9/28(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「森林セラピー(篠栗九大の森)」でした。
集合場所は、JR篠栗駅。参加者41名。
篠栗町は、四国と同じく八十八ヶ所霊場巡りがあります。この起原は、今から1200年前の平安時代、弘法大師空海(お大師様)は、真言密教を悟り、唐の国(中国)より日本へ戻った際に
若杉山(奥の院)を訪れ、加持修法によって人々を救済しました。若杉山は、古来より神仏の集う霊山と仰がれており、山岳信仰や真言密教の聖地として多くの高僧や修行者が訪れ、
お堂が立ち並び隆盛を極めてきたと伝えられています。時代は流れ、天保年間(1830〜1844年)、早良郡姪浜の僧侶慈忍(じにん)が、弘法大師を訪ねてこの地を訪れたのが篠栗霊場の起源と
言われています。
慈忍は、四国八十八ヵ所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧でした。
四国八十八ヵ所の開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの地で、村の人々の困窮を垣間見た慈忍はその救済を目的に、この地にとどまりました。そして、弘法大師の名において祈願を続け、
やがて村に安寧をもたらしたと伝わっています。
このことを弘法大師の利益(りやく)であるとした慈忍は、村の者達に四国のそれを模した八十八ヵ所の霊場の造成を提案しました。そして、呼応した村人達の手によって徐々に石仏がつくられはじめましたが、慈忍は志半ばで没してしまいます。慈忍の志は、篠栗村田ノ浦に住む藤木藤助(ふじきとうすけ)に受け継がれます。
弘法大師信仰の厚い藤木藤助は、嘉永三年(1850年)に村の有志と相談し、浄財を集め仏像を彫ります。そして、安政二年(1855年)、5人の同行と共に本四国霊場を巡拝し、
その際に持ち帰った砂を村内の八十八ヵ所の聖地に納めました。それが今にある、篠栗四国八十八ヵ所霊場の始まりと伝えられています。(篠栗町観光協会より引用)
また、篠栗町の地名の由来は、定かではありませんが、調べてみると、地形に由来するものというのがあり、ササクルという言葉から転じたもの、これは、小さく裂けた地形を表したもので
ここから ササグリに転じたそうです。
今日のコースは、篠栗駅スタート~田中児童公園~和田八幡宮~篠栗九大の森(南口)~(北口)~JR門松駅ゴールの約10km。
9:30スタート。
田んぼでは、もう稲刈りを終えているところがあります。稲架掛け(はさかけ)は、一般にお米の旨み、甘みが増すといわれています。
和田八幡宮
和田八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、武内宿祢。
境内の由緒を見ると
此清浄なる聖地は,古代宗廟の鎮座し給う旧社跡なり,そもそも和田八幡宮の縁起をたずぬるに,草創は極めて遠く,古記により往昔天平十七年の頃(西暦745年)和田村民の発祥にはじまり
氏神として熱く奉斎せしも天正14年8月(1586年)時の関白秀吉九州一統の砌り薩摩勢乱入し,神社仏閣を焼き乱暴至らさる所なり。
其際当社も兵火に罹り其の後社殿復興礼典を奉事せり,(慶安年間(1648年)貞享五年(1688年)当時実証の神器あり)
寛延三年(1750年)庚午歳黒田藩主六代目松平筑前守少将継髙公此社地に社殿を造営せられ武運長久第祈祷の礼典を厳修尊崇ありしもしばしば霊験有り。
皇国政体維新の砌り規則改正に依り明治五年十一月三日村社に定められ愈(異体字)々厚く本村の産土神と崇敬し奉らんと,乞希くは神の明比誠志を照覧あれ,国家安泰と和田村民の降伏を
無窮に護らせ給えと (境内由緒碑)
「刻線の石」というのがあります。説明版を見ると、
◎太陽を神と仰ぎ生活していた時代の暦か方位を表す地図とも思われます。
◎日本では、沖縄と島根、本県(福岡県)では、貴布弥神社跡(古賀市)に同じような石があります。
◎古代文化を知るうえで非常に珍しい貴重な石です。大切に保存致しましょう。
この石で暦を知り農業に役立てていたのですね。
「篠栗九大の森」
九州大学の敷地(九州大学福岡演習林)の西端にあり、篠栗町と九大が共同で整備、管理を行っています。約17haの森には、約50種の常緑広葉樹と約40種の落葉広葉樹が生育し
中心にある蒲田池の周り約2kmの遊歩道には、町の森林の伐採材を使用した四阿(あずまや)やベンチが所々にあり、自然を感じながら休憩することができます。
九大の森が有名になったのは、水に浸かった状態の針葉樹が見れることからです。それは、ジブリの世界観見たいです。
ザリガニがいました。私たちを見ると何か威嚇しているみたいです。
蒲田池が満水状態ですと(下記中の写真)ラクウショウの木の所迄、水があふれてきます。その時が一番のビュースポットです。田植え前がいいのでは?
北口に出てきました。ここからゴールの門松駅に向かいます。
11:40 門松駅にゴールしました。