よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

サタデーウォーク「赤坂散策と福岡城址散策」(福岡市中央区)

2022-08-30 11:14:52 | ふくおかウォーキング協会

8/27(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは「赤坂散策と福岡城址散策」でした。

本来は、今年の2月に「福岡城址の梅園散策」で組み入れられていましたが、コロナ禍で中止になりましたので、このコースお蔵入りかな?と思ってましたが、8月のサタデーウォークに

組み入れられました。8月だったら梅の花は咲いていませんが、福岡城址は四季を問わず楽しめます。

ウォーキング協会の下見は、昨年12月に終わりましたが、今月9日、個人でもう一回下見をしました。集合場所は、警固公園、参加者35名。

今回は、私がリーダーです。9:30ウォーキング開始。

  

コースは、警固公園スタートし、赤坂緑地~桜ヶ峯神社~護国神社~鴻臚館~福岡城址~平和台競技場~大濠公園能楽堂ゴールの約10km。

 

警固公園から国体道路に入ります。歩道の所に何やら看板が・・・・・PCR検査場です。

  

警固交差点から護国神社までの約800mの区間は、「ケヤキ通り」と呼ばれています。ケヤキの木が約100本植えられています。

 

ケヤキ通り「赤坂2丁目」信号より左折すると、高校女子駅伝の名門校「筑紫女学園中・高校」(通称筑女)です。

 

筑女から右折して「赤坂緑地公園」に向かいます。ここは、古い邸宅跡地を地域の公園として福岡市が解放しました。

 

赤坂緑地から下りてきます。

 

桜ヶ峯神社

 

このあたりは、「桜坂」です。桜坂の地名は、この桜ヶ峯神社から由来しています。

桜坂の前の名は、「練塀町(ねりべいちょう)」と呼ばれていました。黒田長政が築いたといわれる土塀から由来しています。西鉄市内電車(廃止されています)の電停にもこの地名がありました。

また、桜坂から薬院方面に行った動物園入口あたりには、「古小烏(ふるこがらす)」という地名もありました。これは、江戸時代に一度警固神社と合祀されてしまいましたが後に分離され現在の位置に戻りましたので古小烏と呼ばれていました。

 

桜坂には、チーズケーキやパンの有名店があります。

 

六本松交差点から護国神社に向かいます。護国神社で休憩。

  

休憩後再スタート。ケヤキ通りから中央市民センターに向かいます。

中央体育館は、コロナ予防の接種会場になっています。

  

体育館の横から舞鶴公園に入ります。

 

 

このコース本来は、2月に組み入れられていましたが、コロナ禍で中止になり今月のサタデーウォークに再度組み込まれました。

2月ですと、福岡城址梅園の梅の花が綺麗なんですが、今は、葉っぱだけです。

 

舞鶴公園から大濠公園に向かいます。

名島門は、先週歩いた「名島城」で使っていた門です。何人かの過程を経てこの地に移設されました。

 

 

 

11:44大濠公園能楽堂にゴールしました。

 

 

 


楽しいウォーク「宮地嶽神社と福間海岸を歩く」(福岡県福津市)

2022-08-26 09:35:05 | ふくおかウォーキング協会

8/24(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「宮地嶽神社と福間海岸を歩く」でした。

今日の天気予報は、昼から雨の予想。雨がゴールまで降らなければいいのですが・・・・

集合場所は、JR福間駅西郷口。参加者は38人。

コースは、福間駅スタート~福間海浜公園~福間海岸~宮地コミュニティセンター~宮地嶽神社~中央公民館~光陽台~福間駅ゴールの約10kmです。

  

ストレッチの後、9:30スタート。

 

西郷川を渡ります。

 

最初の休憩が「福間海浜公園」です。

 

この海浜公園からの眺めは、素晴らしいのですが、今日は曇っていて視界が悪かった・・・・

 

休憩後再スタート。福間海岸へ。

 

福間海岸は、九州の湘南と呼ばれて、西日本有数のウィンドサーフィンのメッカです。

海岸沿いには、カフェ、やサーフィンショップが立ち並んでいます。

  

結婚式場もあります。

 

 

ハマボウフウは、若葉の所が食用になります。子供の頃、酢味噌で食べた記憶があります。

 

宮地浜です。ここから宮地嶽神社まで直線で繋がっています。「光の道」

夕陽風景時計では、2/22,10/20 が宮地浜の夕陽が一直線に宮地嶽神社まで延びます。これは、以前嵐がJALのCMでも話題になりました。

近くの食堂には、メニューに「光の道焼きそば」がありました。

 

