猛暑やコロナのまん延防止、緊急事態宣言などで一時中断していました「薩摩街道(豊前街道)」を緊急事態が解除された10/1(金)に歩いてきました。
朝、6時50分福岡天神バスターミナル発の熊本行高速バスで熊本北区植木インターへ。植木インター8:30到着。植木インターから前回ゴール地、味取観音迄歩いていきます。
9:00 味取観音(瑞泉寺)スタート。味取観音を出ると、味取町について書いてある看板がありました。
「味取町」は、来民往還の分岐点、豊前街道沿いの加茂坂の登り詰めにあり、豊富な湧水もあって、かなり以前より集落が形成されたものと思われる。
寛永9年(1632)内村内に味取町が設けられ、在町として栄えた。町名の起源は、“荷取”とも、和名抄の“三重郷”等に由来するとも伝える。
参勤交代の際の茶屋が豪商松屋(堀家)に置かれた。盛時には約150戸の民家を数え、上、西松屋、冨七屋、砥石屋といった商家が軒を並べたと云う。
元禄年間に当町から植木町(味取新町)に分かれた。
明治18年(1885)、新道(福岡往還)の開通によって往時の賑わいを失っていった。
味取町を歩くと少し坂になっています。ここが、「ほたて坂」(保立坂)です。ほたて坂の看板も錆びて見にくくなってます。
専福寺の所には「山本高等小学校記念碑」があります。熊本市立山本小学校のHPを見ると、前身の「内村小学校」は1884年設立、その後「内村小学校」と「向原小学校」を合併して
「山本尋常小学校」となる。1902年に「山本尋常小学校」と「清水尋常小学校」を合併して、新たに「山本尋常小学校」になり、現在の校区になる。
その後も、1924年「山本尋常高等小学校」、1941年「山本国民学校」、1947年「山本村立山本小学校」、1955年「植木町立山本小学校」と名前を変え、2010年に
「熊本市立山本小学校」となり現在に至る。と書いてあります。設立当時は専福寺境内で授業が行われていたのでしょうね。
国道3号線に合流する所に「植木青果市場」があります。植木といえば「スイカ」です。スイカのオブジェがありました。
平田機工の近くに錆びて見にくいですが「三里木跡」があります。熊本城から三里(約12km)です。
植木の信号の近くに「小野泉水公園」があるそうですが、見逃してしまいました。諸説ありますが、小野小町の生誕地だそうです。
小町の父である出羽郡司「小野良実」は、養父である公卿「小野篁(たかむら)」の罪に連座して植木に流され、この地で小町が生まれたそうです。
小町が産湯を使ったのが小野泉水公園だそうです。
県道30号線を歩くと、左側が植木小学校です。運動会が近いのか、児童が旗を持って練習しています。
植木小学校から郵便局の所に行くと「植木学校跡」です。案内板を見ると「ここは明治8年4月26日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところ。
もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような組織)のあった場所で、これを改造して校舎とした。同校は熊本民権党が中心となり設置、運営した極めて先進的な学校で、
中江兆民の訳によるルソーの民約論を経典とした。校長平川唯一のもと宮崎八郎(弟が宮崎滔天)、広田尚、麻生直温等が教師を務め、城北各地から優秀な若者が入学した。
自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には80名近くの若者が在籍していたという。しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行なう等したことから、
県と反目して補助金を打ち切られ、同年10月末、わずか半年で閉校するに至った。同校の関係者は城北の戸長征伐を指導、明治10年の西南の役では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、
後には自由民権思想の普及に尽力した。なお、現在の植木小学校校庭には植木中学記念碑が建てられている。」
元禄8年(1695)、細川忠利の命を受け、従来の味取観音があった味取から三池街道とも交わるこの場所、現在の植木町に「味取新町宿」を設けました。
先へ進みます。「植木天満宮」には、官薩両軍緒戦の地の標識があります。明治10年(1877)ここを起点に官軍と薩摩郡の戦いが始まりました。これが「西南戦争」です。西南戦争 - Wikipedia
歩いていると「河原林少尉戦死の地」の碑があります。碑文によれば、明治十年二月二十二日、この植木町向坂が官薩両軍の城北における緒戦の地となった。すなわち熊本城籠城軍に加わる為、
小倉より南下した第十四連隊(連隊長代理乃木少佐)は夕刻植木町に入り散歩線を敷いた。一方熊本城を包囲した薩軍はその一部(村田三介隊)が北上激突した。その後十四連隊は植木町千本桜に
後退したが、その際連隊旗手河原林少尉は本道の殿軍に加わり戦死、連隊旗は薩将村田三介の手に渡った。乃木少佐がこの時の責任を感じ死を決意したことは明治天皇への殉死の遺言にも
