よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)7日目「植木味取~熊本城」(熊本市)

2021-10-17 17:02:35 | 薩摩街道(豊前街道)

猛暑やコロナのまん延防止、緊急事態宣言などで一時中断していました「薩摩街道(豊前街道)」を緊急事態が解除された10/1(金)に歩いてきました。

朝、6時50分福岡天神バスターミナル発の熊本行高速バスで熊本北区植木インターへ。植木インター8:30到着。植木インターから前回ゴール地、味取観音迄歩いていきます。

9:00 味取観音(瑞泉寺)スタート。味取観音を出ると、味取町について書いてある看板がありました。

「味取町」は、来民往還の分岐点、豊前街道沿いの加茂坂の登り詰めにあり、豊富な湧水もあって、かなり以前より集落が形成されたものと思われる。

寛永9年(1632)内村内に味取町が設けられ、在町として栄えた。町名の起源は、“荷取”とも、和名抄の“三重郷”等に由来するとも伝える。

参勤交代の際の茶屋が豪商松屋(堀家)に置かれた。盛時には約150戸の民家を数え、上、西松屋、冨七屋、砥石屋といった商家が軒を並べたと云う。

元禄年間に当町から植木町(味取新町)に分かれた。

明治18年(1885)、新道(福岡往還)の開通によって往時の賑わいを失っていった。

 

味取町を歩くと少し坂になっています。ここが、「ほたて坂」(保立坂)です。ほたて坂の看板も錆びて見にくくなってます。

  

専福寺の所には「山本高等小学校記念碑」があります。熊本市立山本小学校のHPを見ると、前身の「内村小学校」は1884年設立、その後「内村小学校」と「向原小学校」を合併して

「山本尋常小学校」となる。1902年に「山本尋常小学校」と「清水尋常小学校」を合併して、新たに「山本尋常小学校」になり、現在の校区になる。
 その後も、1924年「山本尋常高等小学校」、1941年「山本国民学校」、1947年「山本村立山本小学校」、1955年「植木町立山本小学校」と名前を変え、2010年に

「熊本市立山本小学校」となり現在に至る。と書いてあります。設立当時は専福寺境内で授業が行われていたのでしょうね。

 

国道3号線に合流する所に「植木青果市場」があります。植木といえば「スイカ」です。スイカのオブジェがありました。

平田機工の近くに錆びて見にくいですが「三里木跡」があります。熊本城から三里(約12km)です。

 

植木の信号の近くに「小野泉水公園」があるそうですが、見逃してしまいました。諸説ありますが、小野小町の生誕地だそうです。

小町の父である出羽郡司「小野良実」は、養父である公卿「小野篁(たかむら)」の罪に連座して植木に流され、この地で小町が生まれたそうです。

小町が産湯を使ったのが小野泉水公園だそうです。

 

県道30号線を歩くと、左側が植木小学校です。運動会が近いのか、児童が旗を持って練習しています。

 

植木小学校から郵便局の所に行くと「植木学校跡」です。案内板を見ると「ここは明治8年4月26日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところ。

もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような組織)のあった場所で、これを改造して校舎とした。同校は熊本民権党が中心となり設置、運営した極めて先進的な学校で、

中江兆民の訳によるルソーの民約論を経典とした。校長平川唯一のもと宮崎八郎(弟が宮崎滔天)、広田尚、麻生直温等が教師を務め、城北各地から優秀な若者が入学した。

自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には80名近くの若者が在籍していたという。しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行なう等したことから、

県と反目して補助金を打ち切られ、同年10月末、わずか半年で閉校するに至った。同校の関係者は城北の戸長征伐を指導、明治10年の西南の役では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、

後には自由民権思想の普及に尽力した。なお、現在の植木小学校校庭には植木中学記念碑が建てられている。」

元禄8年(1695)、細川忠利の命を受け、従来の味取観音があった味取から三池街道とも交わるこの場所、現在の植木町に「味取新町宿」を設けました。

  

 

先へ進みます。「植木天満宮」には、官薩両軍緒戦の地の標識があります。明治10年(1877)ここを起点に官軍と薩摩郡の戦いが始まりました。これが「西南戦争」です。西南戦争 - Wikipedia

  

歩いていると「河原林少尉戦死の地」の碑があります。碑文によれば、明治十年二月二十二日、この植木町向坂が官薩両軍の城北における緒戦の地となった。すなわち熊本城籠城軍に加わる為、

小倉より南下した第十四連隊(連隊長代理乃木少佐)は夕刻植木町に入り散歩線を敷いた。一方熊本城を包囲した薩軍はその一部(村田三介隊)が北上激突した。その後十四連隊は植木町千本桜に

後退したが、その際連隊旗手河原林少尉は本道の殿軍に加わり戦死、連隊旗は薩将村田三介の手に渡った。乃木少佐がこの時の責任を感じ死を決意したことは明治天皇への殉死の遺言にも

明記されている通りである。乃木少佐は連隊旗奪回を念じ、その後常に第一線立って戦い名将への道をあゆんで行った。この地が連隊旗手河原林少尉が村田隊兵士岩切正九郎に切られたと

伝えられる茶畑付近である。

 

熊本県警自動車訓練所の近くに、「明徳官軍墓地」があります。案内文によれば、「明徳官軍墓地には、現状で122基の墓石があります。政府軍の陸軍士官、下士、兵卒の墓石117基、

軍夫5基です。警視隊の暮石はありません。

階級は、士官2,下士17,兵卒98で所属別では、近衛兵第二連隊が最も多く71基で次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続きます。

兵士の出身地は南は、熊本から北は山形まで全国に及んでいます。戦死日、場所で最も多いのが明治10年3月20日、ここの近くの向坂一帯で、全体の7割以上の92名です。

この日は、田原坂が陥落した日で、勢いに乗った政府軍は、一気に熊本城まで攻め込もうとしますが、向坂で薩摩軍の猛反撃にあって抜くことができず、多くの死傷者を出し、潰乱して

植木の町まで引きます。それから4月12日迄の間、植木の町を南北に中分して対峙しました。尚、近くの寄鶴には、軍夫30名の合葬墓があります。」

尚、「明徳」という言葉を広辞苑で調べましたら、「公明な徳行、りっぱな徳性」という意味だそうです。この墓地があるところも「明徳町」です。

  

西福寺の所が「二里木跡」です。

  

街道は、旧北部町に入りました。旧北部町役場の先には、フジバンビの工場があります。ここで休憩します。

 

休憩後再スタート。街道の左側には、四方寄(よもぎ)六地蔵・庚申塔があります。

  

その横には「御馬下(みまげ)の角小屋」です。この建物(母屋)は、江戸時代、庄屋を務めるかたわら質屋・酒屋を営んだ堀内(赤木)家の住宅であるとともに、豊前街道を往来する

細川・島津などの大名が休憩所として使用したお茶屋の跡であり、薩摩藩主島津斉彬と共に西郷隆盛も立ち寄ったといわれています。
そのため、商家としての役割を果たす店舗や茶の間などの部分と大名一行を迎えるための「御成りの間」「次の間」「御用人の間」などをあわせ持つ珍しいつくりになっています。

黒光りする柱や梁、鴨居に施された木象嵌など当時の姿をそのまま残しており、日本古来の木造建築のすばらしさを見ることができます。
資料館には、九代当主赤木弾蔵が明治政府参与を命じられた細川護美の共をして京都へ赴いた際の「見聞記」をはじめ、堀内家の江戸時代から昭和に至るまでの古文書や当時の人々の

暮らしぶりを伝える道具類などの資料も展示しております。
また、海軍体操の創始者として知られ、日本最初の落下傘部隊の隊長・指揮官である堀内豊秋海軍大佐の生家でもあり、その関係資料等も展示しております。(熊本観光ガイドより)

 

先へ進みます。大窪2丁目の信号で道が右と左に分かれています。街道は右の道です。

肥後銀行清水支店の所が「一里木跡」です。熊本城まであと4kmになりました。

山伏(やんばし)塚」は、熊本城の築城に際して、清正は、上方から山伏(修験僧)の龍造院を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事に終わったのですが、上方へ帰る龍造院を送るため、

宴会が開かれました。宴席で龍造院がふと、城構えについて話したから大変です。城の秘密が漏れると考えた武士達は、龍造院の後を追い熊本城の北、現在の熊本市西区池田町あたりで

龍造院を切り殺してしまいました。この塚は殺された龍造院を葬ったものと言われています。

  

街道は熊本市中央区京町に入ります。

  

池田屋味噌は、寛政4年(1792)創業、200年以上の歴史があります。

熊本地方裁判所の建物は、明治41年(1908)に建てられました。昭和50年(1975)、庁舎新築の際、取り壊される予定だったが、住民たちの要望で主塔部分残して資料館にしました。

 

熊本城に入ってきました。熊本城は、平成28年(2016)の熊本地震で天守閣の瓦や石垣が崩れた他に国重要文化財の櫓や塀が倒壊するなど大きな被害を受けました。

地震後、急ピッチで工事が行われ、今日10/1に一般公開されるようになりました。石垣やその他はまだ手が付けられていないとこもありますが、ようやく一般公開にたどり着けました。

私は、熊本城の一口城主ですので入場は無料なんですが、今日は5時までに福岡まで帰らなくてはいけませんのでまた後日伺うようにします。

 

 

 

加藤清正公を祀った「加藤神社」です。ここからの熊本城の眺めも最高です。

 

  

  

 

城内には、「神風連の乱」の石碑が立っています。「神風連の乱」は、明治9年(1876)10月、熊本で起こった反政府暴動。新政府の開明政策に不満を抱く旧士族太田黒伴雄らが

