よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№10(関宿~亀山宿)三重県亀山市

2016-06-29 12:24:02 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/23(木)  3ケ月ぶりの東海道歩きの再開です。

宿舎の四日市から関西本線亀山へ。亀山から加茂行に乗り換えて前回ゴール地「関宿」に9:11到着しました。

昨晩からの雨は、まだ止まずカッパを着てのウオーキングです。

  

先ずは、延命寺へ。延命寺の山門は、川北本陣の門を移築したものです。

川北本陣は、関宿に2つあった本陣の一つで慶長(1596~1615)の頃から明治3年(1870)に廃止されるまで代々本陣を勤めました。

一門一戸の薬医門で彫刻の形式から17世紀後期の建築とみられています。

    

延命寺の横の方が、「関神社」です。

なし得る限度、精一杯などの意味でつかわれる「関の山」は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。

絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、

これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。

今年も7月16、17日に行われるそうです。

 

  

御馳走場」というのがあります。御馳走というと、昔、ここに美味しい料理屋さんがあったのかな?と思いますが、実際は、「宿場に出入りする大名行列の一行を

村役人が出迎えたり、見送ったりした場所」です。wikipediaで調べてみると、「馳走(ちそう)」とは、元来、「走りまわる」「馬を駆って走らせる」「奔走(ほんそう)する」ことを意味する。

古くは『史記』(項羽本紀)にもみられる語である。これが日本にはいったのち、(世話をするためにかけまわるので)世話をすること、面倒をみることといった意味が生まれた。

さらに、用意するためにかけまわることから、心をこめた(食事の)もてなしや、そのためのおいしい食物といった意味が、中世末から近世始めにかけて生まれた。

現代で使われる「御馳走」は、このような意味があったのですね。

  

東の追分にやってきました。ここには、大きな鳥居が建っています。

関宿の東の入口にあたる東追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点です。大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、

内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてきます。

 注)伊勢別街道・・・・・・伊勢別街道は、関宿東追分から津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町の街道です。

    日本の政治の中心が大和にあった頃には、大和から伊賀を通って伊勢に至る主要ルートでもありました。また、一般の参宮道者も通ったとされる古くからの歴史ある街道です

   

追分の横には、「関の小萬のもたれ松」がありました。

案内板によると、「江戸も中期、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は、良人(おっと)の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿。一女小萬を産んだ後、病没した。

小萬は、母の遺言により、成長して三年後、亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事仇敵軍太夫を討つことができた。

この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。」

関の小萬は、長唄や歌舞伎の題目にもなっています。やはり東海道は当時日本の主要幹線道、すぐ全国に広まって行ったのでしょうね。

  

朝から降っていた雨も上がり、近くの公園でカッパを脱ぎます。街道は1号線と合流し、歩道橋の所から右折します。

 

  

街道は、鈴鹿川に沿って続いています。高速道を渡るとトンネルの中に東海道の浮世絵のイラストが描かれていました。

  

神辺小学校の所に「太岡寺畷」という案内板がありました。畷(なわて)というのは、まっすぐな長い道のことです。

太岡寺畷は、東海道が約3,5kmに渡って鈴鹿川の堤の上を通り、東海道の畷道では、随一の長さとされています。この畷には、松並木があったそうですが、枯れてそのあとに

桜を植え、今では見事な桜並木になっているそうです。太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられています。

余談ですが、ここからシャープ亀山工場は、直線距離で約2kmです。

 

  

1号線の高架橋を渡ると「布気町(ふけちょう)」に入ります。

  

歩いていると、近くの方が声を掛けてくれました。やはりリュックの後ろに「風車」を付けているから目立つのでしょうね。(笑)

その方は、観音坂まで案内してくれました。観音坂というと、観音様があるのかな?と探すと「昼寝観音」というのがありました。

昼寝観音とは、面白い名前ですので調べてみると、「布気町落針の観音さんは、奈良東大寺の大仏を建てなおすお金を全国から集めている時に、石山観音から運ばれてきたそうです。

各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡って御参りする33か所のお寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は、昼寝をして会議に行かなかったので

33のお寺に選ばれなかったそうです。(亀山こども歴史館より)

 

布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があります。由緒 延喜式神名帳には、垂仁天皇一八年鈴鹿郡布気神社と見えている。 昔、旧野村字に布気林という所かあり、

そこに奉斎してあったことから布気神社と称えたのであるが、 文明(一四六九‐八六)の頃に起った兵乱のため、社殿悉く焼失したため、後に皇舘の森へ奉遷したと伝えられている。

