8/4(木)旅行会社の日帰りツアーで長崎軍艦島(端島炭鉱)に行きました。
軍艦島(端島)は、長崎半島(野母半島)から西へ約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18kmの沖合に位置します。
軍艦島(端島)は、南北に約480ん、東西に約160m、周囲約1,200m、面積65,000㎡という小さな海底炭鉱の島で岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に
似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
炭鉱閉山後、長い眠りについていた「端島炭鉱」ですが、2015年(平成27)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に
登録されました。(長崎さるくより)
午後2時長崎港元船桟橋から出港。乗客の方は約100人ぐらい。
昨日(8/3)まで先月末の台風の影響で上陸禁止でしたが、今日から上陸できるようになりました。但し、1.風速5メートルを超える場合、2.波の高さが0.5メートルを超える場合
3.現場海域の視界距離が500メートル以下の場合は上陸が禁止となります。
クルーズ船は、三菱重工長崎造船所を通っていきます。長崎造船所でも世界遺産のものがあります。その一つがジャイアント・カンチレバークレーン。
高さ62m、アームの長さ75mで今でも現役です。
伊王島は昭和40年代まで炭鉱で栄え活気に満ちていたしたが、時代とともに石炭の需要が減り炭鉱は閉山、人口も激減し衰退の一途を辿ってきました。
平成の時代になり海水浴場やホテルなど観光化が進められるようになりました。
30分ほどで「高島」に到着。
高島の石炭の発見・採炭の始まりは、18世紀初めころとされています。記録では、天明7年(1787)深堀鍋島家が高島炭の長崎での販売を許可しており、この頃には、すでに高島での
採炭が事業として成立していたことがわかります。江戸時代の高島における最短の方法は、「たぬき堀り」と呼ばれる石炭の露頭部から炭層に沿って掘り進んでいく原始的な方法でしたが、
慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との間で高島炭鉱共同経営契約が成立し蒸気機関を使った国内初の立坑(北渓井坑)を開坑し、採炭を行いました。
明治14年(1881年)土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始されました。
以来近郊伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けました。
その後、国の石炭政策の変更等により、1986年(昭和61)11月閉山しました。
島に入ると、三菱財閥創始者「岩崎弥太郎」の像が島全体を見渡しています。
高島石炭資料館に入ります。ここには、高島炭鉱の支山であった端島(軍艦島)の概要を説明しています。
高島町へは、長崎港から連絡船が一日に8便出港しています。(高島港からも8便)
15:05高島を出港。南西方向に「軍艦島(端島)」が見えてきました。クルーズ船は、ここから軍艦島を周回します。
遠くから見ると、軍艦に見えます。
軍艦島(端島)では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始されました。
出炭量が増加するにつれ、人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正6)には、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約5300人もの
人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。
エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで出炭量も人口も徐々に減少し、1974年(昭和49)1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。
軍艦島(端島)に上陸します。上陸の際には、日傘を含む傘が禁止になっています。(雨の日は、カッパを着るそうです)
見学する場所は、限られており、下記の赤い印の所です。
30号棟の前で説明を聞きます。
1916年(大正5)に建てられた30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートと言われています。
鉱員住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。31号棟鉱員住宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店も
設置されていました。
30号棟は、崩壊が進んでおり、昨年11月の診断では、あと半年ぐらいで崩壊するとのことです。パンフの写真と比較するとだいぶん崩壊が進んでいますね。
島での生活
軍艦島(端島)では、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていましたが、木々を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を
運び、花や野菜を育てていました。これが日本初の屋上庭園だったといわれています。
電気や水道の確保は島では切実な問題でした。電気は当初、島の自家発電で供給されていましたが、人口の増加などに伴い、電力不足となったため、1918年(大正7)に高島から海底ケーブルが
敷かれ、送電されるようになりました。
飲料水も当初は海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数か所の共同水栓から配給されるようになりました。
風呂の水は、海水を沸かしたもので上がり湯だけしか真水を利用できませんでした。1957年(昭和32)には対岸の三和町から6500mもの海底送水管が敷かれ、送水されるようになりました。
これにより、軍艦島(端島)での給水制限はなくなりましたが、高級職員用のアパートであった3号棟以外のアパートには、室内風呂は設置されず、公衆浴場が利用されていました。
昭和30年代からプロパンガスが利用されましたが、それまでは、かまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。
30棟での説明が終わり、クルーズ船に戻ります。
軍艦島から約40分で長崎港に戻りました。
短い滞在でしたが、昔の炭鉱での生活が少しではありますが、わかったような気がします。
この遺産後世にも長く残したいものです。
文中の説明文は、「長崎さるく軍艦島」から引用しました。