よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

今年(2019年)のウォーキングライフ

2019-12-29 13:05:24 | ウォーキング

今年もあと3日になりました。歳をとると一年が経つのが早いですね・・・・・・

平成から令和に元号が変わった2019年ですが、今年のウォーキングライフを振り返って見ます。

◎ウォーキング大会参加

1月、揖宿菜の花マーチ

2月、南房総フラワーマーチ、宮崎小林絶景ウォーク

  南房総市は、太平洋側に面し、お花の栽培が盛んな所でしたが、秋口の台風で被害を受けました。

   

3月 京都ツーデーウォーク、唐津虹ノ松原ツーデーウォーク

4月 下関海峡歴史ウォーク、久留米つつじマーチ

    

5月 ウォーキングフェスタ東京、九州国際3DM、第7次朝鮮通信使日・韓友好ウォーク(静岡・清水~静岡・三島まで参加)

  

7月 旭川大雪ツーデーウォーク(今年で最後の大会ということで急遽参加する)

9月 北海道ツーデーマーチ(洞爺湖)、北九州無法松ツーデーウォーク

    

10月 平戸ツーデーウォークに申し込んでいましたが、台風の影響で中止。

11月 日本3DMに申し込んでいましたが、10月の台風の影響で中止。

    加古川ツーデーマーチ

  

◎日光街道歩き 

5月のゴールデンウィークに日本橋~栃木・小山まで歩き、11月に小山~日光東照宮まで行こうと計画していましたが、秋口の台風で付近に被害が起こっていましたので中止しました。

 

 

 

 


糸島・宮地岳と伊都路を歩く(福岡県糸島市)

2019-12-14 05:47:54 | ウォーキング

毎週水曜日は、ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークです。

12/11は、「糸島・宮地岳と伊都路」を歩く」コースに参加しました。集合場所は、JR加布里駅。

    

 

コースは、まず、加布里駅裏にある「宮地岳」を登ります。

この山(118m)、最初から急な登り坂です。まるで「オルレ」ですね。

   

約30分で展望台に到着。

糸島市のシンボル「可也山(かやさん)」(通称糸島富士)が綺麗に見えます。加也山の下には、瑞梅寺川が流れ込む加布里湾です。往古の時代渡来人がここを通ってやってきました。

頂上までは、もう少し。

宮地嶽神社が頂上です。この神社は、福津市にある「宮地嶽神社」の分霊です。

  

宮地嶽神社には、まだ紅葉が残っていました。

   

10分ぐらい休憩の後再びスタート。

   

宮地岳には、江戸時代の幕府・福岡藩・中津藩の境界石があります。また、旧前原市の学校の校歌の碑もあるそうです。

  

今日のメインは、明太子「やますえ」の見学です。

  

店内では、明太子の試食などを楽しみました。

ゴールは、産直店「伊都采彩」です。

 

 


忘年ウォーク(福岡県遠賀郡水巻町~遠賀郡芦屋町)

2019-12-09 14:01:16 | ウォーキング

12/8(日)は、北九州ウォーキング協会主催の「忘年ウォーク(水巻町~芦屋町)」に参加しました。

集合場所は、JR水巻駅。水巻町は、車や電車ではよく通っているのですが、実際歩くのは初めてです。

  

10:00スタート。参加者は60~70名ぐらいでしょうか?

突き当りが「伊豆神社」。伊豆神社の前の道路が昔の国道3号線だそうです。

  

遠賀川沿いの県道73号線に出てきました。遠賀川は、明治時代、筑豊炭田の石炭を舟を使って河口の芦屋、若松に運んでいました。

 

約3km地点が「みどりんパーク」です。10月26,27には、ここでコスモス祭りが行われたそうです。

水巻町の由来は、立屋敷の八劔神社に合祀されている保食神社の棟礼に、「保食宮は昔、水巻宮と称す。水巻は、地名にして水の巻く意なり」と記されています。明治22年(1889)の町村制施行のとき、水巻山にあった戸長役場を村役場に改称して、