皇舘の森の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比占命が神田・神戸を献じ給うたことに由来する地名であり、 野尻、落針、大岡寺、山下、木下、小野、鷲山の

七ケ村を神戸郷と言い皇舘太神社を総社と仰ぎ、平素の尊崇は論を俟たず、 大祭の奉仕に専念、殊に早魃の時には郷民こぞって参籠して祈ったということである。

いろいろな名で親しまれたが、 亨保八年(一七二三)に、吉田家から皇舘大神の神号を受け、布気神社皇舘大神となったが、明治四一年六月より現在の社名となった。

 明治四一年、近郷近在の小社・小祠を合祀して今回の神社になった。倭姫が立ち寄ったとも言われている

  

確か布気皇館太神社の近くに「能古茶屋跡」というのがあるのですが、探しても見つかりません。多分神社の前のこの家かな?

大庄屋 打田権四郎昌克邸跡」があります。打田家は江戸初期に近江国からも野尻村に来て土着し本多家の代官を勤めその後の城主からは本庄屋に任ぜられた。

この北に屋敷があった。権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記「九々五集」9巻(13冊)別巻などを記録し編纂した。

享保16年(1732)1月25日に没した。菩提寺の帰郷院善性寺に墓がある。   

 

歩いていると珍しい建物がありました。3階建てでレストランだそうです。また、タートルヒル(亀山)と英語表記のマンションがありました。

 

野村の一里塚 三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。また、もともとは道の両側にありましたが、

現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。

忍山(おしやま)神社 忍山神社は、延喜式その名が記される延喜式内社で、もとは愛宕山(押田山)にあったとされます。明治41年(1908)野村地区にあった能牟良神社などを

合祀して現在地を 忍山神社としました。

垂仁天皇の命を受け皇祖神をまつる適地を探す旅に出た倭姫命(ヤマトヒメノミコト)がその途上で滞在した「鈴鹿小山宮」が後の忍山神社に」なったとされます。

又、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃となった弟橘媛(オトタチバナヒメ)は、忍山神社の祀官である忍山宿禰(オシヤマノスクネ)の娘であるとの伝承があります。

弟橘媛は、日本武尊と共に東国へ赴きますが、三浦半島へ渡る海路(水の神)で荒れ狂う海を鎮めるため自ら海中に身を投じてタケルを助けました。

弟橘媛の死を悼んだタケルは、東国を離れる際に「吾妻(わがつま)はや」と嘆き、このことから関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったといわれています。

 

交差点の所に焼肉長治郎があります。ここは、内池家主屋で「明治天皇御召替所跡」です。

明治13年5月明治天皇は、東京から山梨を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や鈴鹿郡亀山を行幸されました。

亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままの様子を見分する為、野村の高平で5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家でお休みになられたそうです。

  

慈恩寺」:奈良時代に、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として創建されたと伝えられている古刹。往時には七堂伽藍がありましたが、たび重なる兵火で焼失しました。

災禍を逃れた本尊は、当初、薬師如来であったものが改作されたという阿弥陀如来立像。高さ163cmの一木造[いちぼくづくり]で、全身に木屎漆[こくそうるし]が塗られ、

平安初期彫刻の特徴をよく表した等身大の立像となっており、国の重要文化財に指定されています。

森家住宅」:明治時代後期、東海道沿いに建てられた町屋建築です。木造平屋建、切妻、桟瓦葺、平入、外壁には下屋庇を設け、正面壁は黒漆喰仕上げに意匠的な開口部、

両妻面は塗屋造りとして防火対策を施しています。森家住宅は東海道沿いに残る数少ない町屋建築として貴重なことから国登録有形文化財に登録されています。

現在は、うどん屋さんです。

   

 「京口門」にやってきました。安藤広重東海道五十三次の亀山・雪晴は、このあたりから書いたものと思われます。

京口門下にある「照光寺」に行くと、広重の浮世絵の案内板がありました。細い路地を進んでいくのですが、現在では、お城もありませんし、その構図を見ることができません。

  

   

  

亀山宿に入ってきました亀山宿は、東海道46番目の宿場町。本陣、脇本陣各1軒、旅籠21軒、家数451軒。

亀山宿には、伊勢亀山城(丹波亀山城と区別するため)があります。文永2年(1265)に関実忠が若山の地に築いたと伝えられています。中世の亀山に勢力を持った関氏の居城で

現在の場所には、16世紀中頃までには移っていたと考えられます。天正18年(1590)、岡本宗憲によって天守を築造するなど修築を行い、本多俊次が寛永13年(1636)から