結成した神風連(敬神党)が国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃、まもなく鎮圧されました。

  

豊前街道は、熊本城内にある「里程元標跡」 がゴールです。この先鹿児島までは薩摩街道になります。

 

これで豊前街道(約110km)を7日間で完歩しました。

また、いつの日か、ここから鹿児島まで歩いてみたいですね。

 

 

 


薩摩街道(豊前街道)6日目(その2)「山鹿(熊本県山鹿市)~味取(熊本市北区)」

2021-07-02 18:45:26 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

山鹿市街地をゆっくり歩いていましたら、1時間かかってしまいました。

山鹿大橋を渡り、街道ウォーク再開です。

 

南島の所には、「六里木跡」があります。熊本城迄あと24km。南島菅原神社の所の歩道橋を渡ります。

  

郡境石」です。「是ヨリ北山鹿郡」と書いてます。ここから鹿央町です。鹿央町は現在は山鹿市に合併していますが、合併前は、鹿本郡鹿央町でした。

鹿本郡は、鹿央町の他、菊鹿町、鹿北町、鹿本町、植木町でしたが、平成17年(2002)鹿央町、菊鹿町、鹿本町が山鹿市と合併、平成22年(2007)植木町が熊本市と合併し鹿本郡が

消滅しました。

「城ヶ鼻城址」は、現在祇園神社になっています。立ち寄ろうかと思いましたが、先を急ぎますのでパスします。

  

米野岳中学校の横から「うらやま坂」に入ります。路面は舗装されていますが、落ち葉があり、滑らないよう上ります。

  

うらやま坂を下りた所に「郷原八幡宮」があります。

 

街道の横には、柿や栗の実が大きくなっています。あと2か月ぐらいで収穫でしょうか?

 

鹿央町にも岩原古墳群など古墳の多い町です。「持松塚古墳」は、直径30m、高さ5mの円墳です。圃場整備工事の際、発見されました。

「比丘尼(びくに)坂」を抜けるとビニールハウスが並んでいます。これみんなスイカです。比丘尼というと尼さんの事ですが、このあたりに尼さんがいたのかな?

  

比丘尼坂を越えてしばらく歩くと「鹿央市民センター」です。「浦大間古墳跡」も圃場整備工事の際発見されました。

 

数里木跡(五里木跡)」熊本市新町の元標を基点として五里の里数木のことです。道の両側には、榎の大樹が四方に枝を張っていましたが、昭和20年代に枯れました。

 

鹿央町広町にやってきました。広町には、造り酒屋、紺屋、油屋などのたくさんのお店があり大変賑わっていたそうですが、現在では、酒販売店だけです。

 

善行寺」の看板があります。

善行寺は、参勤交代上の細川藩を始め薩摩の島津藩、人吉(熊本)の相良藩の歴代の殿さまが休息しました。十数年前のNHK大河ドラマ「篤姫」では、薩摩から船で向かったとされていますが、

実はこの善光寺でご休息されているのです。嘉永6年(1853)八月二九日九ッ頃となっていますので、お昼ごろ立ち寄ったそうです。

 

善行寺のオオマキ  山鹿市指定天然記念物となっている善行寺のオオマキですが、案内板の文字が消えそうですが、「善行寺は、細川藩、島津藩、相良藩の参勤交代の際、「御小御所」として

藩士以下の休憩場となっていた。この木は、和田次郎正善が寺を創立(1615年)した際、植えたとして伝えられている」

   

「豊前街道広町」の看板から左折します。

  

このあたりが、旧植木町(現熊本市)との境界。ビニールハウスには、スイカが栽培されていました。(今は、シーズンオフ)

  

マップでは、ここから乙貝橋に行くのですが、どうも道を間違えたみたいです。「水原」という地区に着きました。途中、案内板がないか確かめたのに・・・・(現実、案内板はありませんでした)

帰ってGPSで調べましたら突き当りを左折しなくてはいけないところを右折してしまったみたいです。山鹿市内を通るときは、豊前街道の案内板が多く迷うこともありませんでしたが、

町によってかこの豊前街道を重要視している町としてない町の差が出るのですね。(みやま市でも苦労しました)

民家があれば聞いてみようと思いましたが、その民家も少なく、ちょうど郵便屋さんが来られましたので聞いてみました。ただここは、山鹿市と熊本市(植木町)の分岐点。

熊本市(植木)の方は、わからないとのこと。県道119号線沿いに行くと植木町に行けるそうで119号線を歩きました。

「熊本市」の看板が見えてきました。ここから左折です。(乙貝坂)

  

しばらく坂道を歩くと「豊前街道」の看板がありました。ここからまた森の中を歩きます。

 

ここは、「三十六のお茶屋跡」。

案内文を見ると、「三十六から千田川に下る道は、両側が切り立った深い切通しの坂道になっています。こうした深い切通しの道は、加藤清正が軍事的配慮から作ったといわれ、

「凹道」と呼ばれているものです。江戸時代の記録には、熊本城下から五里程は、坂が多くほとんどが道の両側が高く切り立った凹道であったと記されています。・・・・」

そういえば、10年ほど前に豊後街道を歩いた時、大津から先の所が凹道になっていました。

尚、三十六というのは、三十六のお茶屋さんがあったのではなく、ここの地名が三十六だそうです。地名の由来がわかればいいのですが、案内文には書かれていませんでした。

  

案内板がないので少々不安になってきます。果たしてこの道でいいのだろうか・・・・

もうこうなったら聞くのが間違いないと近くで農作業をされている方に聞いたりしました。コースは、ビニールハウスの間を通ります。高速道の上の橋を越えると「山本小学校」に出てきました。

コースは間違っていませんでした。

 

  

山本小学校から下り3号線に合流し、すぐ旧道に入ります。右側には「内空閑(うちこが)城跡」の看板があります。もう疲れているので行ってみる気力がありません。

案内板によると、内空閑氏は「事跡通考系図」によると初代基貞のとき、明徳元年(1390)に伊賀の国から下向したと伝えられており、菊池氏の有力な家臣だった。

その後菊池氏末期の内紛と共に分立し、その滅亡とともに自立して室町から戦国時代にこの一帯を支配していたといわれている。

 

 

豊田川にかかる「平田橋」を過ぎとJA鹿本があります。スイカの出荷場でしょうか?植木は、日本一のスイカの産地です。

  

やっと瑞泉寺(味取観音)に到着しました。境内には、種田山頭火の像があります。

 

像の横には、山頭火の生涯が書かれています。

「種田山頭火は、本名種田正一。明治15年(1882)山口県防府市に生まれた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗しこれから流浪の生活が始まった。

熊本に来たのが大正5年(1916)彼が35歳の時だった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり、帰熊したり奔放な生活を続けていた。

大正12年(1923)関東大震災に遭い元妻の熊本に逃げ帰るが、酔って路面電車を止め、知り合いの記者に救われ、熊本市内の報恩寺に出家得家して耕畝と改名。

大正14年(1925)味取観音の堂守として読経と句作の独居を続けた。味取観音境内の句碑に刻まれた「松はみな枝垂れて南観世音」の句は当時の作である。

然し、これも永くは続かず一年二ヶ月にして去り、以来放浪生活を送り、昭和15年(1940)11月11日四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。59歳であった。」

山口県防府市駅前には、山頭火の碑があります。もう10数年前山陽道を歩いた時見つけました。

  

 

時間は13:18分 今日はここまでとします。3号線の味取バス停に行くと、ちょうど山鹿行のバスが来ました。約40分で山鹿バスターミナル到着。

これから、さくら湯に行って今日の疲れを落とします。

 

 


薩摩街道(豊前街道)6日目(その1)「山鹿市内を歩く」

2021-06-29 11:58:32 | 薩摩街道(豊前街道)

6/26(土)薩摩街道(豊前街道)6日目。

朝起きると、小雨が降っています。すぐ熊本県山鹿市の天気予報を見ると、午前8時頃には止むとのこと。すぐ出発の準備をして車で山鹿に出かけます。

今日は、土曜日なので高速のETC割引があると思っていましたが、まん延防止の為、7/11までは、割引がありませんでした。

8時半、まだ小雨が降っていますが、山鹿市の豊前街道駐車場に車を止めて薩摩街道(豊前街道)6日目スタート。今日は山鹿から味取(熊本市北区植木)まで予定します。

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山鹿」という地名は、保元の乱(1156)で京都から敗走した宇野(源)親治が山狩りの途中で、鹿が湯に浸かり、傷を癒しているのを見たことにより、名付けられたという伝説があります。

山鹿は、菊池川沿いに「方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき) | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古代からの遺跡が点在しております。また、

装飾古墳で有名な「チブサン古墳 | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古墳時代の古墳が多い所です。

中世には、菊池川を利用した物資輸送の拠点だった地です。近世では、温泉街や豊前街道によって賑わいを見せていました。

先ず、街道を歩く前に、装飾古墳で有名な「チブサン古墳」へ。

チブサン古墳は、古墳時代後期(6世紀)に造られたお墓です。古墳は前方後円墳で、その後円部の内部に割り石を積み上げて作られた部屋(石室-せきしつ)が造られています。

その石室の奥に石の棺おけ(石棺-せっかん)が置かれてあります。石棺の壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれていています。正面の二つ並んだ円が女性の乳房に

見えることから「チブサン」という名がついたと言われています。

装飾古墳は、福岡県、熊本県に多く、他には福岡県の王塚古墳、熊本県江田船山古墳などが有名です。

 

  

