10/02長崎街道を歩いてきました。
鳥栖駅に8時20分に着き駅構内のうどん屋さんで朝食を食べスタートです。
ここで前回に戻りますが、驫木宿の番所川を過ぎると
肥前国対州領田代宿に入ります。
川を渡ると
姿見の池があります。
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これは、菅原道真が養子に預けたわが子に会うためにこの地を訪れた。
そしてわが子に与える為水に映した自分の姿を描いたというのが
「姿見の池」伝説です。(鳥栖の長崎街道より)
姿見の池を出ると鳥栖秋葉の町に出てきます。
町並みを見てみると古い家がたくさんあります。
この辺りは、昔は瓜生野今町と呼ばれていたそうです。
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ここまでが前回書けなかった分です。
駅構内で腹ごしらえをして8時50分前回ゴール地の本町の信号に行きます。
民家には今盛りとばかり金木犀の香りが漂ってきます。
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「田代宿」は対馬藩田代領の代官所が置かれていた町でした。
町は昌元寺町、新町、上町、下町、外町の五町でなりたっていました。
江戸時代の記録によれば「人家500軒計、茶屋・宿場多し」とあり
賑わっていたようです。(とすの長崎街道より)
また、現代では交通の要所でありJRでは鹿児島本線と長崎本線のクロスする所、
高速道では九州道、大分道、長崎道と交差しています。
駅から本町交差点に行きそれから右に行きます。
八坂神社、水影神社を通ると田代外町に入ります。
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(八坂神社)
ここに
追分石が立っています。田代宿西構口にあたります。
「右さが 左くるめ」
追分石は、道路の端にあるため保護用にガードが施しています。
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更に進むと
高札場跡があります。ここには幕府からのお達しなどが告げられていました。
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サロンパスの工場角には人足、馬などを乗り継ぐ問屋場跡があります。
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さて、このあたりはサロンパスの工場ですが田代宿とお薬は切っても切れない関係です。
鳥栖から基山にわたる一帯は慶長4年(1599)に対馬藩田代領となり江戸中期「田代売薬」が
興った所です。対馬藩は朝鮮との交易で藩が輸入した漢方薬、朝鮮人参を元に薬の生産が
盛んでした。これらの薬は行商人の手によって九州一円に売り捌かれました。
言い換えれば「置き薬商法」です。今でも置き薬がありますが、私が子供の頃は、置き薬屋さんが
家に来られ子供たちにお土産として紙風船など配られました。
その紙風船をもらうのが楽しみでした。今考えればよく考えた商法だと思います。
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田代八坂神社に来ました。ここでも八坂神社です。
八坂神社を調べると全国で2300社あるということです。
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ここで田代宿を廻っているグループと出会いました。そのリーダーの方でしょうか、私達に
話しかけてきました。ガイドさんみたいです。簡単に田代宿のことを教えてくれガイドブックを
いただきました。
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(田代宿は寺院も多い)
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代官所跡を通り東の構え口に到着。
ここにも追分石があります。
正面に「左こくら・はかた道」側面に「右ひこさん道」と書かれています。
さてここからどう行くのか前方の細い斜め道それとも真っ直ぐ?地図とにらめっこしていると
ウオーキングされている女性の方がこちらですよと斜めの道の方をおしえてくれました。
何にも言っていないのにこの女性の方僕らが街道歩きをしていると解ったなと思いました。
尤もDバックを背負って地図を見ているからすぐわかりますよね。(笑)
その女性は、高速道の下まで案内してくれた。
八坂神社のガイドさんといい、このウオーキング女性といい親切にされるととても気持ちがいい。
この親切を私もいつか機会があれば他の方にお返ししたいと思います。
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街道は一本道になります。
この辺りは新しいマンションが立ち並びニュータウンになっています。
地図には載ってませんが弥生が丘という駅もあります。
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高島橋を通り基山の町へ。基山の名は五十猛命(イソタケル)が日本で初めて植樹をしたから
その名がついたとも言われています。
基山は、新羅、唐連合軍に敗れた日本が天智4年(655)太宰府防衛の為基山(きざん)に
日本最古の朝鮮式山城である基肄(きい)城が築かれました。この基肄城の麓には太宰府から
南下する古代宮道の城の山道がありました。その古代宮道が肥前国府と筑後国府に分岐する
基肄駅にはよその駅の2倍の馬が置かれて当時から交通の要所でした。
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先ず目に付くのが、清酒「基峰鶴」の基山商店の店舗。
街道の通りにあり迫力があります。
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基山駅近くに来ました。
ここでも古い家が残っています。
ふと、表札をみると聞いたことのある名前。
確か彼は基山駅の近くに住んでいると言ってたなと思いながら呼び鈴を押してみます。
「間違ったらどうしよう」などと思いながら・・・・
呼び鈴を押してもなかなか家の人は出てこない。お留守かなと思って諦め歩き出すと
中から年配の方が出てこられた。慌てて戻り「私○○と申しまして○○さんとは学生時代の
同級生です。いらっしゃいますか?」と聞くと中から彼が出てきました。
学生時代は、ただ知っているぐらいでしたが、社会人になり得意先に彼がいました。
それからの付き合いになっています。今でも時々町で会っていました。
突然の訪問に彼はびっくりしていましたが彼とは久しぶりの再会でした。
鹿児島本線の線路を横切り国道3号線を横断します。
このあたりが
関屋の土塁です。
太宰府防衛の為、水城とともに土塁が造られました。
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街道は、3号線に沿っていきます。
遠くには○○ラーメンセンターが。
このラーメン屋さんは私が若い頃はよく食べに行っていました。
小さな店舗でしたが今や大店舗になっています。もう何十年も来ていません。
時間も12時近くです。お昼はここで食べることにします。
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30分ぐらいお昼休憩をし、再び街道を歩き出します。
陣屋跡があります。その先には猿田彦があります。
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けやき台駅があります。その歩道を渡りますが、街道はこの辺りはわからなくなっています。
仕方ないので3号線沿いに歩きます。
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九州道のガードをくくると福岡県に入ってきました。
今年の1月から始めた長崎街道、あの時、日見峠は雪が残っていました。
昔の人は一日に10里(約40km)歩いたといわれています。
ですから長崎街道は約5~6日で踏破しています。
それに比べ私達はのんびりムードの街道歩きです。13日目でようやく福岡県です。
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筑紫野温泉の所に
国境石があります。
「従是東筑前国」もう一つには「従是西肥前対州国」です。
元々はこれより東へ15mの所にあったそうですが、国道拡幅工事のため現在地に移転されました。
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街道が不明の為3号線沿いに歩き出します。
原田駅前の信号から入ると
原田宿(はるだ)に入ります。
宿場町は、綺麗にカラー舗装されています。
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原田宿は、筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれ、いつからできたかは正確には
わかりませんが黒田家譜には寛永15年(1638)1月、島原の乱を鎮圧する為
やってきた松平信綱の一行50騎1300人が宿泊したことが記録されていますので
このころには宿場が出来ていたそうです。
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宿場の要所には市の案内板が立てられていますが、文面が薄くなっており読むことが
できません。
宿場の奥には筑紫神社があります。
この神社の沿革には「筑前国と筑後国の境に荒ぶる神いて往来の者の命を奪うので
困り果て筑紫の神として祀ってこれを鎮めました。
ここから「筑紫の国」となったそうです。
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時間も2時近くなりました。
JR原田駅も近いので今日はここまでとします。
次回は長崎街道の難所「冷水峠」(ひやみずとうげ)に挑戦します。