3ヶ年を掛けて行った大改修によってほぼ現在の城地が確定しました。亀山城は、「姫垣」を意味する「粉堞城」の別名がありました。

東海道の要衝ということもあって、城主は、その多くが譜代大名で、延享元年(1744)に石川総慶が入城後は、明治まで石川家が城主を務めました。

尚、丹波亀山城(京都・亀岡市)の天守を壊すよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を壊したと伝えられ、以後天守は再建されませんでした。

明治6年(1873)の廃城令により城内の建造物はその大部分が壊されましたが、現在は、多門櫓、石垣、外堀、二ノ丸から西出丸の北側の土居が良好な状態で残っています。

  

亀山宿の街道沿いには、古い町家が点在しています。その前面意匠は、1階が出格子戸、格子戸を並べ、建てられた当時の「すりあげ戸」が残っているものもあります。

また、それぞれの家の前には、昔の屋号が付けられています。

   

飯沼慾斎(1783~1865)は、亀山西町で西村守安の二男として生まれ、12歳で美濃大垣の飯沼長顕の元に身を寄せ、後に飯沼家に養子に入りました。

京都で漢方医学と本草学を学び更に江戸に出て蘭学を修め、大垣で開業しました。50歳で引退後、研究に没頭しわが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、

「草木図説前篇」を著しました。旧来の本草学を科学的に立証された植物学へと転化させ、また火薬調合や写真撮影法の研究を行うなど我が国の近代科学の基礎を築いた一人です。

 

  

  

街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった

旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。

また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています。(亀山観光ガイドより)

 

交番の所に大手門跡、高札場跡があります。交番の所を右折すると、樋口本陣跡の碑があります。脇本陣も確かこのあたりですが、探しても見つけられませんでした。

  

時間も12時を廻りました。松坂牛の看板を見つけましたのでそこでランチをすることにします。    (続く)

東海道チェック表。亀山宿まで歩きました。お江戸日本橋まではまだまだですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


お伊勢詣り(三重県伊勢市)

2016-06-27 18:11:42 | 旅行

6/22(水)

短期のバイトが6/20で終了したので東海道歩きを兼ね、お伊勢詣りに行ってきました。伊勢神宮に行くのは、2年前「伊勢志摩ウオーク」以来です。

福岡を出発した時は、激しい雨でしたが、伊勢は、曇り空。

先ずは、外宮へ。

  

  

先月の26~27日ここ伊勢志摩でサミットが行われました。その記念ビールですが、残念ながら飲んでいません。

  

外宮前の「赤福」で先ず腹ごしらえ。伊勢神宮に来たらやはりこれですね。

外宮は、食物・穀物を司る神である豊受大御神がお祀りされています。内宮創建から500年後に伊勢の山田原にご鎮座された『衣食住をはじめ、あらゆる産業の守り神』です。

  

せんぐう館に行ってみると、菖蒲園には菖蒲の花が咲いていました。もうピークは過ぎたようですが、それでもきれいな菖蒲の花を楽しませてくれました。

  

  

参道を歩いていると何か、パワーを感じます。

正宮に着きました。伊勢神宮は、20年毎に遷宮されます。最近では3年前の平成25年に行われました。

  

  

外宮の朱印もいただきました。

  

【内宮】

外宮の後、バスで内宮に行きました。このころから雨がポツリポツリ降ってきました

内宮は、皇室の御祖先の神である天照大御神がお祀りされています。垂仁天皇の26年(紀元前4年)に、神路山・島路山を源とする五十鈴川の川上にご鎮座された『日本人の総氏神』です。

  

外宮の火徐橋では、左側通行でしたが、内宮の宇治橋では、右側通行です。

  

  

手水舎、五十鈴川で身を清めます。この日は、雨の為、五十鈴川が増水していたため、五十鈴川は、パスしました。

先月のサミットでは、世界の首脳もここ伊勢神宮に参拝されました。一の鳥居を過ぎ神楽殿へ。

  

  

御正殿です。写真は、この階段の下からです。ここでも記念写真を撮りました。

   

帰りも宇治橋を通ります。

  

五十鈴川の中に入って、宇治橋を撮られている方もいました。ここでしたらいい写真が撮れるでしょうね。

   

内宮を出ると、おはらい町通りです。

  

赤福は、1707年創業。現在の建物は、明治期に建てられ130年の歴史があります。

   

五十鈴茶屋でお茶タイムしました。

  

おかげ横丁です。

 

  

  

このあと近鉄宇治山田駅から今日の宿泊先の四日市のホテルへ。

雨も本降りになってきました。

伊勢神宮でパワーをもらったようです。明日からの東海道歩き頑張ります。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「見返りの滝とアジサイ」(佐賀県唐津市相知町)

