4/30(火)平成最後の日。草加のホテルを早めにチェックアウトし、今日からの宿泊する茨城県古河市のホテルに荷物を預け、街道歩きのスタートです。
今日は、朝から小雨。ポンチョを着て傘を差してのウォーキングです。
川通神社:鳥居には、「香取宮八幡宮」と刻まれています。境内には、文化11年(1814)建立の常夜灯があります。
会津見送り稲荷:会津の武士が藩の重要文書を無くして、切腹しようとしたが、狐の化身である白髪老人に助けられました。その狐を祀ったのがこの会津見送り稲荷です。
炮烙(ほうろく)地蔵:昔、利根川に関所が設けられ、人の通行を厳しく取り締まっていた時代、関所を通らないで渡った者、或いは渡ろうと企て事前に発見されたものは、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に
処せられた刑場跡。地蔵尊は刑死者供養の為象造立されました。
栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄え、近郊から集積された廻米の積み出しが行われました。この地は関東平野北辺に位置し、関所が置かれ厳重に警護されました。
利根川対岸の中田宿とは、合宿で問屋業務は半年交代で務めました。天保14年(1843)の日光道中大概帳では、宿村家数は404軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は、1741人、
(男869人、女872)でした。
顕正寺:浄土真宗大谷派の寺院。境内に入ると「池田鴨之助の墓」という案内板があるのでそちらに向かいました。
池田鴨之介(鴨之助)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、並木五郎平と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1615)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、
後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之介は慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました
旧街道からは少し離れていますが、JR栗橋駅東口に「静御前之墓」とガイドブックに書いていたのでそちらに向かいます。
静御前の墓は、いろいろ諸説があるようですが、ここ栗橋では、「 静御前は源義経の内妻で、義経を追って平泉に行く途中、文治5年(1189)5月、茨城県古河市下辺見で義経の死を知り、
当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺)で出家したものの慣れぬ旅の疲れから同年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。 22歳だったそうです。
その時、侍女琴柱は遺骸を高柳寺(現・中田光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えそのしるしとしました。弘化3年5月(1846年)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。
平成13年4月 改修 「静女の墳」は、静御前の墓にしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和3年5月(1803年)に建てたものと考えられています。
また、静御前墓所内には『静女塚碑』をはじめ静御前にまつわる石碑などがあります。」(久喜市HPより)
墓内には、坐泉の「舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ」という歌碑が建てられています。静御前は、都の白拍子でした。白拍子というのは、男装して今様を謡いながら舞う女芸者の事です。
再び街道に戻ります。街道内には、古民家も残っています。
栗橋の関所跡です。江戸幕府は、交通の統制と治安維持のため、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲に出女」を取り締まりました。
栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡に設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれました。
関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士4人が置かれました。以後、番士は明治2年(1869)の関所廃止まで約250年間続きました。
「栗橋関所址」碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で、町内と近在の有志により、徳川家達の書で、旧堤上に建碑されたものです。
ガイドブックには、関所跡あたりに「本陣」があると記載されていますが、探しても見つかりません。確か、このあたりではないのかな?
関所の先には、「八坂神社」があります。案内板を見ると、この神社の神様は、慶長年間に利根川の洪水のとき渺々たる 水波の中を鯉と亀が運んで来たものと伝えられます。
この由緒ある神社に御参詣して招福・除災の霊験あらたかな 鯉を撫で身体をさすって下さい。 健康(無病息災)家内安全・商売繫盛・縁結び・学業成就などの 幸福を招く鯉です。
明日から「令和」、新年号を記念して花火大会が行われるそうです。
境内には、狛犬ならぬ「鯉」。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来します。
八坂神社から利根川を渡ろうとしますが、栗橋北堤防強化工事の為、迂回します。
途中、関所番士屋敷跡(足立家)があります。現在発掘作業で更地になっていますが、説明文を読んでみると(薄くなって読みにくいですが)、
関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。 関所番士の定員は4人で、これを2組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、
二人一組五日間交代で勤務していた。 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。
扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。 ここ足立家は、現存する貴重な関所番士宅で、寛政12年(1800)足立十右衛門が五人目の役人として金町松戸御関所から転勤し、
移り住んだのが始まりという。 加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。
なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。 昭和六十三年三月 埼玉県 栗橋町
いよいよ利根川を渡ります。利根川は、大水上山に源を発し、流末は鹿島灘に注ぐ、坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした。武蔵国(埼玉県)と下総国(茨城県)の国境(県境)です。
利根川を渡ると、「房川渡と中田関所跡」の看板が建っています。これは、文字が薄くなっており、読めませんので先達の方の記録を引用します。
江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があった
所である。 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。
やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、
明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。
平成元年3月 古河市教育委員会
中田宿は、「房川の渡し」を控え、元和10年(1624)に創設された宿で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半年交代で務めた。天保14年(1843)日光道中宿村大概帳によると
中田宿の宿内家数は69軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠6軒で宿内人口は、403人(男169人、女234人)でした。
中田宿は、利根川の河川敷に設けられていたが、明治末からの利根川改修によって宿並は利根川下の河原になってしまった。ほとんどは、農家との兼業であった。
街道を歩いていると、左側に「鶴峯八幡宮(つるがみねはちまんぐう)」があります。
社伝によれば、平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝の命による下河辺挙兵により当地に集結させ、川沿いの小高い山に鎮座する御稲荷に必勝祈願し、富士川合戦に勝利した。
頼朝は武運が拓かれたと神徳を感じ、翌年の養和元年(1181年)8月に鎌倉・鶴岡八幡宮を勧請したことに始まる。又、丸山稲荷も勧請し、鶴ヶ峰八幡宮と名付けられた。
天福2年(1234年)、下総国の一宮・香取神宮が勧請され、元禄元年には合殿となる。中世では、元弘年中に新田義貞の参籠し不明なる要人と武運を祈願。中世末期では、鎌倉公方が古河公方に移る際に、
元栗橋にあった栗橋城(旧古河城)に足利成氏が入り、鎮守であった鶴ヶ峰宮に参拝祈願していた。
その後近世まで、古河城歴代城主に崇敬され燈籠や鎧等様々な奉納を賜ったようである。
江戸時代になり徳川家康の命により河川事業が始まり利根川が開河すると、神楽(永代太々神楽)が伝わり、当宮を元に近郷の鷲宮神社から大寶八幡宮、須賀神社などの神主達により奉納されたと伝わる。
その後池田鴨之介らによる日光街道の栗橋中田宿が成立しその鎮守となる。房川渡しと格の良質な遊郭が特徴のその宿では、江戸や結城、小山等から遊びに来る要人もあったと伝わる。
又、徳川将軍の日光社参の折には、祀られている道中安全の5柱の神に足踏み祈願し、旅の安全と無事を祈願し、日光へ旅立った とされる。
社務所前には、朱印を求める人が多く、私も平成最後の御朱印をいただきました。
鶴峯八幡宮の横が「光了寺」です。静御前が帰依し、ここで亡くなり葬むられたという栗橋の「高柳寺(光了寺)」がこの地に移転しました。静御前が後醍醐天皇から賜ったという「蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣」が
保存されています。境内には、芭蕉の句碑「いかめしき 音や霰の 檜木笠」があります。意味は「旅の檜笠に霰が落ちて跳び返る。その音の硬いこと」
円光寺には、見事な庭園があります。
(つづく)