よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№29「府中宿~江尻宿」(静岡市)

2017-11-27 18:06:10 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

11/15 今回の東海道歩き最終日です。静岡市は江戸時代、駿府という名称で呼ばれていましたが、正式には、駿河府中です。府中という地名はたとえば駿河府中、甲斐府中のように特定の地名を表すと言うよりも、むしろ地方の拠点をあらわす名称です。明治2年、新政府はこのまぎらわしい名称を避けるため、駿府藩に対して府中という地名の変更を命じてきました。藩内で検討した結果、「静、静城、静岡」の3つを考案し、政府に報告しましたが、このうち「静岡」が採用され、6月の家達の藩知事任命の際、初めて使用されました。なお、「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われています。

因みにわが福岡県の地名は、黒田長政が中央区舞鶴に築城した際、黒田家の出身地岡山県瀬戸内市長船福岡から取ったと言われています。8時前にJR静岡駅に到着。駅前には、久能山東照宮の石碑が建っています。久能山東照宮は、家康公を祀り、墓所がある神社です。平成22年(2010)10月に本殿を含む社殿が指定されました。江戸時代、参勤交代で府中宿を通る一行は、華陽院により、久能街道を通って東照宮にて墓参りをしたそうです。

   

駅前には、家康公の銅像も建っています。葵タワーから少し入った所には、「浮月楼(うげつろう)」(慶喜公屋敷跡)があります。

15代将軍慶喜公は、明治元年(1868)水戸から駿府に移り、常磐町の宝台院にしばらく閑居し、翌2年幕府の代官屋敷を手に入れ、そこを住まいとしています。以後20年間は、その屋敷で

自転車、写真撮影、油絵、狩猟など多彩な趣味を楽しみました。浮月楼の庭園は、当時のものが残っています。慶喜公は、明治20年(1887)東海道線の喧騒を避け、市内西草深の新邸に

転居しました。慶喜公転居の後、ここを「浮月楼」と名を変え、静岡の迎賓館として結婚式や料亭に使われています。

   

東海道中膝栗毛の作者「十返舎一九」は、町奉行の同心の子供として静岡市両替町生まれ、現在その生家に記念碑が建っています。物語の弥次さんも静岡市、喜多さんは、隣の江尻生まれです。

    

府中宿は、東海道19番目の宿場。家数3673軒(本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒)人口14071人と大きな宿場でした。

伝馬町には、上伝馬本陣脇本陣、下伝馬本陣、脇本陣(小倉本陣、平尾脇本陣)がありました。

その伝馬町には、西郷・山岡会見之史跡があります。慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と

徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇を

はじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、

江戸城の無血開城が実現した。

       

華陽院・・・・・華陽院の始まりは、永正9年(1512)、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で、知源院(ちげんいん)と呼ばれていました。慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、

源応尼(げんおうに:家康の祖母 実名於富)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。また、宗派も真言宗から浄土宗に改宗しました。華陽院は源応尼の菩提寺です。

境内には源応尼の墓と家康の五女・市姫の墓が並び、近くには側室のお久の方の墓があります。主な寺宝として、家康が使った団扇(うちわ)や市姫が使ったひな屏風(びょうぶ)などがあります

  

東海道新幹線、東海道線のガードを潜ると、曲金観音堂があります。ここ曲金は、平安~鎌倉時代の武将梶原景時一族と地元武士団の合戦の古戦場。

戦死者供養のため平成元年に曲金観音(十一面観音)を建立。

  

街道は、静鉄柚木駅に向かいます。ふと、正面を見ると、「富士山」が・・・・・・この街道歩きで初めて富士山を見ることができました。ちょっと薄い雲がかかっていましたが、もう感激です。  

長沼一里塚を過ぎ、国道1号線に出ます。この先の長沼大橋が富士山のビュースポットということでまた寄り道します。今日は富士山の下の方に雲がかかってはっきりとは見えませんが、それでも富士山は素晴らしいです。これから先どんな富士山と会えるか、楽しみです。

静鉄古庄駅の所に「兎餅跡地」の看板があります。静鉄古庄(ふるしょう)駅のあたりでは、江戸時代、安倍川もち追分羊かんと並ぶ駿河三大名物「うさぎ餅」が売られていました。 薄皮の餅で小豆あんを包み、満月の焼印を押した餅菓子です。 この餅菓子を売っていた茶店の店先で飼っていた兔が、名前の由来になっているとのこと。 文化文政時代の狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)が詠んだ「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」によって評判となり、 駿河の名物となったそうです。 (静岡ご当地グルメリストより)

   

古庄のスシローの所から東海道本線に向かって歩きます。このあたりに東海道本線を潜る地下道があるはずなんですが、なかなか見つかりません。近くで工事をしている人に聞いて

ようやくわかりました。渡ると右側に「旧東海道記念碑」が建てられていました。昭和37年(1964) 国鉄操車場 の建設により 栗原の西側が分断され 更に静清土地区画整理事業による

新らしいまちづくりが行われたことから 栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました その昔を偲び なおかつ旧東海道と 共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたい

との願いを込めて この記念碑を建設することにいたしました

  

地下道を過ぎしばらく歩くと、「草薙総合運動場」があります。まだ日本のプロ野球が始まる前の昭和9年(1934)日米野球大会が開催され、日本チームエース沢村栄治がベーブ・ルースを

三振に打ち取り、アメリカ大リーグ選抜を相手に8回9奪三振無失点、失点は最終回ルー・ゲーリックの本塁打による1失点と球史に残る快投を演じました。  

草薙駅前に「草薙神社大鳥居」があります。草薙神社は、蝦夷平定の為、東国へ向かう日本武尊(にほんたけるのみこと)がこの地で起こった逆賊に原野で火を放たれ、焼き殺されそうになりました。

日本武尊は、伊勢神宮で倭姫命(やまとひめのみこと)より戴いた天叢雲剣を抜いて、鎌で打ち払うように剣を振り、草を薙ぎ払って難を切り抜けたという伝説があります。日本武尊を焼き殺そうとした場所を草薙と呼ぶようになり、天叢雲剣はのちに「草薙剣」と名前を変えています。神社は、この大鳥居から1,5km、先を急ぐためパスしました。

静岡銀行草薙支店の所に「草薙一里塚」がありました。 江戸まで43里(約170km)。ここで千葉から来た東海道ウォーカーの方5~6名の方と遭遇。写真を撮らせていただきました。

   

一里塚の信号を斜め左に行くと、また正面に富士山が見えてきました。左側には、清水有度(うど)第一小学校があります。ここに通う小学生は、毎日富士山が正面から見られるのですね。   