2016-06-21 08:08:39 | JR九州ウオーキング

佐賀県唐津市の「見返りの滝」では、6/4~6/26まで紫陽花祭りが行われています。

6/18(土)は、JR九州ウオーキングでこの「見返りの滝紫陽花祭り」に行ってきました。

JR相知(おうち)駅をスタートしますが、この日は、大変蒸し暑く少し歩いただけでも汗が出てきます。

相知町は、2005年唐津市と合併しましたが、町内には、まだ相知町時代のマンホールがあります。

Sewerage(下水道)と英語表記が珍しいマンホールです。見返りの滝とアジサイをイメージしています。

途中で佐賀ミカンのジュースをいただきました。

  

入口で美化協力金200円を払います。見返りの滝には、約4万株のアジサイがあります。

  

 

  

 

  

  

見返りの滝に着きました。ここからの滝とアジサイが撮影スポットになります。

  

見返りの滝は、落差100m、佐賀県最大の滝で日本の滝百選にも選ばれています。

滝つぼに近づいてみるとマイナスイオンがいっぱいです。ここでは、蒸し暑さも忘れ本当に気持ちがいいですね。

滝を見ていると「キティさん」とお会いしました。確か、昨年もここでお会いしたと記憶しています。これで3回目かな??

  

  

今年からコースが変わり、帰りも来た道を歩きます。豆腐屋さんの近くで、前方から手を振る方がいらっしゃいました。下関のはなまりんさんご夫妻です。

はなまりんさんご夫妻には、昨年も一昨年もここでお会いしました。今年も会うのではないかと予感していましたが、まさにぴったしかんかんです。

コースが変わっていなかったら会えなかったでしょうね。これもSNSの絆でしょうか????(笑)

帰りのコースは、浜白橋から厳木(きゅうらぎ)川沿いの出逢いの水辺を歩きます。

この看板は、近くの幼稚園児、保育園児のちびっこが書いた絵がプリントされています。

  

11時相知駅にゴール。相知駅には、村田英雄(1929~2002)さんの記念碑が設置されていました。

記念碑には、「相知町佐里の出身。昭和時代の歌手として全国に名声をあげ、NHK紅白歌合戦に27回出場、映画に30本出演しました。

村田英雄を偲び此処に記念碑を建立する。平成28年1月吉日」

レコード盤の形をしたモニュメントには、皆の衆、王将、花と竜、無法松の一生、夫婦春秋、人生劇場など村田英雄さんのヒット曲が掲げられていました。

 

 

 

 

 

 


海南アフターウオーク「湯浅醤油」「紀三井寺」(和歌山県)

2016-06-10 05:13:15 | ウォーキング

ブログアップが遅れましたが、5/21~22和歌山海南歩っとウオークに参加しましたが、ウオーキングの後、アフターウオークをしました。

【醤油発祥の町湯浅】

初日のゴールが下津駅でしたのでそれから紀勢本線に乗り、湯浅まで行ってきました。

下津から約20分で湯浅駅に到着。

  

地図を見ながら徒歩で約10分。

  

店内を覗くと、醤油独特の匂いが漂ってきます。この店の奥様でしょうか、湯浅の醤油を説明するといって、資料館に案内されました。

 

湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られています。交通上重要な位置にあった湯浅は、

近世に 入り次第に商業都市として発展を遂げます。その核をなしたのは、なんといっても醤油です。 鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」か ら生まれたのが、

現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」と知られています。

紀州湯浅の醤油の歴史は、1254年までさかのぼります。紀州由良町「興国寺」の開祖「法燈円明国師」が中国(南宋)の径山寺から持ち帰った径山寺味噌(金山寺味噌)が、

当時、興国寺では野菜と大豆から作られる金山寺味噌を健康食として盛んに醸造され、やがて湯浅周辺の山漁村に伝わりました。(湯浅町観光協会HPより)

金山寺味噌を醸造する際、使われる瓜や茄子などの野菜から余分な水分(たまり)がしみこんできます。もともと捨てられていたこのたまりを調味料として使ってみると

中々の美味で、そこで初めからこのたまりを利用するつもりでつくれば、「新しい醤(ひしお)」、つまり調味料が出来るのではないかと考え、改良に改良を重ね、

やがて醤油となりました。これが日本における「醤油」の起源であると考えられています。(湯浅醤油HPより)

