11/15 今回の東海道歩き最終日です。静岡市は江戸時代、駿府という名称で呼ばれていましたが、正式には、駿河府中です。府中という地名はたとえば駿河府中、甲斐府中のように特定の地名を表すと言うよりも、むしろ地方の拠点をあらわす名称です。明治2年、新政府はこのまぎらわしい名称を避けるため、駿府藩に対して府中という地名の変更を命じてきました。藩内で検討した結果、「静、静城、静岡」の3つを考案し、政府に報告しましたが、このうち「静岡」が採用され、6月の家達の藩知事任命の際、初めて使用されました。なお、「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われています。
因みにわが福岡県の地名は、黒田長政が中央区舞鶴に築城した際、黒田家の出身地岡山県瀬戸内市長船福岡から取ったと言われています。8時前にJR静岡駅に到着。駅前には、久能山東照宮の石碑が建っています。久能山東照宮は、家康公を祀り、墓所がある神社です。平成22年(2010)10月に本殿を含む社殿が指定されました。江戸時代、参勤交代で府中宿を通る一行は、華陽院により、久能街道を通って東照宮にて墓参りをしたそうです。
駅前には、家康公の銅像も建っています。葵タワーから少し入った所には、「浮月楼(うげつろう)」(慶喜公屋敷跡)があります。
15代将軍慶喜公は、明治元年(1868)水戸から駿府に移り、常磐町の宝台院にしばらく閑居し、翌2年幕府の代官屋敷を手に入れ、そこを住まいとしています。以後20年間は、その屋敷で
自転車、写真撮影、油絵、狩猟など多彩な趣味を楽しみました。浮月楼の庭園は、当時のものが残っています。慶喜公は、明治20年(1887)東海道線の喧騒を避け、市内西草深の新邸に
転居しました。慶喜公転居の後、ここを「浮月楼」と名を変え、静岡の迎賓館として結婚式や料亭に使われています。
東海道中膝栗毛の作者「十返舎一九」は、町奉行の同心の子供として静岡市両替町生まれ、現在その生家に記念碑が建っています。物語の弥次さんも静岡市、喜多さんは、隣の江尻生まれです。
府中宿は、東海道19番目の宿場。家数3673軒(本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒)人口14071人と大きな宿場でした。
伝馬町には、上伝馬本陣脇本陣、下伝馬本陣、脇本陣(小倉本陣、平尾脇本陣)がありました。
その伝馬町には、西郷・山岡会見之史跡があります。慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と
徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇を
はじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、
江戸城の無血開城が実現した。
華陽院・・・・・華陽院の始まりは、永正9年(1512)、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で、知源院(ちげんいん)と呼ばれていました。慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、
源応尼(げんおうに:家康の祖母 実名於富)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。また、宗派も真言宗から浄土宗に改宗しました。華陽院は源応尼の菩提寺です。
境内には源応尼の墓と家康の五女・市姫の墓が並び、近くには側室のお久の方の墓があります。主な寺宝として、家康が使った団扇(うちわ)や市姫が使ったひな屏風(びょうぶ)などがあります。
東海道新幹線、東海道線のガードを潜ると、曲金観音堂があります。ここ曲金は、平安~鎌倉時代の武将梶原景時一族と地元武士団の合戦の古戦場。
戦死者供養のため平成元年に曲金観音(十一面観音)を建立。
街道は、静鉄柚木駅に向かいます。ふと、正面を見ると、「富士山」が・・・・・・この街道歩きで初めて富士山を見ることができました。ちょっと薄い雲がかかっていましたが、もう感激です。
長沼一里塚を過ぎ、国道1号線に出ます。この先の長沼大橋が富士山のビュースポットということでまた寄り道します。今日は富士山の下の方に雲がかかってはっきりとは見えませんが、それでも富士山は素晴らしいです。これから先どんな富士山と会えるか、楽しみです。
静鉄古庄駅の所に「兎餅跡地」の看板があります。静鉄古庄(ふるしょう)駅のあたりでは、江戸時代、安倍川もち、追分羊かんと並ぶ駿河三大名物「うさぎ餅」が売られていました。 薄皮の餅で小豆あんを包み、満月の焼印を押した餅菓子です。 この餅菓子を売っていた茶店の店先で飼っていた兔が、名前の由来になっているとのこと。 文化文政時代の狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)が詠んだ「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」によって評判となり、 駿河の名物となったそうです。 (静岡ご当地グルメリストより)