上原子安観音堂・・・・永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。

次いで天正十年二月(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。

  

谷津沢川水路橋は、鉄道線路の上を川が流れ、その上に歩道があるという珍しい橋です。

   

遠州都田の吉兵衛碑・・・・・文久元年(1861年)5月、清水次郎長は子分の森の石松が吉兵衛・梅吉兄弟にだまし討ちに遭い斬殺された恨みを晴らすため、遠州都田(現在の浜松市北区都田)の吉兵衛(通称、都鳥)をここで討ちました。吉兵衛の菩提を弔う人も稀で、これを憐み里人が供養塔を最後の地に建立し、侠客の霊を慰さんだとされています。  

元追分の案内板の近くに元禄8年(1695)から創業の「追分羊かん本舗」があります。駿河三大名物の一つに数えられた「追分羊羹」です。さっそくお店の中に入りました。この羊羹は、竹皮で蒸しあげた羊羹です。お土産用としてこの羊羹を買いました。またちょっと小腹がすいたので大福餅とみたらし団子を戴きました。追分羊羹の横には、「志みづ道道標」がありました。  

    

江尻宿に入りました。江尻宿は、家数あ1340軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒)人口6498人。

慶長12年(1607)巴川に橋が架けられました。その渡り始めまさにその時、川の中から一人の童子が現れ、橋脚を登り、入江方面へ消え去りました。人々はこの童子を川に住む河童だと語り、この橋の名前も江尻橋から稚児橋に変えたということです。

  

魚町稲荷神社は、またの名を「サッカー神社」と呼ばれています。境内には、大きなサッカーボールの石碑が台座しています。清水は少年サッカー発祥の地、夏には全国大会が開かれます。

  

   

江尻宿の中心部にやってきました。地図では、このあたりに本陣、脇本陣があるようになっていますが、案内板もなくわかりませんでした。

江浄寺・・・室町時代に鎌倉光明寺第九世観誉祐崇上人が京都に上がる途中、勝沢に勝沢山江浄寺として創建したのが起源です。家康公の第一子である岡崎三郎信康公の遺髪の御廟所があります。   

時間も1時を廻りました。今日は、3時過ぎの新幹線で帰る予定ですので今回はここまでとします。帰りに通った清水駅前商店街は定休日なのか、シャッターが閉まっている店が多かったです。

  


東海道道草ウォーク№28「藤枝宿~岡部宿~丸子宿~府中宿」(藤枝市~静岡市)

2017-11-24 19:02:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№27からの続きです。県道381号水守信号より右折、左側には、大きなホームセンターがあります。その先を左折すると、前方須賀神社の所に大きな楠があります。

そしてその少し先には、東海道膝栗毛で書かれた「鬼島の立場」です。

街道の松、枝を鳴らさず、往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕篭・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の両人も、

そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。ここは宿場間のお休み処。茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、

この酒半分水だペッペツ、ブツブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる。「処もとは鞍の鐙ケ淵、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」

  

葉梨川の八幡橋を渡った所に「鬼島の一里塚」があります。更に先の仮宿の信号の手前には、「従是西田中領」の榜示杭 、信号を渡った所には、「従是東岩村領」の榜示杭。

    

説明文を見ると、この杭は、享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを榜示した杭を再現したものである。

岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とし、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村五千石分の飛領地があり、横内村に陣屋を置いて治政を行っていた。

  

  

横内村には、各家の軒先に昔の職業の木札が掲げられており、昔は職人の村だったのではないでしょうか?

   

内谷新田ICの信号から岡部宿です。

岡部宿は東海道21番目の小さな宿場の為、大名行列の時は、隣の藤枝宿から寝具や道具を借りることもあったようです。ここには、全国を行脚した木喰上人の木喰仏が6体残っています。

「東海道中膝栗毛」では豆腐を指す女房言葉が「おかべ」といったことからこの地の「岡部」をかけて登場しています。

 

  

岡部宿は、電線が地中化しており、とてもすっきりした街並みです。藤枝市役所岡部支所の所には、「五智(ごち)如来」があります。

五智とは、仏が備える5つの智のこと。そして五智如来は、それぞれを成就した阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生如来のことです。宝永2年(1705)陸奥棚倉城主から

駿河城主に国替えされた内藤豊前守弌信の家老・脇田次郎左衛門正明が寄進したもので材料には、地元産「三輪石」が使われています。

  

時間も4時近くになり、これから次の宿場の宇津の谷峠に向かうのは、困難な為、今日はここで打ち切りです。

………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

11/14(火)今日は曇り空。いつあめが降ってもおかしくない天気です。7:26藤枝駅前バス停からバスで前日ゴール地岡部宿まで行きます。

岡部支所の信号から右折、すぐ左折します。ここは、枡形跡と呼ばれ、別名曲尺手ともいいます。本陣めがけて敵が容易く侵入できないように宿場の出入り口に設けたものです。

ここは、正面に折れ曲がっています。また、ここには、木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日明け六つに開け、暮六つに閉じていました。

     

宿場町の途中に「光泰寺」があります。曹洞宗の寺院で、2体の木喰仏が安置されています。1体は高さ215cmの准胝観音菩薩」で県内最大の木喰仏です。もう1体は、聖徳太子立像」です。

小野小町姿見橋・・・・美人の誉れが高かった小野小町が、晩年東へ下る際にこの橋の上に立ち止まり、岡部の山々を眺め、橋の下の水面に映った自分のやつれ、年老いた姿に悲しんだそうです。

今は、小さな橋で、注意深く見ないとわかりません。

     

岡部宿は、家数487軒、(本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒)人口2322人(1843年資料による)

本陣は、内藤本陣、仁藤本陣があり、内藤本陣跡は、現在公園になっています。仁藤本陣は、大旅籠柏屋の前にあったそうですが、現在はわかりません。

  

大旅籠柏屋(かしばや)は、内野本陣の別家である山内家が営んでいました。敷地面積2380坪(約7860㎡)、主屋の延べ面積が約100坪(330㎡)。

その規模から大旅籠柏屋といわれ、岡部宿を代表する旅籠でした。山内家5代良吉(天保以降)旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄りなどの

宿役人を務める岡部宿でも屈指の名家でした。歴史資料館では、東海道筋における岡部宿の役割や旅籠の様子、人々の暮らしぶりが感じ取れます。

  

  

大旅籠柏屋を出て、宇津ノ谷峠を目指します。途中「笠掛の松」というのがあります。西行に破門され、病で倒れた西住が笠に辞世の句を書き松に掛けて亡くなりました。

後日、西行はこの笠を見て弔歌を残しています。「笠はあり その身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな」

