正時代には「琵琶湖周航の歌」が生まれました。

 

浜通りは、旧今津村の中心地で代官屋敷、御蔵所、問屋、旅籠が建ち並んでいました。全盛期には、問屋10数軒、旅籠8軒ありました。

 

 

九里半街道は、琵琶湖北岸西側の今津港と福井県(若狭国)小浜港を結ぶ中世の商業交通路。若狭街道ともいう。今津から石田川沿いに保坂へ,そこから水坂峠を越え杉山から北川上流に出て

県境を越え熊川に,さらに北川沿いに下って日笠から小浜市に入る。中世には,小浜に集まる若狭の塩や北国の海産物が,この街道を経て湖北の今津や高島に運ばれ,さらに湖上舟運に

よって,湖東の各舟着場および大津港に運ばれ,大津を経て京都へももたらされた。湖北と若狭湾岸を結ぶ道として海津・塩津~敦賀間の七里半越も重要であるが,大永年間(1521‐28)以降,

戦国大名浅井氏がしだいに興起して塩津・海津地方を押さえるに至ったので,その後九里半街道の商況は,より活発になった。

  

先を進みます。

 

 

旧マキノ町との境の湖面には、コハクチョウが6羽いました。これが本当の白鳥の湖ですね。(笑)

 

湖西の松林・・・北はマキノ町西浜のマキノサニービーチ高木浜、南は今津町浜分の今津浜に至る延長5kmの琵琶湖岸には、2000本を超える黒松が並木となり林立、緩やかな曲線を描きながら延々と続く砂浜と相まって、白砂青松の美しい湖岸景観を形成しています。この松林は、人家や田畑の防風林として、あるいは魚類の浜辺への寄り付きが強い風波により防止するための

魚付き林として、明治の末期より地元の人々の手によって植林、保護されてきたもので、人々の生活と密着しながら、厳しい環境の中で育み慈しまれてきたものです。
今では、琵琶湖の景観になくてはならないものとなっている緑濃き秀麗なこの湖岸風景は、1987年(社)日本の松の緑を守る会によって「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」に

選定されました。(高島市観光ガイドより)

 

 

 

マキノサニービーチには高木浜(北)と知内浜(南)があります。高木浜から知内浜間の約1kmにわたり、なだらかな汀線が松林に青く縁どられて美しい景観を作り出し、昭和62年には

「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」に選ばれています。また、水の綺麗な水泳キャンプ場としても人気があります。施設も整い環境も良いので、ゆったりと休暇を過ごすのに

最適のリゾート地です。高木浜にはシンボルである「湖のテラス」があり、地上13mの展望台から望む四季折々、自然に彩られた奥琵琶湖の眺望は圧巻です。

 

 

旧マキノ町の町名は、マキノ高原スキー場(旧西庄村牧野)から付けられたものです。当時、カタカナの町名は珍しかったそうです。

マキノ駅前の食堂で軽く腹ごしらえをしていよいよ、「マキノのメタセコイヤ並木」に向かいます。

マキノ駅からメタセコイヤ並木まで約4km。駅前には、バスに乗る人の行列ができていますが、私も一応ウォーカーの一人です。歩いて向かいます。

 

 

 

マキノのメタセコイヤ並木・・・・農業公園マキノピックランドを縦貫する県道小荒路牧野沢線には、延長約2.4kmにわたりメタセコイアが約500本植えられ、遠景となる野坂山地の山々とも

調和し、マキノ高原へのアプローチ道として高原らしい景観を形成しています。
この並木は、昭和56年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのが始まりですが、組合関係者をはじめとする地域の人々の手により慈しまれ、

育まれて、その後さらに県道も協調して植栽され、延長が伸ばされたことから、現在のこの雄大な姿となったものです。メタセコイアは、中国原産、スギ科メタセコイア属の落葉高木で、

和名はアケボノスギ。最大樹高が115mにも及ぶといわれるセコイアにその姿が似ていることから、メタ(変形した)セコイアと名づけられています。春の芽吹き・新緑、夏の深緑、

秋の紅葉、冬の裸樹・雪花と四季折々に訪れる人々を魅了します。平成6年、読売新聞社の「新・日本街路樹百景」に選定され、注目を集めるに至っています。(高島観光ガイドより)