チブサン古墳から山鹿市街地に戻ってきました。ここから豊前街道を歩きます。

  

  

 

国重要文化財の八千代座です。

八千代座は、明治43年に建築の江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式を今に伝える芝居小屋です。山鹿の商工会が劇場組合を作り、1株30円の株を募って建てたものです。

八千代座を設計し、工事監督をしたのは、回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎です。建築には素人でしたが、研究熱心で東京の歌舞伎座や各地を見学、さらには上海に渡り洋式工法の

長所も取り入れました。

昭和40年代になると庶民の娯楽が多様化し、八千代座は時の流れの中に取り残されていきます。閉鎖状態が続き老朽化が進む芝居小屋。朽ちかけていく八千代座に一番心を痛めたのは、

華やかだった頃を知るお年寄りでした。老人会は、「瓦一枚運動」で募金を募り、屋根瓦を修復。この運動に刺激を受けた若者も、復興へ向けての様々な活動を始めました。

その後昭和63年国重要文化財に指定されました。

平成2年から市民の手づくりで行われた「坂東玉三郎舞踊公演」では、明治の芝居小屋:八千代座が創り出す空間のなかで、華麗に舞う玉三郎丈の舞台のすばらしさに観客は魅せられ、

この公演が復興への大きな追い風となり、八千代座の名前を全国に広めることになりました。平成8年より平成の大修復・復原が始まり平成13年完了。

 

現在、コロナで館内は、立ち入り禁止になっています。

  

  

護國山金剛乗寺は、天長年間(824~834)に空海によって開かれ、かつては建物が大きく西の高野山と云われました。一時は途絶えましたが後鳥羽天皇の勅願で再建され、

宝徳年間(1449~1452)に宥明法印住職によって復興されました。

宥明法印住職は、文明5年(1473)3月温泉が突然枯れてしまったとき、薬師堂を建て祈願をして温泉を復活させた山鹿温泉の大恩人と云われています。その後、宥明法印が遷化したとき、

紙細工の名人・山口兵衛が数百の紙灯籠を作り、霊前に供えたのが山鹿灯籠の起こりとも言われています。
ご本尊は薬師如来。本堂には大日如来、宥明法印像、聖天・不動明王が祀られています。また、境内には修復された如意輪観音堂があり、見事な仏像を見ることができます。

石門は、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、凝灰岩の切石を使った円形の門です。昭和50年2月、市の別文化財に指定されました。異国を思わせるようなデザインは

町の人々に親しまれています。(山鹿探訪ナビより)

   

山鹿灯籠民芸館の建物は、旧安田銀行山鹿支店(現みずほ銀行)でした。山鹿における洋館建ての第1号として大正4年(1925)建設されました。

木や金具を使わず、和紙と少量ののりだけで作られる伝統工芸品「山鹿灯籠」の歴史は古く室町時代の金灯籠に始まり、大宮神社への奉納のために作られ受け継がれてきました。

その後長い歴史の中で神殿造り・座敷造り・城造りなどと多様化してきました。 その山鹿灯籠が館内に展示され、多彩な灯籠師たちの匠の技を見ることができます。

山鹿灯籠祭りは、毎年8月15日~16日に大宮神社で行われます。(今年2021年はコロナで中止)

その起源は、深い霧に行く手を阻まれた第12代景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げ無事にお迎えしたことに由来します。

以来、里人たちは行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになったのが始まりとされています。室町時代になると紙製の金灯籠に姿を変え、その後、

金灯籠を頭に掲げた女性が「よへほ節」で舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が誕生し、祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りが生まれました。(山鹿探訪ナビより)

※「よへほ」とは、「あなたも酔ってね」という意味です。

山鹿灯籠踊りスペシャルムービーSITE (yamaga-tanbou.jp)

  

山鹿千軒たらいなし・・と唄われるほど豊富な湯量をたたえる山鹿温泉は、今からおよそ800年ほど昔、手負いの鹿が沼で傷を癒しているのを見て温泉の存在が知られたといわれていますが、

実際の歴史はもっと古く、平安時代に書かれた和名妙の中にも肥後の国山鹿郡の温泉郷として出ており、千年以上の歴史があります。泉質は、アルカリ性単純泉、ラジウムを含み無色透明・

無味無臭であり、まろやかで柔らかい肌触りは、乙女の肌に例えられるほどです。(説明文より)

 

山鹿温泉の中心的な「さくら湯」は、江戸時代肥後細川藩初代藩主細川忠利公が山鹿に建設した御茶屋に始まります。加藤家の改易後、豊前小倉藩から肥後藩へお国替えとなった細川忠利公は、

豊前街道から熊本入りし山鹿で一泊しています。山鹿の温泉を大変気に入った忠利公は、寛永17年(1640)山鹿に御茶屋を新築しました。明治になり参勤交代が無くなると、御茶屋は、

あまり使われることがなくなりました。明治3年(1870)幕末の思想家「横井小楠」に学んだ山鹿の先覚者、江上津直と井上甚十郎の両氏は、湯屋が狭く老朽化していることに心を痛め、

私財を投じて山鹿温泉の大改修工事に乗り出しました。藩知事の細川護久公は、私有地から木材や石材の切り出しを許可し、御茶屋などの敷地も無償で与えました。

明治31年(1898)には、四国の道後温泉を造った棟梁「坂本又八郎」氏を招いて大改修が行われました。坂本氏を招いたことで、さくら湯は、どっしりとした唐破風玄関を構えることになり、

新たに「松の湯」が造られ、松の湯(一等)、紅葉湯(二等)、桜湯(三等)とされました。また、同時期には、山鹿町内外の有力者などが会議室や宴会場として利用された「松風館(後の

洗心閣)も造られました。

昭和4年(1929)の改築では、南側にも唐破風の玄関が付けられ、昭和33年(1958)には、浴槽が改修されました。しかし、昭和46年(1971)8月に発生した大火による中心市街地の

再開発により、昭和48年(1973)、さくら湯は惜しまれながらも解体され、昭和50年4月、新しく建設された温泉プラザ山鹿の一角に移りました。そして入口に付けられた唐破風の玄関だけが

往時の雰囲気を残しました。その後、八千代座の復興や豊前街道の整備に繋がった山鹿の歴史や文化を大切にしようという市民の声の高まりによって、山鹿温泉の元湯であり、市民温泉として

愛されたさくら湯を元あった場所に、昔の構造、佇まいで再建することになりました。そして平成24年(2012)11月幾多の変遷を辿ったさくら湯は「湯の町山鹿の歴史と文化を代表する顔」

として甦りました。(館内案内板より)

前回は、峠越えで疲れてしまったのでこのさくら湯には入れませんでしたが、今日の帰りにでも入ろうかと思っています。

 

さくら湯の入り口には、「孝子孫次郎の碑」が建っています。

孫次郎は、湯町上町に住み、鍛冶を業とし、家は貧困であったが、非常に親孝行で母を背負って毎日母の好きなお湯に入浴させた。

寛文6年(1666)藩主細川候から孝子として褒賞せられ、熊本に召し出されて国の鍛冶の総取締を命ぜられた。

 

さくら湯の敷地の中には、「薬師堂」があります。千年以上の歴史がある山鹿温泉が突然枯れてしまったのは、文明5年(1478年)3月のこと。当時の湯主、左近郷近宗がいろいろと手を打って

みましたが効果がありません。そこで、菊池重朝公の祈祷寺だった湯町・九日町の金剛乗寺・第八世宥明法印に、温泉復活の祈祷をお願いしました。
法印は薬師堂を建立し、毎日丑の下刻(午前3時)に起床、身を浄め祈祷に励みました。不眠不休の祈祷により、満願になると湯が以前に勝る勢いで湧き出しました。(山鹿ガイドより)

  

山鹿の市内は、見る所が多く、なかなか先へ進めません。山鹿の町並みは「日本遺産」に認定されているそうです。重い腰を上げ再びスタート。

山鹿市のマンホールは、八千代座、灯籠娘が描かれています。マンホールカードがあるかな?と調べましたが、配布していないそうです。

  

火除け地蔵尊

 

光専寺」楼門は熊本城築城の際、余った材木で作られたもの。 境内には江戸時代、米問屋で豪商の宗方屋が寄進した一切経を納めた経蔵がある。

この寺は西南戦争開戦当初は薩軍の兵站基地であったが、 後に野戦病院に使用された

 

菊池川の手前の所には、「千代の園酒造」があります。明治29年(1896)創業。江戸時代メーンストリートだった豊前街道と穀倉地帯における水運を担っていた菊池川が交わるこの地で

元々は、米問屋を営んでいました。千代の園の由来は、古来より皇室を表すとされる「竹の園」、皇室ひいては日本が千代に八千代に栄えることを祈り「千代の園」と名付けられました。

(千代の園酒造HPより)

  

千代の園の先は、菊池川です。ここ山鹿の玄関口には、「惣門」の番所があり、治安維持の為、夜間は通行が禁止されていました。

 

山鹿大橋には、灯籠や灯籠娘のオブジェが建てられています。

 

  

(その2)に続く

 

 