十石坂観音堂・・・・・江戸時代までは、西行山最林寺と呼ばれ、浄土宗の由緒あるお寺でした。文化5年(1808)火災にあい、観音堂だけが残りました。観音堂は入母屋造、瓦葺の

本格的寺院建築で、非常に細かい細工が施されています。

  

道の駅「宇津野ノ谷峠」上り線です。これから宇津ノ谷峠にチャレンジします。先ほどより細かい雨が降ってきました。大降りにならなければいいのですが・・・・

 

宇津ノ谷峠は、岡部宿と丸子(まりこ)宿の間にある峠です。伊勢物語にも登場する中世の道である「蔦の細道」、近世の道では、明治の道、大正、昭和、平成のそれぞれのルートや

トンネルが残り、そのすべてが利用されています。ここでは、旧東海道でなく「明治のトンネル」を歩いてみます。

坂下地蔵堂・・・本尊は聖徳太子の作と伝えられる延命地蔵で「鼻取地蔵」の伝説で名高い。境内の鐘楼には、元禄15年卍山銘の鐘があります

    

宇津ノ谷峠には、いろんな石碑が建てられています。

蘿径記碑(らけいきひ)・・・・元は旧東海道を50m程上った左側に建てられていたが、明治天皇が明治トンネルを歩いて通られる時にトンネルの入口近くに移された。その後、昭和第二トンネルが

完成した折に現在地に移動しました。江戸時代の駿府代官羽倉簡堂が蔦の細道が消滅していくのを惜しんで建てたもので名文といわれています。

髭題目の碑・・・・天保6年(1835)11月に人馬の安全と天下泰平・五穀豊穣成就の為に日蓮宗徒の人達が建てたものです。

   

息を切らしながら登ってくると、明治のトンネルが見えてきました。

明治のトンネル」は、明治・大正時代の東海道。元のトンネルは、トンネル中央で「く」の字に曲がっていた、わが国で初めて通行料を取ったので「銭取りトンネル」とも言われました。

現在のレンガのトンネルは、元のトンネルが火災を起こし、使えなくなったので人力車・馬車の通れる道として作り替えたものです。平成9年(1997)国の登録文化財になっています。

  

 トンネルを通ると静岡市に入ります。下を見ると丸子の町並みが見えてきます。この光景、テレビなどで東海道を放映するときよく出てきます。

広重の東海道岡部宿の浮世絵には、この宇津ノ谷が描かれています。

   

宇津ノ谷地区は、静岡市の西端、旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した「歴史の街道」の面影を残す、静かな山あいにある集落(間の宿)です。

平成20年10月静岡市の景観計画重点地区に指定され、街道の面影を残す町並みとして保存されています。

 

道路の角にある「角屋」、橋の近くにある「橋場」など昔の屋号が残っています。

宇津ノ谷地区には、「御羽織屋」があります。天正18年(1590)小田原城を攻める時に、豊臣秀吉がこの店に立ち寄り、馬の草鞋を取り換えようとした際、3脚分しか渡さない家の主人石川忠左衛門に

その理由を尋ねると「4」を避け、勝利の祈願を伝えられました。秀吉は縁起のいい話に大変喜び、見事勝利した時に、その褒美として着用の陣羽織を与えたといわれています。

残念ながら現在拝観中止になっています。

     

道の駅宇津ノ谷下りを通り国道1号線へ。このころから雨は本降りに変わりました。1号線赤目ヶ谷西の歩道橋を渡ります。渡った所には、「一里塚跡」。

   

丸子紅茶」の看板があります。

明治初期から中期の日本では、茶が生糸とともに日本の輸出の主力でした。特に紅茶については世界の需要が多いことに着目し、茶業振興を図る政府から、

千葉県出身の元幕臣多田元吉翁は努力を認められて明治政府の役人に抜擢され、明治8年から10年にかけて中国、インドのダージリン、アッサムなど命がけがけで巡り、

紅茶製造の技術を学び、日本に持ち帰り全国に広めました。茶の種、紅茶製造方法、病虫害に対する研究、栽培方法、品種改良、近代茶業につながった機械の図面持込み、有機農法の持込み、

製造技術等多岐にわたる紅茶製造の技術を日本にもたらし、1881年(明治14年)に初めてインド式製法で本格的紅茶の生産が始まりました。

紅茶の技術は緑茶製造にも応用され、緑茶の大量生産の道を開きました。元吉翁は茶の品種改良や有機栽培、製茶器具の発明、害虫発見、技術者の育成など日本近代茶業発展の基礎を築きました。

しかし、紅茶生産は昭和初期をピークとして、第二次大戦後、日本経済が高度成長するにともない、国産紅茶は価格競争力を失って国産紅茶の産業化推進は中止されました。
1971(昭和46)年6月には紅茶の輸入自由化が行われます。これ以降、国産紅茶は一部の地場消費用に1~2トン程度が生産される程度となりました。

昭和28~30年 村松二六は、この丸子の地に紅茶の灯を消してはならないと、試験場にて紅茶の研修で学び得た知識をもとに本物の紅茶作りに挑戦し、紅茶品種の紅富貴を日本で最初に

民間で栽培しました。元吉翁の旧居、茶園は丸子の墓地近くにありましたが、現在は整地されて見ることはできません。しかし元吉翁栽培の茶樹は現在も残っています(丸子紅茶HPより)

   

丸子宿は、鞠子とも呼ばれ、東海道の中では小さな宿場町でした。1843年の資料によれば、家数211軒(本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒)、人口795人でした。

広重が書いた浮世絵丸子宿には、「丁子屋」が描かれています。丁子屋は、慶長元年(1596)創業で現在も営業を続けています。

私も東海道歩きを調べている時、この丁子屋を見つけ、ここのとろろ汁が食べたいと思いました。それが今叶えられます。

駐車場には、大型バスが数台停まっていましたので、満席かな?と思いましたが、藁葺屋根の方から店内に入ると意外にも広いです。大広間は、60人~70人ぐらい入れるでしょうか?