 

  

今日は祭日だからでしょうか、並木には人・車でいっぱいです。

     

帰りも歩いていきます。

 

マキノ駅に到着。ここから湖西線で今日の宿泊地今津に戻ります。

本日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「琵琶湖周航の歌資料館」(滋賀県高島市今津)

2023-06-05 17:48:16 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/23(火)竹生島から戻り、今津の町中を散策します。

「琵琶湖周航の歌」が誕生したのは、今津です。この歌は、大正6年(1917)、京都にある旧制の第三高等学校水上部(現在の京都大学ボート部)小口太郎が今津の宿でクルーに

披露しました。3番の歌詞には、波のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か と歌われています。

今津港の前には、お花がいっぱいです。その中に「ヒツジ草」があります。ヒツジ草は、スイレン科で夏、池や沼で水面すれすれに白い清楚な花を咲かせます。

昔の時刻の数え方のひとつである「未の刻(14:00ごろ)」頃に花が咲くからこの名前になりました。実際は、午前11時ごろから咲き始め夕方4時ごろしぼんでいきます。

「琵琶湖周航の歌」の原曲は、「ひつじぐさ」です。

『ひつじぐさ』は、1915年に雑誌「音楽界」8月号 に掲載された日本の歌曲。作詞(訳詞)および作曲は吉田千秋。『琵琶湖周航の歌』のメロディのルーツ・原曲とされます。

原詩は、19世紀イギリスの詩「Water Lilies ウォーター・リリーズ」。『ひつじぐさ』の歌詞はこの詩をほぼ忠実に翻訳した内容となっています。

 

 

 

この花壇は、近くに住む方が毎日手入れをされているそうです。

「ユリノキの花が咲いています」という手作りの看板の先を見ると、ユリノキの花が咲いていました。

 

琵琶湖周航の歌資料館までには、琵琶湖周航の歌の歌詞六番が掲げられています。

     

「琵琶湖周航の歌資料館」は、今津東コミュニティセンターの中にあります。

 

中に入ると、琵琶湖周航の歌に関する資料が展示されています。

作曲 吉田千秋略歴

作詞 小口太郎略歴

館内では、いろいろな歌手の方が歌っている「琵琶湖周航の歌」が試聴できます。

「ひつじぐさ」と「琵琶湖周航の歌」の聞き比べ。

ヒツジグサ - YouTube

琵琶湖周航の歌 加藤登紀子 Song of Biwako Shuukou Tokiko Kato - Bing video

 

琵琶湖周航の歌資料館から「ヴォーリズ通り」に行きました。

辻川通りの中で、「旧今津郵便局」「日本基督教団今津教会」「今津ヴォーリズ資料館」という三つのヴォーリズ建築が並んでいるところを「ヴォーリズ通り」と呼んでいます。

建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズは1880年に米国カンザス州で生まれました。日本で多くの西洋建築を設計した建築家として知られるだけでなく、キリスト教を基本理念とした社会事業家であり、また近江兄弟社の創立者として実業家の側面もあります。讃美歌の作詞作曲も行なっており、音楽にも造詣が深く多才な人です。

明治38年(1905)英語教師として来日したヴォーリズは、大正3年(1914)モーターボート「ガリラヤ丸」を進水させ、布教の為今津にやってきました。その後、キリスト教会の

なかった今津では、ヴォーリズの命を受けた鎌田漢三牧師によって、積極的な布教活動が行われました。仏教徒の多い今津の地ですが、人々は鎌田牧師のもとに集まり、聖書や讃美歌を

習ったといいます。今津地区には、ヴォーリズ建築事務所の設計による今津教会、旧百三十三銀行(現滋賀銀行、現在の今津ヴォーリズ資料館)、旧今津郵便局などが建てられたほか、

ヴォーリズの理念に基づく病院、農繁期託児所、保育所等が造られました。ヴォーリズの思いは、今津の地で様々な形で実現化され、現在にまで生き続けています。

1910年には、メンソレータム社の創業者であったハイドと出会い、これがのちの近江兄弟社の設立につながります。

  

 

 

 

ヴォーリズ通りの「辻川通り」は、九里半街道(若狭街道)の起点から西へ延びる辻川通りは、琵琶湖岸を北上してきた北国海道(西近江路)の一部でもあり、明治時代初期の頃から