古庄のスシローの所から東海道本線に向かって歩きます。このあたりに東海道本線を潜る地下道があるはずなんですが、なかなか見つかりません。近くで工事をしている人に聞いて
ようやくわかりました。渡ると右側に「旧東海道記念碑」が建てられていました。昭和37年(1964) 国鉄操車場 の建設により 栗原の西側が分断され 更に静清土地区画整理事業による
新らしいまちづくりが行われたことから 栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました その昔を偲び なおかつ旧東海道と 共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたい
との願いを込めて この記念碑を建設することにいたしました
地下道を過ぎしばらく歩くと、「草薙総合運動場」があります。まだ日本のプロ野球が始まる前の昭和9年(1934)日米野球大会が開催され、日本チームエース沢村栄治がベーブ・ルースを
三振に打ち取り、アメリカ大リーグ選抜を相手に8回9奪三振無失点、失点は最終回ルー・ゲーリックの本塁打による1失点と球史に残る快投を演じました。
草薙駅前に「草薙神社大鳥居」があります。草薙神社は、蝦夷平定の為、東国へ向かう日本武尊(にほんたけるのみこと)がこの地で起こった逆賊に原野で火を放たれ、焼き殺されそうになりました。
日本武尊は、伊勢神宮で倭姫命(やまとひめのみこと)より戴いた天叢雲剣を抜いて、鎌で打ち払うように剣を振り、草を薙ぎ払って難を切り抜けたという伝説があります。日本武尊を焼き殺そうとした場所を草薙と呼ぶようになり、天叢雲剣はのちに「草薙剣」と名前を変えています。神社は、この大鳥居から1,5km、先を急ぐためパスしました。
静岡銀行草薙支店の所に「草薙一里塚」がありました。 江戸まで43里(約170km)。ここで千葉から来た東海道ウォーカーの方5~6名の方と遭遇。写真を撮らせていただきました。
一里塚の信号を斜め左に行くと、また正面に富士山が見えてきました。左側には、清水有度(うど)第一小学校があります。ここに通う小学生は、毎日富士山が正面から見られるのですね。
上原子安観音堂・・・・永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。
次いで天正十年二月(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。
谷津沢川水路橋は、鉄道線路の上を川が流れ、その上に歩道があるという珍しい橋です。
遠州都田の吉兵衛碑・・・・・文久元年(1861年)5月、清水次郎長は子分の森の石松が吉兵衛・梅吉兄弟にだまし討ちに遭い斬殺された恨みを晴らすため、遠州都田(現在の浜松市北区都田)の吉兵衛(通称、都鳥)をここで討ちました。吉兵衛の菩提を弔う人も稀で、これを憐み里人が供養塔を最後の地に建立し、侠客の霊を慰さんだとされています。
元追分の案内板の近くに元禄8年(1695)から創業の「追分羊かん本舗」があります。駿河三大名物の一つに数えられた「追分羊羹」です。さっそくお店の中に入りました。この羊羹は、竹皮で蒸しあげた羊羹です。お土産用としてこの羊羹を買いました。またちょっと小腹がすいたので大福餅とみたらし団子を戴きました。追分羊羹の横には、「志みづ道道標」がありました。
江尻宿に入りました。江尻宿は、家数あ1340軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒)人口6498人。
慶長12年(1607)巴川に橋が架けられました。その渡り始めまさにその時、川の中から一人の童子が現れ、橋脚を登り、入江方面へ消え去りました。人々はこの童子を川に住む河童だと語り、この橋の名前も江尻橋から稚児橋に変えたということです。
魚町稲荷神社は、またの名を「サッカー神社」と呼ばれています。境内には、大きなサッカーボールの石碑が台座しています。清水は少年サッカー発祥の地、夏には全国大会が開かれます。
江尻宿の中心部にやってきました。地図では、このあたりに本陣、脇本陣があるようになっていますが、案内板もなくわかりませんでした。
江浄寺・・・室町時代に鎌倉光明寺第九世観誉祐崇上人が京都に上がる途中、勝沢に勝沢山江浄寺として創建したのが起源です。家康公の第一子である岡崎三郎信康公の遺髪の御廟所があります。
時間も1時を廻りました。今日は、3時過ぎの新幹線で帰る予定ですので今回はここまでとします。帰りに通った清水駅前商店街は定休日なのか、シャッターが閉まっている店が多かったです。