役場の所在地の名をとって村名にしたのが水巻村です。その後、昭和15年(1940)に町制を施行し、水巻町となりました

遠賀平野は遠賀川の上流から運ばれた土砂と、響灘から吹き付ける風により形成されたものであり、各地に縄文・弥生式土器などが分布しています。遠賀川の中州に広がる立屋敷遺跡は、昭和6年に弥生時代の土器や農具・住居跡が発見され、稲作文化の発祥地として知られています。

奈良時代になると、吉田地区には大和朝廷と太宰府をつなぐ官道の駅館が設けられていたことから、交通の要衝として発達していたことがうかがわれます。

平安期には、平家鎮西武士団の雄であった山鹿兵藤次秀遠が遠賀川河口一帯を支配していましたが、平家の終末とともに滅亡し、その後、麻生氏に代わったことが麻生文書(1586年)にみられます。

室町時代には、室町幕府の御料所として存在し、足利尊氏が西下の際、えぶりにあった西光寺に泊まったという言い伝えもあります。豊臣政権以降は、幾度かの検地によって水田が開発され、耕地が広がり今日の村落を形成するようになりました。江戸時代に入ってからは、

元和(1619年)黒田長政が水巻大明神に参拝したことが藩記に記されています。その後、堀川の開通(1762年)により、豊富な用水の恩恵を受け、稲作を中心とした純農村地域となりました。明治に入り石炭鉱脈の発掘と国の富国強兵策の下で、石炭産業の町として栄え、

明治22年の町村制施行に際し、立屋敷・伊左座・二・下二・吉田・頃末・えぶり・古賀・猪熊の9ヵ村が合併して水巻村になり、石炭産業隆盛とともに人口も急増、昭和15年に町制を施行し「水巻町」が誕生しました。

しかし、昭和30年から始まるエネルギーの変換により、昭和46年石炭産業の終えんを迎え、町勢は一時衰退しましたが、炭坑跡地の再開発と合わせて、積極的に住宅政策を進め、北九州都市圏内のベッドタウンとして発展をみています。(水巻町HPより)

 

    

10分間の休憩後再びスタート。

遠賀川河川敷には、「ターゲットバードゴルフ場」があります。

 

ターゲットバードゴルフとは、ゴルフボールにバドミントンの羽をつけたボールをゴルフクラブで打ち、打数の少なさを競うスポーツである。ホールには上部がかさを逆さにした形の直径110cmの「アドバンテージホール」と、地面に約86cmの輪を置いた「セカンドホール」があり、

セカンドホールにホールインした場合にはスコアはそれまでの打数に1加えた打数になる。

このゴルフは、初めて見ました。

コースは、取付堰を通り、芦屋町へ入ります。

  

芦屋町を歩くのは、約10年前、唐津街道を若松から歩いた時に立ち寄りました。その時は、芦屋大橋が工事中でしたので仮設の橋でしたが、今では、立派な橋として完成しています。

橋のたもとには、芦屋町の説明文が建っています。(10年前はこれが無く、探すのに苦労しました)

芦屋町は、中世「芦屋千軒、関千軒」と呼ばれ、下関と肩を並べるほどの都市でした。江戸以降も福岡藩の石炭積み出し港として栄えましたが、明治半ば、鉄道が海老津、折尾方面を通るようになり、、また石炭輸送が鉄道に変わりましたので段々と衰退していくことになりました。

  

    

橋を渡ると「山鹿魚町跡」の石碑があります。これは、10年前と同じ位置にありました。

芦屋町は、明治5年隣の「山鹿村」と合併して芦屋町になりました。まだ、山鹿町役場跡、魚町跡の石碑は残っています。

   

厳島神社の鳥居の横には、「高山彦九郎の歌碑」があります。「懸の岸に望めば から国も 海をひとへの となり也けり

寛政の三奇人の一人といわれた高山彦九郎正之は、寛政五年(一七九三)五月二十九日山鹿狩尾宮の神官波多野庸成宅を訪れた。そのとき彦九郎を囲み庸成と浦大庄屋であった秋枝広成らの三人は、幕府の政治を批判し時世を憂い、

夜を徹して談論したといわれている。また浪懸の岸にのぞみて深い感慨の歌を残し、六月四日遠賀川を渡り芦屋から筑後に向かい、同月二十七日現在の久留米市で自刃した。(石碑説明文より)