また、湯浅の水が醤油造りに適したこともあり、江戸時代には、徳川御三家紀州藩の保護を受け湯浅町の中心産業として発展してきました。

文化・文政時代には1000戸しかなかった湯浅町に92軒の醤油屋があったと云われています。その間も関東銚子、をはじめ日本各地にその製法を伝えました。

今では、町内で数軒の醸造業者残るのみとなっていますが、伝統的な手作業による製造方法は、脈々と受け継がれています。

また、径山寺味噌は、「径」を「金」に変えることで売り上げもアップしたそうです。

 

  

  

   
 

また、湯浅町は、白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、

重要伝統 的建造物群保存地区」に選定されました。醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく 残す

貴重なものと認められたのです。素晴らしい自然と醤油の香り漂う湯浅の町は懐かしく、そして今も力強く伝統と文化を発信し続ける町なのです。(湯浅町観光協会HPより)

家に帰って、刺身をこの湯浅醤油で食べてみました。お刺身の味が一段と美味しく感じられました。

 

【紀三井寺】

2日目18kmをゴールしてから、海南駅から電車で紀三井寺に行きました。紀三井寺駅から歩いて約10分、紀三井寺に来ました。

拝観料200円を払い、中に入ります。

待ち構えていたのは、231段の階段です。18kmを歩いた後だけに躊躇しますが、頑張って登って行きます。

この階段、若き紀伊国屋文左衛門が結婚と出世の契機となる出会いをした坂で、25段、33段、42段、61段と厄年を踏み越える石段です。

この階段を元陸上日本記録保持者青戸選手が21,9秒で駆け上ったそうです。

   

 この寺は、宝亀元年(770)、唐の僧為光(いこう)上人によって開かれました。和歌山城からほど近いところにあるため、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を祈願した寺です。

宝歴年間(1751~1764)に本堂を新築。その本堂のなかには10代藩主治宝(はるとみ)が寄進した多宝塔が安置されています。

本堂横の入口、霊宝堂のなかには、治宝直筆の掛軸、一休和尚の額、その他、西国三十三箇所の絵図などが多数展示してあります。

また、六角堂は、西国三十三箇所を巡礼するのに等しい功徳があると伝えられ、他府県からもたくさんの人が年中途切れることなく参拝に訪れています。

   

    

紀三井寺は、三つの井戸のあるお寺。千二百年来の寺名の由来ともなった三井水は、今も名草山の懐に抱かれ、滾々と絶えることなく湧き出しています。

この由緒ある紀三井寺三井水(北より吉祥水・清浄水・楊柳水)は、昭和60年、環境庁が発表した「名水百選」に選ばれています。

  

階段を登り終えると右側に新仏殿があります。ここでは、「大千手十一面観音像」が公開されていました。高さ11m、木造立像としては、日本一を誇るそうです。

  

  

紀三井寺は、桜の名所でもあります。境内には、沢山の桜がありました。シーズンには、多くの方がお花見に来られるのでしょう。

  

本殿に入ると巡礼姿の方を見かけました。ここ紀三井寺は、西国三十三箇所霊場の2番札所にあたります。

「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、

その功徳に与るために三十三の霊場巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。(Wikipediaより)

 

御朱印をいただくのも行列ができていました。30分ほど待ってやっと御朱印を手に入れました。

このあと、JR紀三井寺駅から和歌山駅に行き、特急くろしおで新大阪、新大阪から新幹線で博多へ。約5時間の旅でした。

和歌山は、初めての地でしたが、また機会があればもう一度行ってみたい所です。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


第14回飯能新緑ツーデーマーチ2日目15km天覧山・吾妻峡ルート(埼玉県飯能市)

2016-06-05 17:43:30 | オールジャパンウオーキングカップ

5/29 朝早く目覚めましたので宿舎の近く所沢駅周辺をぶらつきました、

所沢には、約20年ほど前、西武球場にホークス応援に来たことがあります。あのころのホークスは、弱かった・・・・・・

所沢のマンホールは、中央にゆるキャラ「トコろん」、周囲は、航空発祥地所沢で初飛行した仏製アンリ・ファルマン式複葉機3機、それに市の木「イチョウ」がデザインされています。

  

所沢駅発8:00の電車で東飯能へ。途中昨日一緒に歩いたKanonさんが乗ってこられました。Kanonさんと一緒に会場へ向かいました。

今日は、帰りの時間も考え、15kmのコースにしました。地図を見ると、天覧山・多峯主山(とうのすやま)・吾妻峡を通るコースです。

それにしても、今日も参加者が多いです。ゼッケンを見るとやはり地元の方が主です。私達は、福岡と書いていますが、埼玉の上福岡(現ふじみ野市)と間違えられるくらいです。

今日も埼玉のKanonさんと一緒に歩きます。

出発式では、大久保飯能市長がムーミンのTシャツ、ムーミンの傘を持って登場。飯能市にある「あけぼの子供の森公園」には、ムーミン谷があるそうでそのPRです。

  