また、ほかにも個室があり、大規模な店です。

  

勿論、注文は、「とろろ汁」です。御櫃に入った麦飯にとろろ汁をかけていただきます。いやぁ、ホントにおいしいです。御櫃の麦飯は御代りもできますが、もう腹いっぱいです。

400数十年の伝統の味をいただきました。店内は歴史資料館にもなっており、秀吉の陣羽織の写真や、十返舎一九の像などが展示されていました。

  

丁子屋を出て再び街道を歩きます。お七里役所跡は、江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、

独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置した。

    

東海道には、13か所の渡し場が有り、安倍川もかつては渡し船があったが、正徳年間(1711~1716)に幕府の命により、徒歩の掟が下った。川越制度が設けられ、堤添町、弥勒町、毛越村に

それぞれ川会所が置かれました。この川越制度は、明治4年(1871)民部省から廃止が出されるまで150年以上行われました。

橋の先には、二つの顕彰碑が建っています。一つは、「安倍川義夫の碑

元文3年(1738年)初秋の頃、紀州の漁師が仲間と貯めた大金を持って安倍川を、自力で川を渡る際にうっかり、財布を落としてしまい、たまたま近くにいた川越人夫の一人が財布を旅人に届けました

旅人は喜び、礼金を払おうとしまいたが、どうしても受け取ってもらえず旅人は、駿府町奉行所に届けました。町奉行がこの人夫を呼び出し礼金を渡そうとしましたが、それでも受け取らず、

町奉行は礼金を旅人に返し、奉行所から川越人足にほうびを渡しました。昭和4年(1929年)和歌山県と静岡県の児童や有志の方々の募金によって、安倍川橋の近くに碑が建てられました。

安倍川架橋の碑」明治4年民部省より支持が出され、川越制度はなくなり、仮橋と渡船の併用となったが、旅人は不自由を強いられた為、これを見かねた弥勒の宮崎総五という一民間人が

県の委託を受け、多額の私財を投じて木橋を架けたのが初代の安倍川橋で当時は「安水橋」と命名された。明治7年(1874)竣工、長さ280間(504m)、幅2間(3.6m)の木橋は、

静岡県下四大河川に最初に架けられた。当時の通行料は、一人4厘、車馬や篭には差がつけられ最高額は馬車1台(定員4人)4銭5厘だった。宮崎は、架橋費7000円が償却されたあとは、

無料にする予定でしたが、毎年洪水により被害が続出し、その修理に負われたため、明治29年(1896)県に献納されました。現在の橋は、トラス構造で三代目です。(国交省静岡河川事務所HPより)

※広重の浮世絵府中宿は、安倍川の川越しを描いています。

   

駿府城跡に着きました。駿府城は、徳川家康が大御所として隠居した城です。天守は、寛永12年の出火により焼失したままです。

今日の日程はここまで。明日は江尻まで歩こうと思っています。

  


東海道道草ウォーク№27「島田宿~藤枝宿」(静岡県島田市~藤枝市)

2017-11-21 06:38:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

11/13(月) 加古川ツーデーマーチの後、静岡県藤枝に移動し、今日から3日間東海道を歩きます

前回ゴール地JR島田駅を8:00スタート。

島田宿は、家数1461軒、本陣3軒、旅籠48軒、人口6727人(1843年資料より)

  

静岡銀行島田支店の所には、「塚本如舟(じょしゅう)邸跡」があります。

塚本家は代々「孫兵衛」を名乗り、幕府より島田宿の川庄屋(かわしょうや)に任じられました。川庄屋とは川越を管理する役人のことです。

三代目孫兵衛の時、塚本家の財力がとても大きくなり塚本家は大いに栄えました。その三代目孫兵衛は俳諧をたしなむ人物で塚本如舟と名乗っていました。

元禄4年(1691)松尾芭蕉が島田宿を訪れた時に塚本如舟が接待しました。この時芭蕉48歳如舟51歳。

その後、芭蕉最後の旅となった元禄7年(1694)の旅の途上でも、芭蕉はここ如舟宅を訪れ、いくつかの句を詠んでいます。この時芭蕉は大井川の川留めのため四泊しています。

碑には、如舟作の俳句が刻まれています。 やわらかに たけよ今年の 手作麦

 

刀匠島田顕彰碑    島田の刀鍛冶は室町から江戸末期に至る400年間の歴史を持ち、今川、武田、徳川などの武将に高く評価されていました。

 

ここで街道を離れ、「蓬莱橋」へ。

蓬莱橋は、明治12年(1879年)に開拓した牧之原の茶畑へ行く橋として作られた全長897,4m(厄無の長生橋)、通行幅2,7mの木製橋です。

平成9年(1997年)に世界一長い木造歩道橋としてギネスブックに登録されました。

名前は、明治3年(1870)開拓している幕臣の激励のため牧之原を訪れた静岡藩主16代徳川家達の言葉からつけられたとされています。 

2016年NHK朝ドラ「ととねえちゃん」で主役常子が通う通学路としても放映されました。

  

この蓬莱橋から見る富士山は、ビューポイントになっていますが、この日は、空がかすんでいて、富士山が輪郭しか見えませんでした。

 

   

蓬莱橋から再び東海道に戻りました

 升形跡」は、宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張施設のことをいいました。

宿場の見付は、上に咲くや竹矢来を設けた石段や土手で、街道に直角や鍵の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。

島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80㎡)ほどです。ここには宿場の番人を置いたという記録はありませんので、

宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。

島田市のマンホールは、日本三大奇祭の一つ「帯祭」がデザインされています。

  

監物川と監物橋

今は、小さな川ですが、寛永12年(1635)島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下に入りました。注)志太郡一帯を支配することになった監物は、

水不足に悩む栃山川以東の村々の為に、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して

大井川の水を引き入れました。感謝した農民達は、その名前を後世に残そうとこの水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだものと思われます。

  ※注)志太郡・・・・・・藤枝市の大部分、焼津、島田の一部、川根本町の一部

  

栃山土橋 大津谷川と伊太谷川がこの橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。

享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の栃山橋は、土橋で長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)、橋杭は三本立て七組で支えていました。

土橋とは、板橋の上に土を貼ったもので、この橋の東端が、当時の遊悦島村と島田宿の境になっていました。

 

街道は、22番目の宿場「藤枝」に入りました。

藤枝は、古代から人が生活を営み平安時代には、役所(志太郡衛)が置かれていました。宿場町であるとともに、田中城の城下町として栄え、海辺の町、相良までの「塩の道」でもある

田沼街道の終点でもあり、商業の町としても栄えていました。

  

田中藩は、他藩と接する領地が入り込んでいた為、田中藩を示す榜示石を各所に立てていました。その石に刻まれた文字は、田中城主が家臣に命じて書かせたもので、

その書の見事さは、旅する文人を驚かせたほどだといわれています。

   

千貫堤は、大井川の氾濫から村を守るため田中藩が江戸初期より築いた堤防です。近くには千貫堤・瀬戸染飯伝承館がありますが、今日は月曜日定休日でした。

  

瀬戸染飯・・・・・・クチナシで染めたおこわである染飯は、戦国時代から売られてきたもので、足腰の疲れを取る薬効もあり、東海道の名物でした。

     

六地蔵・・・・・・・世界観である六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のそれぞれの世界に救いを与える地蔵菩薩を祀っています。多くの旅人が祈願したと伝えられています。

東海道追分・・・・ここには、瀬戸山を越える中世の古東海道を山裾に沿う旧東海道があります。瀬戸新屋や水上は、池や湿地が多い所だったので東海道から六地蔵の所を通るように

なったのは、開拓が進んでからです。当時東海道は、この碑の所から東へ竜太寺山を通り、前島境で初倉からの道と合流して南新屋(五又路)へ通っていました。

東海道が瀬戸新屋を通るようになって東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼びました。

     

時刻も12時を廻り、青木の信号の所の食堂で軽い昼食を食べます。

昼食後再びスタート。歩いていると「岡野繁蔵生誕地」の石碑がありました。岡野繁蔵????