薩摩街道(豊前街道)5日目(その2)「南関(熊本県玉名郡)~山鹿(熊本県山鹿市)」

2021-06-20 13:11:06 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

光行寺、官軍墓地から先を進むと、また坂道です。ここが豊前街道屈指の難所「腹切坂」です。何か物騒な名前ですね。

資料によると、永ノ原台地(西南の役古戦場)へ向かう約200mのこの坂を腹切坂という。道幅3mの右側は深い浸蝕谷となり、左側は急崖となっている。

腹切坂の名は、すでに慶安4年(1651)の「御帳之扣(ひかえ)」に見える。「小倉路」にも参勤交代の道中、屈指の難所とされた所である。

この坂道も戦後迂回道路の新設(昭和45年)に伴い、地域住民の生活としての使命を終えた。

どうしてこの名になったかは、

【腹切り坂の話】◆その1

 約800年前、源氏と平氏とが天下を分けて戦ったが、平氏は壇ノ浦で敗れて、大方は討ち死にし、残った者は落ち武者となって、散り散りに九州の各地を逃げ惑っていた。

しかし、源氏の追討は厳しく、草の根を分けてでも平氏の落ち武者狩りを断行したため、平氏の多くは各地を逃げまどう途中で討たれたり、あるいは病に倒れたりした。  ある日、野を越え、

山を越えて逃げ延びた落ち武者の一団が、この険しい坂道に差しかかった際、風にそよぐ木の葉の音にも、すわ源氏の追討かと驚き恐れ、心身共に疲れきって、重い足を引きずりながら

登っていく。  一行の中に、矢傷を負い家来の肩を借りながらここまで歩いてきた武将がいた。坂の途中で一同を止め、「もうこれにて余が武運は尽きた。一足先に今度の戦いで散った

一族のいる黄泉(よみ)とやらに行かせてもらう。皆は達者にて生き延びてくれ。」と言い、遥か壇ノ浦とおぼしき方角を伏し拝み、西方浄土への来迎にあずからんと、西に向かって念仏を唱え、

見事腹を切って果てたという。  この痛ましい武将の名は残念ながら残っていないが、村人たちはここを「腹切り坂」と呼ぶようになった。

【腹切り坂の話】◆その2

昔、ある飛脚は、その日のうちに熊本の細川家に届けなければならない江戸からの大事な書状を預かっていた。彼は南の関で食べた物が悪かったのか、腹が痛くなり、何回も道端で

用を足しながら、きりきり痛む腹を押さえ、岩村から永ノ原に登る坂道にようやく差しかかった時は、足はふらふらで脂汗を垂らしながら、意識は朦朧(もうろう)としており、

這うようにして坂の途中までたどり着いたが、性も根も尽き果て地面に倒れ込んでしまった。  そこへ野良帰りの農夫が通りかかったので、飛脚は、「ここから頂上まではどのくらいあろうか。」

と尋ねたところ、農夫は、そこがちょうど坂の中間付近であったので、「貴方がこれまで来た道程はありましょう。」と答えた。飛脚は江戸から300里の道を駆けて来たことをそのまま

受け止めたために、勘違いして大変なショックを受けた。  そのとき、岩村の光行寺で打ち鳴らす入僧の鐘がいんいんと聞こえてきて、もはや今日中にこの書状を熊本まで届けることが

絶望となったことを悟った飛脚は、農夫から鎌を借りるやいなや自分の腹を切って死んだという。

【地質の話】◆その3

広い台地(原)の端(切り)にあたることから「腹切坂」と呼ぶようになった。

果たして真相はどちらでしょう?

 

この坂、本当に急です。少し歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりそれを何回も繰り返して何とか、この坂を越えることができました。

  

  

永ノ原付近は、田原坂の戦いと同じく、明治10年3月の西南の役時、薩摩郡と政府軍が死力を尽くした「山鹿口の戦い」でした。多くの官軍墓地がある中で、ここには、唯一戦死した薩軍の

兵士を森の周辺に埋葬した場所があります。西南戦争 - Wikipedia

説明文によれば、明治10年(1877)に起こった西南の役において田原坂と並ぶ激戦が繰り広げられたのが、山鹿市と和水町にまたがるここ永ノ原台地である。

2月14日別府晋介率いる薩軍先発隊が鹿児島を出陣し、翌日から約1万3千の大軍がこれに続いた。これに対し政府軍は、熊本鎮台小倉分営の他、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、

24日には、山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。翌25日には、薩軍の桐野利秋四番隊長・熊本協同隊・宮崎飫肥隊が山鹿に進み本陣を設けた。

戦いはひと月近く続いた。途中、田原坂敗退の誤報により、薩軍は、一旦山鹿迄引き上げたものの薩軍有利のうちに進んでいった。然し、3月10日に三浦悟楼少将が三固隊を率いて、

岩村に入ると、兵力は薩軍を上回るようになった。その後も一進一退で戦いは続いたが、3月20日に田原坂が陥落すると、官軍の勢いは増し、翌21日の官軍総攻撃により薩軍は敗れ、

山鹿より後退していった。

  

ハゼ並木は、ロウソクの原料となるハゼの実を生産するため、肥後細川藩がハゼ栽培に乗り出した18世紀半ば頃に植えられたものです。樹齢250年のものもあります。

 

ハゼ並木を進むと、山鹿郡と玉名郡との「郡境碑」が建っています。ちょっとわかりにくいですが、「従是西北玉名郡」と書いてます。

    

ここから梅迫バス停までは、昔、「車返しの坂」(車坂)と呼んでいたそうです。荷車が戻るほどの急な坂道でした。現在では、改良されたのか、そんなに急ではありませんでした。

  

梅迫バス停で国道443号線と合流します。

  

七里木跡を過ぎ、山鹿市サイクリングターミナルに着きました。サイクリングセンターの前には、「追分石」があります。

右「南関道」、左「国道兼松」。兼松というのは、現在の福岡県八女市立花町兼松です。

  

山鹿市や菊池市を始め菊池川流域には、5世紀~6世紀にかけての古墳遺跡が多く残っています。この「石人」は、山鹿市にある「チブサン古墳」にある石人です。古墳を守っています。

いつか、この古墳を見にいってみたいですね。 

  

 

鍋田横穴群は、古墳時代後期(6世紀)、熊本県北部を流れる菊池川の支流の岩野川に沿った崖面に作られた群集墓です。その崖面には阿蘇大噴火の火砕流でできた岩(阿蘇凝結熔解岩)が

露頭した場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って、お墓としました。鍋田第27号横穴墓の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(ゆぎ;矢の入れ物)などが浮き彫りされています。
山鹿市内では、このほか長岩横穴群や城横穴群など多数の横穴群が点在していますが、鍋田横穴群はわが国の装飾横穴の代表格と言えます。

  

 

 

15:50 山鹿市中心部にやってきました。ちょっと空模様がおかしくなってきましたので山鹿市内の観光は、また次回にしたいと思います。

 

今日は、GPSを忘れてきましたので携帯のヤマップを使いましたが、充電切れで使えませんでした。別の携帯のアプリです。

 

 

 


薩摩街道(豊前街道)5日目(その1)「南関(熊本県玉名郡)~山鹿(熊本県山鹿市)」

2021-06-18 14:07:41 | 薩摩街道(豊前街道)

6/16(水)昨晩から雨が降っていたが、天気予報によれば、8時ぐらいから雨が止むそうで、6時15分福岡の自宅を車で出発。

途中の高速では、大雨に遭い、このまま引き返そうかと思いましたが、雨が止むということを前提に山鹿に向かいました。山鹿着7:40。

山鹿から産交バスで前回ゴール地南関に向かいます。このバス途中の乗降客はなく、始発から私たち夫婦の貸し切り状態です。

産交バス南関バスターミナルには、9:02到着。山鹿から約40分です。この距離を今日歩きます。

南関でも雨が降っています。バックからポンチョを出して被り、傘をさしてのウォーキングです。豊前街道の南関~植木は、坂の多いコースです。上り坂が苦手は私には少し気が重いです。

雨が少し小降りになりましたのでウォーキング開始します。

 

南関町関下の信号から旧道に進みます。

  

途中「八塚」があります。説明文を見ると「文禄の役(文禄元年1592年)の際、南関城代の加藤清兵衛は、息子の大助と家人石九里吉内を八人の家来によって救われた。八人の霊を祭るため

築かれた塚である」

姫塚」 「城を逃れていた城主の娘が小原城が焼け落ちるのを見て、自害した場所といわれる。」塚は、この案内板の上10mの所にあるそうです。

  

追分石」ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還(玉名市)の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人の為に道標が建てられました。石柱に「ひだりやまか道」「右たかせ道」と

彫りこまれています。

  

熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後(熊本)藩の種々の政令を掲示する「札辻」(ふだつじ)と呼ばれる広場がありました。
この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、薩摩(さつま)、日向街道(ひゅうがかいどう)の里数が測られました。その際に、一里、二里、

三里・・・と進むごとに、街道の両側に榎(えのき)を植えてこれを里数木と称していました。

ここは、「十里木」熊本城から約40kmの地点です。私たちが歩いている豊後街道も熊本城ゴールまであと約40kmです。

 

坂を下りると大きな道に合流しました。九州道のガードを潜ります。雨も止んできたみたいです。ポンチョを着ていると暑くて暑くて・・・交流センターバス停でポンチョを脱ぎます。

少しホッとしました。

 

南関町小原の信号から旧道に向かいます。信号の近くが「小原茶屋跡」です。茶屋跡には豊後街道の案内板が建っていました。それによると、旧豊前街道は、熊本・細川藩のみでなく、

人吉藩相良家、薩摩藩島津家なども参勤交代のたびたびに利用し、宿泊や昼休みで南関お茶屋を使っていることが知られていますが、一般の旅人もこの道を大いに行き来しました。

著名な人物としては、長州藩吉田松陰、越後長岡藩河井継之助、それから島津斉彬の養女でのちに十三代将軍家定の正室となる篤姫などもいました。

 

第三小学校の所で国道443号に合流します。相谷バス停より右折し、肥猪(こえい)町に向かいます。

 