沿道に集落が形成されていったといわれます。現在の今津ヴォーリズ資料館の場所には、金沢藩今津役所がおかれ、明治時代になるとその跡地に町内で最も早い金沢藩今津小学所が

おかれました。また、通り沿いには、多くの商店が並び、今の今津の繁華街の一つとして知られていました。

  

今回のビワイチはここまでにします。また、秋口でも再開しようかと思っております。

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「竹生島」へ(滋賀県長浜市)

2023-06-04 15:19:48 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/22(火)

西日本グリーンパス最終日のこの日、念願の「竹生島」(ちくぶじま)に行ってきました。

竹生島は、長浜市の沖合にある周囲2km、面積0.14㎢の琵琶湖で沖島に次ぐ2番目に大きな島です。島の名前は、「(神を)斎(いつ)く島」に由来し、その中の「いつくしま」が

「つくぶしま」と変じ、「竹生島」になりました。また、竹生島という漢字は、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙に似ていることから名付けられたという説などがあります。

琵琶湖八景の一つに数えられ、平家物語「竹生島詣」や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島として登場し、千年を経た今日でも、その姿は人々の心をひきつけて

やみません。(竹生島パンフより)

竹生島へは、長浜港、彦根港それと今津港からの航路があります。今回は今津港から。往復の乗車券は、2700円。

出港まで時間があるので港の周りを散策します。

  

琵琶湖周航の歌の誕生の地は、ここ「今津」だそうです。(詳細は、琵琶湖周航資料館の時に紹介します)「今津」という地名は、3番の歌詞に出てきますね。

そういえば、私には記憶がありませんが、姉たちに言わせると、母がよくこの歌を口ずさんでいたそうです。福岡にも「今津」や「長浜」がありますので懐かしがっていたのかな?

 

 

9:30今津港を出港。

 

約25分で竹生島に到着。竹生島に住んでいる人はいません。お寺や神社、売店などに関わっている方は、皆さん船で通勤されています。

 

竹生島には、琵琶湖周航の歌4番の歌詞の歌碑が建てられています。

 

この島には、神社とお寺が一つずつあります。西国三十三カ所観音巡りの三十番札所である宝厳寺(ほうごんじ)、そして竹生島神社とも呼ばれる、都須夫麻神社(つくぶすまじんじゃ)。
都須夫麻神社は、明治に発布された「神仏分離令」によって、宝厳寺から分離する形で建てられました。なので、どちらの寺社も同じ神様を祀っています。

拝観料600円を支払い島内へ。

  

先ずは、「宝厳寺」(ほうごんじ)へ。

 

 

竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、

五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を

安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や

唐門などを移築させています。

本尊の大弁才天は、江の島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一つで、その中で最も古い弁才天です。そのために当山のみ「大」の字をつけ、大弁才天と称します。

開山時(724)聖武天皇の勅命を受け、僧行基が開眼したものです。本堂は、昭和17年(1942)に再建され、現在の本尊の弁才天像を安置しています。

 

弁才天:平安時代から続けられている竹生島弁才天の祭り「蓮華会」で頭役を務めた浅井久政(長政の父)が小谷城で祀られた弁才天を奉納しています。

  

不動明王:上の牙歯で下唇をかむ忿怒の様相を示す不動尊、一木造りの構造で造像は、平安時代後期頃と考えられ竹生島現存最古の彫像です。

  

三重塔:文明19年(1487)に宮大工・阿部権守が建立。江戸時代初期に落雷で消失しましたが、図面を発見し、平成12年(2000)に350年ぶりに再建しました。

古来の工法に基づいて建築し、四本柱に32体の天部の神々を描き、四方の壁に真言宗の八人の高祖を配しています。

 

急な階段を下りていきます。

 

唐門唐門とは、唐破風を持つ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築された

ものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や

松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。

文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を

竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。

 

  

船廊下:この廊下は、観音堂移築と同時に掛けられ、秀吉の御座船「日本丸」の骨組みを利用しています。急斜面に掛けられたため、その足元は、高い舞台構造(懸造)となっています。

これも唐門・観音堂と同時期に桃山様式で作られたものです。

 