石碑の説明文を見ると、裸一貫から南洋のデパート王となった岡野繁蔵は、明治27年青島村(現藤枝市青島)で生まれ、青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアの

スマトラに渡り、大信洋行を興し、雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが、太平洋戦争で止む無く日本に引き揚げました。

戦後衆議院議員に当選し国や郷土の為に貢献されたが昭和50年81歳の生涯を閉じました。

志太郡衛跡は、奈良・平安時代の駿河の国志太郡の役所跡です。

志太の一里塚は勝草公園の所にありました。

   

勝草橋を渡ります。江戸幕府は大きな川に橋を架けることを禁じていたので、瀬戸川も川越しが行われた。「越すに越されぬ大井川」に比べ川幅も狭く、水深も浅いので徒歩で渡ることが多く、 

瀬戸川の徒渡り(かちわたり)といわれ知られていました。

 明治8年(1875)11月初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となりました。勝草橋の名前の由来は、二つの説が伝えられ、一つは昔、田中城の兵が付近の河原で合戦し勝利したことから、

勝軍橋と言っていたのが縮まって勝草橋になったという説ともう一つは志太という地名が植物のシダの読みと同じで、シダの異名、勝草と称することから志太橋という意味で

志太という地名が勝草橋になったということです。

 

勝草橋を渡ると「藤枝宿」です。現在藤枝の中心部は駅付近ですが、当時はこのあたりが藤枝の中心部だったのでしょう。

「藤枝宿」は、家数1061軒(本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠37軒)、人口4425人でした。(1843年資料)

正定寺には、田中城主であった土岐丹後守頼稔が大阪城代への出世を記念して寄進された「本願の松」があります。

  

広重の東海道の浮世絵は、問屋場の風景を描いており、問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所で、町役人がいて荷物の賃金を決めたり、馬の乗換えや人足の補充をしたり、

駅伝の重要な機関でした。問屋場の役人たち、汗を拭いたり煙草をふかしてひと休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、慌ただしい問屋場のひと時の情景が情緒豊かに描かれています。

交番の所が問屋場のあった所です。そこには、大きな浮世絵の看板が設置されていました。

   

地図では、交番の横、おたけせんべいの向かい側に本陣があると表示されていますが、探しても見当たらず、また近所の方に聞いてもわからないとのこと。

おたけせんべいは、明治の初め、東海道22番宿・藤枝で創業者天野たけが、宿場の梅園にて美しく咲き乱れる梅に心を奪われ、その梅を型どった煎餅を焼いて、

宿場町で休む旅人たちに親しまれていました。残念ながら月曜日は定休日でした。

旧東海道は藤枝の宿、江戸時代からの伝統を受け継いでいる“藤枝だるま”は、創業170余年…。かぼちゃ型、面長型などは明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が

愛玩したということから『八雲だるま』や『乙吉だるま』とよばれて親しまれている。

“藤枝だるま”の大きな特徴は、びんの左右に描かれた「8の字」である。

だるま以外に、オカメ、ヒョットコ、その他の張子面も作っている。ひとつひとつがすべて手作りであり、今も伝統が守られている。(静岡こだわりの逸品ガイドより)

若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)は、平安時代に源八幡太郎義家が奥州での争乱を平定する為に下向し、その途中義家は若一王子神社で武道長久を祈願しました。

その時、神社の古い松の木の枝に藤の花が今を盛りと咲きにおっていました。これを見た義家は、松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代をへん  という和歌を詠み、

また自身も松を手植えをしました。その時、この松を「千歳の松」というようになり、この辺一帯を「藤枝」と呼ぶようになったといわれています。

    

蓮華寺池公園・・・・慶長18年(1613)頃、灌漑用として村民が総出で掘った池で、現在は、周辺を含め公園となっており、公園内の「若王子古墳群」は28基の古墳と東日本では珍しい

車輪石等が出土しています。

  

白子由来の碑・・・・家康公は、天正10年(1582)本能寺の変で三河に逃れる途中、伊勢国白子の孫三に助けられました。その後現在の本町あたりを白子町として、孫三に居住を許し、

諸役免除の御朱印を与えました。その御朱印は子孫の手で今でも保管されています。

  

藤枝は、サッカーの町、東海道沿いには、高校サッカーの名門「藤枝東高校」があります。また、藤枝はスイーツの町、サッカー饅頭、サッカー最中などのお菓子もありました。

    

街道からは外れますが、本町3丁目から右折すると、「旧西益津村役場跡」があります。その先の大手の信号の所に「田中城跡」の碑が建っています。

田中城は徳川家康の死因ともいわれる鯛の天ぷらを食した城です。かつては今川氏と武田氏とが奪い合った城で、山県昌景が城主を務めたこともあります。

この城の特徴はなんといっても縄張で、本丸を中心に、直径約600mの同心円を描く全国的にも珍しい円形輪郭式の縄張となっています。当時の遺構は水堀と石垣がわずかに残るだけですが、

江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった別荘が史跡公園(田中城下屋敷)として整備され、本丸櫓や茶室が復元されています。

城跡は、現在西益津小学校が建てられています。時間の関係上、城跡までは行けませんでした。

    

                                                                                                                            (つづく)

 


第28回加古川ツーデーマーチ2日目20km(兵庫県加古川市)

2017-11-19 16:04:15 | オールジャパンウオーキングカップ

11/12(日)今日は私の〇〇歳の誕生日。FBには、たくさんの方からお祝いメールをいただきました。有難うございます。

………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

11/12 第28回加古川ツーデーマーチ2日目。姫路のホテルで朝食をしっかり食べ、いざ会場へ。

今日は、大会終了後、明日からの東海道歩きのため静岡県に移動します。

   