八幡宮の横には、西南の役の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬した「官軍墓地」があります。この墓地には、明治10年(1877)3月12~13日鍋田、平山(山鹿市)の戦闘で

戦死した、熊本、広島、大阪、名古屋の各鎮台及び近衛所属の将兵が埋葬されています。

  

官軍墓地を過ぎたあたりから「肥猪町北構口」です。

肥猪(こえい)宿」は、山鹿と南関の中間に位置し、間(あい)の宿と呼ばれていました。「肥前国誌」には、肥猪宿の北の構口から南の構口までの長さは、二町二十七間、カマド(家)数は、

四十軒程で、二枚掛けの御高札場があったと書かれています。一直線の町筋の両側には、テン屋(食堂)、くり屋(木製のお盆やお椀を作る)、木賃宿、麹屋、鬢付屋、造酒屋などが

軒を連ね行き交う旅人で大いに賑わっていました。「玉名郡誌」によれば、細川の大殿様には、御茶を、若殿様には、蕎麦を御馳走したと伝えられています。

 

明治8年には、郵便局もあり、賑やかな町でしたが、現在では、国道が別な場所を通っていますので静かな町になっています。

 

 

  

  

九里木跡の道標に書いてある「左山鹿、熊本」の通り左折する。然しどうもおかしい、マイマップでは、国道443号線に合流しないのですが、国道に合流してしまった。

マイマップの間違いかな?と思ってそのまま歩きますが、和水(なごみ)町(菊水町と三加和町が合併して和水町になった)に入ってしまいました。

 

誰かに聞こうと思いますが、このあたりは、人通りも少なく行き交うのは車だけ。そのまま歩くと三加和温泉街に入ってしまいました。

近くで農作業をされている方に聞くと、全然違う方向を歩いていました。豊前街道に戻るには、スカイドームの先を2kmぐらい直進すればいいと教えてもらいました。

 

スカイドームを目指して歩きます。スカイドームは、現在コロナの集団接種会場です。

 

やっと、窪園の豊前街道説明板まで来ました。ここから間違ったところまで戻ればいいのですが、あまりにも距離がありますので、「白坂口」まで行ってみます。

 

「肥後隈本軍記」によると、戦国末期の天正15年(1587)肥後で起こった国衆一揆の際、山鹿の城村城において隈部氏と戦いを繰り広げていた佐々軍に対し、食料物資を届けた立花宗成軍の

帰路を和仁(わに)、辺春(へばる)、大津山軍がここ白坂で襲ったという。この襲撃をきっかけに和仁、辺春氏も一気に加担し、田中城(三加和町)に立て籠もるようになったと伝えられています。

 

池田右京邸跡は、薩摩藩主島津家久公が宿泊した所です。平野橋の上流には、眼鏡橋が架かっていたそうですが、昭和57年7月の洪水で流出したそうです。

 

窪園に戻ってきました。この窪園には、数件の旅人宿があったそうですが、平成2年をもって姿を消しました。残った1軒は、西南戦争の時、繃帯所(ほうたいしょ)とされ、戦傷者の

手当を行ったことから「赤十字社発祥の地」の一つといわれています。

再び山道に入ります。

 

坂を下った所には、「ヒジ曲がり」という急な下りがあります。雨で路面が濡れていますので滑らないようゆっくり下りていきます。

下りた所が「八里木跡」です。熊本城迄あと約32kmです。

  

八里木跡から広い道を歩くと「歴史の道」の看板が立っています。遠くには「光行寺」が見えます。

 

光行寺」は、参勤交代の際、肥後藩主細川家のお茶所で、門の軒瓦には、細川家の家紋「九曜紋」が残っています。本堂には、肥後初代藩主細川忠利、二代光尚親子の位牌が置かれています。

明治10年の西南の役には、一時、官軍の本営が置かれ、三浦軍司令官や旅団参謀の軍議宿泊の場所になっていました。

光行寺の横には、「下岩官軍墓地」があります。

 

 

 

今日は、ここまで全然休憩していなかったのでここで休憩します。

 

このあとは、(その2)に続きます。

 


薩摩街道(豊前街道)4日目(その2)「瀬高(福岡県みやま市)~南関(熊本県玉名郡)」

2021-06-12 13:07:21 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

要川公園から国道443号線を下っていきます。北関下バス停の手前の所に「カサ地蔵」があります。これは、江戸時代後期の建立で後光がカサを被っている姿に見えることから

カサ地蔵と呼ばれています。カサ地蔵の横には、田尻因幡守種貞供養塔があります。

  

 

 

国道の右側には、「松風の関」の案内板があります。近くで農作業をされていた方に聞くと、松風の関は、この旧道を登ったところにあるそうです。

そこから今度行く「はなたれ小僧」には行けるかどうか聞くと、場所が違うから戻ってきた方がいいといわれ、とりあえずその松風の関に行くことにしました。

 

 

松風の関は古代からの築後の国と肥後の国を結ぶ街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。  平家物語に「寿永二年・・・菊池次郎高直は都より

平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にうちこえて、・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。 

 寿永二年(1183)当時既に関所として菊池氏によってまもられていたこと、七世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うことがわかってきています。  

その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしましたが、戦国時代の終わりに田中吉政が筑後国三二万五千石の領主として柳河城に入ると慶長六年(1601)、

ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。

 

松風の関から戻って再び国道443号線を歩きます。

はなたれ小僧は、国道の左側にあります。ふと看板を見ると、「真弓廣有公墓所」と書いてます。

「真弓」というと、地元太平洋クラブライオンズに入り、その後阪神タイガースに移り、最後は阪神の監督を務められた「真弓明信さん」を思い出します。

調べてみると、弓の名手隠岐次郎左衛門廣有は、怪鳥を弓で落としたということで真に弓を射るものとして「真弓」の名をいただきました。その後後醍醐天皇の息子「懐良親王」のお供で

九州へ下り、親王が亡くなると自分の任務も終わったと山里に入り、1369年その地で一生を終えました。その山里が「山川町真弓」です。

真弓選手も生まれは、熊本県南関町、育ちが大牟田市です。先祖は弓の名手でしたが、真弓選手は、バットの名手だったのですね。

 

はなたれ小僧さま」は、テレビの日本昔話にも登場しました。説明文を見ると、

真弓に正直者の老夫婦がいて、山で刈った柴を南関の町に売りに行ったのですが、全然売れなかったので水神様へお詫びして、柴を川に流したところ、川から水神様が出てきて

「柴のお礼としてこの小僧様をあげよう。この小僧様は、エビナマスしか召し上がらぬ、願い事はなんでも聞いてくださる」というと、消えてしまいました。

気が付くと目の前に可愛い小僧さんがいましたが、鼻の下に汚いふたすじの鼻汁を垂らしていました。その小僧様に祈ると、欲しいものが何でも出てきて老夫婦は、大金持ちに

なりましたが、エビナマスをとることと、鼻汁が嫌になって、この小僧様を水神様に戻すことにしました。すると、今まで建っていた屋敷も蔵一杯の米も消えてしまって、もとのような

貧乏暮らしになったといいます。

この話に登場します水神様が出てきた底なし淵は、この看板の後ろ、水神様の祠は、真弓の釈迦院内にあります。また、おじいさんが建てた屋敷が地名(屋敷谷)として残っています。

それから小僧様の石像が造られたのを契機として「民話の里まつり」が大谷区で開催されています。(説明文より)

  

ここで少し休憩します。

 

休憩後再スタート。国道443号線から少し離れて九州道の方に向かいます。

 

九州道のガードをくぐると大牟田市に入ります。

 

大牟田市四箇湯谷と南関町関外目の県境には、「湯谷柳河領境石」が二つ立っています。古い方は江戸初期に建てられたものでそれが折れたため、江戸末期に建てられました。

  

ここを過ぎると、熊本県玉名郡南関町です。ここからまた「豊前街道」の標識が出てきました。

南関町は、筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、

松風(まつかぜ)の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、

北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。(ウィキペディアより)

  

大津山城  応永2年(1395)室町幕府4代将軍・足利義持からこの地を与えられた日野資基が京より下向して、大津山城を築き、大津山氏を名乗りました。約200年にわたって大津山氏が

支配しました。「木屋塚」とは、何かわかりません。

北原白秋生誕地(石井家住宅) 石井家は、北原白秋の母「しけ」の実家です。現在の柳川市に嫁いだ「しけ」は、実家に里帰りして、1885年1月25日北原白秋を産みました。

後にこの実家を訪れた白秋は、「春霞 関の外目は玉蘭(はくれん)の 花さかりかも 母の玉名は」と詠んでいます。この石井家は、2019年国文化財に指定されています。

現在、保存整備中ですので中には入れませんでした。

  

さて、ここから街道が高速道建設によってわからなくなっています。地元の方に聞くと、この先は山道になっていて、高速道の上を通った方が無難といわれ、高速の方に向かいます。

  

国道を歩いていると右側に産直店「いきいき村」があります。ここで休憩します。店内には、南関あげや南関素麺など南関の特産物が売られていました。

「南関素麺」は、250年の歴史を持ち、肥後藩主細川氏は、参勤交代の折、お土産として徳川家にこの素麺を献上していました。「南関あげ」は、大きいものは、30cmぐらいで日本一多きな

油揚げです。天草の乱の後、人口が減り四国松山から移住された人々から伝わったそうです。

「大津山公園」は、山頂に中世の山城(大津山城)跡があります。

 

南関町関東の信号を右折。

 

 