宮地コミュニティセンターで休憩。

 

宮地嶽神社参道に来ました。ここから長い階段を上りますので、ひざ痛などで上りが苦手な人と健脚の人とに分かれます。

神社に通じる最後の階段から宮地浜の方を見ると、道が一直線に延びています。

10月20日は、凄い人出になりそうですね。

  

※嵐 JAL CM 「光の道」JAL JAL先得「旅の出会い 光の道」嵐 大野智 櫻井翔 相葉雅紀 二宮和也 松本潤 - Bing video

  

宮地嶽神社を下りてくるとポツリポツリと雨が落ちてきました。行かなかった人との待ち合わせ場所に来ると雨は、小降りになってきました。

本来ですと、ここから光陵高校の方に行って光陽台から駅に戻るのですが、コースを変更し直接福津駅に行きました。

11:40 福津駅にゴール。

 

 

 


8月度例会「名島海岸散策」(福岡市東区)

2022-08-23 14:34:36 | ふくおかウォーキング協会

8/20(土)

福岡ウォーキング協会は、1か月の夏休みを終え、8/20(土)の例会から再開しました。

8月も下旬になりましたが、まだまだ暑いです。今日の予想気温は36度。ただ今日は少し風がありますので幾分か過ごしやすいです。

集合場所は、JR千早駅。参加者は28人。

コースは、千早駅をスタートし、香椎浜~みなと100年公園~名島神社~多々良川緑地~千早駅ゴールの約10km。

 

ミーティングの後、9:30スタート。

 

旧3号線に行くと、この辺りにボウリング、アイススケート、ゴルフ練習場の「スポーツガーデン香椎」があったのですが、昨年9月に閉店し今は更地になっています。

 

スポーツガーデン香椎のゴルフ練習場の跡には、「ちはや公園」「ガーデンズ千早」に建て替わっていました。

 

コースは、香椎浜のマンション群を通ります。

 

香椎浜御幸公園で給水タイム。休憩後再スタート

 

 

香椎浜遊歩道~みなと100年公園を経て名島海岸に向かいます。

 

名島海岸には、「名島帆柱石」「俎板瀬(まないたせ)」など歴史に登場する遺跡があります。

名島帆柱石」は、3世紀ごろ、神功皇后が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったという言い伝えがあります。

実際は、古第三紀志免層群名島層(約3500万年前)の砂山、礫岩層(れきがんそう)中に含まれる珪化木(けいかぼく)で、9個の円柱状石からなっています。

俎板瀬」は、神功皇后が三韓にご出立の折、供物を供えた所、又、ご帰還の折、凱旋の祝宴をしたところと言われています。

  

  

名島神社」は、

神功皇后の三韓御遠征の折、香椎の西にある黒津の岬より、諸軍各々に郷名姓名を名乗らせながら乗船させたことから、その場所が「名嶋」と名付けられたと伝えられます。

そしてこの地より宗像三女神を拝し、遠征の無事を祈られました。

御凱旋の後、神功皇后は再びこの地に上らせ給い、宗像三女神を勧請して御奉斎された事が名島神社の起源と伝えられています。
中世には七福神の信仰が盛んになり、三女神の市杵島姫命が弁財天と同一視された事から、名島神社は「名島弁財天社」と称され、足利尊氏や豊臣秀吉などの時の権力者の参詣も受けて来ました。

そして明治時代の神仏分離を経て、弁財天は宗栄寺へと移され、宗像三女神をお祀りする名島神社としてこの地に鎮座しております。(名島神社HPより)

また、名島神社周辺は、「名島城址」があります。

戦国時代天文年間(1532~1555)に立花城主立花鑑載が支城として築造したといわれ、のちの天正16年(1586)から慶長5年(1600)の黒田入城まで、秀吉から筑前国を与えられた

小早川隆景・秀秋がここを改修し居城とした。東をのぞく三方を海に囲まれた戦国時代の城郭で、北に本丸、その南に二の丸、三の丸を配し、海水を引き込んだ堀割と空堀で周囲を防御する。

東西840m、南北280~400mの規模をもつ。関ヶ原の戦い以降、初代福岡藩主黒田長政も初めここを居城にしたが、城下町の発展に不便な地として、慶長6年(1601)から福崎の地に福岡城の

築城を始めた。慶長12年(1607)福岡城の完成、移転とともに廃城となった。この時石垣や門などを新城に輸送したといい、遺構として名島門(市指定建造物)が福岡城に、