  

JR八高線のガードを潜り「天覧山」を目指します。

 

天覧山到着。天覧山は、海抜194,6m、古くは愛宕山と呼ばれましたが、元禄年間に将軍綱吉公の生母桂昌院が十六羅漢を安置したことから、以来羅漢山と

称せられました。明治16年近衛諸兵対抗演習に際し、戦況ご視察の為、明治天皇が登坂された後、天覧山と改称されました。中段には、明治天皇が登坂された時、

御乗馬「金華山」を繋がれたといわれることにより名がついた御駒繋松があります。

  

天覧山からの眺望です。

天覧山の麓には、「能仁寺」があります。

能仁寺は、室町中期文亀元年 (1501年)、飯能の武将中山家勝が名僧斧屋文達師を招いて小庵を結んだのが始まりとされており、家勝の子・家範が父の冥福を祈るために寺院を創建した。

家範の子・照守は徳川家康に引き立てられ、徳川家康の庇護のもと多くの雲水をかかえる寺院に発展した。

中山家範没後百年ほど経って、老朽化してきた寺堂を再建したのは黒田直邦である。徳川綱吉の館林時代の家老職にあった直邦は、十三世住職泰州廣基と供に、

将軍家の後ろ盾により、宝永二年に山門、大殿、庫裡と改修を行い、伽藍を完成させた。また、今も本堂正面に修飾されている。

武陽山、能仁寺の扁額は将軍の命により、元禄十年 (1697年) 天台座主公辨一品親王が筆をとったものである。

明治維新時の飯能を舞台とする 「飯能戦争」 では、幕臣の一部で結成された彰義隊の頭取であった渋沢誠一郎は内部対立のため振武軍を結成し、能仁寺を本陣とした。

慶応四年 (1868年) に官軍の一方的な攻撃により敗走、多くの民家や、本陣であった能仁寺も焼失し、本堂は昭和十一年に再建された。その後五十一年より復興を続け、

現在では、山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成しております。(能仁寺HPより)

能仁寺は、日本名園百選に指定された「池泉鑑賞蓬莱庭園」があり、紅葉シーズンには、沢山の方が紅葉狩りに来られるそうです。

残念ながら、中には入らず素通りするだけでした。紅葉のシーズンには、行ってみたいですね。

能仁寺の向かい側の中央公園が接待所になっています。ここでは、赤ちゃん連れの方に授乳、おむつ替えのコーナーもありました。

私もいろいろな大会に参加していますが、このコーナーは初めて見ました。いい試みだと思います。

中央公園の隣が飯能市民会館です。

  

  

しばらく歩くと、飯能河原遊歩道に入ります。ここから河川敷を歩きます。

  

河原では、何人かのグループでバーベキューを楽しまれています。こんな大自然でのバーベキューは、最高でしょうね。

  

 

大河原という地名の所に来ました。この一帯には、製材所が建ち並んでいます。

埼玉県飯能市周辺は江戸時代からヒノキや杉の良材の産地でした。荒川支流の入間川・高麗川・越辺川の流域から木材を筏で江戸へ流送していたので、
 
(江戸の西の方から来る材)という意味から(西川材)と呼ばれるようになりました。
 
 
 
コースは、吾妻峡に向かいます。吾妻峡は奇岩が続き、手つかずの自然美が渓谷美を見せています。アニメ「ヤマノススメ」にも登場しました。
新緑がまぶしく感じられます。渓谷では、バーベキューも行われていました。利用者は後片付けもきちんとされており、ゴミなどは落ちていませんでした。
 
 
 
  
 
   
 
吾妻峡を出ると大河原のチェックポイントが待っています。
 
  
牛乳宅配所に来ました。皆さん、美味しそうにジェラードを食べています。私達もつられていただきました。
 
  
ここでいただいたお水は、山の水でしょうか。実に美味しいです。
 
歩いていると赤い実のなっている木がありました。
 
これは、「桑の実」です。
 
            山の畑の桑の実を小籠に積んだは、まぼろしか・・・・    
 
童謡「赤とんぼ」にも桑の実が歌われています。
 
  
 
地図を見ると「急な登り坂」があります。吾妻峡の坂道が急だったからそれかな?などと思いながら赤根ケ峠に向いて歩いていきます。
 
  
 
茜台自然広場を過ぎるとだんだん急に登りになってきます。ところで赤根ケ峠は、「赤根」、茜台は、「茜」、同じ「アカネ」なのに漢字が違うのですね。
 
 
 
あと650m
 
  
 