  

船廊下を渡ると、都久須麻神社(竹生島神社)です。

関白秀吉公が、時の天皇をお迎えするためにその時代の粋を集めてつくった「日暮御殿」という伏見城内最高の建物を神殿として寄進したものです。

殿内には、狩野永徳・光信筆の天井絵・襖絵などをはじめ、高台寺蒔絵の柱・長押など建物すべてが極彩色に飾られており、桃山文化の代表的な国宝建造物です。

本殿内部のいたるところに華麗な装飾をみることができます。

祭神は、市貴杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、浅井比売命、龍神です。

 

 

  

 

 

  

八大龍王拝所から突き出たところにある鳥居に向かって「かわらけ」という小さな小皿を投げます。その小皿、かわらけが見事鳥居をくぐりぬければ、龍神様が願いを叶えてくれる

そうです。(鳥居の下には、かわらけがたくさんあり、白い砂のように見えます)

 

 

竹生島神社を下り、船着き場に戻ります。ちょうど彦根港から来た船が停泊していました。井伊家の家紋などでラッピングされていました。

 

11:15 竹生島発の船で今津港へ戻りました。

 


ビワイチ徒歩の旅5日目「近江高島~近江今津」(滋賀県高島市)

2023-06-01 05:57:45 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/22(月)若狭三方五湖ツーデーマーチの翌日、近江高島に行ってきました。前回私の祖母のお墓詣りをしましたが、日没になったため町歩きはできませんでした。

近江高島駅に着いたのが9:15。駅構内の観光案内所にて高島の「まち図」をいただき「近江高島から近江今津」迄約17km歩き始めます。

かつての高島は、近江商人の町であり、室町時代から京都などに移住し、呉服などの商売に影響を及ぼしていました。

1831年(天保2)京都で飯田新七(敦賀生まれ)が古着、木綿商を開き義父の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡新保町(現高島市今津南新保)から「高島屋」と名付けました。

これが流通大手「高島屋」デパートの始まりです。

 

大溝は、古くから都のあった奈良や京都そして日本海を結ぶ交通の重要拠点として発達しました。琵琶湖岸には、「勝野津」と呼ばれる港があり、船で大溝にやってくる人、そしてここから

船で旅立つ人や荷物も多かったと考えられています。戦国時代末期に、洞海(乙女ヶ池)を濠に取り込んだ大溝城が築かれると、その後は歴代の城主・藩主によって周辺の城下町が

整備されました。その面影は、現在の町のあちらこちらに残っています。(大溝の水辺さんぽより)

祖母の先祖が、「士族」でしたから大溝城の家臣だったと想像します。(遡ればその昔、兵庫県三木城の家臣でした)

 

町割り水路:城下町の町割りの整備によってつくられた飲料・防火の生活用水路で水の豊かな高島ならではの町づくりです。 

総門は現在工事中。総門の前の家が「町並み案内所」ですが、開館は、午前10時からですので入れませんでした。

 

町並み案内所がまだ空いていないので総門横のお店の方にいろいろ説明していただきました。そして私の母の旧姓「〇所」という家はこの大溝に残っているかと聞くと、

「もう娘さんが嫁いで、その姓は、ないけどまだ門構えの家が残っている」そうです。私の母の遠縁になるかもしれません。

 

滋賀銀行高島支店の所から「高島びれっじ」です。説明書によると

高島びれっじは、高島いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野地区。陣屋の総門や武家屋敷が今なお残っています。その一角で油商を営んでいた築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。現在は1~8号館まで整備されています。歴史に思いを馳せながら散策した後は食事や体験、お買い物をお楽しんで下さい。

近藤重藏は、江戸時代末期の北方領土探検家。晩年長男が犯した罪で大溝藩に預けられこの地で没しました。お墓は高島市内にあります。

   

 

  

  

北国街道・京大津道の石碑から琵琶湖河畔に出ます。

萩の浜の手前の一角に、四高桜(しこうざくら)という高さ3mほどの石碑があります。これは、昭和16年4月6日、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)のボート部員が萩の浜沖で遭難死したのを悼んで建てられた慰霊碑です。
「遠くかすむは彦根城 波にくれゆく竹生島 三井の晩鐘音たえて なにすすりなく浜千鳥」の歌詞で有名な琵琶湖哀歌は、この時に作られた歌です。