左側には、南関第一小学校が見えます。この学校の校歌は、北原白秋が作詞しました。

南関番所跡は、筑後国との国境として肥後藩に出入りする人々の検閲や取り締まりを行いました。

南関御番所跡の所から旧道を歩きます。

  

南関町御茶屋跡 南関御茶屋(御客屋)は、嘉永3年(1850)8月に起工して、嘉永5年(1852)正月頃に完成したもので、藩主が参勤交代する時や領内巡視の際に休憩、宿泊していたものです。

古文書によると、それまでの御客屋(南関町公民館付近)が古く狭い上に間取りが悪く、藩主休泊の時に混雑するという理由でこの地に建て替えが行われました。

財源の一部には富講の売上金が充てられました。
建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されており、屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれております。通常御茶屋と御客屋は別々に

存在しておりますが、南関の場合はひとつの建物を御茶屋とも御客屋とも呼んでいたようです。
大政奉還後、国の所有となった御茶屋のほとんどは、小学校や役場などの公的施設として利用されていきますが、その反面、用途に応じた増改築等で御茶屋本来の姿を消していくことになります。

南関御茶屋の場合は、明治25年(1892)に個人の所有となり、「御茶屋跡」として大事にあつかわれ、建物は民家や料亭として利用されました。昭和3年(1928)7月18日には南関町にゆかりの

ある北原白秋の歓迎会がこの御茶屋で開催されております。
平成15年8月27日に国の史跡として指定され、同年より保存修理工事に着工し、平成16年度末、往時の姿を取り戻すこととなりました。(南関町HPより)

 

 

また、御茶屋跡の近くには、官軍墓地や鷹ノ原城跡があります。今回は時間の関係上パスしました。

 

  

中町の恵比須さんは、説明文を見ると、町屋敷にあり、中町の人たちが十月二十日夷講を行い、守ってきた。木像は恵比須像、豊玉姫像、石祠は寛政7年(1795)再建。

 

正勝寺は、室町時代1506年の創立で由緒あるお寺です。明治10年西南戦争の際、征討総督有栖川宮殿下が大本営を置かれた場所です。

 

北原白秋の素麺の歌碑 「手うち素麺 戸ごと掛け並め 日ざかりや 関のおもては静けかりにし

南関の素麺作りの最盛期明治中期には、200を超える製麺業者があり、すだれのように長く伸ばした素麺干しの光景が数多く見られました。現在は、9軒の製麺業者が昔と変わらぬ

伝統の味と製法を守り続けています。

 

  

時計を見ると14時前。南関から瀬高には、直接行く交通機関がなく、一旦バスで大牟田に出てそれからJRもしくは西鉄で瀬高や福岡に行きます。

南関~大牟田間のバスは、土日用で1時間に1本です。調べると14:03に発車するようです。急いで西鉄バス南関営業所に行き、14:03の大牟田行のバスに間に合いました。

南関から大牟田駅までは約50分かかりました。

 

本日のGPS

次回は南関~山鹿を歩く予定です。山鹿に車を置いてバスで南関に行こうかと思っています。

 

 


薩摩街道(豊前街道)4日目(その1)「瀬高(福岡県みやま市)~南関(熊本県玉名郡)」

2021-06-10 11:29:20 | 薩摩街道(豊前街道)

6/6(日)自宅から車で来て、瀬高駅に駐車後、薩摩街道(豊前街道)を歩きます。今日は熊本県玉名郡南関まで予定しています。

7:50 瀬高駅スタート。

上小川の信号辺りに「二里石」があるそうですが、見つけられませんでした。二里石は、柳河城から二里(約8km)の地点ということです。

 

満福寺より旧道に向かいます。民家の庭先には、山法師と煙の木が綺麗に咲いていました。

どこからともなく、鶏の声が聞こえてきます。見ると、大きなこれは、シャモでしょうか、見事な色をした鶏が鳴いていました。

  

先を歩くと、このあたりに「松延城址」があると書いてます。近くの人に聞くと竹林あたりが松延城址だと教えてくれました。

松延城址は、築城は天正7(1579)年、山下(八女郡立花町)城主・蒲池志摩守鑑広に属した樺島式部によると云われている。肥前(現、佐賀県・長崎県)の龍造寺家に対する備えとしての

役目を担い、天正15(1587)年に立花宗茂が柳河城(柳川市)に入ると、重臣・立花三郎右衛門が城代となった。

慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦に際し、立花家は西軍に与したため改易となり、代わって田中吉政が筑後一円の領主として入封した。この時、当城には家老・松野主馬が1万2千石を賜って

入城したが、元和元(1615)年、徳川幕府の一国一城令により廃城となった。

近くには、樺島という表札の家があります、樺島式部の末裔の方でしょうか?

 

九州新幹線のガード下を潜ります。

 

大根川橋の手前を左折。

 

面ノ坂です。両側は竹林や小高い山に囲まれています。江戸初期柳川田中藩主の時、肥後の赤腹村の立花宗茂の正室・闇千代姫に米や金品を隠れて送った罪で松延村の大庄屋樺島式部と

嫡男彦左衛門などを磔の刑に処した所です。坂を下ると祖霊廟やお墓が立っています。

  

国道との合流地点に三里石があるそうですが、また見つけることが出来ませんでした。

歩いていると御座敷梅林の看板が飛び込んできます。2年ほど前の2月に御座敷梅林を訪ねたことがあります。御座敷一面に梅の花がありそれは壮観でした。

  

このあたりが「野町赤坂」です。ここには、「野町追分石」がありました。また、地元の人に聞くと、この地「赤坂」は、源平合戦の時、流れた赤い血の坂が「赤坂」となったそうです。

  

歩いていると通りに鳥居が2本並んだ神社があります。一つは「天満宮」もう一つは「祇園宮」です。多分祇園宮の鳥居があとで建てられたと思いますが、二つの鳥居が並んでいるのは

珍しいです。

お牧山案内図」という看板があります。お牧山というのは、みやま市最高峰(標高405m)。天和3(1683)年、柳河藩3代藩主立花鑑虎が、母の郷里仙台から種馬を取り寄せ、軍馬、農馬を

育成する牧場を開いたことから御牧山といわれています。市内を一望できる山頂からの展望は抜群で、阿蘇山や筑紫平野、佐賀平野、背振連峰、有明海、雲仙普賢岳と360度のパノラマが

楽しめます。山頂にある「お牧山公園」では夏になるとキャンプが楽しめるほか、正月は初日の出スポットとして多くの人が訪れます。(みやま市観光案内より)

立ち寄ってみようかと思いましたが、ここからでは結構な距離がありますのでパスしました。尚、ここから高速道山川PAバス停に行けます。

 

JAみなみ筑後の所には、大きな「山川みかん」のオブジェがあります。山川みかんは、みやま市山川の特産品です。皮が薄く甘くておいしいとの評判です。

ちょうど、この時間JAみなみ筑後内で朝市が行われていました。総菜コーナー、甘夏、肥後グリーン(メロン)などが売ってます。見ると肥後グリーンが1個@400です。

リュックが重くなるのはわかっていてもついつい買ってしましました。店主からは、山川みかんをいただきました。  

  

山川みかんのオブジェの横に「平家の塔」があります。「要川の合戦」に敗れて亡くなった平家方の人々を弔うために、里人が建立した塔です。

  

 

みやま市役所山川支所から少し歩いたところに「日当川地蔵」があります。案内板を見ると、「戦国時代(1579)肥後領内で一つの領地を巡り隣接する隈府(わいふ)城主赤星氏と隈部氏の間で

争いが起り、肥前の龍造寺氏と結んだ隈部氏が勝利した為、赤星統家(むねいえ)は、長男新太郎を龍造寺氏のもとへ人質に出し和睦した。その後、赤星に対して肥前の龍造寺氏のもとに

伺候するよう再三呼び出すがそれに全く従わない赤星に対し最後の使者を隈府に出す。然し生憎城主統家は、留守であった為、使者は、そこに居合わせた長女の安姫を城主の代理として

肥前に連れ去った。そして龍造寺氏の意にあくまで叛く赤星に対し、これでは示しがつかないと日当川の河原で人質の新太郎14歳、安姫8歳それにお供の者12名の計14名をたく殺(はりつけ)

という残虐極まりない処刑を見せしめの為下知したのである。その折、新太郎は次の辞世の歌を詠んでいる。

「わが面て 西にな向いそ 赤星の 親に後ろを 見せじと思へば」そのことがあってこの地の里人達は、他国の地で無念の死を遂げた幼い二人の霊を供養するためここに地蔵尊を祀った。」

桜舞館小学校は、平成28年(2016)山川東部、山川南部、飯江、竹海の4小学校が統合してできた小学校です。ネーミングがいいですね。

  

郡境石 隈府(わいふ)とは、現在の熊本県菊池市。以前は隈部と呼ばれていましたが、隈部の府ということで略して「隈府」となりました。

原町お茶屋跡 原町には、お茶屋と宿駅(馬継所)が置かれていました。現在の原町郵便局あたりがお茶屋でした。

 

郵便局の隣には、「原町の観音さん」(大悲山甲山寺多福院)があります。ちょっと読みにくいが、説明文を見ると、

元禄7年(1693)清水寺(みやま市瀬高町)の隆尚法印によって建立され本尊は千手観音と馬頭観音を祀る。

原町は薩摩街道の宿場町として栄え、今の原町郵便局あたりに、お茶の接待をした「お茶屋」があり多くの人が往来していた。

毎年旧暦8月17日18日の2日間は、観音様の縁日で賑わった。 町の両側は色々な出店や催し物が並んだ。 中でも遠目がねと言う珍しい時代ばやしの歌入りもので男女二人が掛け合いに