やっと「赤根ケ峠」に着きました。
 
   
 
峠を下りてくると大河原工業団地が見えてきました。目立つのは、足場関係のリース屋さん。凄い数の足場があります。
 
  
 
美杉台交差点の所で30kmコースの方と合流します。よく見ると、edocappaさんです。
 
今日は、会えないと思ってましたが、何かの偶然でしょうか、それともedocappaさんとは、見えない糸で結ばれているとか・・・・(笑)
 
  
 
「あさひ山展望公園」に入りました。ここからは、270度に渡る展望を見ることができます。スカイツリー、東京都心・・・・・・
 
富士山も見ることができるそうですが、残念ながら見ることはできませんでした。また、夜景も素晴らしいそうです。
 
  
 
 
あさひ山公園を下りて飯能市街地へ。
 
ふと、道路上を見ると、何やら絵が描かれています。なかなか面白い応援メッセージです。
 
  
 
  
 
商店街に入ると、「ところてん100円」の看板を目にしました。ついつい誘われテントの中へ。
 
生き返ります。
 
  
 
コースは、100円商店街を経て、東飯能駅へ。駅の構内を抜け、いよいよゴールです。
 
  
 
前日と同様、中学生とハイタッチしながらゴール! 時間は、13:20
 
  
 
この大会2日間の参加者は、2万1千人を超えたそうです。
 
私は、知らなかったのですが、今、「ヤマノススメ」というコミックがあるそうです。飯能市内に住む女子中高生が登山を通して成長していく姿を描いているそうです。
 
劇中には、飯能市の風景も登場するそうで、アニメにもなったそうです。(九州では放映がなかったみたい)
 
参加者が多いのは、そのせいかもしれませんね。
 
初めての参加でしたが、アップダウンには苦労しましたが、飯能の大自然を満喫した大会でした。また、参加してみたいです。
 
  
 
 
本日15kmのGPS
 
 
これでオールジャパン38県目達成しました。あと9県です。来年中には達成したいと思っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 

 

 

 

 

 


第14回飯能新緑ツーデーマーチ1日目20km(埼玉県飯能市)

2016-06-03 10:26:38 | オールジャパンウオーキングカップ

5/27夕方 飯能新緑ツーデーマーチに参加するため福岡空港に向かいましたが、27日お昼頃発生した大韓航空機火災事故の為、

羽田便が欠航になり、あわてて博多駅に戻り、東京行の最終便の新幹線に飛び乗ることができました。

ところが、あわてて乗ったのでお弁当や飲み物を買ってなく、車内販売で買おうと思ってましたが、小倉駅、広島駅に行くに従い、

この新幹線は通路までお客さんがあふれ、通勤電車並みになりました。この状態は東京駅まで続き、結局東京まで何も食べられず、何も飲めませんでした。

宿泊のホテルには、午前1時半に到着し寝たのは2時半でした。それでも翌日5時には起床し、飯能の会場に向かいました。

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西武東飯能駅から歩いて5分。会場の飯能市役所中央会場に到着しました。会場内に入るとたくさんの数の中学生が・・・・・

この中学生、大会のボランティアです。会場入り口では、「緑のバンダナ新聞」といって中学生が自分たちで作った大会の案内紙です。

コースの見どころも書いてあります。

   

会場では、埼玉のKanonさんと会いました。Kanonさんとは、6年前の東京国際3DM以来の再会です。

出発式で並んでいると、埼玉のIさんご夫妻と会いました。Iさんは、先週の和歌山でもお会いしました。今日はお孫さんたちと歩くそうです。

実は、私、飯能の地は初めてですが、地名の名前の由来に興味を持ち、調べてみました。 

入間川の谷口集落として発達。「榛野(はんの)」や「萩野(はぎの)」が転訛した説、租税を半済に免除された土地・「半納(はんのう)」からとする説がある。 

古代朝鮮語・「ハンナラ(大きな村)」からとする説もあるという。(日本地名由来辞典より) また、古代の豪族「判乃氏」からという説もあります。西川杉の集散地。

この大会、参加者が多いとは聞いていましたが、20kは、目勘定で2000人ぐらいでしょうか、参加者の数が凄いです。

8:30 20kmコーススタート。

 

 

飯能市のマンホールは、中央部にウグイス、飯能の山、川、周囲は、ツツジをデザインしています。

 

  

コースは、宝蔵寺を通り、飯能桜の森へ。前日の睡眠不足の為か、あまりペースがあがりません。逆に息が上がっています。

  

飯能桜の森を経て、高麗(こま)峠へ。このあたりは、奥武蔵のハイキングコースになっています。歩いていて気持ちがいいです。

   

