1/5(水)今年最初のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「三社詣りウォーク」でした。
香椎宮~筥崎宮~十日恵比寿神社を廻るコースです。例年ですと、これが終わって新年会をするのですが、昨年からコロナの影響で新年会は中止になりました。
三社参りとは、3つの神社を参拝することです。福岡県を中心に初詣の風習・行事として根付いています。(氏神様、産土神様、鎮守様)
集合場所は、西鉄香椎宮前駅。参加者は43人。
9:35 ウォーキング開始。JRの踏切を渡り、香椎宮勅使道(参道)を歩きます。
約1kmで香椎宮に到着。
香椎宮は、祭神は仲哀天皇・神功皇后、また応神天皇・住吉大神も共に祭る。西征中この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祀ったのが宮の起源とされる。
香椎は鴻臚館貿易の衰退した12世紀から博多津に代わって栄えた貿易港で、元寇の際は豊後・大友氏が香椎、多々良地区を警固してから、大友氏の支配を受けるようになった。
香椎造りで著名な本殿は、国指定の重要文化財。周辺には武内宿禰ゆかりの不老水や、神功皇后ゆかりの綾杉の大木などがある。毎年秋の大祭には流鏑馬が行なわれ、6月頃には
香椎宮楼門前の菖蒲池に約5千本の花が咲く。(よかナビより)
香椎の地名:神功皇后は、仲哀天皇が亡くなり、お棺を椎の木に立てかけたところ、良い香りが漂ったのでこの地を「香椎」と名付けた。
香椎宮のご神木は、「綾杉」です。神功皇后が三韓よりご帰還され、剣・鉾・杖の三種の宝を埋め、そこに鎧の袖に挿していた杉枝を「とこしへに本朝を鎮めるべし」と祈りこめられて
お植えになった杉で紀元860年(西暦200年)のことです。葉が綾の様に交互に生えているので「綾杉」と言われました。
新古今和歌集にも「ちはやふる香椎の宮のあや杉は、神のみそきにたてる成けり」と書かれています。※「ちはやふる」とは、神という言葉を導き出す枕詞です。
お神木「綾杉」の前で記念写真。
神功皇后は、仲哀天皇崩御のあと、懐妊中でありながら天皇の遺志を継いで男装し、三韓征伐に出かけました。そして勝利を治めました。
北部九州にある神功皇后伝説は、この香椎宮が発祥といっても過言ではないと思います。
今回は行きませんでしたが、本殿から少し離れたところに、「不老水」があります。仲哀天皇、神功皇后の家臣「武内宿禰」がこの泉の水を汲み食事と酒を調えて、三百歳まで生きたそうです。
香椎宮弁財天社を出て千早方面に向かいます。
現在、千早四・五丁目には多くの高層マンションが立ち並んでいます。ここには以前、旧国鉄の「香椎操車場」がありました。
操車場とは、主に車両の入れ替えなどを行う停車場のことです。また、同操車場を横断する形で「千早陸橋」が架かっていました。
香椎操車場は昭和17(1942)年に、博多臨港線の分岐点として、香椎駅西部待避線の名称で開設し、昭和34年に香椎操車場に改称されました。
博多・吉塚地区の貨物取り扱い設備が集約されるなど、福博のまちの産業発展に大きな役割を果たしたといわれています。
しかし、時代とともに役割を終え、昭和59年には香椎操車場の使用は停止されました。
その後、香椎副都心土地区画整理事業により、操車場跡地の中心部には、平成15(2003)年にJR千早駅が、翌年に西鉄千早駅(以前は、西鉄名香野駅だった)が開業しました。
昭和35年に完成した千早陸橋は、三角形の橋桁が特徴的な約500メートルの陸橋でした。千早と若宮方面を結ぶ生活に欠かせない陸橋でしたが、同区画整理事業に伴い、平成16年に撤去されました。
現在は、千早中央公園(千早四丁目)に、陸橋の一部を活用したモニュメントが残っています。(市政だより歴史歩・歩・歩より)
私が若いころは、国道3号線から多々良中学に向かうときよくこの陸橋を利用していました。橋幅が狭くまた、まだ運転が未熟だったのでこの陸橋を走るときは、神経を集中していました。