(参考)東海林太郎集 《琵琶湖哀歌》 東海林太郎 小笠原美都子 - Bing video

  

 

萩の浜は、日本の渚百選に選ばれた遠浅の浜と松林に恵まれた風光明媚な浜です。

  

高島市安曇川町に入りました。 安曇川町のマンホールの図柄は。扇です。安曇川町の特産品です。

  

 

 

安曇川を渡り湖に向かって歩くと、大きな工事現場がありました。大型リゾートホテルの建設中です。

 

びわこ子供の国で休憩。

 

休憩後再スタート。新旭町に入ります。湖面を見ると遠くに「竹生島」が見えてきました。

 

ここは、県道333号安曇川今津線で通称「風車街道」と呼ばれています。この先に「道の駅しんあさひ風車村」がありますのでそこからのネーミングでしょうか?

風車街道には、桜が654本、延べ6kmに亘り植樹されています。桜の季節には、見事な桜並木でしょうね。

 

源氏浜:説明文によると、「浅井三代記」によると海津城主(現高島市マキノ町)海津長門守政元と大溝城主(高島市大溝)海津信濃守政義は、もと京極氏の家臣で後に浅井氏に従っていた。

天文18年(1549)政義が六角氏に通じたため、政元は、浅井久政の命によりこの浜で政義と戦うことになった。戦は一進一退を繰り返した後、停戦となった。六角氏も京極氏も共に

近江源氏であったことからこの浜を「源氏浜」と呼ぶようになった。

滋賀県観光ガイドを見てみると源氏浜は、ヒガンバナの群生地だそうです。

 

「道の駅しんあさひ風車村」にやってきました。この道の駅、私が知っている道の駅とは違い、レストラン、売店はあるのですが、地域の野菜などの産直品は売っていません。

メインは、グランピングです。

  

道の駅内でランチをいただきます。私は、近江牛のカレー、家内は、鯖の味噌漬けランチ。

 

ランチ後、再スタート。琵琶湖治水の先覚者「藤本太郎兵衛」の銅像があります。

高島市新旭町の湖岸(夕暮原浜)に、「治水の先覚者」藤本太郎兵衛の像が建っている。江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛は、三代にわたり

琵琶湖治水に命をかけた。一代目太郎兵衛(直重)は湖辺の村々に、川さらえを呼びかけ奔走。177ヶ村を取りまとめ、幕府からようやく許可を得る(1784年)。

しかし人夫の統制が取れず、工事は2年で中断となる。二代目太郎兵衛(重勝)は、委任状を持ち、打ち首覚悟で単身江戸へ。老中松平定信に、川さらえの許可を得るべく直訴するが、

取り上げられず(1791年)。三代目太郎兵衛(清勝)は、瀬田川下流の反対者の説得や、幕府への嘆願を続け、ようやく「御救(オスク)い大浚(オオサラ)え」と呼ばれる大事業を

成し遂げた(1831年)。

 

風車街道の桜は、654本でした。ちょうど今津との境まで続いていました。

 

 

  

竹生島遥拝所跡:湖岸に立つ石碑で、「西国第三十番近江国宝厳寺竹生島遥拝所跡」と刻まれています。ここから竹生島がよく見えるため、その昔、船で竹生島に渡る路銀の無かった

巡礼が、この場所で竹生島を拝んだ、といわれています。

 

今津に入ってきました。「今津」は、若狭と近江を結ぶ重要な地点でした。小浜(福井県)の湊に陸揚げされた日本海側の産物が若狭街道によって運ばれ、琵琶湖の水運を通じて

上方や湖東方面に運ばれました。また、「琵琶湖周航の歌」の誕生地としても知られています。

今津のマンホールは、ザゼンソウとひばりです。ザゼンソウは、2月末から3月初めにかけて開きます。

 

 

  

今津港観光船のりば:ここから竹生島行の船が出て居ます。

今日のゴールは、JR近江今津駅。明日は、竹生島観光と今津の町歩きをします。

 

今日のGPS。道の駅で間違ってスイッチを切ったため、「近江高島~道の駅しんあさひ風車」と「道の駅しんあさひ風車~近江今津」となっています。