ドレミファ橋を渡って巾着田へ。ドレミファ橋は、日高市の巾着田内にある橋です。元々は桁がかかっておらず、橋脚をぴょんぴょんと飛び越えて渡っていました。

その際に「ドレミファ」と歌いながら渡ったので「ドレミファ橋」となったと言われています。

  

巾着田は、高麗川の蛇行した形が「きんちゃく」に似ていることから「巾着田」と呼ばれるようになりました。巾着田近くにある日高市のシンボル「日和田山」からは、

巾着の形を見ることができるそうです。秋の彼岸には、約500万本の曼珠沙華が赤いじゅうたんを敷き詰めたように咲き渡るそうです。(巾着田パンフより)

また、春に一面に咲く「菜の花」もきれいだそうですが、もう菜の花は、終わっていました。

 

  

近くの沼には、黄色の花が咲いていました。ホテイアオイでもないし、調べてみると、「浅沙(あさざ)」です。

  

  

天神橋の所に「高麗郷古民家」(旧新井家住宅)があります。平成26年4月25日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

母屋は、木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、平面形式は六間取(むつまど)りです。西側の2部屋は、床(とこ)、違い棚、付書院を配する最も格式の高い書院造となっています。

元々の屋根は茅葺でしたが、平成5年に瓦葺きに改修されています。

客殿は、木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、明治39年に建築されました。1階中央に式台(しきだい)を設け、南側には床(とこ)、違棚、付書院を備えた

本格的な書院造となっています。

納屋は明治21年の建築で、漆喰と板貼りの壁からなり、横位置に「与力窓」を設けています。屋根の軒の反りは大変優美な姿です。

南土蔵は、家財道具などを収納するために明治時代中期に建てられたもので、納屋とともに屋敷構えを引き立てています。

北土蔵は、明治時代中期に食料品、食器などを収蔵するために建てられました。 

石垣は、高麗郷古民家(旧新井家住宅)全体の景観に重要な役割を果たしています。江戸時代末から明治にかけてこの地方で活躍した「八徳(やっとく)の三吉」による石積みとの

言い伝えが残されています。(日高市HPより)

   

日高市のマンホールは、中央に「カワセミ」が描かれています。日高市の地名の由来ですが、高麗村と高麗川村が合併する際に、各村名に使われている「」の文字の上に、

和田山」の「日」の文字を冠したとする説が、有力であるとの事。後に合併する高萩村にも「高」は使用されています。

  

  

高麗橋を渡ると左側に古い大きな山門が見えてきました。聖天院です。

由来を見ると、霊亀二年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗人1799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として

奈良時代に創建され、僧勝楽により、開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より将来した聖天尊(歓喜天)を祀った。

故に聖天院勝楽寺と称する・・・・・以下略 (聖天院案内看板より)

  

この一帯は、「高麗郷」と呼ばれています。

  

高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。

日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を

「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。

高麗郡に移住した高麗人たちは、以前は東国7ヶ国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)に住んでいました。現在の県名でいえば、静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木となります

大和朝廷は入間郡の一部に広がっていた空閑地を高麗郡とし、高麗人1799人が移住しました。彼らは生活の基盤を整えつつ、郡役所の建設、道路の敷設など郡として

必要な整備をしたと思われます。

高麗神社の所が休憩所です。ここでは、ソフトクリーム、サンドウィッチ、ミニトマトなどが販売されていました。私達は、ソフトクリームとミニトマトをいただきました。

このトマト、昔のトマトの味がしておいしいです。食べていると、30kmを歩いてこられたedcappaさんご夫婦に会いました。

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。

若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、

若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。

若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

 高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。(高麗神社HPより)

  

コースは、JR高麗川駅を通って行きます。

  

  

大川医療福祉専門学校に到着しました。ここではお茶のおもてなしです。今日は、暑くすぐ喉が渇くのでお茶の接待はありがたいです。

  

13:30ゴールの飯能市役所中央会場が見えてきました。中学生のボランティアの方とハイタッチをしゴールします。

  

ゴールでは、先にゴールされたedcappaさんがPALさんと一緒に迎えてくれました。PALさんとも6年ぶりの再会です。

ゴール後、地元のIさん宅にお招きいただきビールや食事をごちそうになりました。途中、満腹になったため、うとうととしてしまいました。

お礼も申し上げず大変申し訳ございませんでした。その後Iさんの奥様から駅まで送っていただき宿泊先の所沢のホテルには、17時半ごろ到着。

ホテルに到着するや否や、そのまま寝てしまいました。今日は、長い一日でした。

今日の20kmのGPSです。