唐門(県指定建造物)が崇福寺に残る。
現在、宅地化が進み当時の面影をとどめないが、平成2年の本丸天守台東側の発掘調査では石垣の根石や建造物の跡が確認された。また平成16年度から本丸の確認調査が行われており、

石垣の一部が確認されている。(福岡市の文化財より)

 

今回のコースには入っていませんが、1930年の昭和初期、この一帯「名島水上飛行場」がありました。翌年の1931年(昭和6年)には、世界一周中のリンドバーク夫妻を乗せた

「シリウス号」がこの飛行場に立ち寄っています。

大正・昭和の歌人「白蓮」は、この地がお気に入りで、大正時代しばしば友人たちと当時は珍しかった自家用車で訪れていました。

歌にある「博多小女郎」は、近松門左衛門の浄瑠璃「博多小女郎波枕」の登場人物です。博多柳町の遊女で京都の商人小町屋惣七に見受けされて夫婦になりました。

博多の焼酎の銘柄「博多小女郎」でもあります。

  

名島から3号線を渡り多々良川河口へ。

  

3号線バイパスに入ります。この辺りは昔の唐津街道の一部で、火の見下あたりには、「蓮華坂・わくろ石」があります。昔は、ここは、蓮華坂と呼ばれていました。

わくろとは、地元の方言で「カエル」です。

水利・雨ごいの神として旅から無事に戻るという立ち帰りの神として交通安全、疫病除けの神として崇敬されていました。

 

11:49千早駅にゴールしました。

 

今日も暑かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


赤坂散策と福岡城址散策の下見(福岡市中央区)

2022-08-11 06:59:39 | ウォーキング

8/9(火)

8/27開催のサタデーウォーク「赤坂散策と福岡城址散策」の下見に行ってきました。

このコースは、今年2月のコースに設定されましたが、コロナで中止になり、今月27日のサタデーウォークに組み入れられました。

下見も昨年12月に終わっているのですが、自分でも不明な所がありましたので今日、個人で行きました。

今日は気温が36度になるということで朝6:30からスタートしました。

6:30といってももう温度計は28度を示しています。スタートは、中央区警固神社。

国体道路(けやき通り)から筑紫女学園高校の方に向かいます。少し坂道を上ると「桜ヶ峯神社」です。

桜ヶ峯神社は、この辺りの地名「桜坂」の由来になった神社です。

 

桜坂西から城南線に入ります。桜坂周辺は、パン屋さんやケーキ屋さんの有名店があります。

KAKAは、チーズケーキのお店、アマムダコタンは、パン屋さん。昨年東京表参道に支店が出来ました。

  

 

警固中、赤坂小、中央区市民センターを通り舞鶴公園へ。

 

西鉄ライオンズ(現 埼玉西武ライオンズ)の本拠地でした「平和台球場跡」です。

昭和31年~33年西鉄ライオンズが日本シリーズで巨人を破り3連覇したことは、当時小学生だった私の記憶にしっかり残っています。

平和台の名付け親は、「岡部平太」です。

  

この場所は、昭和初期から戦時中までは、陸軍の福岡連隊区司令部でした。

平和台球場の外野スタンドあたりには、「鴻臚館跡」が発掘されました。

鴻臚館は、平安時代に設置された外交及び海外交易の施設です。

 

 

 

 

2月でしたらこの一帯梅の花が咲きだします。

 

平和台陸上競技場

競技場の中に入ると福岡国際マラソンの歴代優勝者の名前が書いてあります。福岡国際マラソンも昨年で終了ということでしたが、今年も開催されます。

福岡の冬の風物詩です。

 

 

陸上競技場から大濠公園に向かいます。

 

 

9時、大濠公園能楽堂に到ゴールしました。

この日のもう一つの目的は、稚加榮のランチです。稚加榮は、平日のランチを16日までで終了し、土日のみランチを出すそうです。

平日のランチは、これが最後かな???