加茂神社、泊神社を通り加古川へ。

加古川は、昔、鹿児川(かこがわ)と呼ばれており、昔、景行天皇が西国征伐のおり、印南野氷の丘(現在の日岡山)より望まれた河の三角州が、鹿の背に似ているところから、名付けられたという説と。

同じ頃、その周辺(現在の加古川駅前)に、多くの鹿が住みつき 鹿の村と名付けられたという説があります。(㈱カノコHPより)

   

加古川は、延長96kmの一級河川。河原の途中が1回目のチェックポイントでした。

  

水管橋を通り、「升田堤」へ。

升田堤は、万治元年(1658年)に姫路藩主・榊原忠次が築堤したもので、現在の堤防の基礎ともなっています。古くから加古川の流れはこの辺りから東西二つに分かれており、

参勤交代の大名や旅人は二つの瀬渡しで難儀し、地域の人々は毎年のようにおこる水害に苦労していました。忠次はこの二つの流れの間に堤防を築いて流れを一つにし、

かつての河床に新田や畑を開くことを決め即座に工事を実施に移しました。なぜなら当時、度重なる水害による被災者救済や石高の低下が藩の財政を圧迫し、

築堤による治水と新田開発に大きな期待をかけていたからです。こうして藩の命運をかけた「升田堤」には人員延べ60万人を動員、工期は約1ケ月余りという驚異的な規模と速さで完成し、

開墾した新田は藩に大きな利益をもたらしました。

  

平荘湖(へいそうこ)は、昭和41年に東播磨工業地帯の工業用水の安定供給を目的として建設されたダムによってできた人造湖です。

湛水面積約1平方km、貯水量900万トンで、1日20万トンの配水能力をもっています。湖面にはひょうたん型の島が浮かび、周辺は自然景観の美しいところです。

ここでN夫妻、とほ娘さんと合流。ここから一緒に歩きます。

 

  

  

 

2回目のチェックポイントがウェルネスパークです。ここでは、まちこん鍋が提供されました。

  

  

まちこん鍋を食べながら少し休憩します。食べ終わると再びスタート。

升田の町に入ります。このツーデーマーチの間、升田では、たくさんの案山子が出迎えてくれます。

升田では、地元の方が作られたぜんざいがあります。子供たちの呼びかけにつられ中に入りました。

今日は、私の誕生日。Nさんがぜんざいをおごってくれました。

帰りも案山子さんが見送ってくれました。

 

再び加古川河川敷を歩きます。川の土手には、わんわん応援隊の幟が・・・・・「愛犬ちゅんこと一緒に」のブログを書いておられる方でした。

  

河川敷では、加古川凧上げまつりも開催されていました。

  

加古川橋を通り、「じげまち商店街」へ。ここは5年前西国街道を歩いた時に通りました。

  

3回目のチェックポイントは、「ニッケパークタウン」です。日本毛織こと「ニッケ」の加古川工場跡地で現在ショッピングセンターになっています。

 

  

13:25 20kmコース(実際は22km)ゴール

  

2日間の参加者は前年度を上回ったそうです。歩いていていろんなお祭りにも遭遇し本当に楽しかったです。やまちゃんはじめスタッフの方有難うございました。

このあと、加古川駅に戻り明日からの東海道歩きのため静岡県藤枝市に向かいました。

   

 


第28回加古川ツーデーマーチ1日目20km(兵庫県加古川市)

2017-11-17 17:48:22 | オールジャパンウオーキングカップ

11/11~12の「第28回加古川ツーデーマーチ」に参加しました。この大会は6~7年前に一度参加した大会で今回で二度目の参加。

11/11(土) 6:08博多駅発始発の新幹線のぞみに乗り、途中広島で別ののぞみに乗り換え、姫路駅から神戸線で加古川駅へ。会場に着いたのは、8:50.

どうにか、20kmのスタートには間に合いました。参加者が多いので列の一番最後に並び9:00スタート。(スタートは8:45から)

加古川は、我が福岡藩祖黒田如水(黒田官兵衛)の奥方「光(てる)姫」の生誕地。大河ドラマの時に作られた「てるひめちゃん」も応援に駆けつけました。

明日(12日)は、私の〇〇歳の誕生日。ゼッケンには、「気分は20歳です」と書きました。ちょっとサバを読みすぎたかな?

   

この大会は、仮装ウォーカーも募集していました。

 

30分ぐらい歩くと卸団地が1回目のチェックポイントです。卸団地では、ツーデーマーチに合わせ、卸まつりがおこなわれていました。

模擬店などおいしそうなお店が並んでいますが、先を急ぎます。

  

兵庫県は、溜池の数が日本一です。兵庫県でも一番は、淡路島ですが、明石、加古川、高砂、稲美町、播磨町などの東播磨地域の年間降水量は、全国平均の約半分と

雨が少ない瀬戸内気候です。稲作のためには、溜池で水を確保する必要がありました。

 

   

コースは、兵庫大学の構内に入ります。ちょうど兵庫大学では、学園祭が行われていました。ツーデーマーチに合わせての学園祭、お客さんも多いでしょうね。

  

  

コースは、加古川バイパスの歩道橋を通り、東加古川駅の方に向かいます。このあたりから歩友東京のMさんの奥さんに追いつきました。

 

2回目のチェックポイントは、教信寺です。

   

教信寺の横は、西国街道です。何年か前に山陽道・西国街道を歩いた時この道を通っているのですが、あまり覚えていません。

浜の宮公園が3回目のチェックポイント。

   

浜の宮公園では、元気鍋が振る舞われました。ここで小倉のNさんご夫妻と合流しました。ゴールまであと4,6km。ゴール時間は13:30頃かな?

  

このあと、浜の宮神社、尾上神社に向かいます。

尾上神社には、謡曲「高砂」に謡われた「尾上の松」があり、現在の松は五代目です。

   

鶴林寺

589年、聖徳太子が16才の時、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ仏教をひろめる為の道場として建てられました。釈迦三尊と四天王を祀り「四天王寺聖霊院」と称されたのが

この寺のはじまりといわれ、播磨の法隆寺とも呼ばれています。平安時代の壁画が見つかった県下最古の木造建築物、国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が

聞こえてきたため、改心したと伝えられている国重要文化財「金銅聖観音立像」など、多くの文化財が残されています。

   

鶴林寺では、甘酒のサービスがありました。

  

13:20  20kmゴール

ゴール会場には、昔のムーンスターのSNSの仲間、明石の「くりちゃん」が応援に来ておられ、皆さんと記念撮影しました。右側の写真にくりちゃんが写っています。

  

今晩の宿泊先は、加古川駅から電車で10分の姫路のホテル。夕方姫路城でライトアップが行われるということで行ってきました。

 

 