竹ムチに手拍子を合わせ今の紙芝居のような事が催され、それが非常に面白く見物人が多かった。

「買うてくれんの十七夜」という珍しい風習があった。 土地の娘子は参詣に来た男達に「買うてくれんの」と言って腕にすがる。 男達はその十七夜のために働き貯蓄をし、

観音様を参詣したといわれる。 娘達は縁日が終わる頃、お互いに、買ってもらった品々を見せあい自慢するという娘子達にとって一年中で一番の楽しみであった。

誠に奇な風習であって他郷に類例のないということである。肥後・肥前からも参詣が多く大変賑わったということである。

西楽寺」は、江戸後期の文化9年(1812)街道の測量の為この地を訪れていた「伊能忠敬一行」が宿泊したお寺です。

  

要川(かなめがわ)古戦場跡 (源平最後の古戦場跡) 要川は、飯江川と待居川の合流地点です。

要川は源平最後の激戦地としての伝承がある。文治元(1185)年3月、平家栄華の夢破れて壇の浦で敗れ生き残って九州に落ちのびてきた平家一門は、やっと太宰府に逃れる。

だが源氏の追討の手ににあい南へ南へと遁れ、久留米の竹井城主草野永経(ながつね)を頼ったが相手にされず筑後の山門本吉山にある清水寺に加勢を求めた。船小屋の北方尾島においても

源氏の大群と戦ったが敗れ去った。九郎原から中山上庄下庄吉井の里から清水、そして野原庄へと逃れた。小桜威の鎧(よろい)も無惨に引き裂かれ、弓弦は切れ矢はすでに尽き果てて、

ついに狩道(かりじ)の駅(山川町尾野)に着いた。
そして天台宗である
清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍は、ここ山川の地を最後の戦いの場と決め、要川周辺に背水の陣を敷き源氏軍の追撃を持った。

しかし、琴平山の見張台、大物見から源氏の軍兵を待ち受ける平家武将が見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道ではなかったか。 
そして、平家は押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、
中原の戦いで決定的な敗北を喫した。斬殺された者の血で草も木も朱に染まり、川面も血の色に濁り流れたというところから、

血波川とも名がつけられた要川である。
 清水寺など平家に味方した寺社は源氏軍の豊後の武将緒方三郎に建物を焼き払われた。矢つき、刀折れ、生き残ったものもわずか。ある者は山や谷に逃れ、ある者は南を指して逃れ行き、

散々に落ちていったと言われている。平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、今を限りと瀧に身を投じた。

また捕らえられた平家の武将たちは、各地で首をはねられた。松風ノ関平家台中原平家の塔湯谷平家墓小萩平家墓現人神さては中原七霊宮等激戦の様相を残している

                                                               (みやま市山川町歴史散歩より抜粋)

尚、近辺には、「坂梨」の名字が多く、一説には平家一門の末裔がその“平”を隠すため、坂梨(坂がない)としたとも伝えられています。

現在、要川は、公園として整備されています。

 

物見塚は、要川最後の決戦の時、平家軍の物見の指揮所跡です。ここからは要川を眼下に遠く野町、飯江方面を一望できます。

  

山川町では、毎年3月ごろ「平家祭り」が行われています。                                  

 

(その2)に続く

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。番外編「卑弥呼の里瀬高」

2021-05-28 20:29:23 | 薩摩街道(豊前街道)

「ヤマト」というと、すぐ思い浮かべるのは、魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」。ここ、みやま市瀬高町も合併する前は、山門(やまと)郡でした。

旧山門郡は、瀬高町、山川町、三橋町、大和町の4町でした。これが、平成の大合併で、三橋町・大和町は、柳川市へ、瀬高町・

山川町は、三池郡高田町と3町合併し「みやま市」になりましたので「山門郡」は無くなりました。

江戸時代の学者 新井白石は、邪馬台国の所在地を全国の地名と照らし合わせ九州の「山門郡」と推理しました。

実際、瀬高町には、卑弥呼の墓であろうといわれる「権現塚古墳」があります。また、卑弥呼が居城したであろうという「女山(ぞやま)神籠石」があります。

街道歩きのついでに立ち寄ってみました。

●農産物直売所は、「卑弥呼の里」というネーミング。

● 女山(ぞやま)神籠石(こうごいし)  読み方は、「ぞやま」です。昔は女王山だったそうで、それがいつの間にか、「女山(ぞやま)」になったそうです。

案内板によれば、「神籠石とは、自然石や方形に加工した石を斜面に並べて土塁を築き、谷に水抜きの為の水門をつくったものです。用途については、これまで霊域説と山城説の二説で

争われましたが、おつぼ山神籠石(佐賀・武雄市)等の発掘調査により、古代山城としての性格があることがわかりました。

古代山城には、日本書紀に記載された「大野城」を始めとする朝鮮式山城と記載のない神籠石系山城があります。神籠石系山城とされるものは、全国で17箇所あって、福岡県に8箇所、

佐賀県に2箇所、山口県に1箇所の11箇所と北部九州地域に多く見られるものです。

女山神籠石は、標高200mの頂上部から南半分を約1,5kmにわたって列石がとりまいています。

西斜面の谷部には南から産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)と4か所の水門が確認され、特に粥餅谷(横尾寺谷)と4か所の水門、長谷水門は保存状態もよいです。

尚、北半分の列石については現在の所確認されていません。  平成25年 みやま市教育委員会 」

女山には、首飾り、銅矛が発見され、また、内部にも多数の古墳が発見され、勾玉や管玉が出土しています。卑弥呼がここに居城して祭祀を行っていたかもしれません。

 

この上の方に女山神籠石展望台がありますのでそちらの方に行こうと思い、山の中に足を入れた所、長さ1mぐらいの蛇が行く手を遮りました。

私、この歳になっても蛇は苦手です。ですから展望台には行けませんでした。

 

● 権現塚古墳 市内最大級の二段築成の円墳で、市指定史跡です。規模は径45m、高さ5.7m、周囲113.5m。年代ははっきりしていませんが、大化の改新の際、規模の大きい古墳を造るなどの

厚葬を禁じていたため、大化の改新以前のものとされています。伝説によると、神功皇后が田油津媛を討った際に多くの戦死者を出したので葬った塚との説もあり、または卑弥呼の塚とも

言われていますが定かではありません。(観光案内文より)

周辺には、縄文時代から古墳時代にかけて集落が形成されたそうです。邪馬台国にしては、規模が小さく思えますが、瀬高を始め、柳川、八女、山鹿の一部あたりを統括していたのでは

ないでしょうか?

 

● 蜘蛛塚古墳  蜘蛛塚古墳とナビで検索しても出てきませんので農産物直売所に行って聞きましたけどわかりませんでした。その中の一人の方が老松宮にあるのでは?といわれ

その老松宮に行ってきました。老松宮の左側の片隅に蜘蛛塚古墳がありました。説明文を見ると、

この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚というの名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降ると

この古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。     瀬高町教育委員会

田油津媛(たぶらつひめ)は、日本書紀に記述される山門郡に居たとされる土蜘蛛の巫女女王。日本書紀では仲哀9年3月丙申に神功皇后により誅殺されたとされるが、事実とすれば

4世紀半ば頃の出来事になる。(ウィキペディアより)

※土蜘蛛「つちぐも」は、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑・豪族・賊魁などに対する蔑称として用いられていた。

卑弥呼→台与→田油津媛という説もあります。

 

 

九州各地には、卑弥呼がいた「邪馬台国」の候補地が何か所かあります。ここ瀬高の地も候補地です。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。3日目(その2)「羽犬塚(筑後市)~瀬高(みやま市)」

2021-05-27 18:22:28 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

タマホームスタジアム筑後の先の信号を左折します。このあたりに「今寺番所跡」があるそうですが、見つけられませんでした。

旧街道は、光明寺を通ってまた県道96号線に戻ります。

  

筑後広域公園プールを過ぎるとみやま市瀬高町に入ります。

 

行基が造った「行基橋」。橋の手前には、行基を祀った「お堂」があります。※326 本郷の行基橋 瀬高町 (biglobe.ne.jp)

 

行基橋を渡ると、右側に瓦葺の堤防があります。多分高貴な方の渡し場の跡ではないでしょうか?