ところが、自営のためこの辺りは通らなくなり、12~3年前、唐津街道を歩いたとき、この千早一帯の変貌ぶりに唖然としました。あの陸橋も撤去され、線路も高架になっていました。
千早陸橋のモニュメントが、千早中央公園に残っていました。
コースは、西鉄名島駅から名島橋に向かいます。名島には、福岡初代藩主黒田長政が入城した「名島城址」があります。(その後長政は、現在の福岡市城内に福岡城を築城しています)
福岡国際マラソン(昨年2021年12月をもって廃止されます)の35km地点の名島橋は、ここで数々の名勝負を繰り広げました。
多々良川に架かる名島橋は、昭和8年(1933)北部九州地域と福岡市都市部を結ぶ国道3号線の道路橋として完成しました。7連のアーチと長さ204m、全幅24mと当時としては
破格の規模の道路橋でした。その4年前に完成した新潟・萬代橋と橋の形が似ていることから兄弟橋ともいわれています。
多々良川には、JR博多臨港線(貨物専用)、西鉄新宮線、JR鹿児島本線の鉄橋もあります。
博多臨港線のガードを潜り、次の休憩地「貝塚公園」に向かいます。
以前福岡競輪場がこの貝塚公園内にあり、19万坪、15000人収容のスタンドがあったそうです。福岡競艇場ができたり、周辺の人口が増加してきたので昭和37年(1962)廃止されました。
その跡地が貝塚公園となりました。
貝塚公園から九州大学跡地を通り筥崎宮に向かいます。九州大学跡地は、工事が行われており、どんな街になるか楽しみです。
途中、若者が並んでいるお店があります。聞いてみるととんかつのおいしい店だそうです。店の名前は「箱崎井のかわず」というそうです。
筥崎宮の参道には、お店も帰ってきました。
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた神功皇后のお子様
応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である
延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)
筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。(筥崎宮HPより)
毎年お正月の3日に行われる筥崎宮の神事「玉せせり」は、今年もコロナの影響で本殿での神事のみ執り行われました。
今日は、新年最初のウォーキングで、距離もここまで8,2kmですので、一応ここで仮ゴールにします。
折角ですので、私たちは(〇東さん、〇武さん)三つ目の十日恵比寿神社まで行くことにします。
十日恵比寿神社は、事代主大神(恵比寿様)と大国主命(大黒様)をお祀りしています。社伝によれば、香椎宮大宮司家の武内五右衛門(平十郎)は分家して「神屋」と号して博多で
商売を営んでいたが、天正19年(1591)1月3日、香椎宮・筥崎宮を参拝したとき、香椎浜に流れついた恵比須神の神像2体を得た。それを自宅に持ち帰って祀ったところ家運が隆盛。
翌年の文禄元年(1592))1月10日、平十郎が神像を拾い上げた場所に社殿を設けた。そののち元和元年(1681)11月15日、四代目平十郎が創建90年にあたって千代の崇福寺境内に
社殿を再建する。(案内板より)
十日恵比寿神社の大祭は、8日~11日までですが、今年はコロナの影響で、福引、開運御座、かち詣り(芸妓)は、中止になっています。
十日恵比寿神社のあと、博多駅まで歩いていきます。
お昼は、食べたかった「ナイルのカレー」です。創業昭和36年(1961)。私が青春時代、天神や博多駅にあったカレー屋さんです。高校時代は、間食はうどんでしたが、
お小遣いが少したまるとこのナイルのカレーを食べるのが一番の贅沢でした。2009年に閉店になり、あのカレーが味わえなくなり寂しくなりましたが、数年前に博多阪急地下にオープン
しました。ホント、青春の味です。