明記されている通りである。乃木少佐は連隊旗奪回を念じ、その後常に第一線立って戦い名将への道をあゆんで行った。この地が連隊旗手河原林少尉が村田隊兵士岩切正九郎に切られたと
伝えられる茶畑付近である。
熊本県警自動車訓練所の近くに、「明徳官軍墓地」があります。案内文によれば、「明徳官軍墓地には、現状で122基の墓石があります。政府軍の陸軍士官、下士、兵卒の墓石117基、
軍夫5基です。警視隊の暮石はありません。
階級は、士官2,下士17,兵卒98で所属別では、近衛兵第二連隊が最も多く71基で次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続きます。
兵士の出身地は南は、熊本から北は山形まで全国に及んでいます。戦死日、場所で最も多いのが明治10年3月20日、ここの近くの向坂一帯で、全体の7割以上の92名です。
この日は、田原坂が陥落した日で、勢いに乗った政府軍は、一気に熊本城まで攻め込もうとしますが、向坂で薩摩軍の猛反撃にあって抜くことができず、多くの死傷者を出し、潰乱して
植木の町まで引きます。それから4月12日迄の間、植木の町を南北に中分して対峙しました。尚、近くの寄鶴には、軍夫30名の合葬墓があります。」
尚、「明徳」という言葉を広辞苑で調べましたら、「公明な徳行、りっぱな徳性」という意味だそうです。この墓地があるところも「明徳町」です。
西福寺の所が「二里木跡」です。
街道は、旧北部町に入りました。旧北部町役場の先には、フジバンビの工場があります。ここで休憩します。
休憩後再スタート。街道の左側には、四方寄(よもぎ)六地蔵・庚申塔があります。
その横には「御馬下(みまげ)の角小屋」です。この建物(母屋)は、江戸時代、庄屋を務めるかたわら質屋・酒屋を営んだ堀内(赤木)家の住宅であるとともに、豊前街道を往来する
細川・島津などの大名が休憩所として使用したお茶屋の跡であり、薩摩藩主島津斉彬と共に西郷隆盛も立ち寄ったといわれています。
そのため、商家としての役割を果たす店舗や茶の間などの部分と大名一行を迎えるための「御成りの間」「次の間」「御用人の間」などをあわせ持つ珍しいつくりになっています。
黒光りする柱や梁、鴨居に施された木象嵌など当時の姿をそのまま残しており、日本古来の木造建築のすばらしさを見ることができます。
資料館には、九代当主赤木弾蔵が明治政府参与を命じられた細川護美の共をして京都へ赴いた際の「見聞記」をはじめ、堀内家の江戸時代から昭和に至るまでの古文書や当時の人々の
暮らしぶりを伝える道具類などの資料も展示しております。
また、海軍体操の創始者として知られ、日本最初の落下傘部隊の隊長・指揮官である堀内豊秋海軍大佐の生家でもあり、その関係資料等も展示しております。(熊本観光ガイドより)
先へ進みます。大窪2丁目の信号で道が右と左に分かれています。街道は右の道です。
肥後銀行清水支店の所が「一里木跡」です。熊本城まであと4kmになりました。
「山伏(やんばし)塚」は、熊本城の築城に際して、清正は、上方から山伏(修験僧)の龍造院を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事に終わったのですが、上方へ帰る龍造院を送るため、
宴会が開かれました。宴席で龍造院がふと、城構えについて話したから大変です。城の秘密が漏れると考えた武士達は、龍造院の後を追い熊本城の北、現在の熊本市西区池田町あたりで
龍造院を切り殺してしまいました。この塚は殺された龍造院を葬ったものと言われています。
街道は熊本市中央区京町に入ります。
池田屋味噌は、寛政4年(1792)創業、200年以上の歴史があります。
熊本地方裁判所の建物は、明治41年(1908)に建てられました。昭和50年(1975)、庁舎新築の際、取り壊される予定だったが、住民たちの要望で主塔部分残して資料館にしました。
熊本城に入ってきました。熊本城は、平成28年(2016)の熊本地震で天守閣の瓦や石垣が崩れた他に国重要文化財の櫓や塀が倒壊するなど大きな被害を受けました。
地震後、急ピッチで工事が行われ、今日10/1に一般公開されるようになりました。石垣やその他はまだ手が付けられていないとこもありますが、ようやく一般公開にたどり着けました。
私は、熊本城の一口城主ですので入場は無料なんですが、今日は5時までに福岡まで帰らなくてはいけませんのでまた後日伺うようにします。
加藤清正公を祀った「加藤神社」です。ここからの熊本城の眺めも最高です。
城内には、「神風連の乱」の石碑が立っています。「神風連の乱」は、明治9年(1876)10月、熊本で起こった反政府暴動。新政府の開明政策に不満を抱く旧士族太田黒伴雄らが
結成した神風連(敬神党)が国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃、まもなく鎮圧されました。
豊前街道は、熊本城内にある「里程元標跡」 がゴールです。この先鹿児島までは薩摩街道になります。
これで豊前街道(約110km)を7日間で完歩しました。
また、いつの日か、ここから鹿児島まで歩いてみたいですね。