 

本郷の信号の手前、右側に神社があります。何て書いてあるかわからず、近くの魚屋さん、農家の方に聞きますがわからないとのこと。

帰って調べると「聖母宮(しょうもぐう)」だそうです。お宮なのに聖母?何か不思議に感じますが、もともと長崎県壱岐市にあるお宮で神功皇后をお祀りしているそうです。

 

 

中山のゑびす像あたりから、柳川市三橋町に入りました。三橋町も昔は、山門郡でしたが、平成の大合併で柳川市に合併しました。

中山の大藤の信号の先に「二里石」があります。説明文を読むと、

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は、慶長6年(1601)に筑後33万石の領主として柳川城に入りました。吉政は柳川城の大掛かりな改修や長大な干拓堤防(慶長本土居)の築造、

柳川城と支城の久留米城とを結ぶ通称田中道を初めとする幹線道路の整備などを行いましたが、筑後全域の道路に柳河辻町の札の辻ノ辻の標石(現在の柳川市辻町交差点)を基点とする

一里ごとの標識を置きました。標識として、瀬高道、三池道など筑後南部には標石(一里石)が建てられ、田中道(久留米往還)など筑後北部には塚(一里塚)が造られました。

この二里石は、柳川から矢部川沿いに豊後国(大分県)に向かう道路に置かれたもので、川に近い二里石付近は堤防上に道路がつくられいました。手前の一里石は久末にあります。

この道は二里石の先で二手に分かれ、もう一方は現在の筑後市を経由して久留米に向かっています。逆に中山から柳川に向かうと、柳川から肥後、薩摩に向かう街道に合流します。

そのため、江戸時代の中山周辺は人の往来が盛んであったと考えられます。
当時の二里石は大正期に堤防を低めた際に失われ、現在の二里石は昭和57年に地元有志によりほぼ元の位置に復元されたものです。          平成22年3月   柳川市

  

街道とは、ちょっと離れますが、「中山の大藤」がある熊野神社に立ち寄ります。

毎年「中山の大藤」は、見に来ているのですが、昨年、今年とコロナ禍で「密」になりそうなので行きませんでした。写真は2019年のものです。

来年こそ、マスクを外して見に行きたいですね。

 

 

街道に戻ります。三軒屋の信号を左に行けばよかったのですが、真っすぐ行ってしまいました。途中、金屋久橋で間違っていることに気づき、三軒屋信号迄戻ります。往復約2,5kmのロス。

 

三軒屋の信号から瀬高町上庄になります。瀬高町は、瀬高橋を挟んで上庄と下庄に分かれて宿場がありました。

瀬高町は、酒造業が多い町です。江戸時代柳川藩では、藩の財源を図り、酒に適した豊富なコメと良質な水があり、更に矢部川には、輸送に適した港があることから瀬高に酒造業を推奨しました。

 

 

ふくおかウォーキング協会の〇〇さんの母校「福岡県立山門高校」です。

国道443号線と交差する所が、瀬高上庄のお茶屋跡です。現在はその遺跡が見られません。バス停だけがその姿を残しています。

 

国道を横断し旧道を歩きます。このあたりは、国道から離れているせいか、旧家が残っています。

みやま市に入って思うことは、みやま市には、歴史的建造物の案内板が少ないということです。前もって調べておかなくては、迷うこともあることでしょう。

 

瀬高町上庄の八坂神社です。上庄八坂神社では毎年7月21日に「提灯ぞろえ」、24、25日には「大人形祭」を開催。魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮などを材料とした高さ2.5m・直径1mの

大提灯には人物、風景などが描かれ、氏子の若者によって町内を回ります。高さ約2mの大人形は、柳川藩祖立花宗茂公が霊夢を見て始められたと伝えられ、向かって右が八幡太郎義家、

左は安倍宗任もしくは貞任を毎年交互に立て、中央に祇園宮の被壇を設けます。大人形の股をくぐれば、無病息災のご利益があるといわれ、昭和31年(1956)、県の有形民俗文化財に

指定されました。

  

八坂神社の隣は、児童文学者「與田準一」の生家です。「ことりのうた」を作詞。【童謡】ことりのうた♪ - Bing video

 

與田準一生家の向かえは、「菊美人酒造」です。北原白秋の実姉が嫁がれた酒蔵です。そういう縁で與田準一と北原白秋は交流があったそうです。

與田準一記念館は、みやま市図書館にあります。(現在緊急事態宣言で休館中)

菊美人酒造から瀬高橋を渡ります。

 

橋を渡った左側には、「池田屋酒造」です。

 

橋を渡ると瀬高町下庄になります。

 

旧道の突き当りが星隈酒造です。その先の新町公民館の前には、「伊能忠敬測量基点之地」の碑が建っています。

碑には、「伊能忠敬は、寛政10年(1800)より十七年の歳月を費やして全日本地図を完成した人で当地方を測量して廻ったおり、この地点を測量基点と定めた」とかいてあります。

  

 

旧街道の中ほどには、「松尾宮」があります。松尾宮の詳細はわかりませんが、瀬高には、酒造の蔵元が多く、京都の松尾神社(酒造りの神)を勧請したのではないでしょうか?

  

13:45JR瀬高駅にゴールしました。

本日のGPSです。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。 3日目 (その1)「羽犬塚(筑後市)~瀬高(みやま市)」

2021-05-26 18:33:19 | 薩摩街道(豊前街道)

5/25(火)今日は天気もいいので薩摩街道を歩こうと、車で出発。車を瀬高駅に置き、JRで前回ゴール地羽犬塚迄戻ります。

9:00街道歩きスタート。歩いていると「停車場公民館」というのがあります。普通公民館の名前は、その地区の名を付けるのですが、ここは、羽犬塚か山の井です。

停車場公民館とはどういう意味なんでしょうね?

 

羽犬塚の一里塚は、民家の庭先に建っていました。

 

山の井の信号から旧道に入ります。信号の所にも「羽犬」の像がありました。

 

ちょっとここで寄り道です。SNSの先輩の会津のKさん、女優・黒木瞳さんの母校「福岡県立八女高校」です。

 

再び旧街道に戻ります。二本松橋の所に山頭火の歌碑が建っています。「うららかな 今日の 米だけはある

筑後市には、街道の所々に「坊津街道」の道標がたっています。これは、大変役立っています。

  

「上妻郡・下妻郡」の郡境石があります。上妻郡は、現在の久留米市荒木、八女市大部分、筑後市大部分、八女郡広川町。下妻郡は、みやま市瀬高町、野町などです。

 

尾島上町の信号で国道209号線と合流します。右側にある天満神社には、「山門合戦の絵図」があるということで行ってみました。

山門合戦の意味はわからなかったが、境内には大きな楠があります。

尾島には、えびす様が沢山建っています。この写真は、文化年間のもの。あと、天明年間のもありました。昔は、商業でにぎわっていたのでしょうね。

  

天満神社の国道の反対側には、「一之塚源平古戦場跡の碑」があります。

壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう

平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。
そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。
ただ女人を伴う行軍で思うように進めなかったと想像され、現在の筑後市尾島あたりで源氏の追手に追いつかれ戦闘が起こり、多くの平家の武者が討ち取られます。
現在その遺骸を葬ったといわれる地に「一之塚源平古戦場跡」の塚と碑が建てられています。

この供養塔の近くには、凄い数のお地蔵さまがあります。平家の兵士を供養のためのお地蔵様でしょうか?

  

尾島の信号から街道を離れ、船小屋鉱泉場の方に行ってみます。

船小屋は、旧名を東古賀原と称え、その昔福岡県筑後国下妻郡下妻村大字尾島でした。本来この地は藩政時代、柳川立花藩下に属していて、この時代に土木用の小舟をこの地に格納していた

仮の舟小屋が、矢部川の堤防上に設置されていました。この小屋は旧藩に属し、厳重な監視下におかれていました。附近の人々はみだりに立ち入ることが許されなかったので、

土地の人々はこれを「御舟小屋」といって祟めていたのですが、後に至って御の字が除かれて「船小屋」という今日の名に転じたとされています。(船小屋温泉郷HPより)

船小屋では昔からわき水が吹き出ており、この上を飛ぶスズメがよく落ちていたため、『雀地獄』と呼ばれていました。文化年間(1804~1818)、難病で苦しんでいた老人が病の苦しさから

いっそのこと死んでしまいたいと『雀地獄』の水を飲み、その中に浸りました。ところが、死ぬどころか気分がよくなり長年の病気が楽になり、一ヶ月もすると治ってしまいました。

この噂が広がり、近くの村々から湯治客がやってくるようになったため村の大庄屋が井戸を掘ることを決め、有馬藩の殿様に願い出て井戸を掘ったのが船小屋温泉の始まりとされています。

浴場が完成すると、鉱泉の評判が広まり、多くの人が集まるようになりました。明治19年の分析の結果、この泉は含有量日本一の含鉄炭酸泉で、飲用して胃腸病・貧血症・浴して婦人病・

神経痛などに効果があることが分かりました。その後、船小屋温泉は戦傷軍人の湯地場に指定され、そして多くの文化人にも愛されました。夏目漱石は結婚したばかりの妻・鏡子と共に

この地を訪れ、浴しました。鉱泉場の北側には漱石が読んだ句『ひやひやと雲が来るなり温泉の二階』の碑があります。また、昭和天皇や秩父宮殿下の訪問の際の宿泊もありました。

私も、手ですくって飲んでみました。何とも言えないような味です。お薬と思って飲んでみたら飲めます。

  

 

 

夏目漱石の歌碑「ひやひやと雲がくるなり温泉の二階

  

  

街道に戻ります。街道は、尾島の信号から斜め右です。水洗小学校を過ぎ、筑後広域公園の前を通ります。

 

歩いていると「秋津島浪右衛門の供養塔」があります。本名を村上浪右衛門といい、元禄10年(1697)当地で生まれました。幼少より身体が大きく、19歳で江戸に上がって力士となり

27年間も現役力士として相撲をとりました。最盛期には、6尺1寸8分(約187cm)38貫(約142,5kg)の巨体を誇り、二千数百番もの勝ちを重ねた彼は「天下第一」とうたわれました。

供養塔には、歴代力士の若乃花、柏戸、大鵬を始め多くの力士が地方巡業の際に立ち寄っています。

 

歩いていると民家の庭先に「歌碑」が建っています。俳句かなんかの先生の家でしょうか?

   

最初の休憩地は、九州新幹線筑後船小屋駅です。駅の向かい側には、九州芸文館がありますが、現在緊急事態宣言中の為休館していました。

  

筑後船小屋駅を出ると、福岡ソフトバンクホークスの2軍球場「タマホームスタジアム筑後」があります。

今日は13:00から阪神を迎えて2軍の公式戦が行われます。尚、タマホームの創業地は、筑後市です。

 

長文になりますのでこのあとは、(その2)につづきます。