やまくにかかしワールド2017(大分県中津市山国町)

2017-11-09 11:22:23 | ウォーキング

今年も大分県・山国町の「かかしワールド」に行ってきました。

この時期、町の人口より案山子の方が多いといわれるくらいたくさんの「かかし」に出会いました。

  

【旧守実温泉駅前】

  

  

【ポケット村】

ここの案山子は、今年話題になった人が案山子になっています。

  

  

  

【道の駅やまくに】

田舎の学校で先生役は、池上彰さんです。生徒は、朝ドラの仲間たち。

   

  

【つや姫村】

   

  

  

 【六助工房】

ここは、「秋競馬」がテーマです。 

   

この馬のリアルさ、迫力がありますね。これでしたら「天皇賞」は優勝でしょうね。

  

【さるとび村】

猿飛千壺峡は長い年月をかけ、自然の激しい渓流が造りあげた大小無数の甌穴(おうけつ)が約2kmに渡って峡底に広がっています。
この穴は川底や岩のくぼみや割れ目に小さな石が入り、その石が水流によって回転し、丸い穴にひろがっていったものです。
岩の質や水の量、流れる早さといった条件がそろった時にできる大変めずらしい地形です。
※(甌穴(おうけつ)・・・・・急流の川床の岩石面に生じた鍋状の穴。くぼみに入った石が渦流で回転して岩を削ったもの。)
 
  
 
ここは、紅葉の名所でもあります。
 
 
 
  
 
ここの案山子のテーマは、昔の子供の遊びです。
 
  
 
  
 
今の子供さんに「チャンバラ」なんてわかるかな?
 
  
 
  
 
  
 
【あざみ村】
 
かかしに想いをよせてがテーマですが、昔の農村風景を描いています。
 
  
 
   
 
  
 
 
 
 
 
残念なことにこのあざみ村の案山子は、製作する人の高齢化で今年限りになるそうです。
 
そういえば、昨年は、15の会場がありましたが、今年は13会場です。
 
だんだん減っていくのかな?  
 
    
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 


羽黒山出羽三山神社まで2446段の階段登り(山形県鶴岡市)

2017-11-04 18:27:03 | ウォーキング

10/26(木) 今回河口湖~山形の旅行も今日が最終日。朝早く目が覚めたので休暇村の周りを散歩しました。

休暇村の周りは、木々も色づきこれから迎える冬の準備に備えているみたいです。

  

9:00 休暇村のバスで出羽三山神社鳥居まで移動します。ここから2446段の階段を登って山頂の出羽三山神社にお詣りに行きます。

10/22には、この階段を一気に登る羽黒山階段マラソン大会も行われたそうです。

   

随神門を潜ると、何か神聖な気分になってきます。

 

参道には、多数の末社が祀られています。

羽黒山の杉並木は、頂上までの1,7kの参道の両側に右側284本、左側301本の計585本、樹齢300~500年を超える老杉があります。

ミシュランガイドでは三つ星(わざわざ訪れる価値がある)を獲得した景勝地です。

   

神橋を渡ると右側に「須賀の滝」が見えてきます。

  

【国宝五重塔】

東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。現在の塔は約600年前の長慶天皇代に、庄内の領主で羽黒の別当であった武藤政氏によって再建されたものといわれています。

高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定されました。

    

2446段の階段も最初は緩やかだったが、徐々に急になってきました。

  

二の坂です。ここを登りきると茶屋があります。茶屋までひと踏ん張りします。

   

二の坂茶屋に着きました。急な階段を登ってきましたので茶屋を見た瞬間、ホッとします。ここで休憩します。

茶屋を営むTさん一家はシーズン中毎日石段を登り、手づくりの力餅やお抹茶をつくって、登山するみなさんをお待ちしているそうです。

 

ミックス餅を注文しました。汗もかいていましたし、ここで食べる餅は、本当においしかったです。

歩友・山形のSさんからここで「認定証」がいただけると聞いていましたのでお願いすると書いていただきました。

茶屋は、4月下旬から11月上旬まで営業されるそうです。冬場はここも雪が多いでしょうね。

 

   

茶屋からは、三の坂になります。

  

南谷は、約300年前羽黒山第50代別当天宥法印が築造した別当寺の別院跡です。今は一部の礎石を残すだけですが院をめぐって池を配した庭園は

周囲の自然を巧みに取り入れて名園の面影を今に伝えています。芭蕉もここで泊っています。   ありがたや 雪をかほらす 南谷

  

    

やっと山頂の鳥居が見えてきました。

    

羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。周囲には自然の地形に応じて建物が配される山岳寺院特有の景観が広がります。

現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。

平成12年国の重要文化財に指定されました。

  

朱印をいただきました。

     

  

境内には、芭蕉の句碑も建っています。  涼しさや ほの三日月の 羽黒山

 

11:00 休暇村のバスで休暇村まで送っていただきました。

  

時刻は、11時過ぎ。これから鶴岡市内に行ってみます

庄内藩の城下町であった鶴岡市中心部は、鶴ヶ岡城址、鶴岡公園のほか、藤沢周平記念館などがあります。

  

庄内神社は、酒井家初代 忠次(ただつぐ)、二代 家次(いえつぐ)、三代 忠勝(ただかつ)、九代 忠徳(ただあり)を祀った由緒ある神社で、鶴ヶ岡城本丸跡に明治10年(1877年)に建てられました。

      

レンタカーを返却し、電車で鶴岡駅から新潟駅に行き、新潟空港から飛行機で福岡に戻りました。

6泊7日の旅行も無事終了しました。

  

 

【追記】

日本シリーズ第6戦 福岡ソフトバンクホークスが延長11回4-3のサヨナラ勝ちで日本一。

Deneの投手が非常によく苦しい日本シリーズでした。ホークスおめでとうございます。


最上川舟下り~湯殿山の紅葉(山形県)

2017-11-03 15:32:56 | ウォーキング

10/25(水)

ホテルを8時にチェックアウトして戸沢村の最上川舟下りに行こうと思いましたが、ちょっと時間が遅れ、同行のKさんたちはもう出発されていました。

高速を通り約2時間で戸沢村の旧戸沢藩船番所の最上川舟下りに到着。既に会津のKさんご夫妻は到着されていました。

 

戸沢藩船番所は戸沢氏が領主になってから整備された船番所です。特に古口はこれ以降の川下が最上峡だった為、戸沢藩内の最西端の船着場で、陸路もなかったので、

旅人などは古口で舟に乗り換えなければなりませんでした。藩ではこの場所を重要視して番所を設け、川舟荷物の出入りの監視や人物改めなどを行わせました。

番所役人は戸沢藩では中級武士以上である200石と2本の脇差を許すなど重要任務として捉えていました。明治維新後は全国の関所を廃止する事になり戸沢藩船番所も

時を同じくして廃止となっています。古口の川港の立場はしばらく続きますが、鉄道が敷かれると最上川舟運の衰退が始まり、川港として発展した町も以前ほど活気がなくなりました。