 

 

 

 

 

 

 


世界文化遺産軍艦島(端島)に上陸(長崎市)

2022-08-06 15:31:53 | 旅行

8/4(木)旅行会社の日帰りツアーで長崎軍艦島(端島炭鉱)に行きました。

軍艦島(端島)は、長崎半島(野母半島)から西へ約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18kmの沖合に位置します。

軍艦島(端島)は、南北に約480ん、東西に約160m、周囲約1,200m、面積65,000㎡という小さな海底炭鉱の島で岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に

似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。

炭鉱閉山後、長い眠りについていた「端島炭鉱」ですが、2015年(平成27)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に

登録されました。(長崎さるくより)

 

午後2時長崎港元船桟橋から出港。乗客の方は約100人ぐらい。

昨日(8/3)まで先月末の台風の影響で上陸禁止でしたが、今日から上陸できるようになりました。但し、1.風速5メートルを超える場合、2.波の高さが0.5メートルを超える場合
3.現場海域の視界距離が500メートル以下の場合は上陸が禁止となります。

クルーズ船は、三菱重工長崎造船所を通っていきます。長崎造船所でも世界遺産のものがあります。その一つがジャイアント・カンチレバークレーン。

高さ62m、アームの長さ75mで今でも現役です。

 

伊王島は昭和40年代まで炭鉱で栄え活気に満ちていたしたが、時代とともに石炭の需要が減り炭鉱は閉山、人口も激減し衰退の一途を辿ってきました。

平成の時代になり海水浴場やホテルなど観光化が進められるようになりました。

 

30分ほどで「高島」に到着。

高島の石炭の発見・採炭の始まりは、18世紀初めころとされています。記録では、天明7年(1787)深堀鍋島家が高島炭の長崎での販売を許可しており、この頃には、すでに高島での

採炭が事業として成立していたことがわかります。江戸時代の高島における最短の方法は、「たぬき堀り」と呼ばれる石炭の露頭部から炭層に沿って掘り進んでいく原始的な方法でしたが、

慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との間で高島炭鉱共同経営契約が成立し蒸気機関を使った国内初の立坑(北渓井坑)を開坑し、採炭を行いました。

明治14年(1881年)土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始されました。

以来近郊伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けました。

その後、国の石炭政策の変更等により、1986年(昭和61)11月閉山しました。

島に入ると、三菱財閥創始者「岩崎弥太郎」の像が島全体を見渡しています。

  

高島石炭資料館に入ります。ここには、高島炭鉱の支山であった端島(軍艦島)の概要を説明しています。

 

高島町へは、長崎港から連絡船が一日に8便出港しています。(高島港からも8便)

 

15:05高島を出港。南西方向に「軍艦島(端島)」が見えてきました。クルーズ船は、ここから軍艦島を周回します。

遠くから見ると、軍艦に見えます。

軍艦島(端島)では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始されました。

出炭量が増加するにつれ、人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正6)には、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約5300人もの

人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。

エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで出炭量も人口も徐々に減少し、1974年(昭和49)1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。

 

 

 

 

 

 

軍艦島(端島)に上陸します。上陸の際には、日傘を含む傘が禁止になっています。(雨の日は、カッパを着るそうです)

 

 

見学する場所は、限られており、下記の赤い印の所です。

 

 

 

 

30号棟の前で説明を聞きます。

 

1916年(大正5)に建てられた30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートと言われています。

鉱員住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。31号棟鉱員住宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店も

設置されていました。

30号棟は、崩壊が進んでおり、昨年11月の診断では、あと半年ぐらいで崩壊するとのことです。パンフの写真と比較するとだいぶん崩壊が進んでいますね。

 

島での生活

軍艦島(端島)では、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていましたが、木々を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を

運び、花や野菜を育てていました。これが日本初の屋上庭園だったといわれています。

電気や水道の確保は島では切実な問題でした。電気は当初、島の自家発電で供給されていましたが、人口の増加などに伴い、電力不足となったため、1918年(大正7)に高島から海底ケーブルが

敷かれ、送電されるようになりました。

飲料水も当初は海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数か所の共同水栓から配給されるようになりました。

風呂の水は、海水を沸かしたもので上がり湯だけしか真水を利用できませんでした。1957年(昭和32)には対岸の三和町から6500mもの海底送水管が敷かれ、送水されるようになりました。

これにより、軍艦島(端島)での給水制限はなくなりましたが、高級職員用のアパートであった3号棟以外のアパートには、室内風呂は設置されず、公衆浴場が利用されていました。

昭和30年代からプロパンガスが利用されましたが、それまでは、かまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。

   

  

  

30棟での説明が終わり、クルーズ船に戻ります。

 

  

軍艦島から約40分で長崎港に戻りました。

短い滞在でしたが、昔の炭鉱での生活が少しではありますが、わかったような気がします。

この遺産後世にも長く残したいものです。

文中の説明文は、「長崎さるく軍艦島」から引用しました。