 

   

浪懸海岸を通り、ゴールの国民宿舎「マリンテラス芦屋」にゴールしました。時間は丁度12時。国民宿舎の横には、展望台があります。ここからの洞海湾の眺めは、ビュースポットです。

北九州ウォーキング協会の方は、ここで忘年会があるそうです。私は一般参加ですのでここからバスで折尾に向かいました。今日の距離は、9,5kmでした。

   

 

 


九州オルレ「みやま・清水山コース」(福岡県みやま市)

2019-12-03 14:21:29 | 九州オルレ

11/30(土)は、福岡県みやま市で行われた「みやまの秋満喫オルレ」に参加しました。

「オルレ」は、韓国・済州島(チェジュ島)から始まったもので、もともとは、済州の言葉で「通りから家に通じる狭い路地」という意味です。済州ではなじみ深い言葉ですが、トレッキングコースとして名づけられてからは全国的に有名になりました。

ここ九州でも21コースがあります。

私、オルレは、初めての経験ですので、何回も歩かれている北九州のNさん、長崎のSさん、筑後のKさん達と同行させていただきました。

オルレのコースには、カンセと呼ばれる馬をモチーフにしたオブジェや赤と青のリボン、木製の矢印などがあります。

          

スタート会場は、八楽会教団。9:45より開会式が始まりました。

今日のコースです。各所におもてなしがあります。

  

 スタートして700mぐらい歩いた所から山道に差し掛かります。「神宿る竹林」という所です・。

   

女山神籠石(ぞやまこうごいし)」は、みやま市にある国指定の史跡です。古塚山(ふるつかやま)を中心に1辺約70cmの立方体に加工された礫岩(れきがん が、山に沿って馬のひづめのような馬蹄状(ばていじょう)に並んでいます。

列石を横切る粥餅(かゆもち)谷・長(はせ)谷・源吾(げんご)谷・産女(うめ)谷には水門が設けられており、そのうちの粥餅谷と長谷が比較的、水門の原形をとどめています。女山神籠石は全長約3㎞に及び、山麓最北端の横尾(よこお)谷より北半分についてはまだ不明です。

築造の目的については、これまで「神域説」と「山城説」の両説の間で争われてきましたが、近年の調査により7世紀頃に構築された山城遺構とする見解が強まっています。

   

   

女山史跡森林公園展望台付近では、紅葉が綺麗です。

  

展望台では、遠く雲仙普賢岳でしょうか?

  

女山史跡公園では、山川みかんのおもてなし。

  

  

  

昼食会場は、「清水山荘」近くの広場。栗ごはん、ミネストローネ、ミニとんかつが出されました。

  

昼食休憩を終わり、再スタート。コースは、清水寺へ。山門をくぐると長い長い階段が待っています。

清水寺は、天台宗の開祖、伝教大師によって開かれた古刹。 開山以来、一千二百余年の間、清水寺は多くの人々の厚い信仰を集めてきました。

寺の言い伝えによると伝教大師は、唐から帰朝の折り、有明海の東方山中に美しく輝く光を発見されました。 その光を求めて、一羽の雉を道案内にこの山に分け入ったところ、苔むした合歓(むね)の霊木に出会われたのでした。 このうえなく喜ばれた大師は、

大地から生えたままのこの樹に一丈六尺(約5メートル)の千手観音像を刻まれました。 そして大同元年(西暦806年)にお堂を建立し、その観音様をお祀されました。(清水寺HPより)

 

  

ここも紅葉も名所です。郷土玩具「きじ車」は、歴史は古く806年頃に伝教大師が清水寺のある山で道に迷ったところ、一羽の雉(きじ)が道案内をしたという伝説が由来となっています。1年以上乾燥させて松の木を削りだし、着色していき釘を使わないのが特徴です。

昔から開運、縁結び、家庭円満のお守りとされています。緑と赤が雄、赤と黒が雌。(みやま市HPより)

   

   

九州自動車道を潜ると、田園地帯です。九州新幹線ガードの所が最後のおもてなし。ここではロールケーキが出されました。

14:16 道の駅「みやま」にゴール。約4時間のトレッキングでした。

    

翌日は、久しぶりに筋肉痛でした。