最上川は、福島県境の米沢市の吾妻山付近に源を発し、山形県中央部を北に流れます。新庄市付近で西に向きを変え酒田市で日本海に注ぎます。流路延長229km。

この最上川には、芭蕉が「奥の細道」で詠んだ句があります。

  五月雨を 集めて早し 最上川 (大石田にて)   暑き日を 海にいれたり 最上川  (酒田市にて)

最上川舟下りは、古口から草薙までの12kmを約1時間かけて下っていきます。1時間に1本の舟下りですが、ちょうど10:20発の舟に間に合いました。

     

  

  

  

丁度半分ぐらい下った所で休憩します。ここは、ふるさと村。水上コンビニ(といっても7やR,Fの系統ではない)があります。

アユの塩焼きや芋煮、山形のお土産等販売しています。

   

  

  

 

終点の近くには、日本の滝百選の一つ「白糸の滝」があります。最上川沿いに標高300~500mの山地が急斜面を形成する最上峡には最上四十八滝群があり、西端にある

白糸の滝はその中でも最大です。落差120m。滝の横には、不動堂があります。

   

約1時間の舟下りでした。ここから古口の発着点まで路線バスで戻りました。

  

古口港でKさんご夫妻と別れ(といっても夕方ホテルで会います)、出羽三山の一つ、紅葉の名所「湯殿山」を目指します。

出羽三山とは、羽黒山、月山(がっさん)、湯殿山のことを指します。

三山のそれぞれの山は、羽黒山が現世(正観世音菩薩=観音浄土=現在)、月山が前世(阿弥陀如来=阿弥陀浄土=来世)、湯殿山が来世(大日如来=寂光浄土=未来)という

三世の浄土を表すとされます。近世の出羽三山詣では、羽黒山から入り、月山で死とよみがえりの修行を行い、湯殿山で再生する巡礼が多く行われ、

生まれ変わり(死と再生)の意味をもった「三関三渡(さんかんさんど)」の旅とされました。

 戸沢村の舟下りから湯殿山まで約60km。

鶴岡市に入ると、途中の田んぼでは、「コハクチョウ」が飛来していました。目勘定で100羽以上かな?

  

途中、月山(がっさん)は、冠雪していました。

 

 

  

紅葉がきれいです。

  

  

 

湯殿山本宮前の鳥居に着きました。ここから参拝バスで参拝所まで行きます。

湯殿山本宮は、ここから撮影禁止となります。本宮では、参拝に際して現在でも履き物を脱ぎ、裸足になり、御祓いを受けてからでなければお詣りは許されません。俗世とは切り離された神域です。

湯殿山の本宮は、岩の上からお湯が沸きだしていました。

 

  

   

朱印をもらいました。  鳥居の所には、先ほどまで多くのカメラマンがいましたが、雲がかかってきたのでもう帰られていました。 

  

 今夜の宿は、「休暇村 羽黒」です。Kさんご夫妻は、もう到着されていました。

明日は、羽黒山2446段の階段上りに挑戦します。

 


甲府から「あずさ2号」に乗って山形の紅葉を見にいきました

2017-11-02 07:37:46 | ウォーキング

10/24(火)

昨日は、中央本線、湘南新宿ライン、山形新幹線が台風のため、間引きや運休になったため、甲府に延泊し、本日山形に行くことにしました。

時刻表を見ていると中央本線に「あずさ2号」がありました。(甲府発7:24 東京行上り

  明日私は旅に出ます あなたの知らない人と二人で いつかあなたと行くはずだった春まだ浅い信濃路へ・・・・・

この歌は、私がまだ若かりし頃の昭和52年(1977)、狩人が歌った歌です。勿論、この電車に乗ることにしました。

歌では、8時丁度に東京都内を発って信州に行く「あずさ2号」ですが、現在あずさ2号は、長野・松本駅を6:08発甲府7:24の東京行上り電車です。

  

歌詞では、 8時丁度のあずさ2号でわたしは わたしは あなたから 旅立ちます・・・・ となっていますが、今、8時丁度のあずさ2号は、山梨県大月駅を出発します。

昭和52年頃とは、電車の形も違いますが、何か狩人になった気分でした。(新宿9:12着)

新宿駅から埼京線で大宮へ。大宮から山形新幹線で山形に向かいました。山形着12:44

  

山形駅でレンタカーを借り、「立石寺(山寺)」へ。

山寺は、正しくは宝珠山立石(りっしゃくじ)寺といい、貞観2年(860)清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた、天台宗のお山。正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂である。

延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。

堂内には、慈覚大師作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには

逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができる。(山寺観光協会HPより)

                  閑さや岩にしみ入る蝉の声

学生時代に習いましたね。松尾芭蕉が 元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺に参詣した際 に詠んだ発句。『奥の細道』に収録されています。

立石寺には、芭蕉の句や芭蕉、そして門下の曽良の像も建っています。

この立石寺は、山門を通って階段を上っていくと奥ノ院がありますが、徒歩で60分ぐらいかかりますので今回はここまでにします。

 

 

  

 

山寺から蔵王の方に向かいます。道中道のそばには、リンゴの木がありました。もう真っ赤になっており、出荷間近でしょうか?

  

山寺から車で約1時間。蔵王温泉に到着。ここからロープウェイに乗って鳥兜山に行きます。

  

ロープウェイからの眺めです。山の木立が黄葉しています。

  

 

   

日没の時間も迫っていますが、ここから少し散策してみます。

 

冬になるとこの一帯が樹氷に覆われます。

  

山頂の気温は、15:45現在6℃。ちょっと寒くなってきました。

   

 16:30 今夜の宿舎上ノ山温泉「古窯(こよう)」に到着。

ここで会津のKさんご夫妻と合流します。本当は、下関のMさんご夫妻ともご一緒する予定でしたが、Mさんの方に所用ができご一緒できませんでした。

Kさんとは、昨年磐梯山を旅した時にご一緒しましたので約1年ぶりの再会でした。

 

 古窯の名は敷地内から発掘された、今から約1,300年前の奈良時代の窯跡にちなんで名づけられました。

ここでは、素焼きの皿に絵付けができるようになっています。

  

棚には、著名人が書いたお皿が展示されていました。

  

温泉も料理も最高でぐっすり寝ることができました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